エピローグ-雨降って血固まる
夜も更けて、何をする気にもならずに惰性のネットサーフィンで時間を浪費していた。
ディスプレイの隅にチャットツールがポップアップした。見慣れたアイコンと名前で短文コメントが表示されている。MMORPGの「なな月」へのお誘いだった。
数秒の間考えて、比衣はヘッドセットを装着した。
手伝いを頼まれたレアアイテム掘りと、ついでに自分のレベリングを終えた小休憩中、他の面子は花摘みや飲み物を取りに席を離れていた。ふと、唯一残っていた相手が言った。
「そういや今日はすっきりした顔してたけど……問題は、解決したのか?」
リアルの友人であり、クラスメイトでもある彼は今思い出した風を装ってはいたが、どうやらずっとタイミングを窺っていたらしい。比衣も薄々察していたので特に驚く事もなく、ただ実際に問われるとうまく言葉が見付からず、出てくる言葉は「あー」だとか「まあ」だとかほとんど意味を成さない音ばかりだった。
「風邪で一日休んでたけど。その間に何かあったか」
「うーん。確かに色々あったんだけど……なんかな、アリスギっていうか。つぅかそういうお前もここ数日浮かない顔してたじゃん。そっちはどうしたんだよ」
「こっちの問題はばっちり解決したよ。それよりも今はそっちだって」
追及を躱そうと話題を打ち返してみたが、流石に乗ってはくれなかった。むしろ意気込ませてしまった。
「で? 結局どうなったんだ? 付き合うのか?」
「え?」
「えて。後輩ちゃんに告ってフラれた話だろ。むしろ違うん?」
「あ。あー。うん。うんいやそっちの方は保留中、というか、完全に振られたと思う……や、そうか。そう、そうだよな。そっちの話か」
ずっと別の問題について頭を悩ませていたから無意識にそちらの話として応じてしまっていたが、よくよく考えるまでもなく比衣の身に起きた事について相手が知っている筈はなかった。普通に考えれば吸血鬼に関してではなく、その前に相談していた問題――告白でのやらかしについてに決まっている。
「はあ? そっちってどっちだよ。てか、じゃあ何が解決したんだ」
何と言って言い逃れしようかと対応にあっぷあっぷしているうちに、言い淀む比衣の代わりに明るい少女の声が割り込んだ。
「ただいまただいまー、お花詰み終わりましたよっ……と。ふいー。小腹空いたからお菓子持ってきちゃった。ん? 何かしてた?」
一瞬の沈黙。察しの良い少女は持ってきたというお菓子の袋をバリっと開いた。
「私が聞いちゃマズい系の話?」
「……俺が後輩に告って、ものの見事に玉砕したって話だよ」
「え、コイバナ? やだやだ混ぜて! 混ざっていい? kwsk!」
一気にテンションが上がる少女。もう一人がアルコール入りのドリンクを傾けながら戻ってきた頃にはゲームの続きもそっちのけだった。比衣は好都合だと追及を躱し、自分のやらかしたミスについて話して、厳しい叱責を受けながらも同年代の異性からの忌憚のない意見とアドバイスを拝聴した。心強い――かは別にして、友人に小さな日常の中の大きな悩みを打ち明けるこの時間は、鬱屈していた彼には丁度よい気分転換になった。
そうして日付が変わって暫く、高難度のボス討伐を終えて解散となり、比衣はPCを落としてそのままベッドにダイブした。背面飛びし、仰向けになって天井を眺めているうちにいつの間にか眠りに落ちていた。
雫が落ちる。水面に落ちて、波紋が鳴った。
はたと、彼は振り向いた。
振り向いた先には出入口があった。つい今しがた通り過ぎたばかりだが、見ればなぜか水晶の壁で塞がっている。左右に台座があり、大型の肉食獣サイズの猫の水晶模型が鎮座していた。猫は前を向き、けれどジッと見つめていると不意に目が合うような気がして、意味もなく落ち着かなくなった。居心地が悪く、さっさと立ち去れと言外にせっつかれているように思え、くるりと再び正面に向き直った。
透明な世界だった。異質な空間だった。清澄な気配に満ちた、透徹なる神性の領域だ。夢のような、幻のような、そして現実以外の何物でもないそこは、水晶を削って建造物を掘り出したような場所だった。
広間だ。妙に広くて物の少ない、だだっ広い空間。正面に幅の広い階段があり、それが左右に分かれてキャットウォークに繋がっている。
歩き始めた。初めて来る場所だったが、どこに向かえばいいのかは自明だった。
階段を上がり、右へ。扉は三枚。二つ目の扉を、その前に置かれたベンチに座る白いテディベアの前を横切ってくぐると、やたらと狭い階段が現れた。左右を流れ落ちる水と共に長くだらだらと下る階段を下りた。十秒か一時間ほど下りて、折れて、穴を飛び越えて壁から張り出した枝の下をくぐった。廊下に出て、砂浜を通り、更に進む。
「君が何を訊きたいのかは分かってるよ」
バルコニーに出るとテーブルが置かれていた。この建物――城? 屋敷? いや、神殿か――と同じで水晶から削り出したもので、その上に置かれているポットやカップもまた水晶で造られていた。琥珀色の花の香る湯気を漂わせた液体が並々と注がれているのが、外からでも見て取れる。彼女は、クッションを置いた水晶の椅子の上で足を組んで座り、水晶のカップを傾けて優雅なティータイム中だった。
「どうして自分なのか。なぜ君なのか。でしょ」
「偶然だろ? 俺があの腕輪を拾ったから……」
勧められるまでもなく向かいに用意されていた椅子に腰を下ろした。自分の分のカップも用意されており、それを手元に引き寄せて縁に指を這わせる。カップの中身は明らかに高い茶葉から抽出されたらしいお高い香りをさせている。
「偶然というのは必然性を理解出来ない者の無理解でしかないわ。仕組みを知らなければライター一つとっても魔法と同じでしょ?」
「理由があるっていうのか」
「勿論。私は理由のない理不尽が嫌いなの。ブロッコリーと同じくらい大嫌い。運命なんて糞喰らえ。神なんて、とっくの昔に犬に食われてるんだから……」
水晶の皿にクッキーが盛られていた。彼女は一枚を取って口に放り込み、もう一枚を身を乗り出して比衣の唇の隙間に押し込んだ。比衣はされるがままにポリポリと食べ、目の前の彼女を眺めた。
彼女は控え目に言って美少女だ。射干玉の髪、黒曜石の瞳、情感豊かだからこそ本心を読み取らせない神秘的な表情。白いドレスを身に纏った姿は気品に溢れ、気高く、貴族的でさえある。そして比衣を見つめる瞳は物憂げで、しかし次の瞬間には溌溂として、活発な子犬のように輝いているようにも見えた。
「こうして会うのは二度目か」
比衣はふと思って言った。彼女は笑い、小さく首を振る。
「いいえ。何度も会ってる。でも、憶えてないかもね。いつもはもっと曖昧で、君はずっと深く夢に浸っていたから」
視線を切り、バルコニーから外へと目を向けた。比衣もそちらを見る。遠く。遥かに遥かに遠く。地平線の彼方で空と溶け合う海と、白い砂浜が限りなく横たわっていた。それは見覚えのある風景だった。けれどはっきりとは思い出せず、比衣は胡乱に少女へと目を戻した。
少女は眼差しに含まれた意図を読み取り、クスリと笑む。
「こうして一緒にお茶が出来るのは君が私を受け入れてくれたから。お陰で私達は腕輪を通してより強く結び付く事が出来て、こうやって言葉を交わせる」
「やっぱり、お前が俺を吸血鬼にした張本人なのか」
「はい。その通り」
彼女は悪びれもせずに首肯した。
「申し訳ないとも思ってないけど、ま、君を救うにはこれしか方法がなかった訳だしそこは諦めてもらうしかないかな。あ、でも、安心していいよ。正確には君はまだ吸血鬼になった訳じゃないから」
「え? でも」
「でも、誰も彼もが君を吸血鬼だと指摘した? さっきも言ったでしょ。偶然や運命はそこへ至る必然を理解出来ない者の無知に由来する蹉跌なの。彼等は何も知らない。知りようもないんだから。吸血鬼らしき気配がする、吸血鬼に似ている、吸血鬼と同じ特性を有している、だからこれは吸血鬼だ――相似性を理由に同一だと断定するのはあんまりな暴論だと思わない?」
水が落ちる。波紋が鳴る。水面が揺らぎ、世界は音もなく騒がしくなる。彼女は雫のリズムをなぞるように上機嫌にハミングする。音を求めるように首を巡らせて微笑み、ポットからカップへ紅茶を注ぎ入れた。
「俺は吸血鬼じゃない……?」
「じゃ、ない。正確には私の因子が根を張って吸血鬼のような状態にある、というだけ。誰かが言っていたかな? 今の君は、高遠比衣、吸血鬼という特性を模倣しているにすぎないの。安心した?」
「安心出来るの、それ」
「さあて、ね。吸血鬼ではないとしても、似たようなものであるのは事実だから」
「どうして俺なんだ」
「理由は幾らでも挙げられるよ。例えば君があの日、夜にお腹を空かせた。そうして家を出て、コンビニに向かい、あの時間のあのタイミングで橋に差し掛かった。例えば天衣ちゃんは宿題の為に寝る準備が遅れていた。例えば君はこの街に生まれ、住んでいた。例えば君達の両親はある人に会い、この街に越してくる事になった。理由は幾らでも、どこまでも求められる。全てに意味があり、一つが欠けても今はなくて、だからこそその程度の事でしかないけどね」
彼女は空を、というよりもここではないどこかを探すように天井を見上げた。
「そろそろ朝だね。ちゃんと起きて、学校に遅刻しないように」
真面目くさった声で言う。
二人の周囲では水晶の神殿が次第に白く明けていくところだった。日の光が差し、キラキラと乱反射する光線に視界が眩む。比衣は目を眇めた。目の前の少女の姿が光に溶けるように掠れていく。
目が覚める。不意にそう感じた。
「それじゃあまた。近いうちに――」
「待て! お前はどうして俺を選んだんだ!」
焦って意気込んだ比衣の問い掛けに少女はバツが悪そうにはにかんだ。
「ちぇ、誤魔化されてくれればいいのに」
ふざけろ。あんな下手な誤魔化しがあるか。言おうとして、けれど俄かに光が強くなり、目も開けていられなくなった。或いは、目を閉じていられなくなる、といった方が正しいだろうか。少女の姿は光に溶けてほとんど見えず、白い影の差した口元がまごつきながらも小さく囁いた。
それを聞いた比衣はぽかんとして、
目が覚めた。
閉め損ねたカーテンの隙間から差し込んだ日差しが部屋を両断していた。白い光が顔を横断し、眩しさにビクリと覚醒する。一瞬、眠りから目覚めの落差に見当識を失い、見知らぬ天井を見上げているような気がした。勿論、気のせいだった。掠れていた焦点が合うに従い自分が誰かを思い出し、ここが自室だと分かり、比衣は一頻り天井を眺めた後でのそのそとベッドから起き出した。
カーテンを開く。朝日を全身に浴び、知らず右手首をさすっていた。振り向けばデスクの上には金色の腕輪が昨夜外した時のまま置かれ、射し込んだ光をもの言いたげに反射している。
比衣は言われるままに腕輪を取り上げた。窓から入る光に照らし、薄く浮き彫りになる複雑な紋様を矯めつ眇めつする。比衣は胸がむず痒く疼くのを感じて息を吐き、淀みのない手付きでそれを右腕に嵌めた。
着替えて部屋を出るとちょうど隣の扉から妹も出てくるところだった。登校の準備を済ませた天衣は左手にコートと鞄を抱え、端末を弄りながら欠伸を噛み殺している。油断し切った様子で手の甲を口元に寄せ、そこで自分を見つめている兄の姿に気付いた。
「……おはよ」
「……あ、ああ。おはよう」
二人の間にぎこちない空気が流れる。どちらもが遠慮がちに相手を窺い、出し抜けに顔を合わせた二匹の猫が互いの警戒心から動くに動けなくなるように、廊下を階下に向かって歩き出そうにもその切っ掛けを見付けられないでいた。
先にそれを、貴重な朝の時間を浪費するだけの無意味な停滞を打ち破る切っ掛けを見付けたのは天衣の方だった。どのくらい振りか、こうしてきちんと顔を合わせて、自ら歩み寄って言葉を掛けるのは何とも落ち着かず、顔を直視できなくてふと視線を下ろした時にそれが目に留まった。
「それ」
「ん?」
「その腕輪。今日も着けてくの?」
先日の事件の最後、比衣を誘い出す餌としてエミールに利用された天衣には凡その顛末が語られていた。と言っても、そう大した事はない。比衣には自分が腕輪を拾い、その所為で吸血鬼になり、エミールに襲われた、としか分かっていなかったからだ。
この説明にもなっていない説明を聞いた妹は、登校する為に部屋から現れた兄がその腕輪を未だ身に着けているのに怪訝そうに首を傾げた。
「こないだの説明はあんま理解できなかったんだけど、でも、その腕輪が色々の原因なんでしょ。さっさと捨てるなり、然るべきところにぶん投げるなりした方がよくない?」
「まあ、そうな。多分、そうするのが一番なんだろうけど」
件の吸血鬼、エミール・エリアーデは一度こそ立ち去ったものの、すぐの再会を約束した。あれから丸二日以上が経つ。彼の所在は今も杳として掴めず、市内の緊張状態は表面上でも水面下でも継続されており、比衣の周辺も目に見えているほど静穏なものではなかった。
事態は既に一線を越えている。腕輪を手放して、はいおしまい、と無邪気に日常への復帰を喜べる状況ではとっくになくなっていた。
「どうせただのアクセサリーだし。なんかちょっと気に入ったし」
「いや、趣味よ……」
「嘘。センスない? そんな?」
「今時金ぴかってどうなの。なんか昔の成金みたい」
ショックを受けた様子で腕輪を眺める緊張感の欠片もない兄に、天衣はこれ見よがしに呆れた溜息を吐くと、押し退けるように前を通ってさっさと階段を降りていった。それはいつも通りの素っ気無い態度だったが、嫌な感じではなかった。いつかの懐かしい気分に浸れる気さくな空気があって、比衣は小さく笑ってその後姿を見送った。
勿論、幾ら比衣とは言え天衣が懸念するほど事態を楽観視している訳ではなかった。確かに見掛け上は平素と変わらぬ日常を取り繕ってはいても、分かっている、それは既に数日前の腕輪を手にする以前とは全く異なる日常だ。この街の秘密を知り、吸血鬼と対峙し、自らも異種の境界へと引きずられた。知った以上、どう足掻こうと無知だった頃には戻れないのだ。
比衣は腕輪を爪弾いた。甲高い音が響き、気を取り直して妹の後を追った。
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