第33話

 あの大雨以降、私は未だに母に話せていなかった。

 自分の弱さというものが嫌になる。

 これが瀬南やら大原やら面と向かって好き勝手言えたのに、どうして母だと足がすくんでしまうんだろうか。


 このまま私は母に何も言えないまま大人になるのだろうか。このまま大学に行って、成人を向かえて、その時の母と私の関係はどうなっているのだろうか。


 このまま氷が溶けず私たち二人は年をとっていくのだろうか。

 分からない。

 でも少なくとも、私と母が二人仲良くショッピングを楽しんでいる姿など想像できない。それが私と母なのだ。


 私の母は今一階にいる。そこで面白いのかどうか分からないバラエティー番組をみている。私は今二階にいる。そこで特に面白いとは思わないドラマを真顔でみている。


 このままではいけない。

 私にとって当たり前のこの世界。だけどそれが正しいのかと言えば違う。

 私の気持ちを母にぶつけないと何も解決しない。そんなことは既に分かっていた。


 母は案外、私のことを心配しているのだろうか。

 いやいや。そんなわけがない。私の母だぞ。そんな心配とかしているはずがない。


 21時になる。

 別に21時に何かあるというわけではない。その数字が縁起いいのかとか、何かの記念時間だとかそういうわけではない。

 ただ私は21時になったらすべての決着をつける。心の奥でそう思っていた。

 別にその数字に何かしらの意味があるというわけではなく、ここで区切りをつけたい。そのための標識が21時に選ばれただけだ。


 私は重い腰をゆっくりとあげる。

 そして重い扉を押した。


 階段を、一段、一段と丁寧に両足を使って降りていく。いつもよりも階段の段数が多いようなそんな気がした。それは一段、二段という多さではない。


 遅刻しそうになって階段をかけ降りていくときは、5秒もかからず降りていくのに。今日は10秒も20秒もかかってしまう。

 このまま永遠に階段が続けば逃げることができるのにな。そんなことを心に思う。


 次第に母がみているテレビの音が大きくなってくる。


 一段、また一段。

 さらに一段と降りようとする。

 その場で足踏みをしてしまった。もうこれ以上の階段はないのだ。


 ここで終点。

 私は長いため息を吐く。


 別にこのまま引き返せば、昨日と一緒の世界を過ごすことができる。そこには衣食住すべて何不自由なくあり、そして生活に困ったりすることはない。


 よくも悪くも今までと一緒の生活を過ごすことができるのだ。

 しかしそれだと気持ち悪い。ずっとこの冷めた家にいるということが私には耐えることができなかった。


 私はリビングのふすまを開ける。

 そこには母が相変わらず座っている。

 いつもよりも彼女のシワが目立っているように見える。

 こんな怖い母にも幼少期があって、学生時代があった。笑い会える友達がいて、父からプロポーズを受けて顔を赤らめて……そんな母をいまいち想像することができない。


 いや、私の前でそれを見せないだけで実際他人にはみせまくっているのかもしれない。


 緊張と寒気が襲う。

 顧問の石塚や瀬南、大原なら謀反をいとも簡単に起こすことができる。しかし母は違う。

 長い間強いたげられたせいか、動物の本能で既に服従関係が生まれている。もっとも私は母の前でそのような関係をみせたりすることはないが。


 それから沈黙の時が流れる。

 流れるは汗。早熟なセミが一生懸命この沈黙を破ろうと、絶え間のない努力をするがそれがより一層空しい。

 私は、一体何のためにここに来て何をしたいのか。そんなことも一瞬にして忘れてしまった。


 私は母の顔を見に来たんじゃねーぞ。

 むしろ、それが目標ならどれだけ心が楽だったか。ふすまをあけて、変な笑みを浮かべてはい、終わり。これだけで目標達成できるのだから。

 実際にはそんな簡単な問題ではない。


 私は母と言葉を発しないといけない。


 母はずっとテレビの方に目を据えている。それがわざとやっているように見えた。いや、実際本当にわざとやっているのかもしれない。

 しかしその行動があまりにも露骨過ぎる。


「母さん」


 私はここでようやく言葉を発する。

 無視。

 何も返事が来ない。


 本当にこの人は私の母なのだろうか。

 そのテレビをみている虚ろな目は私のことなど一切気にしていない、そんなような目だった。


「私さ、この間の県大会ダメだったんだ」


 静かにそういう。


「そう。それで」


 それで。

 この話にそれ以上もそれ以下もないだろう。負けた。ただそれだけ。


「あんなみっともない、手を抜いた試合私からは何も言うことないわ」


「別に手を抜いていたわけじゃないし」


「それならあんな雑魚……一捻りで潰せばいいじゃない」


「雑魚って……それは流石に言い過ぎじゃない」


 とかいいつつも私も負けた瞬間そう思っていた。しかし母にそんなことを言われると何故か否定したくなってしまう。


「まぁ、あなたのチームは他も他よ。本気で埼玉けやきを倒そう。そんな意思を感じることが出来なかった。部長とか副部長とかみんなに甘いんじゃないの」


「そんなこと……」


 確かにあるのかもしれないけど。大原部長も瀬南副部長も、自分には厳しいが周囲には甘い。多少、練習時間に遅刻しても瀬南副部長なら笑って許してしまうだろう。


「それに、あのベンチで声を出して応援していた人」


 原井のことだ。

 彼女はベンチで、大丈夫とか逆転できるよとか根拠のない激をみんなに飛ばしていた。そして点をとればよっしゃと手をあげて喜び、点をとられたら次の一本と励ます。


「みっともない。あの子はお遊びでバドミントンをしているよね」


「お遊びって。あれはただ応援をして、それが一体何が悪いの」


「少なくともベンチの補欠選手がやる行動じゃない。補欠選手なら試合のスコアを記録、相手の攻め方の特徴とかを偵察。それをするのが当たり前じゃない。馬鹿みたいに何もかも適当にはしゃいで応援なんて小学生でもできること」


「でもムードメーカーとして」


「それじゃ、ムードメーカーがいないと勝てないチームって何なの。ムードメーカーがいないとやる気がでないチームが全国大会にいけるの?」


 黙り混む。


「そんな甘ったれたチームが全国大会目指しているなんて反吐が出る」


「でもさ、スポーツはメンタルが重要とか」


「それは実力があっての話でしょ。勘違いをしている。よく、優勝したい気持ちがあったから優勝できたとかなんとかってみんな言うけど実際には、そこに実力があったから。ただでさえ優勝する実力があったその上に気持ちが乗ったから強くなっただけ。気持ちの強さだけで優勝できたら、思いだけで優勝できるのなら、誰も練習をしない。思いが強くなるような出来事が来るのを待ってメンタルトレーニングするだけになるでしょ」


 母はひたすら私の言葉を否定してくる。


「とにかくあの甘ったれたチームは全国にいくことができない。特に原井という人が邪魔すぎる」


「原井のことを悪く言うなよ。あれはあれで将来のエースなんだから」


「どうしてあなたは原井を庇うの」


 そういえば……私は気づかないうちに原井をかばっていた。

 私と原井。それは悪友の関係である。仲などよくはないはずだ。それなのにどうして私は庇うのだろうか。


「あなたも悪い方へ変わってしまったのね」


 私は変わってしまったのだ。

 悪い方向に……悪い方向に……

 本当にそうなのかな。


 でも、どうして私はあの原井を庇うのだろうか。少し前の私なら母の意見に同調しただろうに。


「もし、あなたがバドミントンで甘ったれた気持ちがあるのならバドミントンを早くやめなさい」


 母からそう助言をされてしまった。


 バドミントンを辞めろ。

 その言葉がいかに重いものだったのか。私の気持ちにどっしりとのしかかったものなのか。


 私は母と向き合うためにここに来た。それなのに結局、母の気持ちもこんなものだったとは。

 悲しくなる。震える。


 違う。私は母にバドミントンを辞めろといってほしくない。本当は、止めてほしい。それが本音である。

 そうすることによって、強制的にバドミントンを続けている。そのような構図が生まれるのだから。


 今日まで思えば母に強制されてやってきたバドミントン。それをあっさりと辞めろと言われてしまった。


「バドミントン辞めろだって?」


「そうよ。あなたはこれ以上の成長をすることができないでしょ。それなのにバドミントンをしても無理じゃない」


 そんなことはない。

 そう反論すればすべてが終わるのに。私の口は固かった。

 反抗期を迎えた私の口もこの時ばかりは妙に静かであった。

 ただ、静かな怒りとイライラ感が体の奥から込み上げてくる。


「母さんは私がバドミントンを辞めた方が嬉しいの?」


「そうね」


 迷いもない即答。

 私は息を飲む。顔が赤くなる。


「それなら本当に辞めるぞ」


「いいわ」


 やはりこの人は悪だ。

 私のことなど何も見ていない。

 もしかしたらこの人とまともに話せるのかも。そんなことを思ったのが馬鹿馬鹿しい。


 私はその場の地面を激しく蹴りあげ、踵を返して、


「それなら辞めてやる!」


 その言葉だけを残し二階へと上った。

 降りるときはあれだけ段数が多く感じた階段も、上るときは一瞬だった。

 自分が馬鹿みたいだ。


 結局、こうなってしまう。

 いつもと何も変わらない。


 自分の部屋のベッドへダイブする。柔らかい。ふかふか。

 そしてそのまま足をバタバタさせる。


 私は母に辞めろと望んでいたわけでもないし、またバドミントンをやめるなんて言いたくなかった。


 それなのにどうしてこんなに上手くいかないのか。


 自分のことをわかってくれない母のもどかしさと、本当のことを言えない自分に怒っていた。


 私は近くにあったスマホを手に取る。

 何か困ったときには姉に電話をする。


 プルルル。


 頼りあることに姉はすぐ電話に出た。

 そして


「どうした」


 いつもと同じく能天気で馬鹿っぽい声が向こうから聞こえた。


「うまくいかなかった」


 すると笑い声。腹を抱えて向こうは笑っているのだろうか。


「そうだろうね」


「バドミントンをやめるっていってしまった」


「そうなんだ」


 向こうは一体何を考えているのか。しばらくの沈黙が流れる。


「母さんに自分のチームのこと馬鹿にされて思わずカッとなって喧嘩をしてしまった」


「樋春は変わったよね」


「悪い方に?」


「んにゃ。いい方に」


 そうなんだろうか。自分ではどう変わったのかそんなことは何も分からない。


「まぁ、もうそろそろだと思ったよ」


「何が?」


「樋春が私に会いたくなって来るの」


「そんな、会いたいとか……」


「素直になりな。姉様にあいたいと思っているでしょ」


「うう……」


 ゲラゲラ。笑い声。


「本当、樋春は可愛いね。妹として最高だわ」


「姉ちゃんとして最低」


「ま、東京に来な。お遊びのバドミントンでもしよう」


「お遊びのバドミントンをしている暇なんて」


「高校生なんだからそんな暇、一日ぐらいあるでしょ」


 沈黙。


「それなら明後日にでも」


「急だね」


「私の友達を連れてさ」


 すると向こうは息を飲んだ声が聞こえた。そしてすぐさま、それは笑い声で消された。どういうわけか電話越しの姉は嬉しそうな雰囲気が伝わった。


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