翠緑の羅針盤都グローリアス編

序章

第一節 異世界転移

 橙風船。二〇三○年。八月の中旬。某市某所。

 生垣を飛び越える青々とした柿の木。棚に飾られた侘び寂びのある盆栽。

 水の張った金ダライには新鮮な西瓜スイカが浮かんでおり、立水栓の蛇口から流れる水を浴びて悠然と縞模様を廻している。

 その近くをふらりと迷い込んだ三毛猫が、黄色い蝶々を追いかけて庭を横切った。


 そこは築百年の伝統的な日本家屋。庭から眺める和室には羽根のない扇風機が首を左右に振って室内に風を送っており、軒下に吊るされた風鈴はチリンチリンと南風の涼しさを鳴らしている。


 その鳴り物を遠巻きに眺める、一人の青年がいた。

 爽やかな黒い髪。平凡だが端正な顔立ち。よわいは十七くらいで身長は百七十前後。服装はラフな白Tシャツが一枚と、健康的な膝小僧を見せるカーキの短パンが一着。


 座布団の上で暑さにやられている青年は、汗かく顔を団扇うちわで扇ぎ、風鈴の先に広がる雲一つない青空をぼーっと見上げている。


 やがて、おもむろに立ち上がった青年は縁側に赴き、燦々と照りつける太陽の下、サンダルを履いて庭に飛び出る。行き先は、庭の端にどっしりと構える漆喰の土蔵。


 かんぬきを下ろして両扉を開けた青年は、薄暗く蒸し暑い土蔵に入る。

 天井に張り付いた蜘蛛の巣。土蔵の中には横一列に並べられた本棚しかなく、そこに収められた数々の書物は埃を被っている。

 それらに青年は脇目も振らず、ただまっすぐと突き進む。


 そして、土蔵の奥に行き着いた青年は、木箱の上に置いてあるラジオを見つけて、そのアンテナを限界まで引き伸ばし、周波数を合わせた。


『――、――――ジ、ジジ――ジ――にちは、スペース速報部です。今日の速報は、宇宙開発局の研究者。ファビュラス博士が発見した、地球と瓜二つの惑星について、お届けします――』


 僅かな砂嵐の後に始まった、年若いお姉さんの声による宇宙スペース速報。そのニュースを右から左へと聞き流す青年は、ラジオ近くの本棚を凝視して、隈なく視線を彷徨わせる。


『地球から約十七光年離れた位置にある太陽系外惑星。その星の名前は発見者である博士の名前から取られて、惑星ファビュラスと命名されました。同じ地球型惑星では地球のいとこと云われているケプラー452bがありますが、この惑星ファビュラスは地球の兄弟と言えるくらい酷似しているようです。

 この惑星に生命が存在する可能性は非常に高く、文明の証拠と言える営みの光が、大きく三つほど観測されたという発表もありました。更にファビュラス博士は、その営みの光が観測できるユーラシア大陸ほどの大地の形が、まるでギリシア神話におけるオケアノスのようだとコメントしており、過去批判されたゾシーク計画が実現する見込みがあるという衝撃的な展開も――』


 やがて探し物が見つかったのか、青年は一冊の自由帳ノートを本棚から取り出した。

 薄汚れた表紙。黄ばんだ小口。ノートにかかる埃を払って僅かに逡巡する青年は、ギュッと目を閉じて、しかし僅かに片目を開いたあと、ぐっと指に力を込めて最初のページをめくった。


 そして眉をひそめる青年の目に飛び込んできたのは、黒いクレヨンでたどたどしくも大々的に描かれた『竜の命題』という太字のタイトルだった。

 その下には赤いクレヨンで、とげとげしくもスタイリッシュな字体の『コンディーティオ・オブ・ドラクリヤ』というサブタイトルが描かれている。

 それを目にした青年は、額に弾丸を食らったように首を仰け反らせて、何回も膝を上げ下げしながら顔を手で覆い、ぷるぷると総身を震わせる。


 それも次第に落ち着いてきた頃、青年は悶絶する心持ちから立ち直った。


「っ……はぁ、懐かしいなぁ……。小学生の頃、みんなで考えて書いた空想ノートだっけ。ふと思い出して思わず探してみたけど、よく場所を覚えていたな、オレ……」


 ぱらぱらとページをめくる青年は、時々ページから目を逸らし、苦笑する。


「はは……こんなの黒歴史だろ。まったく。あいつらに見せてやりたいね」


 木箱の上に腰掛けてラジオと相席する青年は、夢中でノートを読み進める。


『次は惑星への移住計画についてです。文明が発展している可能性が高い惑星ファビュラスですが、仮に先住民がいる場合、移住先の候補から除外される向きが強いとされています。このため各国の首脳会談では、慎重に植民地化の是非について検討している模様です。

 このように現在人類による宇宙進出は着々と進みつつあり、いつか外惑星へお引越しできる日が来るかもしれませんね。――以上、スペース速報部でした』


 ほんの五分にも満たない一番組のラジオ放送が終わり、間奏としてダブステップのBGMが流れ始める。その曲に合わせて肩を上下させる青年は、パラパラとページをめくっていく。


「……ん?」


 ふと、猫背になった青年は、あるページの一部分に目を留めた。


「なんだ、この文字……?」


 そこに記されていた文字列は、俗に言う象形文字だった。

 ページの端には、解読不能の文章が綴られている。そこから少し離れた箇所には、約三十文字の象形文字が一列につき十種類の文字に分けられて書き記されていた。


 それは鳥を模した文字、弓を模した文字、棒を模した文字、刃物を模した文字、方角を模した文字、針傷を模した文字、まんじに近い文字、斧を模した文字、紐を模した文字、犬の頭を模した文字、ハート型の文字、蛇を模した文字、示という漢字に似ている文字、球体の中に小さな球体がある文字、兎の頭を模した文字、×に近い矢を模した文字、ひっくり返った食器を模した文字、人の笑顔スマイルを模した文字、方角を模した文字とは逆方向の槍を模した文字、人の上半身を模した文字、てるてる坊主に近い文字、鳥を模した文字とは逆方向の×に近い文字、VとVがWのようにクロスしている文字、棒と枝を模した文字、ダイヤ型の文字、剣を模した文字、鳥を模した文字の上に二つの点がある文字、兎の頭を模した文字の上に二つの点がある文字、てるてる坊主に近い文字の上に二つの点がある文字、槍を模した文字が二つ横に並んでいる合字の文字。


 それら三十文字を注意深く観察する青年は、読み進めていくごとにまぶたを落としていく。

 ふと、ハッと我に返った青年は眠たくなる頬をはたき、腕を組んで喉を唸らせた。


「う~ん。おかしいなぁ……。こんな象形文字、見たことないぞ。ヒエログリフでもないし、楔形文字でもない。もしかしてこれ、オレが考えた架空の言語か?」


 しかし、そのようなものを作った覚えはないと、青年は首をかしげる。


「つっても、このノートを書いたのって小学一年生の頃だしな……覚えてなくて当然か」


 なるほどと頷いた青年は、自然と目を伏せる。


 ――途端、青年は身動きが取れなくなった。閉じた瞼を開くことができず、組んだ腕を解放することもできず、彼はただ石像のように木箱の上で座り続ける。


“――あれ? なんだ、これ。なんで目が開けられないんだ!? 体も、動かない!”


 突如として金縛りに襲われた青年は、心中でひどく狼狽し、なんとか金縛りを破ろうと全身を強ばらせる。

 それで叶った事といえば、全身の血管を浮き上がらせる程度だった。


 ――直後、青年の足元から光の粒子が立ち昇る。

 木箱の下に展開する幾何学模様の魔法陣。先程まで彼が読んでいた象形文字が魔法陣の中で流転していき、どこからともなく吹き荒ぶ風が土蔵の砂埃を巻き上げる。


 やがて、青年の体を黄金の粒子が包み込んでいき――――刹那、それは電撃の如く一瞬の閃光を発した。

 プシュウウ――――という水蒸気のような音を上げて、光とともに消え去った木箱の上の青年。


 そして誰もいなくなった薄暗がりの土蔵では、ただ軽快なBGMが調子を良くするだけだった。

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