一章 名と姓

一話 目覚め

 瞼ごしに眼球が照らされ、青年はゆっくりと目を開けた。瞬きをしながら、光に慣らす。


 口を大きく開けると、泣きはしないが産まれたての赤子のように、一生懸命と空気を取り込む。これまでの呼吸と何かが違い、身体の中に染みわたっていく。


 やがて半身を起こせば、周囲の確認をすることもなく。


「縁起悪いこと言いやがって……ていうか誰だよっ!」


 叫ぶことで気づく。頭が痛い。


「ここは、もう異世界なのか?」


 気候はもといた場所と同じだが、生い茂る木々がどこか違う気がする。建物らしきものはあるが、あそこと違うのは全て地中に埋もれており、その一部が顔をだしている感じか。


「廃墟っていうより、なんか」


 実際に見た覚えはないが、遺跡に近い。


「んなことより、荷物の確認しねえと」


 リュックは背負っていた。だが抱えていたケースが手元にない。


「やばっ」


 武器も防具もリュックにはなかった。

 

 周囲を見渡すが、それらしきものは確認できず。今のところ獣や人の気配は感じないが、このままでは危ない。


「なんか、武器になりそうなもの」


 探してみるが、目に映るのは雑草と見慣れない木々。あとは地中に埋もれた大昔の建物らしき何かが、あちこちに確認できるだけ。森中のようだが、少し開けた場所というのは解る。


 とりあえず、リュックの中身を確認する。応急箱と下着類、それ以外の普段着は、もう不要と誰かに言われ置いてきた。


「誰にだ」


 追われていたことは覚えている。相手はそれなりに大きかったが、一人で逃げていた訳でなかったことも、ちゃんと自分は知っている。


「そもそも、俺の名前は」


 思い出せない。


「国の名前は」


 記憶障害かとも思ったが、どこか人為的に感じた。青年は一冊のノートを取り出す。


「一部、文字が消されてる。でも、ちゃんと向こうの文字は読める」


 消しゴムや修正ペンで消したのとは違う。擦り取ったかのようにインクのあとは残っているが、確かに消されている。


 いつの間にか頭痛は落ち着いていた。青年は立ち上がると、地面に突き出ている建物の一部に身を隠し、もう一度ノートを確認する。まず今読んでおきたい所があった。


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 これは先祖である王弟が残した魔法の説明。転移による記憶障害があり、誤も否定はできず、失われたものもある。



 向こうはこちらと違い、まだ実体化は当然として、物にも宿れない微精霊が多数存在する。それが発する息吹を生物が吸い込むことで、体内に魔力と変化して蓄積される。


 精霊と契約した者は身体のどこかに、精霊紋と呼ばれる紋章がある。こちらの世界では先天的な紋章しか確認できていないが、向こうでは何らかの方法で契約を結び、後天的に精霊紋を得ることも可能。ただし方法は不明。


 紋章の使用方法は、そこに魔力を集中させるだけで良いが、初めのうちは手を添えて流し込むよう意識した方が容易。


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 とりあえず、そこまで読んで今はやめておく。


「転移したとき、んなことしなかったけどな」


 もといた世界にはそもそも微精霊すらほとんどおらず、体内に魔力を蓄積させるのに十五から十七年を必要としている。だがこの地に立つ今、たしかに空気を吸い込んだ際の違和感は感じていた。


 慣れるかも知れないが、これまで吸い込んできたものよりも、余分に何かを取り入れている気がする。息苦しい。


 「とりあえずやってみるか」


 まだ目覚めて数分だろうと、腕時計を見る。


「壊れてんじゃねえか」


 割れていたが、記憶ではまだ針は動いていた。


「誰だよ、こんなの寄こしやがって」


 などと言うが、捨てる気には到底なれなかった。腕時計を外すと、リュックの中にしまう。


「よし」


 服をめくり、右脇腹の紋章を確認すると、記憶のそれよりもかなり小さい。それに、もっと複雑な形をしていた気がする。


 まあ良いやと手を添えて、魔力を送ってみたが、そもそも意味がわからず。青年は気持ちを落ち着けるのと、微精霊の息吹とやらを取り入れるために、大きく深呼吸をした。




 武器も防具もないが、一度立ち上がり見渡す。目を閉じて耳を澄ます。


「川。いや、沢は近くにないか」


 転移したのは夏の手前、梅雨のあと。実際には国どころか世界も違うが、うっすらと虫の音も聞こえる気がする。


「空間や時間か。探知系の力がありゃ良いんだけどな」


 サバイバル術。確かに学んだ覚えはあるが、はっきり言って毛が生えた程度。教えてくれたあの人とは比べ物にならず。


「って誰だよ、なんで忘れてんだ」


 魔力、魔法の確認を終えるまでは動きたくない。


「時間は朝だよな」


 太陽はまだ昇っていないというか、確認できていない。そもそもあるのか。


「この世界は、星としての形してんのかね。日中は光の大精霊たちで、夜は闇の大精霊たちとかだったり」


 なぜか大精霊が同属性でも数体いることを知っている。そして闇の精霊と言って思い出す。


「こういうのは覚えてんのにな。協力ってなにしてくれんだ」


 頭は混乱しているが、悪いことばかりではない。


「俺って両親いたっけ。家族はどうしたんだ、兄弟や姉妹はいんのか?」


 向こうの知識を一部しか思い出せないからか、帰りたいという気持ちはそこまでわかず。今の悩み事は、どうやって生きていくかだけ。



青年は再度その場に隠れる。肉体の変化を調べたり、リュック内の食糧数把握や、ノートをもう一度確認する。

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 時空の大精霊は此処にも、かの地にも居ない可能性がある。そのため呼びかけて力を借りるというよりも、紋章という繋がりから相手を感じ取り、力の一部をつかみ取るといった感覚が必要。

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 しょせんは腹時計だが、一時間は経過したと願いたい。


 右腕を服の下にいれ、紋章に触れる。体内をめぐる血液を右腕に集中させる感覚で、紋章を押さえつける。魔力は手の平から、紋章の描かれた皮膚をも突き破り、どこか奥へ。もっと奥に。


 青年は目をつぶっていた。


「これか?」


 手で鷲づかみ、そのまま引っこ抜く。


「痛てっ!」


 どうやら本当に紋章の描かれた皮膚を鷲づかみ、爪を立てて引っ張ったようで、あまりの痛みから何度もさする。


 傷ができてないか、服をめくって確かめる。肌は赤くなり、うっすらと血も滲んでいたが、それよりも。


「なんか、ちょっと変わってるよな?」


 大きさはそのままだが、形が少し複雑になっていた。


「よし」


 うすい銀色の紋章にもう一度右手を添えると、今度は先ほどの感覚で魔力を送る。紋章から手を放すと、そのまま右側に持っていく。


 手のひらで空気をなぞれば、その位置だけが歪んでいた。


「なんじゃこりゃ?」


 しばらく眺めていたら、数分でその歪みは消えた。もう一度同じ動作で確かめる。


 歪みはまた発生した。意を決して今度は触れてみるが。


「痛て」


 弾かれて中には入れず。痛みとしては、さっきの右脇腹のほうが上か。


「転移とは違うのか。だとしたら、時間か空間」


 それはただの閃きか。それとも頭に浮かぶようになっているのか。


「これあれだろ。アイテムボックス」


 十五歳になるまでは、彼も普通に漫画やウェブ小説を楽しんでいた。それどころではなくなり、今日にいたるのだが。


 「正確には空間魔法。だとすれば、所有空間ってな感じか」


 青年は地面のリュックを持つと、その中から空のペットボトルを取り出す。自分が作りだした歪みの中心に、それを入れる。


「やった」


 今度は弾かれることなく、少しずつペットボトルは埋もれていった。しかし半分ほどまで進むと、中から圧力が加わり、それは青年のすこし後ろまで弾け飛んだ。


「あれ。なんか入ってんのか?」


 自分が入れた覚えはない。


「もしかして、共有空間」


 見ず知らずの相手だとすれば、こちらとしては遠慮したい。


「一度、全部出せねえかな」


 言った瞬間だった。空間の歪みが渦を描くように動き出した。


「やばっ」


 青年はその場から走り出す。もしかしたら、一帯がゴミの山になりかねない。しかし予想に反し、歪みの中心から現れたのは、見覚えのあるキャリーケースだけだった。


 息をつくと。


「なんでお前、そこに入ってたんだよ。まあ、紛失よりはずっとましか」


 周囲を警戒しながら、もといた場所にもどる。


「ていうか、あって良かった」


 これがないと始まらないまである。転移の際に紛失したら困るということで、鍵はかけていなかった。カチャっと外せばパカっと開き、そのまま中身の確認をする。まずは着替えなくてはいけない。


「なんか俺、転移前はもっと血まみれだった記憶があるんだけどな」


 しかし今は土埃だけで、そういった汚れは確認できず。気にしても仕方がないと、まずは上着を脱いだ。


 胸元、心臓部とでも言うべきか。そこに黒い紋章が描かれていた。


「契約ねぇ」


 闇の精霊紋。とりあえずこのままでは危ないので、この世界に合わせて作られたとの衣類に袖を通す。ズボンも着替えるが、こちらはベルトではなく紐で腰に固定する。


 いつの間にか、所有空間は消えていた。青年はジャングルで買ったらしい鎖帷子を、衣類の上にまとう。


「だから誰が買ったんだよ」


 正体不明の苛立ちと不安。鎖帷子は肘までの物で、下も股間まで届く長さ。


「これ忘れてた」


 周囲の確認をしたのち、紐をほどくとズボンを下ろし、トランクスも脱ぐ。股間プロテクターの装着はその部位だけでなく、両足の太ももにも固定位置がある。


「小さい方ならできるが、大きいのだと一度外した方が良いか」


 トランクスとズボンを上げる。靴はブーツ型。


「武器はどっちにするか」


 片手持ちの斧ではあるが、両手でも使えそうな少し大きめの物。ホームセンターで買ったのを研いでもらった。戦斧ではない。


 鉈。こちらも同じホームセンターで、研ぎ作業は終えている。サイズは一般的なもので、左腕に持つ。


「俺は左利き、銀の精霊紋は右腰か」


 先ほどの所有結界。その出入り口と思われる歪みを、盾としては使えないか。


「たいした検証もできてないし、今はやめといた方が良いか」


 肉体であれば弾き、物であれば通す。ただし満タンの場合は弾く。しばし沈黙。


「って満タンなのかよ」


 あの空間にはキャリーケースしか入っていなかった。


「なんか、ずいぶん弱体化してね」


 向こうでは転移専用で、こちらに来たことで、空間のみに変化したのだろうか。青年はジップロックに着ていた衣類を詰めると、丸めながら空気を抜いてキャリーケースにしまう。空のペットボトルもリュックに入れた。

 飲み口がキャップ構造の水筒は、リュックの横側の外ポケットに入れておく。


 ケースから革製のベルトを取り出すと、鎖帷子ごと腰に巻いてしっかりと絞める。

 鉈専用のホルダーはベルトの左側に装着したのち、太ももに巻きつけて固定する。


「こんなもんか」


ナイフホルダーも背中腰にしておいたが、本体は向こうの世界に置いてきてしまった。


 支度と片付けを終えればケースを閉じ、金具で止める。


 血液もとい魔力の流れを右腕に集め、手の平を紋章があると思われる位置に当て、押さえつけながら流し込む。今度は腕を動かさず、自分の前方に所有空間を出現。


「できた」


 衣類ごしでも可能。空間の出入口発生は、手で示さなくてもいい。キャリーケースを持ち上げ歪みに当てろば、渦を描きながらそれは消えていった。


 まだ空間の歪みはそのまま残る。


「消えろ」


 声に出してみたが消えず。


「もう結構です、消えてください」


 消えず。


「消えてよし」


 消えた。


「なんでだよ」


 最後の仕上げとして、両腕に革製の手袋をする。手の平には滑り止めもついている。一度全身をくねらせながら眺めてみた。


「頭どうしよ」


 すっかり忘れていた。首元も守れるフード型の鎖帷子もあるのだが、買っていないものは仕方ない。


「爪が甘いな」


 自分か。それとも記憶に抜け落ちたあの人か。


「俺だな」


 準備はできた。不安もあるが、移動をしてみることにする。まずはとりあえず沢を探すか、それとも目立たない場所を探し、拠点を作るか。


 正解かどうかは青年にもわからない。マッピングにあまり自信がないこともあり、しばらくはあまり動かず、近場の探索をしようと思っていた。


 色々と情報をつかめたら発見した沢などにそって村。または町を探す。


 これまでの勉強が役立てばいいが、会話がちゃんと通じるかの不安もある。できれば転移者だとは気づかれないように行動したいが、片言の現状では限界もあるのだろうか。


 文字や言葉は何種類あるか。自分が降り立ったこの地方で、自分が学んだ言語は通じるのか。


 野盗に襲われはしまいか。魔物と戦えるのか。


「一つずつ。できることから」


 不安材料は次々に出てくるが、これは自分の力で導き出したものではない。


「誰か知らんけど」


 もう一度、自分の服装を確認する。


「あんた多分、俺の恩人だろ」


 心臓部。そこに当てられた感触。


「場所的に丁度いいな」


 手は使わない。血液もとい魔力を、心臓へと集中させる。


 なにが起こるか、出発の前に確かめる。



 足もと。地面に黒い紋様が浮かび、やがて一色に染まった。影のようなそれは青年の足から胴体、そして全身をおおう。


 分裂。目の前に黒一色の人らしき形の者が立つ。


「あの」


 影人の右手には、赤い刀身のナイフが握られていた。柄の部分には包帯が巻かれ、それが肘あたりまで伸びている。


「誰?」


 顔のないそれは返事をすることもなく、じっと青年の方を向いていた。

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