PART3

 盛大に立ち上った赤い水柱は、赤い空より落ちてきた歪が水面へと叩き付けられたために生じたものであった。

 イサミの視界は赤に染まり、彼女から黒い十字架の少女を遮る。イサミは右腕で己を庇いながら、水柱が落ちて行くのを待った。そしてその時はすぐに訪れる。

 赤い雨が降る中で、それで体を濡らしたイサミの前には再び姿を見せた磔の少女。同じように雨に打たれるその少女の白い素肌は赤く染まっていった。そして少女のイサミと同じ紅い瞳は彼女を見下ろしている。

 だがイサミだけは少女では無く、磔にされた少女の真下にその目を向けていた。水柱が立ち上ったその場所である。

 雨が止み、水面が再び穏やかになった頃その時は来た。

 静かに赤い水面から浮かび上がってきたのは、小柄な人の形をした歪であった。だらりと垂らした上体からぶら下がる両腕と首、そして赤い長髪。


「――待ってて」


 言って、きゅっとまた下唇を噛み締めたイサミの胸を内より突くのは後悔と悔しさ。それがその言葉を彼女に紡がせたのだ。

 まるでその声に反応するように、微動だにしなかった歪が徐に垂らしていた上体を起こし始める。

 そして行き過ぎて反り返ろうとする上体を戻したその歪が姿勢を正してみると、そのシルエットは磔の少女と瓜二つであった。

 直後、髪を振り乱し女性の悲鳴のピッチを弄り低くしたような耳障りな咆哮を挙げるその歪の、仮面のように顔面を覆っていた歪骨に亀裂が走るとその一部が砕け散った。

 そして中より露わになったのは少女と同じだが血走り焦点の合わない片目と、乾き裂傷が無数に走った痛々しい唇を持った頬まで裂けた口だった。口腔から覗く歯は全て歪骨で、悔いのように鋭く疎ら。

 一頻り声を挙げたその歪は腰を落とし、両手の鋭い爪の揃った五指を突き出し戦闘態勢へと移る。それと同時に砕けた仮面状の歪骨も修復される。


「今、助けるから――!」


 赤に塗れ、頬に張り付く鬱陶しい髪を左腕で払い除けたイサミもまた、歪骨の伸びる右腕を持ち上げて駆け出す。

 同じくして飛び出した歪と激突する間際に槍のように突き出されたイサミの歪骨と、歪の爪先の切っ先同士が衝突し高い音を奏で弾け飛んだ。

 歪は今度は左手の爪を振りかざし、そしてイサミの左腕は右腕がそうであったように膨張を起こし破裂、しかし飛び出したのは爪の歪骨ではなく前腕全体が歪骨と化した巨大な新たなる腕の歪骨であった。


「助けるから――!!」


 これまでの呪怨、憤怒と言った過激な感情から一転した悲痛なばかりのイサミの叫び声は悲鳴に似ていて、掬い上げるように振り上げた彼女の左腕は歪の左腕を容易くひしゃげさせ打ち砕き、そしてその上半身ごとそれを根刮ぎ掻き切ってしまう。

 正しく八つ裂き。ばらばらになった歪の体を被う歪骨とその下に秘匿された臓物が宙を舞う。

 その光景を見詰めるイサミの視界に、歪の頭部が映り込む。仮面はその全てが砕け散り、ずたずたに切り裂かれた少女の顔が彼女を見て歪む。

 ばしゃばしゃと次々に飛沫を上げて水面に没して行く歪の体の一部たち。それを前にしながらイサミは立ち尽くし、少女を見上げた。

 だがそこには黒い十字架があるばかりで、少女の姿が何処にも見当たらない。

 両腕共に歪骨を露出させ異形の姿となったイサミが身構えた直後、倒壊を始めた十字架の真下より再びの、しかし先程よりもより巨大な水柱が噴き上がった。

 前腕全てが歪骨と化した左腕をかざし、構えるイサミであったが、視界を埋め尽くした逆流する赤い滝を引き裂いた巨大な何かにより彼女は短い悲鳴と共に海の中へと叩き込まれてしまう。

 ――そして空間を揺さ振るほど増した声量で奏でられた咆哮は先の歪と同じもので、あまりの大きさにそれだけで衝撃波が生じ周辺に立ちこめる赤い霧が吹き飛ばされて行くと、露わになったその全貌はワニに似た形状の歪骨を頭部として無数の歪たちが繋ぎ合わされた巨大な体躯をした、それは大歪オオイビツ

 下半身を赤い海に浸したまま、水面に露出しているのは上半身だけだというのにその大きさは見上げるほど。歪骨で出来た楔により強引に繋ぎ合わされた歪たちからは泣き声や悲鳴、呻き声が次々挙がるが、しかしそれを完全に制圧するのは大歪の咆哮で、巨大な頭部以上に巨大で広い前肢とでも呼ぶべき形状となった腕を振り回し、その先の爪で周辺を掻き乱すさまはさながら嵐のようである。

 イサミは完全に海中に没し。大歪はその大顎を開き咆哮を繰り返した。まるで勝利を祝うかのように。


 ――私との契約は、絶対だと言ったはずだがな。


 海中ではその身を悶えさせながら沈んで行くイサミの姿があった。いくら藻掻こうとも浮上できないのは、彼女の体を掴んで離さない無数の手たちがあるからだった。

 執行者として数多の歪を屠ってきたイサミに怨み辛みを抱くものは多い。それら全てがここぞとばかりに彼女を同じ所に引きずり込もうとしている。

 赤い海の中では、歪の存在する力が増大する。歪骨をその内に秘めるイサミとて人間。抵抗など出来はしない。

 だがそんな彼女の耳に、脳に直接響き渡る声は落胆したようで何処か彼女を煽るようないやらしいものであった。

 ふざけるなとイサミは声無き声で吼えた。まだ全て殺していない。彼女を救っていないと剥き身の手に被われて行こうとするイサミの形相は人にあるまじき恐ろしさだった。


 ――ならば全て、その身を私に捧げなさい。ただし、死ぬほど痛いぞ。


 死など恐れはしない。

 イサミの回答に声が笑った。

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