5-血の競演

 比衣は夜の街へ取って返していた。

 先ほどの電話の発信名には妹の名前が表示されていた。既にその時点で筆舌に尽くし難い酷く不快な悪い予感がしていた。高遠比衣と天衣の現在の兄妹関係を思えば妹が深夜に電話を掛けてくるなんてシチュエーションはまず在り得ず――比衣の身を襲ったあれやこれやを踏まえれば、予想されるのは最悪の状況ばかりだった。

 そして当然の如くこれは的中する。

「貴様の妹は預かった」

 応答するや否や、妹の携帯を通して聴こえたのは明らかな男の声だった。声は一切の前置きもなく胸を抉り、血液を沸騰させ、冷静さを奪っていった。

「貴様が持っている腕輪と引き換えだ」

「……妹は、無事なのか」

 お前は誰だ、妹は無関係だ、この腕輪が何なんだ――そんな言葉が一瞬、口から出掛かった。しかしそんな問いは無意味だ。比衣は愚問を呑み込み、押し殺した声で辛うじてそれだけを言った。

 電話の向こうで男がふっと嘲るように笑うのが聴こえた。

「もうディナーという時間でもない。だが、あまり待たされると夜食を食べたくなるかもしれないな」

「……どこに行けばいい」

「話が早いのは美徳だぞ、少年。森の奥、枯れた大樹で待っている。一人で来い。誰にも見付からないように――――」

 男がそこまで言った時だった。その後ろから、天衣の叫ぶ声が聴こえた。

「来んな! 来たら殺される! 私の事はいいから警察に」

 そこで通話が切れた。

 人質の筈の妹があんな風に叫んで、直後に通話が不自然に切られる。その事に動揺し、聴こえてくる非人間的な不通音が最悪の想像を呼び起こし、不安を掻き立てた。

 比衣は明らかに悪化した事態に悪態を吐くと、その場に携帯を取り落とした事にも気付かず踵を返した。そうして幾らも進まないうちに、身体の異変に気付く。何もない場所で蹴躓き、たたらを踏んで近くの電柱に片手を突いた。そうでもしないと今にも倒れ込んでしまいそうだった。

「あ……? 何だよ、これ……」

 身体が妙に重い。息が苦しく、ねっとりとした冷汗が全身に噴き出す。寒気がして、堪らず肩を震わせた。この寒さだ。熱でも出たのかもしれない。首を振ってじわじわと纏わりついてくる倦怠感を振り払い、鉛と化した足を引きずるように懸命に一歩一歩前へと進めた。その度に胸の奥深くからじわりじわりと込み上げてくるものがある。一歩ずつ、前進するのに合わせて濃く胸中に広がるのは、混沌とした恐怖だ。妹の事、吸血鬼の事、人の死、血と肉、そして本能的な様々な恐怖の混合物が比衣の心身を灼くように広がっていく。妹を巻き込んだ。恐らくは俺の所為で。こうなる可能性を考慮して余波か、いや水鳥にでも相談しておくべきだったのだ。仮に俺が吸血鬼になっているとするなら、そうなった原因が腕輪にあるなら、当然これは他の事態を誘引すると考えて然るべきだった。危惧が杞憂に終わればそれは万々歳だろう。とにかく打てる手は打つべきだったのだ。焦燥に焚きつけられた詮無い思考は事程左様に上滑りする。朦朧とした脳が思い付く程度の事柄など所詮はこの程度の浅慮であり、後の祭りだ。

 無数の思考、感情や言葉の泡が意識の表層に浮かんでは消え、建設的な発想を終ぞ閃く事もなく水路に架かる橋が近付いた頃、比衣の耳に水の音が聴こえてきた。それは今の彼には今朝や昨夜とは比較にならないほど酷く癇に障る音だった。堪らなく不愉快で、精神の不調がどうしようもなく身体へと影響していく。俯いていた顔を上げる。喘ぐように酸素を摂り込み、止まり掛ける足を叱咤し、総身を震わすほどの衝動に突き動かされて橋を渡る。進め。どこからともなく浴びせられる言葉に従い、更に一歩。

 電話の男は、森、と言っていた。この水環市で森と言えば一箇所しかない。中央区の公園に広がる桜の森だ。橋を渡って幾らも進めばそれはすぐに見えてくる。

 入口に差し掛かったところで不意に足を止めた。見渡す限り園内に人の気配はない。だが妙な感覚があった。誰かに見られている、というはっきりとした感覚だ。気のせいか、いや明らかに何かの気配を感じる。想像上の魔物が暗がりに潜んでいるという稚気の妄想ではなく、明確な生命の波長を。だが、比衣はそれを黙殺し、目を逸らして気のせいだと決めつけ、誰にも会わないようにその気配を注意深く躱して奥へと進んだ。

 公園の森はそれほど広くはない。季節になれば桜が咲き、その壮観な景色は水環市の観光名所の一つとしても数えられている。とはいえ今は冬で、しかも夜だ。連日起こっている事件の影響もあるだろう。異質な空気が漂っていた。枯れ葉が散乱する森は異様なほどに暗く、見上げた空に鈍色の雲が増えている事を差し引いても視界が悪かった。時折、雲間から指す月光が頭上の枝を潜り抜けて射し込む以外、深い暗闇が覆っている。

 やがて、空気が変わった。地元の人間が何となく近付くのを忌避する広場がそこにぽっかりと口を開けていた。小高く盛り上がった丘があり、その天辺に一本の桜の大樹が鎮座している。桜は既に年老いていて何年も花を咲かせておらず、子供の胴ほどに太い枝を夜空に伸ばすその姿はさながらこの地を鎮守するエントのようでもあった。

 全身の血が熱く、一方で奇妙なほどの冷たさが血管の中を駆け巡っていた。広場の端、森の淵の木の傍に立ち、大樹の下にある人影を見付ける。同時、恐らく吸血鬼も気付いたのだろう、こちらを見下ろしているのが分かった。ざわざわと頭の中で血中の鉄分が空の月に反応して騒いでいる。胸のステージで誰かがタップダンスを踊っている。ステージのどこかに深淵へと繋がる深く深い赤色の螺旋があり、それは知覚不能の地下洞窟へと呑み込まれている。湧き出す水が水面を張り、水面には幾つもの波紋が広がる。喘ぐように酸素を味わう。耳鳴り。血液の流れる音が脳を満たす。知らず左手で右腕を掴み、腕輪を指先でなぞっていた。幽かな熱を感じる。血が通っているかのように、それは揺動する。

「は、ぁ……」

 吐いた息が熱く、咽喉を灼いた。頭を振り、意識の焦点を現実に戻す。深呼吸して、足を踏み出した。

 自分が自分でなくなっていく――自分という存在が他の存在によって希薄され、混交し、全く違うものへと強制的に変成されていく。そんな感覚。上げた足を前へ下ろし、靴底が土を踏みしめ、大きな虫のようなものを押し潰したように錯覚する。それで突然、毒虫の夢を思い出した。奇妙な納得と、実感が沸く。指先の滑らかな腕輪の感触が高遠比衣から現実感を剥離させていく。

「言われた通り、一人で来た」

 顔を上げ、怒りから来る叫びを奥歯で噛み殺し、胸を張って言う。

 毒虫の夢を見る。毒虫が夢を見る。吸血鬼になった人間。吸血鬼としての人間。自分の口が勝手に動いて喋っているのを他人事のように感じながら比衣の中で明確な存在が立ち上がりかけている。

 君は、誰だ?


 ――――天衣の首からエミールの手が離れた。その姿は月光と夜闇に紛れて、視界に収めていても瞬間的に喪失して見えた。風が頬を舐る。獣のような血の臭い。比衣が目蓋に落ちた陰を見上げると、一瞬で距離を還元した吸血鬼がそこに立って見下ろしていた。

「逃げて!」

 へたり込んだ天衣が叫ぶ。しかし、比衣の身体は竦んで動かなかった。

 口が開く。悍ましく発達した牙が不意に射した月光に厭らしく照り、ぞぶ、と比衣の首筋に深く食い込んだ。皮膚を裂き、肉を穿ち、押し広げられた傷口からじわじわと赤い液体が染み出す――地獄の炎で炙った鉄棒を無理矢理捻じ込まれ、その先端には致死毒が塗られていた。心身が急速に麻痺していく。激烈な痛みと凄絶な熱さが瞬く間に全身を貫く。吸われているのは血液だけではない。吸血鬼の吸血行為とは、即ち生命そのものの搾取だからだ。一口ごと、一飲みごとに自分の命が首筋の傷口から奪い取られているのが、はっきりと感じられた。蝋燭の火が吹き消される。目の前を、夜を凌駕する暗闇が覆っていく。それは成す術もない崩壊、死への急降下だ。足元に這い寄る混沌が虚無への入り口を開ける。

 溶暗――フェードアウト。身体は未だ凍り付いたように固まり、次第に意識は薄れて、彼はゆっくりと底の底に向かって堕ちていく……

 ここまで、高遠比衣を操っていた糸が切れる。

 そうして、高遠比衣を操っていた意図を絶つ。

 声が響く。高遠比衣という人間、彼の精神が築く今や死の夜、その闇によって隠された神殿の内側に幽かな声が。

 私は手を伸ばした。比衣が完全に意識を失い墜ちていく直前、その手を掴んで引き留める。

 こうして彼を巻き込む事になり、その上で利用するような形になってしまった事は本当の本当の本当に甚だ遺憾なのだが、封印解除を目的にした吸血鬼が最初の一膜を破いてしまった時点で事態の掌握の為にはこちら側からの状況への働き掛けは不可欠だった。全てが偶然だったとは言わない。恣意的ではなかった、なんて口が裂けても。

 でも、だからこそ守るべき最後の一線は確かに存在し、ならばその為に手段を選ぶつもりもなかった。掴んだ腕ごと引き上げた身体を抱き抱え、精神的死――ただの人間に過ぎなかった高遠比衣が不完全な吸血鬼化によって屍食鬼化するのを私との血の繋がりという細い糸を頼りに、それこそ綱渡りのような一瞬を逃さず掴み、彼の精神を安全な場所へと誘う。

 辺りは暗い。一切の光を許さない死の予感が闇となって精神の宮殿を覆っている。刻一刻と腐り、壊れ、崩落していく中、声が響く。私の声が。エミールに血を吸われ、生命を奪われて加速度的に死へ突き進む比衣の魂を呼び起こす。

 死なせない。私は叫ぶ。お前はこんなところで死ぬタマじゃないだろう。拳を握り締め、力いっぱい振り上げて、ぐずぐずと死神と戯れる彼の頬を殴り飛ばし――――

 

 ――――衝撃で、彼はカッと目を見開いた。


 牙を突き立てた瞬間、エミールの口内に広がったのは芳醇な血の風味だった。奇妙な気配――恐らくは彼が使命に駆られて救いに馳せ参じた真祖の姫君、ローゼンハイトの存在の名残とでも呼ぶべきものが宿った、純粋な人間の血液だ。先刻の屈辱を癒そうとするかのように生命ごと飲み干さんばかりに吸い、実際に真祖の血が混じったそれはエミールの吸血鬼としての本能を著しく刺激した。優れた力が、自分の中に溶けて広がっていくのがハッキリと感じられた。

 だが。

「んぐっ……はッ――」

 堪らず首から牙を抜き、舌の上に残っていた血液を吐き出した。それまで良質なワインのようだった血が、突然身の毛もよだつ酷い悪臭を伴って味覚を抉った。比衣が身に着けた悪趣味な腕輪が彼の血液に深く作用し、吸血鬼にとって毒となる成分を帯びていた。

 血の味がした。火と、硫黄と、腐った泥や蛋白質の味が。それはエミールの舌を焼き、彼は嘔吐いて比衣の身体を力一杯突き飛ばした。

「――――ふ、ははっ」

 笑い声。らしくない、錆びたような乾いた声だった。

 エミールは口元の血を指先で拭い、その声に怪訝そうに動きを止めた。吸血鬼と兄の様子を丘の上から茫然と見下ろしていた天衣もまた、何が起きたのか分からずへたり込んだまま硬直している。

 彼は笑っていた。

 たたらを踏み、しかし僅かに体勢を崩しただけで踏み止まった高遠比衣が、壊れた人形のように首を上向けたまま嗤っていた。

 かちり、と音を聞いたような気がした。

 それは狂っていた歯車の噛み合うような爽快な音だった。

 見開いた目が夜空を見上げる。暗い雲間にぽつねんと浮かぶ月が見える。醒めた蒼い月だ。表面は波打ち、波紋が地上へと降り注ぐ。不思議な気分だ。全身の血が妙に熱く、騒いでいる。先ほどまで熱に浮かされたようだった思考は冴え渡り、朦朧としていた意識は澄み切っていた。眼を啓く。雲に翳る月を視る。どこまでも深い夜空。蒼醒めた月が隙間から覗き、親しげに語りかけてくる白光を聴く。出し抜けに自分が笑っている事に気付いた。おかしくもないのに笑えてしまうのは、きっと。生まれ変わったようだった、から――――

 エミールは困惑した。その瞬間、自分の行動を理解できなかった。彼は全力でその場から飛び退り、一方で影を熾していた。周囲の闇が凝結し、俄かにエミール・エリアーデの影が濃くなったかと思えばそれは地面から液体のように沸き立っていた。波のように起き上がり、高遠比衣へと殺到する。

 何が起きた? 分からない。先ほどまでそこにいたのは間違いなくただの人間だった。だが今、そこにいるのは紛れもなく吸血鬼だ。エミールの影を腕の一振りで両断し、切り裂かれた風が威力を帯びた一撃として飛翔する。唸り、うねって、咄嗟に目の前に立てた影を引き千切られる。見遣れば、腕を振り上げたまま次の攻撃に移ろうと身構える若い吸血鬼、高遠比衣が立っていた。

 吸血鬼化――私が血を吸ったから、か? 違う。何が起きたかは不明だが、それだけは違うと断言出来た。目の前の少年から感じられるのは、自分とは似ても似つかない気配だ。それは彼が探し求めていたものによく似ていた。

 水環の土地に封印される真祖の血胤、囚われの姫君、吸血姫ローゼンハイト・フェザーランド。

 まさか。在り得ない。そう思う一方で自分が取り返しのつかない失態を犯した実感は焦りを生じ、その一瞬の間隙は容赦なく事態を急変させていく。

 エミールは着地する。引き裂かれた影が晴れ、向こう側が明ける。身構えた比衣。口元には獰猛な笑み。笑っていない目と、目が合う。視線がぶつかる。吸血鬼らしい一線を越えた気配を感じた。どういえばいいだろうか、正常でありながら、元人間が人間でなくなったが故の一つまみの狂気とでも言おうか。瞳の中に揺らぐ焔が蒼い光を灯し、歓喜を吼える獣が如く。呼気、土が舞う、風を追い抜き空気が裂ける、裂音、突き出された右腕が胸元を掠める、肉の抉れる感触、血飛沫、影を熾す、十を数える槍の掃射は悉く空を切る――裂帛の雄叫びを上げ、エミールの操る槍は十から二十へ。後背から右の脇腹に向かって突き出された一本を左に身を捻り、躱しながら三本を潜り、足場にして次ぐ二本を飛び越え、比衣は止まる事無く肉薄する。

 不思議な気分だった。考えるよりも早く身体が動いた。手が、足が、全身の細胞の一つ一つが押し寄せる死に対して反応した。後一歩。目の前の男まで残り一歩のところで、彼が扱う影の槍が蛇のように比衣を囲む。鋭く尖った尖端は、僅かに掠っただけでも皮膚を裂き、肉を抉った。まともに喰らえば粘土に棒を指すように身体を貫通するだろう。

 だからどうした。

 怖い。困惑する。どうしてこんな事をしているのか――出来るのか。比衣の頭は無数の疑問と恐怖に占拠されていたが、同時にその全てが遠い場所に感じられた。清々しいほどの解放感に心が浮き立つ。ただ出来るという事実が、彼を突き動かした。全て一瞬の出来事だった。少なくともそれを見つめる高遠天衣には、何が起きたのか正確に把握する事が難しかった。

 兄が噛まれた。そう思った次の瞬間、どういう訳か吸血鬼はその身体を突き飛ばしていた。そうして、何といえばいいだろう。吸血鬼の影がまるで波のように起き上がり、襲い掛かったのだ。そこからはもうよく分からない。比衣が笑い出し、かと思えば先ほど立ち上がった影のような無数の蛇が現れて、比衣はアクロバティックな動きでその猛襲を次から次へと避けていき――吸血鬼の蹴りがそれを捉えていた。

 吹き飛ばされた比衣の身体が宙に浮いた。

「兄さん!」

 いつもの呼び捨てでなく、反射的にそう叫んでいた。立ち上がり、自分を助ける為にたった一人でやってきた兄に駆け寄ろうとする。だが、心の勢いに身体が付いてこなかった。前のめりになり、無様に顔から地面に突っ伏した。腰が抜け、膝に力が入らない。

「貴様は、何なんだ」

 静かな声でエミールが言う。蹴り飛ばした少年は、勢い地面に転がったままでまだ動かない。仰向けになり、死んではいないが起き上がる様子もなかった。ここは、追撃を仕掛ける場面だろう。エミール・エリアーデの能力を考慮すれば接近するまでもなく一方的にそう出来た筈だ。

 つまり、そうしない理由があった。

「……あの方の仔か」

 目の前の少年から感じ取れるのは明らかに吸血鬼としての、同族としての気配だ。それも彼が探し求めたもの、あの古ぼけた祠の中に奉じられていた腕輪から感じた貴血と同じ。

 もしそうなら自分の行為は無意味だ。彼と敵対する必要はなく、ただ腕輪を正しく使わせればそれでいいだけの話だった。むしろその過程で生じる障害を思えば使える手駒はあるに越した事はない。

 だが。

「仔……とか、何とか……よく分からないけどさ……」

 立ち上がった比衣は首を振った。その口元は変わらず軽薄な笑みを湛え、コートの土埃を払い落としながら警戒心を隠そうとしない注意深いエミールを振り返る。

「今ようやく、俺も自分が吸血鬼なんだって実感しているところだよ」

「それは重畳。ならば少年。同胞として、私の使命に協力してくれるな」

「使命……使命ね。その使命ってのはこの街に封印されているっていう例の吸血鬼を解放する事か?」

「そうだ。あの方をこの街の軛から解き放つ。私は、その為にここにいる」

「ふぅん……それはご苦労様。――で? どうして、俺が、アンタに協力しなきゃいけないんだよ」

 差し出された手を眺めて比衣は鼻白んだ。まだ自分の身に何が起きたのか正確に把握した訳ではない。なぜ今になって唐突に実感が湧き上がってくるのか――多分、きっと、俺の健康にとって良くない状況なのだろうとは思う。あまりにも調子が良すぎて、それはつまり人間というステージをそれだけ離れた証明に違いないから。

 でも、と彼は拳を握り締めた。少なくともこの瞬間に於いて言うなら、これほど好都合な話もなかった。

「つまり?」

 比衣の言葉にエミールは答えの分かり切った問いを返す。

 眼光鋭く、比衣は気炎を吐いた。

「何人も殺して、挙句俺の妹を攫って於いて、今更ナマ言ってんじゃねえよ吸血鬼。人を舐めるのも大概にしやがれ」

「人、ね。フ……」

 いつしか、彼等の頭上は黒雲で覆われていた。エミールは隠れた月を探すように目線を持ち上げて長く細く息を吐き出し、唐突にブラッディ・マリーが飲みたくなった。トマトジュースの代わりに処女の血を混ぜた酒だ。アレは、まず名前が良い。チェリーでも浮かべ、月明かりに透して飲むが乙なのだ。そうすると今度は月も恋しくなる。こうして月を求めるのもある種、吸血鬼の本能と言えるのだろうか。

 嗚呼――面倒だ、心から思う。

 この街に来てからどうにも物事に躓く。遣る事為す事全てが裏目に出る。ケチが付いたのは間違いなくあの少女が原因だ。アレに関わってから碌な事がない。今も。少年は先ほどまで人間だった。それが突然、まるで彼の体内に吸血鬼化のスイッチがあって、血を吸った拍子にオンに押し込まれたように転化した。しかもその気配はあの方の。

 考え考え、エミールは首肯する。比衣の威勢のよい科白に、そうか、と素っ気無く言い、どこを探しても見当たらない月を諦めて目を戻した。

「あの方の仔ならばと思ったが、残念だ。仕方ない……面倒だが、手足を切り落として、死なない程度に殺してから連れていくとしよう」

「やれるもんならやってみやがれ」

 吐いて、高揚した気分に押し流されるように比衣はまっすぐにエミールへと迫った。エミールは接近してくる比衣を見据え、悠々と左手を振り上げる。月明かりさえ途絶えた闇だ。エミールの影は深淵から押し寄せる細波を受け、砂浜を侵蝕するが如く音もなく地面に広がっており、それが一斉に蜂起した。さながら伏せられていた兵が軍配を請けて飛び出し、手に手に持った槍を罠に掛かった獲物に突き刺すように、影は無数の枝となり、蛇となって、腕の動きに従って立ち上がった。そして空間を圧し潰すように指を握り込む。二重三重に展開していた蛇達が比衣に殺到する。

 一瞬早く、比衣は跳躍した。ほとんど無造作に振り回した腕で頭上の蛇を引き裂き、追い縋ったものも難なく叩き伏せる。吸血鬼の血に後押しされ、底上げされた純粋な身体能力による理論の欠けた反射行動だった。猪の突撃は予め張られた罠によって阻まれ、二人は間合いを図るようにして向かい合う。

 この程度の攻撃ならば凌ぐのは簡単だろう。エミールは首肯する。如何に成り立てであれ、高遠比衣が吸血鬼であるなら当然にこの程度は通用しない。

 そもこれは彼等の戦い方ではない。

 吸血鬼たる者にはその血胤に相応しい戦い方がある。それはエミールの行使する異能と通じるものだが、彼の影を操る能力とて所詮は児戯に等しい小細工だ。蟻を殺すのに銃を持ち出す馬鹿はいない。逆説、相手が対等ならば、それに見合った方法と道具が必要になるのは自明だろう。犬猫ならば牙と爪で。子供なら拳で殴り合う。剣には剣を以て応ずるのが決闘の美徳だ。

 ならば、吸血鬼同士の闘争とは何か。

 エミールの気配が変わる。比衣はそう感じた。比衣を吸血鬼として認めたエミールにはそれを出し惜しむ理由がなかった。空気が軋む。そこに明らかに異質な気配が漂い始める。ぞわり、天衣は総身に寒気が覚え、比衣は全身の血が奇妙に騒いだ。風が濁り、ねっとりと二人の肌を舐め上げる。

「――――喜べ、少年。貴様に吸血鬼の闘争の何たるかを指導してやろう」

 何を、と返す間もなかった。その必要すら。

 赤だ。血の滴るような真紅が、瞬間、丘の上と下に位置する高遠兄妹のそれぞれの眼を焼いた。周囲の風景が一変して悉く染まり、夜の闇が流した血は世界の全てを濡らしている。

 天衣が目の前の怖気を振るう光景にギョッとして慌てて辺りを見回せば、今にも雨が降り始めそうだった鈍い色の雲も、森の木々も、振り仰いだ大樹の姿までもが鮮烈な色に塗り潰され、彼女の肉体は緊張と恐怖から悲鳴さえ洩らさなかった。ただ、ひぅ、と吸った息が咽喉の途中で石のように詰まった。焦げ付かんばかりの赤色が苦痛さえ伴って網膜を突き刺し、少女はようやく自分が悪意と敵意に満ちた邪悪な異世界に呑み込まれたのを理解した。

 彼は注意深く頭の奥で鳴り響く警鐘を聴いた。この光景には見覚えがあった。例の悪夢だ。再開発地区で殺された被害者達が死の淵で垣間見た世界が今、比衣の目の前に展開されていた。

「――――硝紗」

 呟いた言葉に自ら驚く。同時に知っているのが当然だとも感じる。硝紗。吸血鬼が吸血鬼故に獲得する超常の異能。つまり悪夢の中の幻想だと思っていた景色こそがあの白銀の吸血鬼が保持する硝紗に他ならない。

「そうだ。これこそが我等の吸血鬼たる誇り。月の恩寵を得た者が与えられる大いなる福音であり、吸血鬼の闘争の形だ」

 比衣の呟きを聞きとがめたエミールが塗り替えられた世界を誇示するように両腕を広げた。

 隙だらけの男に向けて比衣は迷わず蹴りを浴びせた。色々と疑問は尽きないが、悩んで解決する問題でもなく、考えるより早く身体が動いていた。だが、確実に顔面を捉えたと思えた足はエミールによって易々と受け止められる。足首を握り潰さんばかりの馬鹿げた力で掴まれ、ボールを遠投するかのように乱暴に投げ飛ばされた。

 風を感じるほどの滞空時間があった。比衣はひやっとした焦りから瞬時に回復して空中で体勢を立て直す。冷静に地面の方向を捉え、着地しようとして、足に違和感を覚えた。身体が反対方向に引っ張られる。意想外な方向に振られて脳が揺すられ、丘の上、へたり込んでいた天衣の頭上を越えて幹に叩き付けられた。

「か、ハっ……」

 比衣の肺から息の塊が押し出される。背後では枯れて脆そうに見えた桜の大樹全体が衝撃に震え、どこからともなく騒がしさに追い立てられた鳥が飛び立つ音が聴こえた。

 比衣はそのまま根元にずり落ちた。冷たい土に手をついて上体を支え、混乱と苦痛に喘ぐ。妹が悲鳴のように兄を呼ばわり、駆け寄ってくるのが分かった。久しく聴いた覚えのない妹の声に場違いな喜びが込み上げる。それだけでも命を懸ける価値はあったと彼は確信して顔を上げ――震撼した。心臓が潰れ、血液が凍り付く。

 それは、名状し難いぶよぶよとしたピンク色の触腕だった。先ほどまでの影や闇を脱ぎ捨てたそれらが本来の姿を惜しげもなく生臭い月光に晒し、内臓色の身をくねらせて、節々に備えた鉤爪を振るい襲い掛かろうとしていた。

 進路上に、妹がいた。天衣は背中を向けていてそちらには気付かない。尤も気付いたところで逃げるのは間に合わなかっただろう。

 エミール・エリアーデが操っていた影は彼自身の硝紗から派生した一種の応用だ。硝紗を部分的に展開し、影そのものを異界化させて薄く広げ、或いは変形させ、使役する些細な手管だ。ならばその本質――彼の硝紗とは即ち自己世界の流出に他ならない。結界の展開、或いは外界との隔絶。空気は粘性を帯びて侵入者を重く縛り、一方で彼は思う通りに動く事が出来る。

 なんて、それを理解したところで比衣にはどうする事も出来なかった。彼の硝紗がどういうものか分かったところで、暴力的なまでの現実は容赦なく迫っている。

 断片的な思考の嵐。無数の行動選択が現れては消える。言葉が意味を伴わずに火花のようにちらつく。何一つ形を取らない。灼けるほどの焦燥。脳の空転。触腕がゆっくりと、けれど確実に比衣に向けて――つまりその間にいる天衣に向かって進んでいく。

 動け、と比衣は叫んだ。動け、動けっ、動けッ! 無差別に加速する思考の速さに、強化された吸血鬼の肉体も追い付かない。回路が空回りし、回線が焼け、過熱した脳が鼻から噴き出そうになる。

「ァ――――」

 頭の奥深くで火花が散った。

 脳髄の底に氷柱が刺さり、思考が急速冷却される。

 世界が本来の速度を取り戻す。

「――――天衣!」

 比衣が叫んだ。こちらに駆け寄ろうとしていた妹の手を掴んで抱き寄せ、反動から二人の位置が入れ代わる。腕の中で天衣は困惑の声を上げた。比衣は身を固くし、きつく目を閉じてその瞬間を待った。一秒、二秒、三秒。しかし背中を食い破られる気配はなく、半ば天衣に突き離されるようにして比衣は振り返った。

 爪先からほんの少し先にそれが落ちていた。切断された尖端がどす黒く赤い液体を撒き散らしながらなお動いており、触腕は苦痛にのたうちながら汚らしい絵具で線を引いてエミールの下へと戻っていく。

「た、比衣……?」

「下がってろ」

 恐々と声を掛けてくる妹に比衣は掌を向けた。

 全身が熱かった。血が燃えるようだ。なのに思考の芯だけがやけに冷めている。吸血鬼化の解放感とは異なる透徹さにくらくらする。

 丘の下のエミールが前へと進んだ。彼は警戒していた。対峙しているのが同族の吸血鬼である以上、月の恩寵は等しく降り注ぐ。エミールは周辺へと神経を張り巡らせた。慎重に、けれど自負心の後押しを受けて駆け出し、同時に触腕を操った。

 エミールの動き出しが比衣にはしっかりと視得た。だが彼の硝紗の内部にいる所為だろう、これまでとは比較にならない速度で動くエミールに対し、比衣は空気が粘性を帯びたような妙な重さを感じ、身体が意思に応えてくれなかった。

 再び脳の奥深くでバチンッと火花の散る。脳の回路の一部が焼き付けとばかりに高速で駆動する。

 背中に妹を感じる。迸るような生命を、生きている者の気配を。総毛立つこの寒気は恐怖ではなく。比衣はようやく自らの心境の変化を自覚する。妹を救えるのなら死んでもいい。考えるまでもなくそれが当たり前だと彼はこの場所に立っていた。だが、仮にこのまま俺が死ねばどうなる。さっきのように、きっと妹も簡単に殺されるだろう。駄目だ。それだけは絶対に。全身から血の気が引き、今や凍えるようだった。恐怖は失せ、彼を突き動かすのは吸血鬼への怒りだった。

 エミールは僅か三歩で距離を詰めた。触腕は視界の外から比衣へと殺到している。

 硝紗。

 吸血鬼の異能。

 比衣は熱を纏め上げるように意識を縒り、内相へと指を伸ばした。ある筈なのだ。どこかに。エミール自身も吸血鬼は月の恩寵を得ると言っていた。それこそが吸血鬼の闘争の形だとも。

 そうだ。どこかに。必ず。ある、筈――――

「――――だあアあぁァッ!」

 絶叫し、最早単なる勢い任せだった。左足を前に、腰を捻り、残した右足を後ろに送りながら右腕を突き出した。腕輪が熱かった。その熱が最高潮に達する。焼けて、手首が落ちるかと思うほどの熱量。拳はエミールの頬を掠め、裂けた傷口から散った血液の粒が中空に舞う。カウンターで繰り出された右の掌底が比衣のこめかみを捉えた。それを合図に触腕が一斉に立ち上がる。衝撃を受けた脳のどこかでいよいよ何かの壊れる音が聴こえ、比衣は迷わず逃さずその何かへと指を伸ばし、掴んだそれを一気に引き抜いた。

 眼の奥で火花が散る。横合いからの衝撃に新しく配線された回路が発火し、火は瞬く間に延焼する。

 そして熱を感じた。

 それは心理的比喩ではなく、身体に焼べる燃料によるものでもなかった。熱は酸素を捕らえ喰い焦がした。蒼白い身をくねらせ、駆け巡り、比衣と天衣に襲い掛かろうとしていた触腕の悉くを燃やし尽くした。触腕はたっぷりの脂で肥えていたのか勢いよく燃えた。それは苦痛に悲鳴を上げるようにのたうった。

「こ、れは――――」

「――――火?」

 エミールの呟きを、天衣が引き継ぐように繋いだ。

 内蔵色の夜が支配するエミールの世界に蒼白い火が灯っていた。硝紗の焔がエミールの影のように自ら意思を持つかのようにうねり、踊り、更に襲い掛かろうとしていた触腕の第二陣を容赦なく焼き払っていく。

 蒼白い焔はさながら竜のように中空を舞った。比衣とエミールの間を乱舞し、一瞬、両者の姿を互いから隠した。

 焔が晴れる。どちらもが迷わず拳を握り、同時に相手の頬を殴り飛ばした。

「っ、クソガキが……!」

「うるせえ、クソ吸血鬼!」

 比衣はエミールの顎を下から突き上げた。エミールは比衣の腹部に膝をめり込ませる。比衣の拳が脇腹を捉え、知らず、柊余波に刺された傷口を追い打った。エミールの長身を活かした頭突きを食らい、鼻骨が砕けて鼻血が溢れる。顔面を耕し、内臓を突き、大振りの蹴りを躱して、肘が鳩尾に沈み、掴まれた腕を無視して足を払えば骨が折れたか外れたかし、体勢を崩した二人は縺れ合いながら丘を転がり落ちた。勢いが衰え、斜面の中ほどに来たところで比衣がエミールの胸を蹴り、二人は文字通り弾かれるように距離を開いて再び向かい合った。

 比衣は折れた左腕をだらりと身体の横に垂らして、身を低く、無事な右腕でなおも力強く拳を握って、鼻からは夥しい量の血がぼたぼたと流れる。対するエミールは一見こそ比衣ほどボロボロにはなっていないが、純銀による負傷への追い打ちで傷付いた臓器から逆流した血を吐き、どこかの拍子で潰れた左眼が顔の半分をべったりと汚していた。

 それは泥臭い、全く馬鹿げた殴り合いの喧嘩、だった。少なくとも丘の上に取り残された天衣にはそう見えたし、既に異形の触腕も兄の手から出た焔も無関係などうしようもない暴力の応酬になり果てていた。そして実際、吸血鬼同士が徒手空拳でやり合えば、潰す、抉る、折る、といったような原始的な破壊が繰り広げられるのは必然の帰結だった。互いの人間離れした身体能力が、例えばエミールが実務班に対して行った一撃での殺しというものを極めて困難にするからだ。

 そして、エミールの支配圏であるこの場所に於いて、その胸倉を掴んで殴り合える距離にあるというのは比衣にとって一つの最適解だった。一撃を力業で捻じ込める距離にいなければ、身体の重いこちらはいつかは必ずジリ貧に追い込まれる。なら、例え無茶でも食らい付いて、原始的に殴り合う方が遥かにマシな考えに思えた。

「どうした、少年。もう終わりか」

 エミールが顔に付いた眼球の破片を拭い、払い飛ばしながら言った。内臓色の空がざわめき、名状し難い気配に満ちた森が彼の一挙一動に照応するように騒ぐ。音もなく這い寄る触腕が闇の中から機を窺っている。

「うるせえよ、クソ……」

 比衣は舌打ちした。ただでさえ身体が重いのに、左腕まで動かなくなった。泥臭い殴り合いも限界だ。しかし、ならば硝紗で戦えるのか。彼はそれが不安だった。意識を集中し、自身の内側にハッキリと感じ取れる熱を収斂する。発火すれば、それは腕輪の周囲に幼い鬼火のように出現した。そうなれば意識せずともいい。蒼白い竜は彼の腕に懐くように纏わりつき、分裂し、集合し、大きくなって揺れ動き、敵を、エミールを睨むように進み出た。一瞬、鳥か、蝶のようにフレアが羽ばたき、心配するな、後は任せればいい、とでもいうかのようにその先端が動いた。

 その焔の熱の所為ではないが、嫌な汗がじっとりと背筋を流れていく。奇妙な焦りがエミールを駆り立てていた。

 自分の裡の、どこか把握しきれない暗い場所から、それは彼を急き立てる。その焦りは顧みればこの街に踏み入った時から胸に巣食っていた。そして今、それは俄かに勢威を増していく。他の色々な感情を呑み込み、押し流して、決定的に道を踏み外しているような予感を抱く間もなく――あらゆるものを覆い尽くす使命感が強く浮上する。

「……面倒だ。そうは思わないか、少年。何もかもが、面倒だ」

「そいつはこっちの台詞だ、畜生」

 嘆くように言ったエミールに、比衣は堪らず吐き捨てた。

 エミール・エリアーデが高遠比衣を殺害しようとすれば、決着は即座に付いただろう。互いにここまでボロボロになる必要はなかったし、時間も掛からなかった、こんな面倒なやり取りも本当ならいらなかった。

 エミールは比衣を見据えた。彼を守るように、硝紗の焔が二人の間に舞うのを睨んだ。

 結局、とエミールは自らの愚かさを嗤うしかなかった。結局、最初に自分が言った通りにすれば済んだ話なのだ。ただの人間、どこにでもいる少年でしかなかった比衣を適当に転がして、痛めつけてやれば、音を上げて指示に従うだろうと高を括っていた。予想に反して少年は意地を見せ、抵抗は苛烈を極めた。溜息を吐く。見通しが甘かった。時間と手間を惜しむなら、初めからこうしておけばよかったのだ。

 焔の竜が大きく羽ばたいて身を翻した。自らの意思に反して向かってくるその姿に驚く比衣を無視して、竜はその後方に突進する。嘴を振り上げ、エミールが忍ばせていた触腕に食らい付き、その肉を焼いて引き千切り、掴みかかった鉤爪が胴体を寸断する。

 そちらを振り向こうとして、比衣は不意の痛みに思わず叫んだ。反射的に飛び退こうとするが、出来ず、腰が抜けたようにそのまま後ろに尻もちを着く。

「あぁっ? ぐ、ぅ……!?」

 苦痛の呻きが口から洩れた。痛みの発生源――足を見下ろして、ギョッとした。

 動揺と混乱にうまく言葉にならない何事かを取り留めもなく喚き、足を激しくはたき回す。しながら、ずりずりと地面の上を尻を擦って下がり、手は瞬く間に赤く染まった。

「クソっ、クソクソクソクソッ、何だよ畜生――離れろ!」

 無数の虫が比衣の足に群がり、肉を食い千切っていた。

 酷く悍ましい光景だ。赤ん坊の拳ほどのサイズはあろうか。長く節くれだった八本足の虫が森からわらわらと湧き出して比衣に殺到していた。蜘蛛に似たそれはいつの間にか足に登り、ズボンごと鋏角で皮膚を裂き、肉を引き千切って、足をズタズタにしていく。唐突に大きな虫に集られて錯乱する比衣が躍起になって払い落とし、叩き潰しても、新しい虫が引っ切り無しに取り付いてきては足に噛み付いた。

「ッ――燃、えろおおおォ!」

 硝紗を思い出し、呼び起こす。焔は足に纏わり付いた虫を焼き、キーキーと金属の擦れるような鳴き声を上げてボロボロと落ちていくが、周囲は既に夥しい虫で覆われていて次から次に登ろうとしてくる。比衣は腕を振った。焔が筆で撫でるように群れをなぞるが、虫は焼け焦げた同胞を乗り越えて際限なく数を増やし、切りがなかった。

 三本目の触腕を食い千切った焔の竜が比衣の窮状を察知し、そちらへと方向転換した。その隙を衝き、これまでとは形の違う、平べったく内側に蛸の吸盤のようなものがあり、そこに無数の口を備えた触腕が木々の合間から伸びて竜を巻き取った。触腕はその身体を燃やされながらも竜を地面に引き倒し、森の中に消える。

 何かが比衣の顔に飛び掛かった。百足のような形で、もっと足の長い虫だ。それに驚いてバランスを崩し、後ろに倒れ込む。虫はすかさず身体に上がってくる。飛び起きようとして、しかし地面に叩き付けられた。虫に気を取られて気付かなかった――触腕が右足に巻き付いている。

 その様子を黙して眺めていたエミールが、つい、と差し出した指を振り下ろした。

 バキン、と。無数の噛み傷で真っ赤に濡れた右足が不自然な場所で折れ曲がる。比衣は咽喉の奥で呻き、右腕の力だけで身体を引きずって前進した。

 目の前に靴が見えた。見上げるとエミールと目が合い、比衣は信じられない光景にギョッとした。

「きゃっ」

「天衣!」

 悲鳴に、比衣が掠れた声で叫ぶ。

 エミールは声がした方を振り向いた。震える足に渇を入れ、背後に回り込んでいた天衣が触腕に薙ぎ払われ、転がされていた。

「勇敢だな。だが勇気と蛮勇は似て非なるものだ。無謀な突撃などあたら命を散らすだけで何の益ももたらさない」

「くっ……はなっ、放しなさいよっ、畜生!」

 天衣の身体は土から生えた植物の蔦のようなミミズが磔にしていた。手足を軽く開いた姿勢のまま縫い付けられ、引き千切ろうにもびくともせず、彼女は成す術もなく兄の名を呼び、吸血鬼を罵倒し、嘆き、命乞いをした。

「やめて……お願いだから兄さんを殺さないで!」

 その悲痛なまでの声を聴いて、エミールは場違いな愉快さを感じた。肩を揺すり、くつくつと喉を鳴らした。

「嗚呼、美しき兄妹愛……か。案ずるな。言った筈だぞ、殺しはしない」

 世界そのものを構築し、外界に置き換える――エミールの硝紗の特性故の過度の緊張と集中で痛む頭を抑え、足首を掴む比衣の指を振り払って彼は続ける。

「妹は殺さないと約束をしたし、貴様はあの方の仔だ。私が易々と殺す訳にはいかない。全く面倒な……何だ?」

 言いながら、エミールは怪訝そうに首を傾げた。

 生臭い風に混じって、きな臭い、焦げた匂いが周囲を取り巻いていた。最初、比衣が硝紗を使って虫を何匹も焼いていたから、甘い独特の匂いが立ち込めているのはその為だろうと思った。だが、焼けているのは虫だけではなかった。濛々と漂う黒い煙、木が活きたまま焼かれる悲鳴、爆ぜる音、匂い。どこからか生じた火災が迫り、振り向いた先の木が焔に呑まれ始めていた。

 木を包む焔から何かが飛び出した。滅茶苦茶に引き裂かれた吸盤口を持った触腕が蒼白い焔に蹂躙されながらのたうつ。彼等の身長を超えてなおも勢威を増す巨大な火焔の壁は本能的な危機感を煽り、後を追って現れたものに完全に意表を衝かれる形となった。

 燐光が散り、それは羽ばたく。硝紗の焔竜は焔の幕から飛び出すと素早く狙いを定め、まっすぐにエミールに向かって突進した。質量を持つ焔による体当たりを喰らい、エミールは大きく弾き飛ばされた。竜は追撃せず、天衣を拘束するミミズを啄んで彼女を解放し、比衣に巻き付いた触腕を容赦なく寸断する。

「兄さん!」

 比衣に駆け寄って彼女は息を呑んだ。馬鹿げた殴り合いでボロボロになった全身は言うに及ばず、左腕は不自然に折れ曲がり、足はズボンの生地なのか皮膚なのか最早見分けがつかないほど爛れた血肉でべったりと赤く染まり、竜が触腕を引き剥がした右足は脛の辺りで歪に曲がっていて、天衣は堪らず顔を顰めた。ハッキリそうと分かる生臭さに胃の方からぐぐっと何かが込み上げてくる。片手片足で起き上がろうとする兄に彼女は慌てて手を貸そうとし――直前で動きを止めた。目の前に向けられた来るなの掌に気付いたのはその後の事だった。兄は、高遠比衣は痛みに表情を引き攣らせ、その口元は明らかに笑みを湛えていた。

 彼は嗤っていた。困惑した様子で立ち尽くすエミールを嘲って。悪い癖だ、と自分でも思う。ある種の感情が胸を満たすとどうしてもそれを隠せなくなる。優越感や嗜虐欲、確信に基づく愉悦。してやったぜざまあみろと思うと素直に顔に出てしまう。ああ、嗚呼全く――――

「――――ざまあみろ、だ。吸血鬼」

「……何をした」

「教えるかよ。足りない頭使って精々考えろ」

 ぽつ、と額に当たる感触にエミールは空を見上げ、目を瞠った。黒い雲だ。鈍く、不安になるほど重い群雲が赤い絵具の合間に橋を架けて、頭上を塞いでいた。

「在り得ない」

 知らず呟いていた。

「現実を見ろ」

 比衣が嘲笑を含んで応えた。

 忘れ去られていた冬が凍える風を黒い帯の曇天から吹き入れる。周囲の温度はどんどん下がり、吐いた息が白く煙った。立ち上る黒煙に呼び起こされた雨は次第に勢いを増す。世界が色を、夜本来の暗さを取り戻していく。

 火事は拡大していた。木から木へ指を伸ばし、次々に版図を広げて三人を取り囲む。焔が蒼白く赤を焼き、至る所で世界が崩れ始めていた。

 それを見ながらエミールは茫然とした。自分の硝紗が成り立ての焔によって瞬く間に侵蝕されていく光景は彼にとってそれほど信じ難い光景だったのだろう。破られた内臓色の空に生じた黒は今やそのほとんどを食い破り、降り込む雨は世界を汚染していた赤色を洗い流そうと躍起になっている。

 比衣は左腕を掴み、無理矢理押し込んだ。強烈な鈍痛が神経を刺激して泣きそうになったが、左手を閉じて開いてみれば充分に動いた。足は完全に折れているのでこればかりは無視するしかない。

「おい、呆けてんなよ。そろそろ第二ラウンドと行こう」

「ちょ、ちょっと比衣! そんな怪我でまだやるつもり!?」

 我に返った天衣が激しい雨音に負けずと声を張り上げた。比衣は肩を竦め、手を貸そうとする妹を森の方に押しやって丘へと進んだ。

「お前は先に逃げろ。あいつの硝紗は破ったから今なら森を抜けられる」

「なんっ……そ、それなら一緒に逃げればいいだろ!」

「それはあいつ次第だな……」

 視線の先には自らの世界を食い破った焔の明かりに照らされ、降り頻る雨を全身で受け止める幽鬼の如き姿があった。厚くのっぺりと垂れ込めた雲を振り仰いだまま、比衣と天衣のやり取りにも何の反応も示さずにエミールは立ち尽くし、感情の全てを喪失したようにそこには一切の温度が感じられなかった。痛いほどの雨粒の斉射を受け、ずぶ濡れになりながら身動ぎもしないその姿はさながら都市伝説の怪人のようであり、同時に親に見放されて途方に暮れる幼子のようにも見え、妹にぐいぐいと服を引っ張られながら比衣もその視線を追った。

 凄まじい雨に目を眇める。空一面に暗雲が垂れ込めている。無意識に月を探すが当然のように見える筈はなく、ふと視線を戻せばエミールがこちらを見つめていた。

「止めだ」

 囁くように、ともすれば雨音に掻き消されて聴こえないくらいの声でエミールは言った。精気の欠いた声音だった。

「……いいのか?」

 隣でほっと胸を撫で下ろした後、その言葉にギョッとして痛む脇腹に拳を叩き付けてくる妹を押しのけながら、比衣は問い返した。彼の上空では焔の竜がなおも警戒するように飛び続けている。

 エミールは額に掛かる前髪を乱暴に掻き上げ、竜を気だるげに見上げて首肯した。

「どの道慌てる必要もない。ただの人間がそれを持っているのなら取り戻すべきだが、あの方の仔ならば預けておいても構わないだろう」

 言って、僅かに言葉が詰まった。表情に奇妙な逡巡が過ぎり、それも一瞬、すぐに何事もなかったように続ける。

「だが、近いうちに必ずもう一度会う。その時は今とは違う返答を期待している」

「期待に副えるとは思えないけどな」

「……その時は、その時だ」

 ほんの少しの間、考えを巡らせるような間を置いてエミールは答えた。

 そうしてエミールは高遠兄妹が拍子抜けするほど、本当にあっさりと立ち去った。

「一体何だったの……?」

 エミールの姿が完全に森に消えたのを見送り、それまで警戒して身を固くしていた天衣はほっと息を吐き、心の底から、本心の芯から万感の想いを込めて呟いた。

「さあな。あんな奴の考える事なんて分からな――い……」

 緊張の糸というのだろうか。頭の奥で何かがぷっつりと途切れる音がハッキリと聴こえた。抵抗する事も出来ず、受け身を取る間もなく全身の力が溶けた水のように抜け落ちて、虚脱した比衣は顔面から地面に向かって前のめりに倒れた。

「え……えっ? ちょっと比衣!?」

 あまりにも自然に喋りながら倒れていくものだから受け止める暇もなかった。

「大丈夫!? 死んだ!?」

「勝手に殺すな。気が抜けただけ……あ、ダメだ。立てねえ……」

 早々に起きるのを諦め、ごろんと寝返りを打つ。仰向けになって全身を投げ出すと手足は棒のようで、指の先までぎっしりと疲労が詰まっている感じがした。こうして雨を浴びながらぬかるんだ地面に転がっているだけで堪らなく心地よかった。ほんの数秒も目を閉じてしまえばそのまますとんと眠りに落ちてしまいそうで、それは素晴らしい思い付きに思えた。

 バシンッ――容赦なく頬を張り飛ばされて、眠りの国に堕ちていこうとしていた比衣は凄まじい勢いで現実へと引き戻された。今度は左頬にもう一撃。痛みは意識を覚醒させ、心臓が暴れるほどの驚きでカッと目を見開く。誰だ、畜生。いきなり殴る奴があるかと怒りに任せて怒鳴りつけてやろうとして、思わず口ごもった。衝動的な科白は威勢を削がれて萎み、半音出掛けた言葉も結局形になる事無く雨音に消える。

 冷たいだけの雨の雫とは違う、暖かいものが頬に降ってきた。

 比衣は息を呑んだ。髪や、頬や顎の輪郭から滴り落ちる雫に混じって、それは更にポタポタと降ってくる。比衣の顔に覆い被さるように覗き込む天衣の両目から溢れた液体が重力に負け、一滴一滴落ちてくるのがスローモーションのように見えた。

「…………何、泣いてるんだよ」

 声を押し殺して涙を流す天衣に――ここ二年、きちんと向き合ってこなかった妹のそんな姿に、兄は、高遠比衣はどんな言葉を掛けるのが正解なのか分からず選び選び言った。

 天衣は乱暴に目元を拭い、小さく首を振る。

「うるさい、泣いてない! こんなとこで寝るな、馬鹿。私一人じゃお前をおぶって運ぶなんて、出来ないんだから!」

「そう、だな。悪い」

「そうだ。だから、寝るな。私の為に、こんな――こんな……傷だらけに、なって。ほんと馬鹿なんだから。この馬鹿……アホ……比衣、ごめ――――」

「違う」

 気付けば比衣は、比衣の胸倉の辺りを握っていた天衣の手を掴んでいた。その言葉だけは言わせちゃいけない。そう思った。

 これが天衣の所為? いいや、いいや。それだけは違うのだ。馬鹿で、間抜けで、優柔不断で、どうしようもなく愚かだったのは俺だ。俺自身の甘さが、無思慮が、この結果を招いた。こいつを巻き込んだ。

「謝るのは俺だ……俺が、お前を巻き込んだ。もっとよく考えるべきだった。怖いからって思考停止しても、現実はなかった事にはならないんだから……」

 天衣が困惑した様子で比衣を見つめ、血が洗い流されて妙に小奇麗に露出した爛れた足の傷と、右腕の腕輪を順繰りに見遣り、そうして意を決して顔を上げた。兄妹の上空。蒼白い焔でその身体が創られた竜は、まるで傘の代わりを務めるかのように大きく猛禽類の翼を広げている。

「……訊きたい事が、たくさんある」

「俺もだよ。分からない事だらけだ……」

 言いながら笑うとたったそれだけの振動で全身が激しく痛んだ。

「立てる?」 

「……正直、おぶって運んでほしい……」

「無茶言わないでよ。えと、ああ。誰か人を呼んでこないと」

「呼ぶって……状況を考えろ。一人でなんて行かせられる訳ないだろ」

「じゃあどうしろって? 引きずっていけばいいの!?」

「痛っ、おま、いきなり怪我人を殴る奴があるか!」

「うるせえ馬鹿!」

 売られた言葉を買い取って天衣は更に言い返した。その時、彼等の頭上の焔が意味ありげに身を捩った。羽ばたいて明かりが揺らめき、森の方へと頭らしき部分を向ける。いつしか雨脚はかなり弱まっていた。天衣は反射的に竜が注意を傾けた先に目をやった。比衣は動くに動けず、ある種の予感を覚えて脱力したままそっと息を溢した。

 森と広場の境界に誰かが立っていた。天衣の肩に力が入る。自然、比衣の左腕を掴む指にも力が入り、比衣は叫びそうになった。

 木の傍に立つ誰かが溜息を吐き、こちらに向かって進み出ると何かを放り投げた。天衣は咄嗟に手を差し出してそれを胸で受け止める。

 それは比衣の携帯端末だった。

「せぇんぱーい。携帯は携帯しないと意味ないんですよー」

 教室で級友相手に冗談をぶちかましている時と全く同じ雰囲気の、しかしやけに甘ったるい調子で空気を読まずに比衣を呼ばわる声。聞き覚えがあった。聞き覚えどころか毎日聴いている。天衣は姿を現した人物に目を丸くし、一方で不思議と納得してもいた。私のよく知っている彼女なら、こういう時にしれっと登場したって何らおかしくない。

「……余波」

「いやっほ、てんちゃん。電話してるんだから出てよー、お陰でこっちは土砂降りの中必死に走り回る羽目になっちゃいました」

「電話? そんなの着て……あ。携帯、さっきの人に盗られたままだ」

「さっきの人。そか。そりゃ仕方ないね。ところで」

「え」

 やけに弱々しく裾を引かれた。振り返ると、横たわった比衣の顔色がかなりマズい具合になっていた。

「うわあああっ! バカバカ寝ちゃダメ、寝たら死ぬってば! 余波、お願い手伝って! 兄さんを病院に連れて行かないと……」

 天衣の横から背後を覗き込んだ余波がふと屈み込み、おもむろに比衣の背中と膝の下に手を差し入れた。そしてひょいと一息に持ち上げる。意識を失い、脱力した、一人の人間を軽々と。唖然とする天衣を余波はきょとんと見つめ返した。

「何じゃら?」

「う、うん。凄い力ね……」

「凄かろ。んじゃ、一先ず先輩を安全なところに運ばないと。その後でてんちゃんの携帯もちゃんと取り返してくるから」

「取り返す? 取り返すって、あの吸血鬼から!?」

「うん。さっきはうっかり逃がしちゃったけど……てんちゃんを巻き込んで、先輩をこんな目に遭わせた。私が二人を見付けられないように匂いを隠したり色々不思議な事が出来るみたいだけど、もう底が見えた。次はないよ」

 ついてくる天衣を振り返りもせず、余波はずんずんと先を行く。横抱きに抱えた比衣を見下ろし、鼻の奥がツンとした。

 冷静に、沈着に。そうやって努めて言い聞かせて自制させないとうっかり暴れ出してしまいそうになる。誰が? 無論、私が。腹の奥深くから、むかむかと苛立ちが沸き起こって止まらない。

「アレは今夜中に始末を付ける」


 エミールは森を歩いていた。木々の流れに指向性を与えられながら、ふと思いついたように肩に空いた傷口に指を突っ込んでぐりぐりと抉る。埋まったまま肉を焼いていた銃弾を摘まみ出し、適当にその場に放り捨てた。

 しながら、けれど彼は全くの無意識だった。行く当てがある訳でもなく、腕輪の確保という目的を保留した今、この後の予定はすっかりと白紙だ。勿論、すべき事はある。熱い想いは強烈に胸を焦がしている。焦燥感からひたすらに足は動き続け、チリチリと灼ける感情に居ても立っても居られない。激越した使命感がすべき事を成せとせっついてくる。目的を果たせ。やるべき事を。早く。速く。ハヤク――――

「うるさい! 黙れ!」

 堪らず叫んだ。頭のどこか、自分の内側にあるのに彼の手が届かない場所から、よくよく耳を澄まさないと感じ取れないほど小さく、声が聴こえていた。使命を果たせ。目的を。お前は、お前の役目をこなせ。声は壊れたレコードが同じフレーズを繰り返すようにただそんな言葉を繰り返す。

 激しい混乱がエミールを襲っていた。使命。使命だと? それは一体何なんだ。私は一体いつからこんな訳の分からない使命とやらを後生大事に抱えていたのか。考えるごとに脳の基盤はぐらつく。自己を支える支柱が揺らぎ、思考が乱れる。ノイズ。ノイズ。ノイズ。私はこの呪われた地に封ぜられたローゼンハイト・フェザーランドを解き放たなければいけない。解き放つ? あの吸血姫を? 馬鹿な。この土地に触れてはならないのは旧き同胞達によって取り決められている。そもそも私には姫君を解放しなければならない理由がない。他の旧き同胞ならばまだしも、私にはそれをするだけの動機がない筈だ。

 なぜだ、と知らず呟いていた。なぜ私はここにいるのか。

 解像度の低い映像を巻き戻す。そして土を踏む。映像は奇妙で、編集の痕跡がある。夜気に紛れた枯れ葉を蹴る。追憶はこの街に現れる直前へ。靴底が腐葉土に沈む。注意深く、慎重に触れて初めて感じられるほどの違和感に、あと少しで核心に届く。潰れた左眼が不快に痛む。

 寸前、耳障りな電子音が意識を現実に引き戻した。ゴテゴテにミックスされたピアノとベースの旋律だ。既に二度ほど鳴っていたが触れるのも煩わしく無視していた、それは高遠比衣を呼び出す為に使ったその妹の携帯端末だった。コートのポケットで振動する端末を取り出し、見るとはなしに画面を眺める。発信者名が表示されている。彼は日本語は話せても文字までは習得していなかった。だからそこに表示されている文字列が名前だとは理解できても、何と書いてあるかまでは分からなかった。

 ただ何となく、不吉な気がした。

 その奇怪な文字の並びは凶兆を示す徴のような、或いは東洋の原始的な呪術めいた、とにかくそういう名状し難い予感に彼は足を止めた。

 いつの間にか雨は止んでいる。雲の切れ目から月光が差して、梯子が降りてくる。木と木の狭間。俄かに視界の啓ける錯覚。エミールは顔を上げた。

 パチン、と指を弾く音がした。

「ハロー、吸血鬼。良ければ少し話をしないか」 

 行く手を遮るように二人組が立っている。


 水環市の多重構造体は秘匿されてこそいるが、決して極秘ではない。その存在が一般に公開されていない理由の大部分は、そもそも情報の性質がオカルトに属している事に因っている。つまりこれは水環市の結界だから秘密なのではなく、大前提として一般常識からかけ離れた理屈の上に成り立っているからこそ、それを知らされる者が限られてしまうだけなのだ。

 要するにこれは公然の秘密だ。少しこの界隈にアンテナを張っていればオカルトに接していなくとも実しやかに語れる程度の、謂わばよく在る現実に根差した都市伝説フォークロア。ならば当然、噂は真なりと論証可能な者の主観現実に於いて市の封印と結界は仮にその存在を疑う事があったとしても、その性質自体は自身の世界観と正しく接続されている筈だ。

「……回りくどいな。話が見えない」

「要は常識で考えろって話だ」

 美術館にだって、銀行にだって、果てはそこらのオフィスビルや学校にだって、今時は警備が敷かれているものだ。なのにどうして吸血鬼なんてものを封じたこの街に、その警護を請け負った連中がいると考えなかったのか。

「普通、考えるだろ。後生大事に仕舞っているなら、無作法な奴に暴かれないように誰かがそれを守っているって。なあ」

 犬塚柾斗は問い掛けるように前に向かって軽く両手を広げた。

 エミールは脳の深くに太い針が突き刺さるのを感じた。激痛ノイズ。私はそんなところに考えが回らないほど愚かだっただろうか。全てを一人で対処出来ると思うほど自信過剰だったろうか? 波紋が広がる。歌のように。詩のような月明かりが、脳箱に周到に隠されている何かを暴こうと呪文を紡ぐ。

 そも、何かとは、何だ?

「――――だから」

 広げていた両手の指先を胸の前で合わせながら柾斗が言って、エミールは深く息を吐き出して彼を見つめ返した。

「お互いに少しばかりネタ晴らしをしよう。もしくは俺の浅はかな考えを聞いてくれ」

「ねえ、柾斗」

 それまでロリポップを咥えて押し黙っていた二人組の片割れの少女が、ついついという風に呆れ顔を隣に向け、水を差した。柾斗は気を削がれ、ジトりと半眼を返した。

「何だよ。今いいところだから少し待ってくれ」

「いやね、そうやって気障ったらしく恰好付けるのはいいんだけどさ。……ダサい」

「うっさいな! 折角人が気分よくキメてるところなんだからちょっと黙っててくれ! 頼むから俺にも少しくらい活躍させてくれ」

「探偵役が最後にネタを全部明かすってすっごい寒くない?」

「これくらいしか今回出来る事ないじゃん、俺……」

「あー……うん、じゃあ黙ってるよ」

 奇妙な二人組だった。

 その奇妙さは、混乱が進行し、記憶の不安から自己にさえ疑問が生じつつあったエミールには最高に鬱陶しく、どこまでも腹立たしかった。自分を無視して取り留めもない会話に興じる二人に吐き気さえ催し、怒りからその首を乱暴にもぎ取ってしまいたくなる。むしろ、どうしてそうしてはいけない? 殺してしまえば静かに考え事に没頭して、この不快感の正体に辿り着けるのでないか。

「やめとけよ吸血鬼。そんな状態で。お前じゃ俺は殺せない」

 頭に血が上る。血の気が引いていたエミールにはちょうどいい熱だった。

 狂暴な獣のように逆上する吸血鬼が今にも飛び出さんと身を乗り出すのにも構わず、柾斗は二本指を立てた。人間の首を軽々と毟り取る怪物を前にしている緊張など微塵も感じさせず、安っぽい探偵を気取った口調で飄々と続ける。

「理由は二つある。一つに今回の騒動に於けるお前の役目は、お前が思っているようなものではない。お前は役目を終えて、使い終わった道具は片付けられるだけだ。二つ目は至ってシンプルだ、俺はお前より生物的に強い――試してみるか、血吸い虫?」

 そして世界はまばたきよりも早くエミール・エリアーデに染まる。空は病んだ内臓のように変色し、肉で出来た木々が海中で揺れる藻のように触手を蠢かせ、巨大で悍ましい蟲が群れを成して鳴き始めた。硝紗。エミールの世界。柾斗は軽く目を瞠り、軽薄に口笛さえ吹いてみせる。

「これが例の……何だっけ。硝子?」

「硝紗」

「そう。硝紗だ。お前らの特殊能力って奴か」

 緊張感の欠片もないやり取りをする二人。その周囲で、木陰に潜んでいた触腕が踊る。木の上、土の下から、蟲が飛び掛かる。そこには高遠比衣との戦いにあった加減も何もなかった。エミールの意思すら必要としない、それは彼等自身の、異形の世界の捕食者たる者達の本能的行動だった。

「まるで挽肉の山だな、こりゃ」

 柾斗は笑みを浮かべ、無造作に胸元に手をやる。胸ポケットから釣り下がった円と十字のアクセサリ。中心には青白い光が灯り、それは明滅しながら次第次第に強くなっていく。彼はそれを握った。一呼吸にも満たぬ間に極大化するその光を。赤い世界が白く青く塗り染められる。隣に突っ立った少女の煩わしそうな横顔を照らす。指先が触れ、迷わずそれを引き抜いた。

 鎖が鳴る。音は連鎖し、しなって弾け、無数の粒となって刃へと変じた。

「だから言ったろ」

 言うより早くそれは降り注ぐ。柾斗は二人に迫っていた触腕や蟲を悉く刺し貫いた刃には目もくれず、顔面に放たれた拳を寸でのところで受け止めて、続ける。

「俺は、お前より、強い。そもそも吸血鬼如きが竜の眷属に敵う訳がないんだよ」

 掴まれた手を払いのけてエミールは大きく飛び退る。

「竜だと? 馬鹿な、そんなものが……」

 いる筈がない、と最後まで言う事も出来ず、エミールはその場に膝をついた。

 背後から巻き付いた鎖が首を締め上げて引きずり落とし、触腕達を標本にした刃の一本が左脚を貫通して地面に突き刺さっていた。吸血鬼はその腕力で鎖を引き千切ろうとするがビクともせず、藻掻きながら刃を抜こうとした瞬間、今度は左右から、それも明らかに何もない空間から生えた鎖が両腕に絡みついてそれを阻んだ。

 エミールの動きを封じた柾斗が指を鳴らして合図をした。隣の氷雨宮末理は、んー、と気のない間延びした返事をして、コートのポケットから小さな銀色の箱を取り出す。外周の部分にミミズののたくったような文様が描かれた一辺七センチほどの正方形の箱だ。彼女は何事かを呟き、そっと蓋を開いた。箱の中から凄まじい風が吹き出す。風は末理の前髪を乱し、宙空を乱舞し、彼等の周囲を席巻する。空気ごと世界が掻き回されたかのように景色がぐにゃりと歪む――世界を規定する柱が揺らぎ、流れ込む虹色の砂が遥か空へと流れ落ち、燃える波濤が頭上を越えて水晶球へと注ぎ込む。窓が開いた。そこにあるのは高熱に魘された病床で視る、譫妄の最中に垣間見る異界の夢だ。無限に続く黄金こがねの荒野。紺碧の空を舞う数え切れない竜の群れ。万華鏡のような風景の破片。

 気付けば、彼等は静かな冬の森に戻っていた。

 何もかもがどうかしている、とエミールは思った。狂い、狂い、狂っていた。世界と理性は手のうちから抜け落ち、悪夢とも妄想ともつかぬ幻が現実の振りをして自分を欺いている。

「何なのだ……貴様等も! この街も! 一体、何だというんだ!」

 腕に巻き付いた鎖を力任せに引っ張り、エミールは堪え難く吼えた。

 柾斗は肩を竦め、苦笑う。

「何……か。いや、いや。同感だ。けど、ここは元々そういう土地だ。訳が分からない――いや、道理を求める事自体が間違っている。経験上、病んだ水に関わると大抵が碌でもない事になる」

 言いながら、一歩進み出た。月光の梯子に照らされたその姿は陳腐なほどに劇的で、どうしようもなく作為が鼻についた。例えば木々の並び、例えば月の動き、風や、ここにいる二人と一人、もっと他の大勢の人々、今夜の、或いはそれより以前の一連の出来事、無関係なあれこれ。あらゆる要素にこの筋書きを描いた何者かの意思がありありと透けて見えるようだった。白いスポットライトに差し出した掌を見つめ、目の前に跪いた吸血鬼を見下ろした。

 その視線を受けて、エミールの右の瞳が束の間右から左へと彷徨い、木の枝とその合間を埋める闇を泳いだ。自らの激しい動揺に戸惑う一方、けれど彼の中の違和感が次第に形を取り成していく。

「お前はまるでこの街の封印を解く為に放たれた矢だ」

 風穴を穿ち、ヒビを入れ、亀裂を生み出す為の。それは射手により放たれ、風や空気の抵抗を受けて時に軌道を逸れ、揺らぎながら、狙われた場所を目指して慣性のままに突撃する。そこに矢の意思はなく。矢はただ射手に従い、ただ一人、孤独に突き刺さる。当然、矢は使い捨てだ。放てばそれまで。戻る事など考慮に入れない。

「状況を見ろ。今のお前の姿を」

 今に至り、違和感と混乱、記憶の不鮮明さ、自分自身が身を置く状況が一つの結論へと届こうとしている。

 潰された左眼が、ズキリと疼いた。

「お前は捨て駒だ」

 私は操作されている。

 柾斗、と末理が後ろから肩を引いた。呼ばわれて振り向こうとした柾斗は中途半端に上体を捩り、右肩を引っ張られた勢いで僅かに体勢を崩した。風が耳元を掠める。左頬に鋭い痛み。我に返り、本来の彼自身の在り方を取り戻したエミール・エリアーデが硝紗を展開、影が鞭のようにしなって寸でのところで薄皮一枚を削り取っていった。

 たたらを踏み、体勢を立て直す。傷口に右手の人差し指を添わせてその血を明後日に弾き飛ばし、柾斗はふむ、と嘆息なのか溜息なのか分からない吐息を洩らした。目を戻せばそこには既にエミールの姿はなくなっていた。

「まんまと逃げられたね」

 末理がエミールの跪いていた場所に歩み寄り、その場の土を足で掻き分けた。軟らかい腐葉土には膝をついた窪みと足跡が残り、それは左手に向かって深く抉れている。

「追わなくていいの?」

「追った方がいいか?」

 しゃがみ込む末理の背中に問い返す。彼女は振り返りもせず、ま、いいんじゃないの、と肩を竦めた。

「追い付くのは簡単だと思うけど、ここで本格的な吸血鬼退治に洒落込んだところで何が解決するとも思えない。あれはただの斥候で、要はただの捨て石だもん。誰かが裏で糸を引いてる。彼自身もやっと自覚したみたいだった。だから今片付けてしまうより――」

「泳がせた方が状況が動く、か。何だか思わせ振りだな。視えたのか?」

 末理は返事をせずに立ち上がった。何をしていたのかと思えば、枯れ葉の中に半ば埋もれるように落ちていたものを拾い上げたらしかった。

「何だよそれ」

「ケータイ」

 肩越しに見せられたのは確かに携帯端末だった。

「誰のだ? まさかさっきの吸血鬼の落とし物か? 交番に届けないとなあ」

「じゃ、ないと思うけど」

「ほん? じゃあ誰の?」

 首を傾げる柾斗。

 まるで狙い澄ましたかのようなタイミングで携帯が着信し、末理は躊躇う事無く応答するとそれを耳に当てた。

「もしもし?」

 言うと、やけに張り詰めた空気を漂わせていた電話の相手が僅かだけ間を置き、深々と溜息を吐いた。なるほど、と何に納得したのか独りごち、気を取り直した様子で続ける。

『それで? 今回は一体、どこまでお見通しなんですか。氷雨宮パイセン』

 柊余波の呆れ果てた声音が後ろにいた柾斗にも聞こえた。


 無様だ。エミールは思った。

 どこをどう走ったのかも定かではないが、気付けば彼は人通りのない路地をトボトボと歩いていた。激しい頭痛と、左眼、そして吐き気に苛まれ、何よりも自分の置かれた状況にエミールは茫然自失していた。

 無様だった。一度ならず二度ならず、逃げて、逃げて、逃げ続けている自分の行動があまりにも無様で、ただ情けなく、ひたすらに惨めったらしかった。それは誇りと矜持を重んじるエミール・エリアーデにとって堪え難い羞恥であり、許し難い愚挙であり、何よりも愧ずべき行いだった。

 けれど今、彼を責め苛んでいるのはその事ではない。度重なる逃亡よりも先に、現状を招いた原因――いやさ元凶である首謀者を思い出し、思い出すという行為自体が示す屈辱に忸怩たる思いを噛み締めていた。

「この私が奴如きに遅れを取るなど……!」

 歯噛みし、荒々しく吐き捨てる。

 自らの記憶にある明らかな空白、その後の異常行動。どれだけ考えても、何度思い返そうとも、エミールには水環市を訪ねなければならない理由が見当たらなかった。にも関わらず現に彼はここにいて、こんな状況に追いやられている。これまではその事を考えようともしなかった。いや、そもそもおかしいとさえ感じなかったし、違和感があっても意識に浮上しなかった。そういう風にされていた。

 あの奇妙な子供――いや、不老の種族である吸血鬼に外見上の老い若いは無意味だ。あの女、前触れもなくエミールの前に現れた、あの女吸血鬼。今や彼の脳を支配していた虚構は完全に解かれ、彼はハッキリとその姿を思い出していた。異常行動に出る直前、嘗ては霧の都とも呼ばれた都市で出逢った吸血鬼、その白い影を。

 ふと彼は人の気配を感じて立ち止まり、周囲を見回した。いつの間にか足は水環市に来た当初に身を隠すのに使った人気のない再開発地区に向かっていたらしく、そこには今、何人かの人間の気配がハッキリと感じ取れた。現場の管理を担当する警官と逞しい野次馬精神を発揮した見物人が、エミール自身の起こした事件の為にそこに集まっていた。

 エミールは舌打ちして素早く路地に飛び込んだ。既に完成したビルや建設途中の建物が醜く入り混じるこの再開発地区には、未だ無造作に積んだ資材にブルーシートを被せただけの場所も少なくなく、エミールはおざなりに設置された三角コーンを超えてその後ろに身を潜めた。壁にもたれ掛かり、一息ついて、場所を変えようと勢いを付けて身を離した拍子に放置されていた缶をうっかり蹴飛ばした。その音はやけに大きく路地に響いたが、それ以上に野次馬の集まりの方が賑やからしく、こちらに気付く者はいなかった。

 酷く疲れていた。今はとにかく休んで、酒と血を喫って、ゆっくりと眠りたかった。もう封印がどうだのも心底どうでもいい。ただこの街の鼻持ちならない狩人連中や、そもそもの元凶であるあの白い餓鬼にだけは、この屈辱の分しっかりと返礼しよう。

 エミールは当面の目的をそう定めて、一先ず今夜の宿を探そうと路地の奥に向かって歩き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る