不老不死の魔女はある娘を永遠に愛する

犬井るい

前編 お前との思い出は、ひとつたりとも忘れていない

 これは、なんだ? これは……とても大事な、魂に刻まれた思い出。辿ってゆけば、お前の元へと――


 初めて出会った時、幼いお前は泣いていた。この森は深く、うっかりした狩人やお前のような迷い子が、たまに私の家の近くまでさまよって来る。

 信仰を捨て真理を会得し、乙女のまま時を止めた私は魔女の身だが、邪悪な存在ではない。迷い人がいれば丁寧に村までの帰り道を示してやるとも。

 だが……お前の涙の真珠のごとききらめきはどうだ、陽の光を透かす金の髪の輝きには胸を締め付けられた。聖書などはとうに置いたが、それでも天使がいるならばお前のような存在に違いないと思った。

 

 ただ帰り道を示してやればよいものを、ぐずるお前の小さく丸い手を引いて家に招いた。ひと嗅ぎすればたちまち正気を失うような薬ばかりの家に、幼子を連れ込むなど正気の沙汰でない。だが、その時の私はどうかしていた。一刻も早くお前の涙を止めてやりたい、心の痛みを取り除いてやりたいと、それしか頭になかったのだ。

 菓子と茶を振る舞い、笑顔を見せてくれた時は、ほっとした。偉大な魔女が、幼子の機嫌に振り回されるなんて滑稽だろうか。どうでもいいことだ。


 いつまでもこうしてはいられない。お前には帰るべき家があるのだから。道を示し、不安がるお前を励まして送り出した。村の近くまで同行することも考えたが、村人に見つかる危険は冒せなかった。人の世に留まる者たちからすれば、私は異質な存在。我が身はなんとでも守れるが、幼子に言われない嫌疑がかかるのは避けたかった。

 私と出会ったことは他言無用だと約束して、小さな背中が森の奥へ見えなくなるまで立っていた。ふぅっとため息をついて、夢から覚めた気分だった。また穏やかで、少し退屈な日々が続く。そう思っていたのだが。


 しばらくして、お前はまた私の家にやって来た。しばし呆然とした私は、慌てて駆け寄った。また迷ったのかと尋ねると、お前は首を横に振り、手にしていた白く可愛らしい花を差し出したじゃないか。

 お前は元気よく名乗り、礼を述べてくれた。恩人には礼儀を尽くしなさいと、母から教えられたのだと。この家のことを話したのかと思い、一瞬肝が冷えた。だがお前は、約束を守れるいい子だった。そうなると、自分ひとりで考えてここまで来たことになる。


 辺境の地の、森深い場所だ。そう簡単に来れるものではない。まして幼子の小さな足だ。不安も苦労もあっただろう。なのに礼を言うために、わざわざ来たというのだ。状況が整理されてくると、じわじわと喜びが生まれてきた。愛しさとは、心臓から湧き上がる温かい泉のようなものかもしれないと思ったものだ。


 やっぱり私はどうかしていて、またお前を家に誘っていた。白い花を花瓶に挿し、ふと重要なことに思い至った。

 茶と菓子を楽しむその前に、大事な約束をした。名前には強いちからが宿る。魔女の口から出るとなればなおさらだ。だからお前のことは、お前としか呼ばないし、お前からも、私は魔女さんとしか呼んではいけないと決めたのだった。


 お前はいろいろなことを話してくれた。父と母を愛していること、初めて牛の乳搾りをした時の感動、畑仕事で失敗して怒られたこと。長く人の営みを見続けて、どれもありふれた出来事のはずなのに、お前の口から語られると新鮮できらきらと感じられたのだから不思議なものだ。お前は心根がまっすぐで、世界を美しく見つめられる子だった。ますます愛しくなっていた。


 日は傾き、お前は帰らねばならない時間になった。また来てもいいかと訊ねられ、私は答えに窮した。むやみに外界と関わるべきではないと冷静な心がささやく一方で、この夢のような時間の誘惑も手ごわかった。結局、他言無用を念押ししただけで、拒みきれなかった。元気よく去っていくお前を見送りながら、みっともない答えだと自嘲したが、それぐらいお前が惜しかったのだ。


 それからの日々は楽しかった。お前がやって来るのは二週間に一度くらいだったが、今日は来るだろうかと考えるだけで心が浮き上がった。お前は来るたびに、たくさんの話を聞かせてくれた。友達と木登り競争をしたこと、牛と仲良くなったこと、少し背が伸びたこと。

 外で遊びもした。木の実を拾い、花の香りにうっとりして、それからお前は動物が好きだった。野生の動物は不浄なものを秘めているため、迂闊に触れてはいけない。言いつけを守るお前はいい子だが、少し残念そうだった。だから私は術で小鳥やリスに心を通わせ、爪や牙を立てずに遊ぶよう頼んだ。手の中で丸くなったリスの毛を撫でたときのお前の感動した顔に、こちらまで心動かされたものだ。


 季節は巡り、お前はどんどん大きくなった。幼子扱いするのは不適当な年頃になり、任せられる仕事も多くなっていったようだ。訪ねてくる機会も少し減ったが、仕方ない。そんなある日、お前が泣きながらやって来た。


 家族同然に育った牛の、乳の出が悪くなったから売られると言うのだ。売られた牛は屠殺され、皮などが商品となる。牛はまだ元気なのに納得がいかないと、お前は泣いていた。乳の出で生殺を決めるのは、人間の理屈だ。そういう風に世の中は回っている、と説いても意味は薄いだろう。だから私は、牛が遺してくれたお金でパンやスープが食べられる。そのことを決めた父母を恨んではいけないと諭した。

 だがお前は、強く首を横に振った。そうじゃない、わからないと叫ぶお前は、なんのために死ぬのかではなく、なぜ死ぬのか。生命の終わりの意味はなんなのか。そう問いかけていた。私は喉が詰まる思いをするだけで、なにも言えなかった。

 説明はできる。草が茂り、それを牛が食べ、それをまた人が食べて生命は巡っていく。あるいは、神父が言うように神がそう定めて作ったのでもいい。だが、生命の輪からも神の教えからも外れた魔女の私がなにを言っても白々しいだけだ。結局、答えは自分で見つけるものだ、とありふれたことしか言えなかった。


 お前をそっと抱きしめ、ふと恐ろしい考えが脳裏をよぎったとのを覚えている。お前をこれほど悲しませるものから隔離すべきではないのかと考えてしまったのだ。魔女としての倫理を無視し、お前を永久にこの家の中で過ごさせることも難しくない。時を止め、正気を奪い、愛で続ける……だがそれは……家畜の在り方だ。この子にとってどんな意味がある? 幸福とは? 人生とは?

 私は、腕の中で震える柔らかな生命に、人間としてまっすぐ生きてほしいと心から願っていると自覚した。愛しているとも。そっと見守る母のように。導き、手を引く姉のように。寄り添い歩く友のように。分かちがたく結びついた恋人のように。魔女の私は、お前との間に「これ」と名付けられる関係を持てないだろう。だが、だからこそ、魔女なりのやり方でお前を愛しきってみせようと誓った。


 また時は流れお前は子供と呼ぶより、少女のほうが適切な年頃になった。お前はさらに美しく可愛らしくなった。しなやかな体つきや、聡明さの中にいたずらっぽさが混ざった目の輝きはネコに例えるべきだろうか。長くなった金の髪は、小川に照り返す陽光のきらめきをひとつひとつ集めて編んだようだ。お前は、私のブルネットの髪や豊満な体つきをうらやんだけど、そういうことを気にする年頃になったかと思うと、くすくす笑わずにはいられなかった。


 お前の仕事の責任も増え、来訪の頻度はまた落ちた。顔を合わせるのは一月に一度ほどになっていたが、それ以上減ることはなかった。仕事があるのに、お前は時間を作って定期的に会いに来てくれているのだ。嬉しくないはずがなかった。以前のようにとりとめのない話を楽しむ一方で、お前は料理の作り方や、作物の育て方にも興味が広がったようだった。私は知識と技を伝え、お前はよく学んでくれた。聡くまっすぐで、だけど少しおてんばな娘にお前は育っていった。


 いつかこんな日が来ると、覚悟していたことがある。お前に、魔女なのかと問われる日だ。この家にある、いくつもの書物や薬瓶はともかく、影の中に住む猫や、無数の針を持つ球体時計など、人間が扱える領域を超えたものも多い。危ないから気にしてはいけない、触れてはいけないと言い聞かせれば済む時代を過ぎたのだ。

 ついにその日が来て、私は静かにうなずいた。お前は、私が魔女と知ったところで怯えたりしないと信じていたし、実際そうだった。だが、そのあと言い出したことには少々面食らった。


 母が病に臥せ、診療のため村に来てほしいと言うのだ。医者の真似事をして魔女を名乗る輩がいるのは承知している。お前が勘違いするのも無理はなかった。だが私は理を外れた本物の魔女。やすやすと人界に関わるわけにはいかない、そう言うとお前があからさまに気落ちするものだから、慌てて言い足した。乞われれば応じるのもまた魔女だと。薬をいくつか見繕うと、お前は安心したようだった。それだけ母を心配する、愛情深い子に育ってくれた。ここで私は気づくべきだった。お前に薬を持ち帰らせたことの意味に。


 辛い冬を越え、草花が芽吹く季節になった。そんな陽気とはさかしまにお前には悩みがあるようだった。訪問のたびに悩ましげにため息をつかれてはたまらない。なんとか聞き出すと、村に気になる男がいると言うじゃないか。予想はしていた。むしろ、自分が動揺するところまで予想していた。だが面と向かって言葉にされると、予想以上の衝撃だった。跳ねた心臓が、みっともなく呼吸を乱した。

 異変に気づいたお前は心配そうな顔をしたが、私はなんでもないと取り繕った。お前相手にも外面を取り繕おうとする器の小ささ、愛すると誓っておきながらせせこましい独占欲に毒されていた心の狭さには、我ながらうんざりした。

 私は泥のような心を抑えつけ、お前のよい相談相手であろうとした。続けて話を聞いてみると、その男には別の女が言い寄っているらしく、そこが悩みの種らしい。三角関係というものか。どう助言したものだろうか。頭をひねっていると、お前がおもむろに、決して口にしてはならないことを言った。


 想い人の心を変える薬をねだったのだ。……あの時の私の態度は、救いようのない外道のそれだった。

 生命を助けることはしても、蘇らせてはならない。心を素直にする手助けはしても、ねじ曲げてはならない。理の外に身を置くからこそ、魔女の倫理には、厳格な一線があるのだ。お前にとっては知る由もないことなのに。お前は聡い子だから、たしなめてやれば二度とそんなことは口にしなかっただろう。だがあの時の私は気が立っていて、そこに思い至る余裕がなかった。気づけば、お前を烈火の如く罵っていた。


 お前の目から、みるみる内に涙がこぼれる。紅潮した頬を伝う水滴のきらめきをはっきりと覚えていた。お前は引きつる喉から謝罪の言葉を絞り出し、家を飛び出していった。

 我に返った時には、手遅れだった。開いたままの扉から、走り去っていく姿が見えていた。本当は間に合ったはずなのだ。木の枝のように感じる手足を動かし、震える唇から引き止める言葉を発してさえいれば。できなかった。こわくて。


 無になった心が次に気がついた時には、空に星が昇っていた。寝台に倒れ込んだ。深い眠りにつきたかった。そう願って目を閉じれば、まぶたの裏にお前の泣き顔が浮かんだ。これではいけない。お前が菓子を食べている時の無邪気な笑顔を思い出そう。小鳥といっしょに歌った声を。茶を入れる時の真剣な手付きを――裏切った! 台無しにした! 己の浅ましさが、愛し子を泣くほどに傷つけてしまったのだ。眠りというつかの間の忘却すら許されず、美しい思い出は、よく磨かれた刃に変じて私の心を絶え間なく切り刻んだ。

 

 次に自分を取り戻したのは、ぼそぼそしたパンを食べている時だった。あれから何日経ったのか定かではないが、パンにカビが生えていないからせいぜい数日だろう。謝りたい思いが、急に湧いて出てきていた。きっと数日ぶりの食事のせいだ。自分の体と心は、驚くほど単純に結びついていたようだ。


 パンを食べ終え、なにも考えないようにして準備した。このあたりは辺境と呼ばれるようなところだが、都市との交易はある。町娘に見えるように服も整え、町でのお前の知り合いだと言えば怪しまれず村に入れるだろう。


 森を抜け街道に出て、お前の住む村を目指した。ホウキに乗らず移動するのは久しぶりで少し疲れたが、浮き足立つ自分がいるのも確かだった。いつも会うのは私の家か森の中で、村の方へこちらから出向くのは始めてだったからだ。許してもらえるかわからない。それでも誠心誠意の思いを伝えることだけは決めて歩みを進めていった。


 村が見えてきた。柵に囲まれた敷地で牛が草を食んでいる。その横にある平屋がお前の家だろうか。ふと、見間違えようのない金の髪が家の角から覗き、一歩踏み出した私はそのまま硬直した。お前は、背の高い男と並んで歩いていた。幸福そうな笑顔を見れば、すべては明らかだった。お前は愛を手に入れ、私の居場所はなかった。

 思えば、お前は飛び出す直前、謝罪の言葉を口にしていた。私が感情を爆発させただけにもかかわらず、お前はその中から誤りを見出し、正しい答えを導いた。愛は自分のちからで手に入れなければ意味がないのだと。もう私がお前にしてやれることはないと、素直な納得があった。



 三年近く経とうとしていた。あれからお前は当然来ず、私からも村に行くことはなかった。穏やかで色あせた日々が流れていく。お前にあれほど熱情を注いだのも、少し不思議な感じがしたものだ。


 寒さが厳しく、雪の降る日だった。扉を叩く音で、私は暖炉の前から離れた。まさかこんな日に迷い人だろうか。この荒れた天気では今晩は泊めてやらないと、そんなことを考えて扉を開けると――お前がいた。

 雪に打たれながら、どれだけの間見つめ合っていただろう。お前が急にくしゃみをして、照れながら赤くなった鼻をこすらなければ、そのまま氷像になっていたのかもしれないと思うほど、驚きに身動きが取れなかった。

 ぎこちなくお前を中に招き、暖炉の前を勧めた。火に照らされたお前の顔つきは、もう少女ではなく一人前の女性のものだった。そして、お前の腹は大きくなっていた。



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