消えて現れた自転車
第一話 期末試験
電車を降りて七、八メートルはありそうな幅の広い階段を下っていく。この駅は快速や地下鉄への乗り換えでたくさんの人が利用していて、夕方はわたしのように学校帰りの子が目立つ。
右に曲がれば家へ向かう改札口だけれど、いつものように左へ曲がる。にぎわう駅ビルの中を通り抜け、新しく出来たLEDビジョンを見上げながら大通りの信号を渡り、ファッションビルの中通路を抜けると、途端に人通りも少なくなって飲み屋さんばかりが現れる。
まっすぐ進めば近道なのに、「昼間から開いているお店もあるし、女子高生がそんな所を通っちゃだめだ!」と言われているので、心配させないように右へ曲がって表通りに出た。面倒くさいんだけどね。
「ただいまー」
「おかえりー」
この言葉を聞くだけで何とも言えない気持ちになる。
お母さんは営業職で出張も多く、家に帰ってこないことも少なくない。もちろん、出迎えてくれる人なんかいない。
誰もいない家に帰るのが当たり前だったから、おかえりって言われたことがないと話したら、ここへ来るときは「ただいま」でいいよ、と言ってくれた。
ここは
といっても探偵らしいことをしているのは見たことがない。
ご両親が亡くなってこの雑居ビルを相続し、ビルの一階に管理人を兼ねて探偵事務所を開いたそうだけれど、いつも暇そうにパソコンで遊んでいるので学校帰りには毎日のように顔を出している。
わたしだけじゃなく、登校班の小学生たちや卒業生がちょくちょく遊びに来ていて、子どもたちのたまり場になっていた。こんなことが日常にあるのも情に厚い下町といわれる、この辺りならではのことかも。
「今日はいつもより少し早いね」
「もうすぐ期末試験だからね。部活がないの」
それなら早く帰って試験勉強をしろ、と言わないのがおじさんの良いところ。
家に帰っても一人だし、テレビやYoutubeを見ちゃうからね。途中で休憩して気分転換しないと勉強も進まないことを分かってくれている。
「おやつはー?」
手洗いとうがいを済ませ(これをやらないと怒られる)ソファにドーンと座る。
「言い方、言い方。もぉしょうがないなぁ」
なんだかんだ言っても、わたしには甘々だからね。おじさんは。
戸棚から一口大のバームクーヘンを出してくれた。
「で、試験勉強は進んでる?」
「もほさ、ふうがくあむずはひふって」
「口の中のものがなくなってから、話しなさい」呆れたように笑われた。
「数学が難しくって、嫌になっちゃう」
「今は何をやってるの」
「三角比とか」
「塾でも教えてくれるんでしょ」
夏休みが終わってから塾にも行くようになったんだけど、なかなか……ね。
答えずにいると「俺がみてあげようか」と言う。
「ブランクがあるから分かる範囲で、ってことでよければ元家庭教師が一肌脱ごうではありませんか」
何その言い方。でも家庭教師をやってたなんて知らなかった。
「仕事としてやってたの?」
「いや、大学生の時にバイトで中高生に数学を教えてたんだよ。もう三十年も前の話だけれど」
「ふーん。それじゃお願いしようかな。もちろんタダで」
「朋華から授業料をもらおうなんて思ってないよ」
わたしも知ってた。わざと言ってみただけ。
ということで、交渉成立。
「三角比のどんな所が分からないの?」
「正弦定理とか余弦定理とか、覚えられないし意味が分かんない」
文字というより記号が並んでいるだけにしか思えないし、ほんと苦手。
「正弦がsin、余弦がcosというのは知ってる?」
「あー何か習った気がする。でも忘れてた」
「手へんの書き順で覚えるといいよ」
「手へんって漢字の?」
「そう。手へんの書き順がsin、cos、tanになってるから。2:1:√3の直角三角形にあてはめれば、書く向きもそれぞれの分母、分子になる辺と一致してるでしょ」
「どういうこと?」
おなじみの直角三角形をメモ用紙に手早く書いてくれた。
「手へんの一画目は横棒を左から右に書くから、ほら直角三角形の斜辺2から短い辺1を指すことになるでしょ。これがsin30°=1/2」
「ほんとだ!」
「二画目は上から下、斜辺2から長い辺√3を指してcos30°=√3/2、三画目は下から右に跳ね上げてるよね――」
「tan30°=1/√3と一緒になってる! すごーい」
「このあたりは中三でやるのかもしれないけれど、こうして覚えておくとsinとcosがあやふやになってしまうミスは少なくなるはずだよ」
「そうなんだよね、あれどっちだっけ、って間違えることがあるの」
「これに関連付けて正弦定理や余弦定理を覚えるといいかもね。問題で『cosは?』と出たら、とりあえず余弦定理を使うと決めちゃうのもありだと思うよ。まずは基本中の基本が出来るようになってから、次のステップに進んだ方がよさそうだから」
手へんを思い浮かべれば忘れない気がする。
先生もこんな風に教えてくれたらいいのに。
「これならいけそうな気がするけれど、やっぱり覚えるのは面倒くさいなー」
「またそんなこと言って。好きなことは目一杯張り切るくせに、意外と面倒くさがりなんだからなぁ」
「しょうがないよ、ママも――」
そのとき、親子で面倒くさがりなことが原因で起きた事件を思い出した。
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