中編 私は時の魔女。世界の時計の針をも操ってみせる

 術を使って一瞬で湯を沸かし、熱い茶を出した。久しぶりだとか元気だったかだとか、手探りのような挨拶を交わして、沈黙が落ちた。お前は茶を味わうフリをしながら、なにか言い出す機を図っている。こんな雪の日に身重の体を押してまで来るのだから、重大な用件があるに違いなかった。それでも、ひどい別れ方をして生まれた溝をどう埋めればよいか、わからないのだ。

 私にもわからなかった。溝の深さは、謝れば済む段階を越えてしまっていた。だが不思議とその時、私の心にはじわりと熱が生まれていた。もちろんお前が来てくれたこともあるが、それよりも、お前のためになんでもしてやりたいという気持ちが湧いてきていた。自分本位ではなく、今度こそ、間違えず、お前のために。


 私は数年前よくそうしていたように、よき相談相手の声で用件を聞き出そうとした。お前は、幸せな家庭を持っていて、もうすぐ子供が生まれそうだと穏やかに語った。心の中に苦いものがまったくないと言えば嘘になる。だがそれよりもずっと大きな祝福の気持ちがあった。ひたむきに人の幸福を願い祝福するのは、想像よりも困難で、だからこそ価値があるとやっと私は理解したのだ。その思いを伝えるため、祝辞を述べた。


 お前は笑顔で祝福を受け止めてくれた。だがすぐ、なにかを探るような顔になった。続けて話を促すと、お前はかなり慎重に言葉を選んで、母の病状がまた悪化し町から呼んだ医者も匙を投げ、それでも母は孫の顔を見たいと嘆くのだと語った。家族で看病していたが母の命はもう風前の灯火で、筋違いを忍んで私のところに来たと、そういう事情らしい。


 なんということだ。あの日の諍いが、母の命と、お前の心を追い込んでいったのだ。魔女は決して人助けを嫌っているのではない。道理を外れれば怒るが、お前は立派に人事を尽くしたうえで魔女を頼った。とても賢明な判断で、なにも恥じることはない。そう優しく言い聞かせると、お前はさめざめと泣き出した。

 また泣かせてしまったが、この涙は安心からくる涙だ。しばらく肩をさすってやったあと、いくつか薬を調合した。話を聞く限りでは、もはや回復は望めず延命がせいぜいだと説明したが、お前は大げさなくらいの感謝をして受け取った。それと、熱を放つ護符も持たせた。使い捨ての簡単なものだが、お前は宝物のように上着の中にしまった。


 厚い雲と雪のせいで、森はかなり見通しが悪くなっていた。杖の先端に光を灯し、村の近くまで送っていくと申し出ると、お前はとても驚いた顔をした。確かにこれまで、そんなことは一度もしなかった。雪の森は危険だ、と言ったのに、お前はくすくす笑うと肩を小突いてきたじゃないか。少しでも一緒にいたい気持ちが態度に出ていたのだろうか。顔から火が出そうな私は、足早に先導した。


 雪が吹き付け、積もる話をする雰囲気ではなかった。黙々と歩き、村の近くに着いた。これ以上明かりを持ったまま近づけば目立ってしまう。無言でうなずきあって、お前は村の方へと歩み去っていく。その姿に、あの日の背中が重なって見えた。

 思わず呼び止めていた。あの日、震えるばかりだった唇はうまく動いてくれた。あの日のように、手足を木の枝のように感じることもない。


 雪の中へ膝を付き、深く頭を垂れて己の罪を告白した。つまらない欲に支配され、理不尽に罵り、泣かせたお前を追いかける勇気を持てなかった。己の至らなさゆえにお前を傷つけたことを、心の底から詫びた。顔をあげてと言うお前に、なお深く頭を垂れて許しを請うた。


 お前は意外な力強さを発揮して、私の腕を引っ張って無理やりに立たせた。互いの息がかかるほどの距離で、お前は激しく首を振り、なびいた金の髪が私の鼻先をくすぐった。そうじゃない、とお前は叫んだ。魔女のあり方と人間のあり方が、少しすれ違ってしまっただけなのだと、お前はそう言ってくれた。ぶつかったこと、そこから時間が流れたこと、どちらも理解し合うために必要だったと信じていると言うのだ。


 お前の情の深さに打ちのめされていた。もはや謝罪も感謝も虚しい。お前の魂への敬意が生まれていた。そのままの気持ちを述べると、お前は照れて笑っていた。

 再会の約束を交わして別れた。また会うと、お互いが信じているのだ。なんと素晴らしいのだろう。帰ったら久しぶりに酒を飲もうか。ああ、だが、この時の私は浮かれていたのだ。


 しばらくして訪れたお前は、元気な子供が生まれ、それと入れ替わるように母が旅立ったと静かに報告した。そしてお前は眉を引き締めて、ずっと考えていた、と語りだした。子供の頃、牛が屠殺されると知り私に泣きついた時から、ずっと命の終わりの意味について考え、出産と死別を経験してやっと話せるようになったのだと。


 正直、私は動揺していた。あの時、苦し紛れで言った、答えは自分で見つけるもの、という言葉を真正面から受け止め長い間心の内で育ててきたと告白されたのだから。お前の子供の頃については、私にとってはつい先日のようでも、人間にとっては文字通りにずっと昔だと理解している。そんなにも長い間……


 私はお前から多くを受け取ってきたが、私という存在もまた、幼い娘の人格に大きな影響を与えていたことを思い知らされた気分だった。ならば、お前の出した答えを真摯に受け止める責務がある。しっかりとうなずき、先を促した。


 まとめると、人間、畜生や草花、虫、石や山に至るまですべてのものは、生まれた瞬間から関わるものの一切に愛を与え続け、また受け入れ続ける。そして愛の器がいっぱいに満たされた者は天に召されるというのだ。恵まれなかった者、病や事故に倒れたものには、神の愛が降り注ぐ。一切のものは、愛と救いを得て、安らぎの場へたどり着く。だから、家畜にも愛を注いで育て、役割を終えたものは順番に去っていけるのだと。


 私は舌を巻いていた。お前が語ったのは、神の教えと古代の賢人たちの思想を混ぜた独特な倫理体系と呼べるだろう。

 褒めてやろうと思ったが、お前は決意を秘めた瞳で見つめてきたじゃないか。続けて聞けば、この思想を得たのは私との問答や多くの経験のおかげだが、ここには魔女である私の居場所がなく、それが嘆かわしいらしい。


 思わず笑ってしまった。笑うところじゃないとお前は怒っているが、嬉しくておかしかったのだ。私をとても大切に思ってくれているとわかった、なのに打ち立てた倫理を信じ、曲げられないのはお前のまっすぐさと意志の強さの表れだろう。


 もともと魔女は、神や人の倫理とは決別した存在だ。いまさら嘆かなくていいと言ったのに、心に決めていることがあると、お前は両腕を大きく広げた。ああ……神もも超えたところで私たちは分かちがたく結びついているとも。


 強く抱き締めあった。胸の奥から思いが溢れそうだ。耳元で、声には出さず内なる思いをささやいた。

 体を離すと、お前はいたずらっぽく笑い、なにを言ったか知っていると言うのだ。そんなはずはない、術でも使ったのかと、目を白黒させる私に、私も同じことを考えているからとはにかむお前は、たまらないほど愛おしかった。


 それからの日々は穏やかなものだった。お前がやって来るのをうきうきして待つのでも、色あせた日が流れ去るのでもなく、ごく自然な付き合いの形に落ち着いた感覚があった。お前の子供は玉のように輝き、可愛らしかった。まだ薄い毛は金色でお前に似たのだろう。

 茶と菓子を楽しみ、相談相手となり、村であった愉快な出来事に笑い合う。かつてお前と夫を取り合ったという女にも、子供ができたという。そんなことすら嬉しそうに話すお前は、本当にいい人間になった。

 魔女と娘は末永く幸せに暮らしました。そんな結末ならよかった。だが、辺境の地にも恐るべき時代の波が押し寄せてきた。魔女狩りだ。


 気づいた時には、すべてが終わっていた。来訪の頻度はまちまちだったので、少々間が空いても気にしていなかった。だがさすがに、半年以上顔を見ていないと心配になってきた。


 いつかやったように、町娘に扮して村に出向く。お前の家の牧場は荒れ、牛もいなくなっていた。戸を叩いても誰も出てこない。人の気配がなかった。

 ぞわっと膨れ上がった不安を抑え、手近な村人にお前の家の者たちについて尋ねた。その中年の男は恐怖をあらわにしつつも、私の問いに答えた。だが、なにを言っているのかわからなかった。脳が理解を拒否し、二度三度と同じことを聞く羽目になった。男はとうとう怒り、経緯をまくし立て始めた。


 この地域に赴任した異端審問官は、辺境の村には魔女がいると信じ込んでいた。だから、誰かが魔女になる必要があった。それは、どこからか調達してきた薬で、二度も母を救った女が適任だった。異教の怪しげな紋様が描かれた札が家の引き出しから見つかり、決定的な証拠となった。魔女は火刑に処され、灰は川に流された。家族は村を出ていき、それっきりだと。


 その時の、私の感情を表す言葉は知らず、万の戯曲の中を探しても存在せず、偉大なる劇作家たちにも指し示すことは叶わない。ただ、そういう感情があったとしか述べることができない。

 男は十字を切って、祈りの言葉をつぶやいている。自分でも意外なくらい冷静に、審問官が赴任した日とその後の顛末を正確に答えるよう頼んだ。

 そして、もうひとつだけ問うた。魔女として処刑された女は隣人を愛していたはずだ。そんな女を生贄のように差し出して、心が痛まないのかと。男は絶句し、おいおいと泣き出した。いい年の男が、日中の通りで涙を流している。やはりお前は、愛し愛されていた。


 村を去り、森に入るまではなんとか抑え込んでいたが、もう限界だ。感情に応じて術が暴走し、森を作り変えていく。ある木は爆発的に成長し緑を萌えさせる。一方である木は、どんどん縮んでいき最後は小さな芽に戻った。家に帰り着くまでに森は破滅していたが、もうどうでもいい。

 家に戻るなり、時計を手にとった。月齢針では今宵は満月。もっとも魔力が高まる夜だ、ちょうどいい。そして――


 ――そして私は、夜の森に立っていた。

 一糸まとわぬ姿を、皓々と輝く月が照らしている。巨大な魔法陣の中心に立ち、すぐ前には術具の時計が置いてある。この時計は、時刻を形而上学的絶対の正確さで指し示す魔の道具だ。日時を確認し、うなずいた。

「ひとまず上手くいったか」

 すぐにも動き出したいが、魔力、体力ともに尽きていた。時計を拾い、重い体を引きずって家に戻った。寝台に倒れ込む。眠りに落ちる寸前、決意を新たにした。絶対にお前を救い出す。


 夜明け前に目が覚めた。体調はいい。身支度を整え、いくつかの術具をカバンに詰めた。さて、出かけようと思ったが、鏡を見て一瞬考える。この風体ではきっと目立つだろう。認識避けの術を使って家を出た。


 黄金色の朝日が村を染めていた。牛がもぅもぅと鳴いている。戸を開けて出てきたお前を見た瞬間、腰が抜けそうなほどの安堵があった。朝日を受けて燃えるように輝く金の髪、母になってさらに成熟した体、子供の頃から変わらない、聡明さといたずらっぽさを宿す瞳。間違いなくお前だ。


「おはよう」


「おは……魔女さん!? どうしてここに」

 

 叫んだあと、お前は慌てて口を塞ぎ、小声で言い足す。


「いいの? こんなに堂々と」


「認識避けの術を使ってある。見ろ、素っ頓狂な声を上げても、誰も注意を払わない」


 お前はきょろきょろと見回し、術の効果にひとまず納得したようだ。


「素っ頓狂って、もうっ。でも本当にどうしたの。こんなの初めてじゃない?」


 少しわくわくして見えるお前の顔は、趣向を変えて遊びに来たと思っているのかもしれない。だが、そんな期待を徹底的に粉砕する残酷な話をしなければならないのだ。


「とても大事な用件がある。いますぐにだ」


「と、とりあえず中に入ってよ。コーヒー淹れるから。主人とうちの子なら一緒でもいいでしょ」


「私は魔女として来ている。お前とだけ話をしたい。家の中でも気づかれはしないが、さすがに落ち着かないだろう」


「……じゃあ、そこの柵にもたれて話そ。長くなりそうだし」


 牧場を横切る途中、お前は唐突に悲鳴を上げた。


「魔女さん! その腕は……!」


これか、と私は左腕を上げる。その肘から先はなくなっており、くたりと折れた袖が垂れ下がっていた。


「順番に説明するつもりだったのだが。すまない、驚かせてしまったか」


「そうじゃなくて! 痛くないの? 手当しないといけないでしょっ?」


「怪我じゃないんだ。痛みもないよ。ただ、なくなっただけだ」


 混乱するお前をなだめて、柵に寄りかからせる。私はその左側に立つ。こうすれば左腕が目に入りにくいだろう。


「さて、突拍子もない話になるが、信じてもらわないと始まらない。前提の説明からいこう」


「ううん、私、魔女さんの言うことなら信じるよ」


 勢い込むお前に、苦笑いしてしまう。


「信じるにも最低限の理解は必要だ。そのために、順番にだ。いいな――よし、私は魔女だが、一口に魔女と言ってもいろいろいる。炎の魔女や金の魔女、夢の魔女などな。そして、私は時の魔女だ」


 カバンから木の実をひとつ取り出し、放り投げる。木の実は迅雷の速度で飛翔し、亀のようにのろのろ進み、静止した。空中に留まる木の実を、お前は丸くなった目で見つめている。

 術を解き、カバンにしまわれる木の実を、お前は最後まで不思議そうに睨んでいた。


「よくわかった……全然わかんないけど、魔女さんがそういうことできるのは、信じた」


「薬の調合や認識避けは、魔女ならば基礎の技術だからな。私の専門は時間なのだ」


「じゃあ魔女さんは、自分の時間を止めたってこと?」


 お前は、私の体をまじまじと眺めながら言う。さすがに理解が早い。


「正確にはもう忘れてしまったが……いまとなっては、お前のほうが肉体年齢は上だろうな」


「うふふっ、なんだかおかしい! 私のほうがお姉ちゃんだなんて」


 笑ったあと、急にお前は切なそうに唇を噛んだ。聡いお前は、二人の時間がこの先離れ続けることに気づいたのだ。いまはそんなことを語り合う暇はない。もっと差し迫った問題があるのだ。お前の態度に気づかないふりで、強引に話を進める。


「お前、魔女狩りは知っているか?」


「聞いたことはあるけど……え? 魔女さん……?」


「私のちからは見たばかりだろう。軍隊が来たって負けはしない。魔女狩りの標的になっているのは、普通の人間なのだ。特に、村から弾かれている者や奇妙な病を患っている者……それから妙な薬を使ったり、動物に魂があると信じているような人間が狙われる」


 お前の顔色が青くなっていく。


「午後には、審問官がここに来る。もう察しているだろう……処刑されるのは、お前だ」


「そんな……私はなにも悪いことなんてしてない。審問官様は教会の立派な方のはず、証拠もなしに処刑なんて!」


「証拠は、お前に渡した熱の護符だ。覚えているだろう、雪の日の。それが家の西にある引き出しの三段目、子供用の服の下から見つかったからだ」


「なんでそんなこと知ってるの……」


「すべて終わったあとで、そこの男に聞いたのだ」


 目線で、農作業している男を示す。男から聞いた、審問官の苛烈な態度や裁判の顛末を語った。そこには村人の証言や態度が含まれており、私では知りえない情報は、かなりの信憑性をもたらしたようだ。


「もし裁判が起こったら、そうなるのかもしれない。でも、魔女さんはまるで処刑が終わったあとみたいに……そうか、時の魔女! 未来を見て、教えに来てくれたんだね!」


「占い師と勘違いするのも仕方ないが、少し違う。時間を戻ってきたのだ」


「戻って……?」


 いくら聡くても、時間操作の考え方は難しかったようだ。お前は数秒考え込んだのち、恐る恐る言った。


「いま目の前にいる魔女さんは、未来の魔女さんなんだね」


「お前から見ればそうなるな。今年の夏は暑くなると、経験として知っている。私は大きな術を使って時間をさかのぼった。証拠は、私の腕だ」


「……!」


「魔女といえども、世界の時計の針を押し戻すのは困難だ。五本の指と腕を代償にしても、審問官が来る直前にまでしか戻れなかった。もっと私にちからがあれば、余裕を持てたのだが。すまない」


「そんなこと言わないでっ」


 正面に回ったお前は、腕のない左腕の服をぎゅうっと掴んだ。


「腕なくなっちゃったじゃない!」


「嘆くな。私もお前も、ここにいるのだから。時を超える旅は、魂がばらばらになる過酷なものだったが、お前との思い出を辿ることで自分を取り戻せたのだ。たくさん……覚えているよ」


「私もある! いっぱいあるから!」


「時を超えて、お前を助けに来た」


「バカ! 魔女のくせにバカなんだから!」


 バカバカ、と涙を流しながら叩くお前にされるがままだった。ああ、きっとバカなのだ。でも仕方ないだろう、愛しているのだから。


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