幕間

 それは、ふと気付いた。

 暗いじめじめとした空間にいた。生々しい臭いが鼻につき、重たさを感じるほど水分を含んだ空気が手足に纏わり付いて、幽かな音が妙な具合に撓んで反響する。周囲は暗く、等間隔に並んだ非常灯の明かりだけがぼんやりと照らしていた。

 頭が朦朧としていた。全てが鈍い。何もかも、何もかも、何もかもが嘘だ。見えているものが視えていない、聞こえているものが聴こえていない、確かに感じている筈のものが作り物めいて、のっぺりしていて、モザイクに隠れている。

 打ちっ放しの汚れたコンクリートに直接横になっていたそれは身動ぎした。脳の重さに堪えかねたかのように頭をぐらぐら揺らして身を起こし、ゆっくりとじれったく首をもたげた。その所作は仮にそれを見る者がいればあまりの不気味さに悲鳴を上げるほどに非人間的で、血の冷めた爬虫類に似ていた。

 朧気に、憶えているのは赤色だった。地獄のような熱と痛み、骨の髄まで干乾びそうな乾きから必死に逃げた。血と肉と臓物の腐海を鼻先で掻き分けて這い、よろめくように立ち上がって、再開発地区の隅に口を開けた放置されていた下水道へ続く穴に辿り着いた。ほとんど意識もなく、本能的で、つまりは自動的な、自らの内側から込み上げてくる衝動からの逃避行動だった。

 入口には太い鉄格子が嵌められていた。それは、ただその場を離れて身を隠さなければならないという漠然とした思いに駆られ、邪魔な障害を二本ばかり押し広げて、身体を押し込んで地下へ続く暗い暗い穴倉に潜り込んだ。

 そうしてどれくらい歩き、どこをどう進んだのか。電池が切れたように停止して、再び動き始めた時、そこは轟々とうるさかった。

 水音。

 雨と泥の匂い。

 そして、汚水の嫌な臭気――それがいる補修点検の為の通用路にまで増水した水面が触れており、恐らく外では結構な量の雨が降っている。

「……ぐ、ゥ……ゥゥ……」

 威嚇する獣がそうするように、それは喉の奥でくぐもった音を鳴らした。

 それは飢えていた。渇いていた。虫でも鼠でもよく分からない生き物を喰らっても癒える事無く、苦しく、歯を剥き出して唸り、力いっぱいコンクリートに爪を立てた。両手の爪は一枚残らず剥がれ、血が筋を描き、それは何かに堪え切れなくなったかのように訳もなく頭を叩き付けた。二度、三度。六度めにして額が割れて、破けた皮膚の下で肉が潰れ、夥しい血液が溢れ出る。痛みを感じる感覚機能はとっくに麻痺し、氷漬けにされた手足は腐り落ちるのを待つばかりで、ただ血液だけが燃えるように全身を駆け巡り、その全てを身体の外に吐き出したい欲望がそれを捉えていた。

 自壊衝動。或いは自食というべきか。死。苦痛。それが、生まれてからこれまで、ただの一度も感じた事のない異形の衝動と欲求と快感が押し寄せる。痛みと悦びが綯い交ぜになり、死が命を啄んで、刻一刻と知覚の果ての狂気が心臓を蝕んでいく。

 空腹だった。喉が渇いた。どうすればそれが癒されるのか本能的に理解していたが、それは堪え難くそこから逃げ出したかった。

 唸り、呻いて、時折血を吐くように絶叫し、喘ぎ、吼え、奇声を上げ――止まった。

 流れの上流。水路へ流れ込む汚水の、その上方を振り向いて、それは動きを止めた。幽かにだが、本当に僅かに水の生臭さに混じって異なる生々しい臭気が匂った。ふんふんと鼻を鳴らし、首をもたげ、それは自らの腹の虫が騒がしく合唱するのを聞いた。

 黒い、何かの影が、流れてくるのが見えた。

 それは這い、激しい流れに半分ほど身を乗り出し、流されそうになるのを異常な腕力で持ち超えて更に手を伸ばした。影はそれの前を横切って流れ過ぎようとしていたが、その寸前で指先が引っ掛かり、ずりずりと通用路に引き上げた。ずぶ濡れの薄汚れた黒いコートの塊だ。濡れて、顔にべったりと張り付いた銀色の髪の隙間から辛うじてそれを見上げる双眸の片方が抉れて、そこからは堪らない匂いが漂っている。残った無事な瞳が驚愕に見開かれているような気がした。胸や腹に大怪我を負っている。蚊の鳴くようなか細い声が何かを言った。震える右手が動き、これから自身に降り掛かるだろう運命を止めようとそれに向かって指を伸ばした。それは、しかし指先の動きに反してその腕を掴み、ジッと見つめ、こちらを見上げる隻眼を見下ろして、そこに僅かに残った明確な自我の光を冷酷に覗き込んだ。理性が喪失した昏く落ち込んだ孔――エミール・エリアーデが驚愕と絶望の淵で最期に見たのは、自らを呑み込む深淵の穴倉そのものだった。

 轟々という水音に混じって、骨の折れる音が下水道に響いた。割れ、砕け、ゴリゴリと粉々になる音だ。肉は裂け、臓器は抉られ、割り開かれた腹から長いロープ状のものを引きずり上げ、引き千切って血と脂を啜る。そのうちにぐちゃぐちゃの海から何かを見付けたらしく、両手を差し入れて胸骨を乱暴にへし折り、ゴミのように投げ捨てると破片は濁流に押し流され、大切そうに差し上げられた両手には小さな、歪に丸いものが掲げ持たれていた。完全に停止して赤黒く変色した心臓を目の高さに持ち上げ、宝物のように眺め、一気に食い付いた。その行為は原始的に野蛮な食事の風景でありながら、一方で儀式的な、神聖な行為のようでもあった。

 不老不死の吸血鬼、エミールの死体に覆い被さったそれは飢えた獣さながらに――いや、それそのものとして腹腔に顔を突っ込み、彼の血肉を夢中になって貪っていた。臓物を咀嚼し、嚥下して、その血と肉の味を背筋を震わせながら堪能する。

 やがて、音は止んだ。

 それはエミールの腹部から顔を上げ、顔と言わず首といわず、胸元まで血脂でべったりと汚した身体を惜しげもなく晒すようにぐぐっと獣のように伸びをし、深く、深く、満足気に吐息を溢し――目の前は晴れていった。

 頭が冴える。

 世界がクリアになる。

「ふ、くふ、はっ、ハ――――」

 飢えも渇きも癒された満足感から抑え切れない歓喜が溢れ、右目の端から涙を流しながら、それはハッキリと自分が何者であるかを再認識した。

 吸血鬼に噛まれたものは吸血鬼になるという。だが成り損なえば、その獲物は何に成り果てるのだったか? それは生きても死んでもいない。機械的に動くだけの醜い肉。死体を喰らう死体、即ちは屍食鬼、グール……

 これは極めつけのイレギュラーだった。グールは本来、その親である吸血鬼の完全な支配下にあるか、本能のままに動くだけの獣に成り果てるものだ。であればこの水環という特殊な土地が某かの形でその本来の在り方を狂わせ、歪めたのは疑いようもなく、彼等の縺れた運命はここに致命的な悪戯を仕掛けていた。

 半ば正気を失っていたエミールの乱暴な食事の食べ残しが、彼自身を喰らい尽くすなんて果たして誰が想像し得ただろうか。当事者であるエミールは驚愕のうちに悲鳴すら啜られ、絶命した。彼をここまで追い詰めた異常者、柊余波さえ全く予期していなかった。仮に氷雨宮末理の千里眼のように結果を知ったところで、どうしてそうなったかなど推理しようもなく。これまで水環市全域に薄く意識を広げていたローゼンハイト・フェザーランドすらも今や高遠比衣との同期によってこの決定的とも言える瞬間を見逃している。

 故に誰も知らず。

 当然、止められた者はなく。

 だからこそ、致命的な蹉跌――成り損ないのグールが親である吸血鬼を捕食する、誰にとってものイレギュラーが発生する。

 水環市の薄氷の下、水によって鎖された闇の底で、金髪を血脂でべったりと汚し、くすんだ星を耳朶に揺らして、皆本灰理は新しい怪物として人知れず産声を上げた。

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綴じた水環の吸血鬼 側近 @rusalka000

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