第8話森の奥

どこに行くという当てもない。ただあの家にいたくなかった。


夜も更けていたが、まだ灯りのついている家もある。人に会いたくなくて、その場所は避けた。


川も嫌いだ。昼に出掛けた森も見たくない。そうしてふらふらと歩くうちに、鬱蒼とした森の前へ辿り着いていた。


鎮守の森だ。


村ができて以来、一度も人の手が入ったことのないこの場所は、他の森や林とは空気が異なっている。


常に人を寄せ付けず、うっかり入った者をぱくりと呑み込んでしまいそうな、そんな場所。


月明かりに照らされて黒々と繁る森は、昼間や夏至の晩でさえ不気味なのに、更に気味悪く見える。


オビは立ち去ろうと踵を返しかけたが、ふと思い直して立ち止まった。それからもう一度森を見上げると、明かりも持たずに中へ入った。


鎮守の森には、村の守り神がいるという。


けれどオビは神様が嫌いだ。村人が必ず詣でる夏至の夜でさえ、あの年以来行ったことはない。出掛けたところで、感謝どころか、罵倒しか出てきそうになかった。


神様は、願いを聞き届けてはくれなかったのだから。


なのにどうして入ったかといえば、村に伝わる伝説を思い出したからだった。


社の隣にある洞窟。あれはあの世に繋がっている。入れば引きずり込まれる。


光の入らない森の中は、目が慣れてもほとんど見えない。夏至の晩のように道があるわけでもない。闇雲に進んでも、社がどちらにあれのか分からなくなった。


「はあ」


オビは大きな木の根元に座り込む。一体何をしているのだろうと思った。


明かりも持たずに森へ入って、奥まで辿り着けるわけがない。夜が明けるまでに帰らなければ何をしていたのかと訊かれるだろう。これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。


分かっていても動けなかった。


帰りたくない。


あの家の人達は、オビに何もしない。なのに酷く疲れて、その上寂しかった。


膝を立ててその上に顔を載せる。目を閉じれば静かな森の囁きが聞こえてきた。木々の間をすり抜けて、冷たい秋の風が吹く。


その中に、異質な調べが混じっているのに気が付いた。


オビは顔を上げる。それは耳を澄ませなければ聞こえない程の微かなものだった。


もう一度目を閉じて、音に集中する。木々のざわめきに混じって、澄んだ細い音が聞こえてきた。


目を閉じて耳を澄ませていると、頭の中に青く照らされた道が浮かび上がる。祭りの晩に、この音を聞いた。


森の入り口で、年取った男が笛を吹いていた。森の中に混じる音は、それによく似ている。けれど夏至でもないのに、誰が吹いているのだろう。こんな夜更けに。森の中で。


その答えは1人しかありえない。


オビは立ち上がり、切れ切れに運ばれてくる笛の音を辿った。


音は徐々に大きくなる。それが祭りで演奏されていたものと同じか否か、オビには分からない。


けれどそれは青い道と同様、森に入った人間を奥まで導く印だった。


長く打ち捨てられていた社は、新しい神官が現れた際に、人が住める程度には修理された。


腐った板は取り替えられ、周りの木も枝を払われた。暗い森の中、社の周りにだけは月光が降り注いでいる。


その人は社の回廊で胡座を組んでいた。脚の上には1羽の烏が座っている。


社に住み着いているやつだ。


修理をした時に、中にいた動物達は追い払われたが、この烏だけはしぶとく戻ってきて、出ていこうとしない。


神官も気にしていないようだったので、いつしか村人も放っておくようになった。


烏は気配に気付いたのか、さっと首を上げてオビを見る。しかし、すぐ興味を失ったように首を縮めた。


神官は気付いているのかいないのか、目を閉じたまま笛を吹き続けている。


オビはそっと視線を横にずらした。社の横には洞窟が、ぽっかりと黒い口を開けている。


あの世に、あるいは神々の住む世界へ繋がるといわれる洞窟、その奥へは月光も届かない。オビはそっと、社の横を抜けて洞窟へ近付いた。


「入っては駄目だよ」


入り口に手をかけた時、笛を止めた神官から声が掛かる。いつから気付いていたのか、口元に薄ら笑いを浮かべてオビを見ていた。


「喰われにきたのかい?」

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