第9話神官

神官に選ばれることを、「森に喰われる」とも表現する。2度と元の生活に戻れないうえに、人が変わってしまうこともあるからだ。


目の前にいる人もそうだった。


オビが生まれるよりずっと前、数十年振りに「喰われた」その人は、それまでは他の子供と何の変わりもない、純粋で甘えたな女の子だったらしい。


けれど夏至の晩、森に呼ばれてからはすっかり別人になった。


オビは神官の前の姿を知らないから、話に聞いただけだけど。


「村の人間が来るなんて珍しいな。それも夏至にも来ない奴が。いったい何の用だい?」


「この奥に行きたいんです」


急に声を掛けられたので驚いたが、オビは気を取り直して答えた。


「どうして駄目なんですか?」


「奥か。村ではあの世に繋がっているなんて言われているな。死にたいのかい?」


神官は逆に問い返してきた。オビは首を横に振る。


「じゃあ、どうして? 家族に会いたいのかい?」


「いいえ」


「じゃあ、どうして?」


神官はオビのことを知っているように見えた。儀式の時以外、森から出もしないのに。


「帰りたくないんです」


「家に?」


「村に。もう帰らなくてすむ所に行きたいんです」


オビは神官が羨ましかった。彼女はずっと森の中にいて、どこにも帰らなくていいのだ。


「……滅多なことを望むものじゃないな」


神官は声を低めて言う。その片手は烏の背に載っていた。


「もうお帰り。そこに入っても、怪我をするだけだよ。今日は道が開いていないから。村が嫌なら、時々ここに来ればいい。君は私を嫌いなようだが、気が向いたらまたおいで」


オビは神様が嫌いだ。それでも、それから何度か西の森へ行った。森には村人が来ないから。


昔はそうではなかったらしい。前の神官がいた頃は、村人がよく森へ来たし、神官も村へ出向いていたそうだ。


けれどオビが生まれた時には、そういったことは無くなっていた。神官は森に引きこもり、村人も近寄らない。


家で仕事を手伝わなければならなかったから、自由になる時間はそれほどない。

それでも、どうしようもなく寂しい夜など、オビは1人で森に来た。誰かといるより、その方がずっと寂しくなかった。


夜の森はいつ来ても静まり返っている。だが奥へ入ると、神官の吹く笛の音が、風に乗って聞こえてきた。どうやら夜通し吹くことが、度々あるらしい。


夜気に染み渡るその音は、森の静けさを壊すことなく、むしろ一層際立たせてゆく。オビは社には近付かなかったが、少し離れた場所でよく聞いた。


社の烏も、きっと神官の脚の上で耳を澄ませているのだろう。じっとしていると、森の全てが、木や石に至るまで、耳を傾けているのが感じられる。


一緒に聞いている間、オビは自分が森と一体になったような、巨大な何かに包まれているような気持ちになり、その時には、村では消えない寂しさがなくなるのだった。


次の年の夏、オビは久しぶりに祭りへ行った。とはいえ、すっかり人が消えた夜明け近くだ。


養家の人達はもっと早い時間に出掛けていた。毎年一緒に行こうと誘われるが、人が集まる場所には行きたくないと断っている。


祭りは朝日が昇るまでとなっているが、ある程度遅くなると鎮守の森に詣でる人はいない。村人にとって祭りの楽しみは森の外にある。


しかし夜明け近くには、主役たる露店や見世物小屋も、すでに片付けを始めていた。森の入り口で笛を吹く男も、既に姿を消している。


しかし青い提灯だけは、まだ森の中を照らしていた。オビは1人、数年振りに参道へ入る。


昔の祭りは、もっと違うものだったらしい。笛を吹く役目は村人が順番に請け負っているが、かつては神官が行っていたそうだ。


しかし前の神官が亡くなってから、その役目は村人に引き継がれた。


最初は神官がしていたように、日暮れから夜明けまで行われていたようだが、次第に短くなり、この頃は人が多く来る時間にしかされていない。


周りが浮かれ騒いでいる間に、孤独に笛を吹いているのは苦痛だからだ。


祭りは変容してきている。


森に入って間もなく、オビは参道を外れた。繰り返し森へ来るうちに、中のことは随分分かってきた。青い道しるべや笛の音がなくとも、奥まで辿り着くことができる。


オビは社へ向かった。


オビが知る限り、祭りの夜、神官は社に篭って人前に現れない。しかし、この日は回廊に座っていた。


参拝者が途絶えたから、外に出たのかもしれない。眠っているのか、目を閉じている。


しかしオビが近付くと、ぱちりと目を開けた。


「参道を通ってくればいいのに」


「今更でしょう。それに、参拝に来たわけでもありませんし」


「なら、何をしにここへ来たんだい? 普段は近付きもしないくせに」


「祭りの晩に道を外れれば、見つけてもらえると聞いたので」


冗談半分にそう言えば、神官は呆れたような顔をする。


「君は私達が嫌いなくせに」

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