第5話 地区大会に敵はいなかった。
朦朧とする意識をなんとかつなぎ止めながら自宅のドアを開けると、安心感と疲労で意識を失うように玄関に倒れ込んだ。
薄れゆく意識の中でトコトコと廊下を歩く足音が聞こえる、今日が命日になるのだとしたら、目を開けた先にいるのは裸エプロンの女神であって欲しいものだが。
「なにしてるの」
うん、この声は女神やない翡翠や。
目を開けるのを止め、意識が遠のくのに逆らわず体から力を抜くと、急に耳元でクラッカーのはじける音がした。
「寝るな、風呂入れ不潔だ」
「琥珀、それは虐待だ」
「そういうこと今日菜月姉ちゃんのご飯だった私達に言う?」
「1ヶ月上達無しか」
「というかあれはもう味覚音痴の度合いを越えてる」
「我が生涯に、一遍の悔いなし」
「馬鹿な事言ってないで早くお風呂はいって、一段と今日は汗臭いから」
「ういっす」
既に限界の体にムチを打ちながら風呂場へと向かった、本当に本当に今日は辛かった。
※
「しばらくの間私に尽くしなさい」
「へ?」
菜月との練習から帰ってきて直ぐに晩御飯を食べに向かった菜月とは別に、和田野と話し始めていた。
「家事全般とか色々とやって欲しいのよ、足腰も鍛えられるし、私は楽ができて野球に専念出来る、お互いウィン・ウィンの関係じゃないかしら」
「なるほど(?)」
「嫌ならいいわよ、そしたら私は戻らないから」
「鬼かな?」
練習が7時に終わり帰宅と待ち時間で約1時間そこから2時間程度の練習を終えた今の時間はなんと、10時半だった。
「今日のところはもういいから、明日朝5時半ごろにうちに来て」
「う、ういっす」
「大丈夫よ、あなたの体力ならね」
そこから1時間かけて走って自宅へ帰ったのだが、もう体は疲弊しきり、その時点で限界が近かった。
※
湯船に浸かり脱力しながらほおけていると風呂場から輝石の声がした。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「ん、あぁ。大丈夫ちゃあ大丈夫だが」
「今日ね? 2人ともお兄ちゃんの帰りが遅くてすっごい心配してたんだよ?」
「帰ってくるなりあんな感じじゃ、そうはみえないんだがな」
「2人ともお兄ちゃんの事大好きだから、強く言っちゃうんじゃないかな。私もさっきまでそうだったし」
「結果、どうだったんだ?」
「うーん」
翡翠、輝石、琥珀の3人は本当に姉妹とは思えないほど性格にも才能にも差があった。
まず、アホみたいに気が強く八方美人な性格の翡翠は、弓道で日本一を取ったことのある奴だし。
琥珀も翡翠ほどではなくても気は強く、それでいて状況把握能力、空間把握能力に長けていて、学力が高い。
たまに本心なのか自分の立場がわかってるからこそなのか、唐突に甘えてくる事があるがそれに関してはノーコメントとしておこう。
最後に輝石。
生まれながらに体が弱く、三姉妹の中では1番自分を隠してるような一面を見せる。
表面上1番俺をしたってくれているようにも見えるが、本心についてはまだわかっていない。
自分のためではなく翡翠や琥珀のために行動する事が多く、フォローなどがとても上手いよく出来た女の子だとは思う。
そして、1週間前に体調を崩し、今日病院で検査を受けてきたらしい。
「あんまり良くは無いみたい、でも。しょうがないかな生まれた時から他のみんなより小柄で病弱だったし」
「あんまり無理すんなよ、俺らが負担になるってんならそれをカバーすんのも兄妹の仕事だろ」
「ありがとうお兄ちゃん。でも、大丈夫だよ、私はこう見えても強い子だから」
「知ってるよ、うちに来てからの1ヶ月でよーくわかったさ」
「うん、ちゃんと見てね、私も他の二人のことも」
風呂場と風呂を区切る半透明のドアから見える輝石の姿は、背中を丸めて蹲る姿だった。
「さてと、そろそろ出るから風呂場から出てけよー」
「え、なんで?」
「お前が居ると体拭けねーし、着替えらんねーだろ。小っ恥ずかしいのは俺なんだから早くリビング行け、てか寝ろ何時だと思ってんだ」
「だね、お肌に悪いから寝るね。おやすみお兄ちゃん」
「おやすみ」
押し付けられた時は嫌々だったが、1ヶ月も経った今、いまの翡翠たちにかける思いは、間違いなく俺の中では変わり始めている。
俺が変わったように、3人の中でも俺の存在がここに来た意味が、そしている意味が変わってくれればいいと切実に思いながら風呂を出た。
※
風呂を出るなり爆睡した俺が次に目を覚ましたのは5時だった。
慌てて学校の準備をしつつ、着替え置き手紙を置き、昨日の夜から食事を取っていない事を思い出し、バナナを1本持って玄関のドアを開けた。
「いってきまーす」
バット入のバットケースにグローブが5つと手入れ道具、グローブの型付けのための硬球が入ったエナメルバッグに、アイマスクにスマホ、ハンドグリップやサンドボールが入ったセカンドバッグを持って走るのは、予想以上にハードなもので。
出たばかりの朝日が目に入り眩しい中、1人走っていた。
傍から見ればドMの所業その物なのだが、全力で走っている俺からすればもう既にいいトレーニングになりつつある。
普段から朝30分のランニングと300回の素振り、壁投げ50球等、朝練の前にも大量に自主練を続けているのだが、ランニングの時間を短縮できていると考えればこっちにも得があるように思えなくはない。
全力ダッシュで和田野の家に着くと、店の戸を開ける和田野の姿があった。
「お、おはようございます」
「10分前だからそんなに身構えなくてもいいわよ」
息こそ切らしてないものの、少々見に応えるものがあった、しかしまぁ。
「先輩のその服装は寝間着ですか」
「そんなわけないでしょ、普段着よ」
上下共にジャージ、5月といえどまだ涼しい時期なのに、元気だなぁこの人。
「明日からはあなたもジャージとか動きやすい格好で来なさい、ごめんなさい説明不足だったわ」
「何やらされるんすか俺は」
「私の手伝い」
ニヤッと嫌な笑を浮かべる和田野の笑みを見ながら俺は持ち物を地面に置いた。
「まずは配達からね」
「あー、先輩の家牛乳屋なんでしたっけ」
「ええ、そうよ。菜月から聞いたの?」
「そうっすね、苦労人だって」
「そんなこと言ってたのね」
「そっすね、根暗で友達が少なくて幸薄そうで、家だと鬼みた―――、ぐふっ」
会話の捏造に少しずつ気がついたのか、鋭いボディブローが腹部に刺さった。
「あほな事言ってると終わらないわよ?」
「う、ういっす」
「でも、確かにあなたに変えられたのも事実ね」
そういうと和田野は自身の左腕を右手で押さえていた、二打席も俺の球を打った自身の腕を。
「まだ痛みます?」
「そんなによ、アームブレイカーってレベルじゃないわねあなたのは、真芯で打ってこれだけ腕に反動が来てさらにバットまで」
「あれ、真芯でした?」
「どういうこと?」
「さすがに真芯食ってたら折れないかと」
「そうかしら」
「さすがにね!?」
「謙虚なのね、でも、打った当初は嬉しさが勝ってたわね。確かに痛かったけどそれは証拠なような気がして」
「嬉しかった? 腕にヒビ入れといてなに言ってんだか」
「だって、日本最速のピッチャーから打てたのよ?」
「それだけ先輩の腕がいいんすよ、ほれ配達行きましょ」
自転車の前かごと後ろの荷台に大量の牛乳瓶の入ったケースを積み、三つのうち一つを、俺が担ぎ持っていた。
かなりの重さの為かなり足腰に来る、これを持って走って配達するのは相当の重労働になる予感が。
「チャリもう一台無いんすか」
「あるけど使わせないわよ」
「虐待反対!」
「私なりにあなたがスロースターターの訳を考えたのよ」
「配達しながら聞きましょう」
「そうね」
そういって配達を開始しながら和田野の持論を聞き始めた。
「あなたの球速は元々速いのだから、フルスロットル入れる必要がそもそも無いと思うのよ」
「解決になってない!?」
「それに夏をあなた1人で乗り越えるにはスタミナが必要でしょう?」
「やっぱもう1人欲しいっすよね」
「そうかしら、何とかなるんじゃないかしらね」
「まあ、何とかはなるかもしれませんけど・・・」
1つ目の配達先に着き回収の物と配達品を取替え再び走り出した。
「なにか問題でもあるの?」
「暑さに弱いんすよ」
キィィィ―――っという自転車の急停車音が朝の町に響き、血相を変えた和田野が驚いた顔でこちらを見てきた。
「絶望的じゃない」
「だから、替えが欲しいんですよ」
「あなたが人員を欲してた理由がやっと理解出来たわ」
「別に乗り切れなくはないと思うんですけどね」
「そうじゃないと困るわよ」
「まあ、あれだけの大口叩いた昨日の今日ですからね」
「本当よまったく」
「面目ないっす」
※
「と、言う事で、和田野ちゃんの復帰を祝して。俺も復帰させていただきまっす」
「ほら、耳も行動も早かった」
「本当ね」
これで部員は8人、あと1人で試合はできる。
問題は。
「今日の朝わかった大変な事実があるわ」
「何ですか? 和田野さん」
朝練習終了の着替えの時間に徐に和田野が口を開いた、なんとなく感付いた俺は足早に着替え始めた。
「どっかの夢見がちな投手の弱点がわかったのよ」
その台詞が発せられた瞬間六人の視線が一気に俺にへと向き、少しの間を置いて鬼道が口を開いた、視線は和田野へではなくこちらに向いたまま。
「んで? その弱点って言うのは?」
「えーっと、非常に言いにくいんですが」
俺の力を頼りにしてくれている面々の前で言うにはとても言いにくく、口ごもっていた俺の姿を見て和田野が代弁してくれた。
「あなたねぇ、何で私にはすっと言えたのよ」
「だって、先輩二年生だし」
「僕に気を遣ってるなら気にせず言ってよ辻本くん」
「暑さに弱いんよ俺」
「「は!?」」
和田野と俺を除いた全員の声が大きく部室内に響いた、腹を括って言ったのにこれだよ。
「夏は絶望的か」
瀬良の一言に部員全員が言葉を失った。
「いいんじゃないかな! 辻本君にもまだ3年あるんだし、プロを目指すにしてもまだまだ時間は沢山あるよ!」
五十嵐のその言葉が、激しく胸に刺さった。
その言葉が何を意味してるか当人が1番わかってるはずなのに。
「「いや、そんな無駄な時間は使いません、だから。だから絶対夏を勝って、こいつのためにも先輩の為にも必ず今年の夏甲子園にいきましょう!」」
「瀬良、鬼道くん」
それ俺のセリフ。
「その前にあと1人」
「不思議な事に見つからないもんだよな、最後の一人って」
「物欲センサーみたいなのが働いてるんじゃないかな」
公式戦でも女子は使えるし、頭数がもう1つあればいいだけだろ。
野球女子、優勝した時だけファンになるカ○プ女子、フライでバンザイするJK、ふむ。
「閃いた」
「「通報した」」
「なんで!?」
「どうせ適当な女子入れればいいやん、とか思ってんだろ」
「なぜバレたし」
「それなりに打てて守れるやつじゃないとダメだ、お前の球速はフルで出せないんだからダメに決まってんだろ」
「ええ、見たかったなぁ運動できないJKのバンザーイ」
「それに検討つくのがいないだろ」
「隣の席にいかにも運動の出来なそうな」
「桜田さんだっけ?」
「櫻葉じゃなかったっけ、真川か?」
「翡翠ちゃんじゃダメなのか?」
「ダメに決まってんだろ、指が使えなくなったらあいつは商売出来ねーぞ」
「それもそうだったな」
軽いため息をつき、全員が危機感を覚え始める、そういえば、1年生に1人聞いた名前の男がいたような。
「鬼道くんさ、C組だったよね」
「そうだが?」
「山下昌弘(やました あきひろ)って名前のやついたりする?」
「ああ、ピンク髪の彼女いるやつだろ?」
「そこまでは知らないけども」
「そいつがどうかしたのか?」
「2年前、天才と呼ばれてたピッチャーだった」
「だった?」
「怪我かなんかで離脱してな、それから名前すら聞かなくなった」
「聞いた事ないな」
「軟投派豪腕ピッチャーとか矛盾の呼ばれ方してたんだけどな」
「そいつを口説き落とすってか? 怪我で離脱したやつを」
「無理じゃないかしら」
現実味のあるセリフを和田野が吐き、沈黙し、そして予鈴が鳴り響いた。
「さ、そろそろ教室行きましょ! 遅刻しちゃいますよ!」
「だね、それからの事は今度考えようか」
※
「桜ヶ丘ちゃん、野球に興味ない?」
「な、なに急に。あ、あと名前櫻谷(さくらや)だから」
「人の名前覚えんのは苦手だわ」
「失礼だなぁ辻本くんは、もう1ヶ月だよ? 鬼道くんの名前は間違えないのに」
「鬼道くんはね、そんなにありきたりな名前でもないし、何より桜田ちゃんとは過ごしてる時間が違うからね」
「桜屋だって! もう! わざとやってるでしょ」
「わりいわりぃ」
「でも、妬けちゃうなぁバッテリーの友情ってやつ?」
「まだ1ヶ月なんだがな」
「私の名前は覚えないくせにぃ」
「必要性がな」
「それ、だいぶ酷いよ」
「野球すれば覚える! きっとな!」
「もう」
「しょうがねーだろ、野球以外は興味ないんだから」
「それで? 野球以外興味のないお兄さんは、妹さんのことも認知してないの?」
そう言って俺の前の席を指さす、昨日転校してきたばかりの、翡翠の席だ。
「妹たちと病院にな、輝石の検査結果聞きに行ったらしい」
「2番目の妹さんだっけ? そんなに様態悪いの?」
「さーな、あいつらはそういう話一切俺にしやがらねーから」
「そっか」
「輝石には1回位甲子園連れてってやりたんだけどな」
「もー、そうやって私にやらせようとする」
「いや、ぶっちゃけた話さ、いつ居なくなるかわからないなら、そいつのために尽くしてやりたいんだよ俺は、お袋の時何もしてやらなかったからそんな思い、もう2度としたくないんだ」
「分かったよ、手伝うくらいはするよ!」
「まじか!?」
「野球の知識なんてないからちゃんと教えてね」
「任せろ!」
※
そして、数ヶ月がたった夏の地区大会当日。
「ゲームセット!」
〔試合終了! 北斎高校、甲子園初出場の切符を手に入れました!〕
「っしゃぁ!」
暑い夏は例年よりも涼しく、障害になるはずの暑さは、俺たちの背中を後押しした、強くとてもとても強く。
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