幻想月影が救っているのは

 俺は怒鳴られていた。会議室に呼び出された俺の前には、怒れる上司やら顧客やら他課の所属長やら先輩やらが一斉に立っていた。


「てめえ、あんなもん送ってんじゃねえよ!」


「先方から苦情が来ていた。先月頼んだのがまだ来ていないおかげで、後工程に全ての負担がかかっている」


「この件の担当者は君だったよね、大梨。全てお前に責任だ。どうするんだ」


「はいだけじゃねえんだよ、どうするって聞いてんだよ」


「それだけじゃすまねえんだよ、あの件どうするんだよ」


「……だんまりか。都合が悪くなったら黙るのか」


 聞き取れた罵詈雑言はそれくらい。心当たりはあったけど、もう自分ではどうすることもできないものばかりで、早くこの場が終わって欲しいと願ってしかいなかった。


「この件については大梨が招いたものだ。この件について対策をまとめた資料を明日中に出せ。さもなくば、後は分かるね」


 酷い夢だった。ベッドが目が覚めると、俺の身体は酷く重かった。今日がまた来てしまったことが、酷く憂鬱に感じられた。しばらく洗っていない毛布を退かすことすら煩わしい。


 あれ? ここはどこだ? どうして俺はこんな場所にいるんだ? 俺はこんな古いアパートの中にはいなかったはずだ。


 気付いた時、俺は車に乗っていた。身体が自分の意志に反して動いている。これから待つ運命は分かりきっているのに。


 オフィスには、平積みの書類が山ほど積まれた机があった。で、待ってくれ。なんでもうそこに怖そうな雰囲気の……上司が立っているんだ? 上司はこっちを見るや否や、憤怒の形相で肉薄してきて、


「大梨ぃ! まだ終わってねえじゃねえか!」


「―――――!?」


 掴み掛ってきた上司に驚くあまり、俺はベッドから転げ落ちた。


 え? 転げ落ちた?


 俺は混乱していた。気が付いたら、また別の部屋にいた。さっきまでいたのとは違って、もっと小綺麗な部屋だ。誰かがいつも掃除してくれている綺麗な部屋。


 だけど、気分が悪い。吐き気がする。腕が震えている。何かを考えようとするだけで、脳が締め付けるような痛みがする。


 部屋のドアが開いた。


 俺は目を見開いた。


 上司? なんで俺の部屋に来てるんだ?


「てめえ、こんなところに逃げたって無駄なんだぞ!」


 上司が瞠目する俺の胸倉を掴む。そして、反対側の手で殴り掛かってきて


「マスター! マスター! しっかりしてください、マスター!」


 女の声がした。誰だ、今度は何だ。しっかりしろってなんだ。仕事もろくにできない俺に、しっかりしろって言われたって、これ以上何をしろって言うんだ。


「マスター! 起きて下さい! マスター!」


「すいません。すいません。自分はもう、すいません。すいません……」


「マスター! 起きて下さい! マスター!」


「すいません。すいま……え?」


 視界がぼやけている。目の前に誰かいる。聞き慣れた声。


 徐々に視界が鮮明になっていく。目の前の輪郭が、徐々に明らかになっていく。


 知っている女性だ。長い髪をポニーテールにした、俺には不釣り合いなほどに美しい女性。


「ゲンロク!? ゲンロクなのか!?」


 この時になってやっと、俺は転げ落ちたベッドに寄りかかって座っていたことに気が付いた。


「ここは、どこだ? 現実だよな? もう、あっちの世界じゃないんだよな?」


「お目覚めになられましたか? マスター?」


「目覚めた? 全部、夢なのか? これが現実なのか? ここが現実でいいのか? お前、ゲンロクだよな? 現実のゲンロクだよな? ゲンロクがいるんだから、ここは現実のセフィアで間違いないんだよな?」


 気が動転しすぎている。俺は状況が読めなくて、起こしてくれたゲンロクの肩をゆすっていた。


「精神異常の兆候が見られます。落ち着くことを推奨いたします」


「え、あ、そ、そうか……」


 自分が悪夢から解放されたんだと理解したのは、それからもうちょっと後のことだった。


 ★★★


「悪夢を見てしまうとは、とんだ災難ですね」


「ああ、全くだ。よりによって、あっちの世界の一番のトラウマを思い起こすことになるなんて」


 悪夢で混乱していた頭も今ではすっかり癒えてきて、朝御飯も普通に喉を通るようになっていた。


 ゲンロクの飯の腕――アンドロイドの調理能力の性能というのは大したもんだ。一口中に運ぶだけで、嫌な気持ちが瞬く間に吹っ飛んでしまう。


 あの夢は俺のトラウマだ。何がトラウマって、どうしてああなったのか。どうすればああならずに済んだのか。そもそも何が起きてどんな影響が出ていたのか、もう思い出せなくなっていることだ。残っているのは、ただもう二度とあんな場所にはいたくないという古傷のような想いのみ。考えようとするだけで、脳が痛みの伴うリミッターをかけてくる。おかげで今でも、頭の中に得体のしれぬ巨大な闇の塊のような不気味なものがこびりついている。


「気を落とさないでください、マスター。今日は給料日ですよ。今日貰える額の給料と週末の参拝褒賞ホーショ―があれば、私達がリーヒ教会のアクアフェスティバルで着ていく水着が買えるんですから」


「おお、そうだったな。給料と参拝褒賞ホーショ―で水着セット一式とかホテルへの旅費とか色んなもんが貯まるんだもんな! 今日は嫌なことなんて忘れて、それのことだけ考えるよ。おかげで元気出たわ。ありがとう」


「いえいえ、元気になられて良かったですよ、マスター」


 かくして、俺は支度をして出発する。今日も生産応援をやらされるんだろうな。けど、あっちの世界でやってた仕事に比べたらずっと楽だ。どの職場の仕事もあれくらい楽ならいいのにって思う。


「マスター、時計を忘れてますよ」


 なんてことを思いながら玄関に向かってたら、ゲンロクにそんな注意された。なんてこった。マトゴマの時計職人から買った特製の腕時計を忘れるなんて、ホントにどうしようもないな。


 さて、リーヒ教会のアクアフェスティバルについてだが、リーヒ教会ってのはサンダーバニーの隣町であるセントパトリック労働者街にある。労働者がエリート階級であるセフィアだから簡単に察せると思うけど、まあ凄い高級住宅街だよ。おかげで、一介の看板持ちに過ぎない俺では、近場の宿を借りるだけでも二月分の給料と国民日当ニットーが吹っ飛んでしまう。


 最近こそ生産応援手当てがついてくるから貰える額も増えて来たけど、今まで余計な出費をしてたせいか、あのあたりで一泊なんて無理だった。ジェリーキャットからの勧めとアクアフェスティバルとゲンロクの水着姿の想像のおかげでやっと行く決心がついたんだけど、行くための資金としては今月の給料+参拝褒賞ホーショ―がどうしても必要だった。


 ★★★


 予想外のことが起きた。


 生産応援の昼休み中に支給された月給の額がおかしかったのだ。


「多くない?」


 思わず口に出してしまった。想像していた額より高かったのだ。この額なら、参拝褒賞ホーショ―目当てに教会なんて行かなくても、俺とゲンロクの一番高い水着を買えるばかりかアクアフェスティバルに行ける。


 そんな俺に気付いたのか、近くにいたアドが寄ってきた。


「おいなんだよ、多いってどういうことだ? まさか、パクったのか?」


「いや、んなわけないじゃん。どうやってホワイトテンプルの金をパクるんだよ。思ってたより額が多くておかしかっただけ。誰かに訊けば確かめられるかな?」


「ああ、誰に訊けば分かるんだろう。監督にでも話してみるか?」


 てなわけで、俺とアドの二人で生産応援の時に世話になっている監督に俺の給料について尋ねてみた。監督って言っても、強面の偉丈夫的なアンドロイドではなく、フォークリフトのような産業機械に腕とヘルメット付きの頭部パーツが乗っかっているような、すこしでかいマスコット的な外見をしている。


 俺がアドと一緒に「今月の給料について質問があります」と事情を説明すると、監督のマスコットの頭部から電子音が聞こえてきた。恐らく、ホワイトテンプルの人事部にアクセスして、詳しい内容を聞いているみたい。程なくして、監督が答えた。


「おめでとう、大梨。お前は今月、一日だけ一切の誤記なく指令書を出してくれた。今月の給料が高かったのは、そのボーナスによるものだ」


「……!?」


 監督が壁に投映した映像には、更なる驚きの事実が映し出されいた。


 その表を簡単に説明すると、横軸が日数。縦軸が俺達が生産依頼された時に書いた指令書の数。で、縦軸と横軸の交点に当たるセルの部分が青か赤で塗られているんだけど、他の人は青が圧倒的に多いのに対し、俺だけ一つを除いて全部赤になっていた。


「赤色の部分は、品番や品名の誤記などがあり、こちらのAIで修正処置したものだ。大梨は、青色で塗られた一日を除いて、何かしらの書類に誤記があったぞ。お前だけだったぞ。初日から毎日にかけて誤記が多かったのは。提出前の確認を進めるぞ」


 絶句する俺を他所に、何か思い当たる節があったのか、さらにアドが呟く。


「あ、どおりで。能男って、確か修士卒だよな? 悪いけど、ちょいと気になっちまって履歴のデータベースを見ちまったんだ。普通なら、修士卒なら収支手当てが必ず付くはずだったのに、高卒の俺と給料が大して変わらねえからどうもおかしいなって思ってたんだが……ミスが多かったからなのか。こいつは納得だぜ」


 この時の俺は、アドの言っていたことなんて良く聞こえていなかった。もっと別の声が、頭の奥底から聞こえていた。


 ――いい加減にしろ! お前、また間違っていたぞ! ちゃんと確認してんのか。


 ――お前はいつになったら一発で書類を通せるんだ!? 適当にやって済むようなもんじゃないんだぞ。仕事舐めてんのか!


 ――お前に何が出来るんだ! お前みたいな奴のせいで、後工程にどれだけ迷惑が掛かっているのか分かってんのか!


 ――てめえみたいな奴には誰も任せようとは思わねえよ。何のためにお前はいるんだ!


 ……俺は、何一つ変わっていなかった。アンドロイドだけじゃ仕事が回らないから応援に来たってのに、帰って仕事を増やしていたなんて。ここに来たって、結局、俺は……なんの役にも立たず、迷惑ばかりかけてしまう無能で――。


「まあ、よかったじゃねえか能男。おかげで今月はいつもよりもたっぷり金が貰えるんだ。得られることの方を喜ぼうぜ。その金で何か美味いもんでも――おいおいおいおいちょっと待てちょっと待てどうした能男おい!!!」


 アドが瞠目するのも無理はなかった。俺は、自身への失望と過去のトラウマの前に込み上げるものを抑えきれなくて、何もかもをその場に吐き出してしまったのだから。


 止まらなかった。無力感と絶望感が募りすぎて、身体までおかしくなっていた。


 ゲンロクが作ってくれたもの全てを、俺はホワイトテンプルの綺麗な敷地にぶちまけてしまっていた。


 やがて全てが収まって、顔を上げた時、俺は幻を見た。


 奥に人影が見える。漆黒の装甲に身を包み、横一文字のバイザーを緑に閃かせ、白と緑と青のマフラーを風になびかせているあの姿は――幻想月影!?


 幻想月影が、吐瀉物の前に跪く俺をじっと見ていた。


 幻想月影は黙したまま。横一文字のバイザーからは、一切の感情が窺えぬ。


 なんで? 幻想月影は、俺だろ? なんで幻想月影が、俺を見ているんだ?


 俺を見下ろす幻想月影は、やがて踵を返すと、遠くへと歩いていく。


 まさか……。俺は動揺した。


 俺は幻想月影へと手を伸ばした。


 けれども、幻想月影は遥か彼方へ行ってしまって、手は虚しく空を掴むのみ。


 待ってくれ。それじゃあ、だめなんだ。幻想月影まで……あんたまで俺を見捨てたら、俺は何が出来るんだ!?


 行かないでくれ。


 行かないでくれ、幻想月影!


 あんたまでいなくなったら。


 いなくなったら……!


 ★★★


「ああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 俺は絶叫しながら、目の前の暴漢を殴り飛ばしていた。


 幻想月影の拳は降りしきる夜の雨粒を弾き飛ばし、暴漢を道路向かいのゴミ箱にまで吹っ飛ばす。その勢いの凄まじさたるや、道にできた水たまりを弾き飛ばし、虚空に水の波動を形成せんばかりだった。


 暴漢は他にもいる。こいつらをどうにかしなきゃ、俺の背後にある車の中で震えている要人を救えない。


 ――ホワイトテンプルで激しく嘔吐した俺は、体調不良ということですぐさま早退した。帰り道は酷い雨だった気がする。


 玄関を開けて早々、ゲンロクが俺を出迎えてくれた。


「お帰りなさいませ、マスター! 勤め先から話を聞きました。酷く体調を崩されたようですが」


「大丈夫……、大丈夫だよ、ゲンロク……」


 ゲンロクに促される形で、俺は居間のソファに座った。


 その時だった。居間に置いていた円筒形のスピーカーがメッセージを発したのは。


『オメアラ地区にて、乗用車が暴漢に襲撃される事件が発生。暴漢は、逃げる乗用車をバンで追走中とのこと。繰り返す。オメアラ地区にて――』


 その装置は、近隣の通りの監視カメラなどからAIが瞬時に情報を読み取って、町で起きた事件についてすぐさま教えてくれる。幻想月影の活動の手助けとして、開発者でもあるアレクが特別に譲ってくれたんだ。


 幻想月影の活動は義務じゃない。そんな情報を知って真っ先に何かしなければならないのは警察だ。あくまで俺は一般市民。そんな事件もあるんだねと、ただただ聞き流していればいい。


 まして、俺は今、体調を崩している状態だ。そのままソファで横になったっていいくらいだ。いや、未だ口元に嘔吐の残滓すら残る俺の身を案じて顔を近付けてくれるゲンロクの優しさに甘えて、目の前の豊かな乳房に身を委ねたっていい。


 だけど――!


「ゴメン、ゲンロク。行かなきゃ!」


 俺はゲンロクを払い退けるように立ち上がると、玄関へ駆けた。


「マスター!? 今は休まれた方がよいのではありませんか!?」


 当然ながら、ゲンロクは諫めるようにいった。


「ゴメン。ゲンロクに癒してもらうのは、あれが終わってからにするよ」


 俺は装置を指差して答えた。そして、玄関の扉を開けるなり、目の前の塀を蹴って外へジャンプした。その時には、既に俺の身は幻想月影へと姿を変えていた。


 本当に、ゴメン。だけど、今は休むことなんて出来ない。上手くは言えないけど、ここで幻想月影の役割を果たせないと、またあの悪夢に襲われる気がしてならないんだ。


 現場にはすぐに到着した。俺が到着した時には、追われていた乗用車が電柱に衝突して止まっていた。この大雨で視界が悪く、地面も滑りやすかったのだろう。 だが、更に酷いことに、乗用車が事故って動けなくなったのをこれ幸いとばかりに、バンから何人かの男女が続々と降りてきたのだ。


 鼻から下をバンダナで隠しているため、彼等の素性は分からない。だけど、降りてきて早々乗用車目掛けて疾駆する彼等の手には、ハンマーやら有刺鉄線バットやら物騒なものばかりが握られていて――


 そんな彼等の目の前に、俺は着地した。着地の衝撃で、周辺の雨水が波紋のように吹っ飛ぶ。まさに天から降りてきたヒーローの登場に、暴漢たちの足が止まった。


 やがて、今に至る。


 ワンツーパンチで二人殴り飛ばし、方向転換と同時にハイキック。アスファルトに溜まった水を蹴り上げて描く弓なりの軌跡で、数人纏めて蹴っ飛ばす。


 あっという間の出来事だった。暴漢たちは道の上に倒れ、電脳の力で拘束されていた。


 俺は乗用車の方へと向き直った。社内には三人。いや、正確には二人と一機。運転席にホワイトテンプル製のアンドロイドがいて、後部座席に壮年の男性と小さな女の子がいた。多分、親子。それも、かなり金持ちの。


 衝突の影響でアンドロイドからは火花が上がっていた。俺はすぐさま後部座席のドアを開ける。事故の影響でドアが変形していたが、幻想月影の膂力なら造作ない。


「ご無事ですか?」


 そう言って俺が手を差し伸べると、まず近付いたのは女の子の方だった。窮地を救った黒き英雄の手を、女の子の小さな手が握ってくれた。


 ★★★


 その一瞬はカメラに撮られ、明日の一面になった。


『幻想月影、重鎮父子の窮地を救う』


 ニュースの報道によると、被害に遭ったのはセフィア幻想国の大手銃器メーカーである『サムライエッジアーマメント』の理事とその一人娘だという。その会社の名はテンプル美術館で見たことあるから知っている。ホワイトテンプルとも取引のある会社で、なかなかカッコいい武器を作っていた。まあ、そんなことより社名のインパクトの方が色々とアレなんだけど。


「大したお手柄じゃねえか、能男。昨日ゲロ吐いたって聞いたんだが、そんな体調とは思えねえくらいの働きっぷりだな!」


 ラボ内に自在に生成できる非実体映像装置で放映されたニュースを見ながら、レオーネは無邪気そうに笑った。で、苦笑を浮かべてる俺を見て、顔を引きつらせる。


「あ、わりい。気にしてたかもしれなかったな、すまねえ」


「いや、いいよ。気遣いありがと」


 今、俺はレオーネの研究室に来ている。理由は勿論、ゲンロク及び幻想月影の定期メンテのためだ。だから、ゲンロクは今、診断用の装置の中にいるし、俺も幻想月影リーガルハッカーの診断のためって理由で変な管を体中に差し込まれたまま椅子に座っている。まあ、痛くはないんだけど、端から見るとグロテスクな実験を受けているようにも見えるわな。


「さて、あたしは診断に集中するよ。幻想月影リーガルハッカーのおかげで、あたしの研究が更に捗るんでねえ」


 そう言いながら、レオーネは俺の隣にある机に座って何かをカタカタ操作している。途中、「映像つけっぱでいいかー?」と訊かれたので、俺は「いいよ」と答えておいた。


 幻想月影の報道はまだ続いている。サムライエッジアーマメントの重鎮を襲った連中は、実はサムライエッジアーマメントに勤める看板持ちの集団だったようだ。なんの恨みで上司を襲うのか分からんが、まあ、とんでもない奴等だ。ただ、連中はLNMとの関係はないらしい。影響は受けてそうだけど。


 で、映像は幻想月影に感謝の言葉を述べる父子のインタビューに切り替わる。


 ……正直、ここで感謝の言葉を述べられるのは、嬉しい。陳腐な表現だが、そうとしか言えない。いつもは、良くて出来て当たり前とスルーされる程度で、たいていは怒られてばかりだったから。


「ああ、そういうことか」


「ん? どうした、能男? なにニヤニヤしてんだ?」


 この気持ちは、果たしてどうやって言ったらいいのだろうか。


 あっちの世界では、俺は仕事の出来ない人間として、社会のお荷物のような目で見られ続けてきた。無能という針のむしろの上で、いつも苦しんでいた。


 こっちの世界にやってきて、仕事をしなくても生きていける世の中を知った。無理して何かをやらなくても、何かを成し遂げようとしなくとも、ただ生きているだけで有難がられる日々を知った。


 だけど、何かをしなくてもいいって分かっていても、心のどこかで何かをしなくちゃいけない。何かを成し遂げなくちゃいけない。何も出来ない自分が許されていない。何かを成していると周囲から評価されなくちゃいけないって思っている自分がいた。


 何もしなくていい。何も出来なくていい。何かをしなくちゃいけない。でも何も出来ない。そんな自分が許せないし許されない。


 そんな身勝手なまでに二律背反する俺の想いの、ちょうど良い落としどころに幻想月影はすっぽり嵌まってくれた。幻想月影という自分には不釣り合いなほど強大な力が、働かなくてもよい世界で無能だった過去に苦しむ自分への処方薬になっていた。


「レオーネ。これだけは言っとくよ」


「ん?」


「幻想月影が救っているのは、実は、セフィアでも、労働者でも、アンドロイドでもなかったんだ」


 一息ついてから、俺は続けた。


「……だったんだ」

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