4-真夜中狂騒曲

 因果という厄介な編み物を解き解す行為に、果たしてどれほどの意味があるだろうか。

 正直、気は進まない。進まないが、私はこういう場合、何よりも優先されるべきは誰かの個人感情に基づく快不快の好き嫌いではなく、より中立的な、可能な限りのフェアネスだと思う。

 公平性、つまりは客観的平等性。

 私は公正さ、公平さが必ずしも平等だとは思わないし、それを美しいとも感じないが、事何かを物語る場合、そしてそれが誰か、或いは何かの価値観や立場を明示的に解説するものでない場合、要するに連続性を持つ出来事を俯瞰的に語る場合――事実をただ事実として、在るがままに物語る場合、話者は、知り得る限りのなぜそうなったのかを正しく詳らかにする責任を負うのではないか、と愚考する。

 仮に正義の味方が主人公の物語を話すのなら、私はこの主人公が正義足るに見合うだけの情報を語るだろう。情報の制限、恣意的な開示、そして視点の固定による内実の定義を行い、実はこうだった、と例えば敵の悪役の背景を語る振りをしながら主人公の正義の正しさを聞き手側に誘導する。公平に彼我の情報、立場や思想を踏まえて考えた場合、正義と悪がどう振り分けられるのか――より正確にいうのなら、どちらがどの程度の配分でそれらを保持しているのか――を敢えて語らず、一方的な視座からの物語を語って聞かせる。だって、それは主人公が正義の味方として活躍する物語だから。そうなるように語るのはアプローチの手法としても、技術的にも正しい事だ。

 では、今回はどうだろうか。

 高遠比衣の物語――正確には彼を取り巻く一連の事象について語ろうとする試み――を私はどう語るのがベストか。彼は正義の味方ではない。彼がこういう人間であるという結論を導き出す為に特定のエピソードを抜き出して語るのは私の真に望むところではない。なぜなら彼は彼であり、正義だとか何だとかは彼を見た誰かがその所作言動から感得すればいいだけの話だ。人の性質を誰かが一方的に決定づけて誰かに話す、という行為はどこまでも欺瞞的であり、また究極的に無意味で詐欺めいているのだから。

 私は、高遠比衣という少年について語るのであり、その周辺について触れるのは彼とは離れたエピソードとなる為、柊余波の言いを借りる訳ではないが、正直に言って気が進まないのだ。しかし、彼の身に起こる一連の出来事の連続性を正しく述べようと試みるならば、どうしても私は彼の知らないところで起こった幾つかの出来事についても触れえざるを得なくなる。

 因果という編み物を解き解す行為にどれほどの意味があるのか、生憎と私にはよく分からない。何となれば、こうして今ここでこのような愚にも付かない妄言を垂れ溢している事自体が私の信条に反する行為に他ならず、なおこうしているのは、偏にこの語りに対してのやはり私自身のスタンス――あった事をあった通りに語る、という、フェアネスへの譲歩に過ぎない。公平性を求めるのならば、時に人は自らを殺してでも機能的な必然性を顧みなくてはならない――というと流石に格好を付けすぎかもしれないが。

 要するに、彼がどうしてそうなるのかという因果の、過程の部分にきちんと触れなくてはいけないというただそれだけの話だ――――


 高遠比衣との通話を切った余波は暫く天井を見上げたまま動かなかった。胸中は複雑だ。自己嫌悪、興奮、悦びと、同時に罪悪感、そういったものが凡そ一緒くたになって彼女の胸に巣食っていた。物事をシンプルに、安易に考え行動するを旨とする余波にも、そうそう簡単に割り切れない事はあるという事だ。先輩と、友人と、自分の問題。プラス、先輩の妹と私の姉も。要するに卑近な問題はどうしたって身近にある分、簡単には割り切らせてもらえないし、何より彼女には圧倒的に経験値が足りていない。

 嗚呼、複雑だなあ――彼女は甘く、そしてほろ苦く響く混沌に、ロックされた思考の隅っこでぼんやりと膝を抱える。その口元は薄く笑みを湛え、くちゅん、と小さくくしゃみをして自分が一糸纏わぬ恰好だったのを思い出した。ヘッドホンを外して壁のフックに掛け、椅子の上に胡坐をかいたままデスクを押してぐるりと椅子を回転させる。見上げた天井が回り、頭の中の思考もその回転運動に従って渦を巻いた。堂々巡りの思考ほど時間とカロリーの無駄遣いもないが、柊余波にとってはその自己撞着でさえ楽しいのも事実だった。

 高遠比衣に何度も繰り返した自分の言葉を思い出す。尊敬する一人であるその人物の顔を思い浮かべる。そうとも。何よりも大事にすべきは今ここにある日常じゃないか。日々の中での緩やかな変化は尊く、そして愛おしい。それこそこんな日がずっと続いてほしいと物知らぬ幼子のように星に願ってしまうほどに。逆説、それが全く以て贅沢な願望だと祈りに込めてしまうほどに。

 しかし、いや。だからこそ、だ。

 彼女――柊家の次期当主たる彼女は、この須臾の安逸の為に出来る限りの事をしようと決めていた。

「くしゅんっ、うー……流石にちょっと冷えたかなあ……」

 ぶるっと肩を震わせて身体を見下ろす。窓もカーテンもきちんと閉めているとは言え、この季節に空調を入れてない部屋は流石に全裸で過ごすには少し寒かった。比衣に風邪を引くなと注意された手前、体調を崩すのは何となく癪だった余波は床に就く前に軽くシャワーだけでも浴び直す事にして素早く行動に移し、改めて髪の水気を拭いながら下着姿のまま部屋へと戻ってきた。寝間着はベッドの上に畳んだ状態で用意してあり、今度は身体を冷やす前にさっと身に着け、外してあった包帯をぐるぐると適当に腕に巻き付ける。

 あれよあれよと時間は深夜に踏み込んでいた。明日も通常通りに学校があるというのに目は冴えていて、かと言ってパソコンを弄ったりテレビを見たりしてより脳を活性化させる気分にもなれず、ぼんやりとベッドの中で横になったまま流し読む為の小説でもと思い小型の本棚の前にしゃがみ込んだ。出来れば小難しいミステリーで、古典がいい。小難しい単語と論理と言い回しは数学の授業と肩を並べるくらいの折り紙付きの安眠効果を含有している。

 柊余波は寮住まいだ。決して大きい訳でも広い訳でもない建物での、不特定多数との部分的な共同生活というものは、長らく孤独な暗闇に棲んでいた彼女にとっては何もかもが真新しく、自由で、楽しいものだった。一方で奇妙にも思えるルールが幾つもあって、それを窮屈だと感じる反面、そんな風な窮屈を感じる事自体がやはり新鮮で、今やそれを破るという反体制的な行動にもちょっとした愉悦と興奮を得るほどになっていた。中でも日頃、他の寮生と情報のやり取りをしてうまく寮長の監視を掻い潜り、時には協力して陽動を行ったりして門限以後に寮を出入りするのはなぜだかただそれだけで楽しかった。勿論、その気になれば誰にも気付かれずに三階の窓から出入りするのは余波にすれば欠伸しながらでも出来るのだけれど、他の生徒に協力したりされたりするのが楽しいのであって、それでは何の意味もないのだ。実際、夜に小腹が空いた時などはそうやって出入りしている。こういうのはたまに失敗して寮長に見付かったりするのもそれはそれで乙なのだ、と彼女は思っていた。

 だから彼女にとって――というか、征汀館学園外部寮であるそのアパートの住人の生徒達にとっては、寮生間での相互扶助は代々先輩から後輩へと受け継がれる仲間意識を育む暗黙の了解だった。誰かが助けを求めれば、他の寮生は可能な限り協力する。門限破りだけではなく、試験の過去問の提供やあの店の新作ジェラートはどうであったかという情報まで含めて、寮生達は常に持ちつ持たれつ共有し合っていた。当然、余波もその同盟に加盟する一人であり、楽しいからと様々なところに顔を出してはそれなりに活躍してきた彼女は今やその中心人物とさえ目されていた。

 だから。

 本棚に並んだ小説を吟味している途中で部屋の扉がノックされた時、彼女はまたぞろ誰かが相談事でも持ってきたのだろうかと思った。最近は相談があるとまず余波に話をしに来て、彼女がそれに最適な人に声を掛ける、というような図式が寮内では確立されつつあった。

 入室の許可を求める声。

 同時に、背後からピコリンと携帯端末が音を鳴らした。

 柊余波は色々察した。溜息を溢し、壁に掛けていたカーディガンを引っ掴む。デスクから取り上げた携帯端末のディスプレイにはアプリの新しいトピックスの更新と姉――柊水鳥からのメッセージ受信のお知らせがポップアップしていた。


 夜も更け、月明かりは白々と、冬の冴えた空気には凛とした緊張が張り詰めていた。

 新藤陽介、久須美春木、白樺真歩、以下九名の公務員が、公務員らしからぬ装備と恰好で全身を固めて闇に紛れていた。

 一様に特殊な化学素材を用いたエナメル質なスーツで下から首までを覆い、足にはそれぞれのサイズに合わせた特注のブーツを履き、両の手首から指先までにはグローブ、頭にはフルフェイスのヘルメットをかぶり、腰のホルスターには大口径の拳銃、ナイフ、伸縮式の特殊警棒を装備している。頭の先からつま先まで全身を黒一色に染め、装備品までをも黒く塗り揃えるという徹底振りはお役所仕事的な画一性を思わせると同時に、彼等の職務上の特異性をもまたはっきりと強調していた。

 フルオーダーメイドの同規格品を身に纏い、武装した、十二名の集団。彼等は水環市の住宅街が広がる区画の片隅、より正確には商業系の区画との境目に位置する場所で、この辺りから雑居ビルなどが増えてくる一画に、ひっそりと身を寄せ合っていた。そこには先ほどまで警官が入れ代わり立ち代わり忙しくしていて、現在は黄色いテープが張られて封鎖されたビニールシートで覆い隠されている。

 残っていた警官達は彼等が到着すると同時にシートの外の警備に回され、恐らく既に署へと戻っている筈だ。現場にはとっくに死体はなく、血の跡も綺麗に洗い流されている。テープとシートで仕切っていなければこんなビルとビルの間の横道など誰も見もせずに通り過ぎ、ここが凄惨な殺人現場であるなどとは気付きもしないだろう。尤もだからと言って事件現場をすぐに開放する訳にもいかず、結局こうして何も残ってない一画を漫然と目隠ししていた。

 そこにはこれと言って何も残されていない。通報があってから既に数時間。勤勉な水環市警の面々は数日前に発令されているプロトコルに従い、特に選りすぐられた者達が招集されて粛々と現場を精査し、証拠と被害者の遺体を回収、これ以上、余計な茶々を様々な報道機関から入れられる前に事件現場からその異常性の痕跡を即刻抹消した。

 よって、彼らが対面したのは綺麗に清められた――何となれば事件が起こる前よりも遥かに綺麗に清掃され、整えられた――路地だった。

 十二人は、ただ自分達の失敗を噛み締める為にここに集っただけだった。

 彼等は、使命感に燃えていた。


 携帯が鳴った。

 普段使っている、こちらに来てから世話になっている庭園の後見人が必要だからと渡してきたものではなく、最初から持っている折り畳み式のパカパカ出来る方、骨董品にも等しいものが、鳴った。

 しかし、犬塚征斗はこれまでと同様にその着信を黙殺する。切りもせず、当然、応じもせずに、ただただ着信音が途切れるのを闇に浮かぶランプの明滅をじっと睨み付けて、待つ。

 鳴る。鳴る。鳴って、鳴り続ける。古い歌だ。あの頃は大人気の歌姫が出したばかりのヒットナンバーだったのだが、今となっては懐古趣味の一曲といったところだろう。恐らくクラスメイトに知っているか聞けば、半数くらいはワンフレーズは知ってても曲名までは分からない、といったような。

 携帯が鳴った。

 ポケットに入れっ放しになっていた普段使いの端末が振動し、現在の相方である少女が好き勝手に設定した大人数系アイドルの最新曲が流れ出した。最初の一音目に合わせてむず痒い振動が太ももに伝わった瞬間、柾斗の意識は反射的にそちらへ向かい、再びテーブルに目を戻した時には古い携帯はいつの間にか沈黙していた。電灯が消え、一切の明かりがない部屋の中、辛うじてシルエットが暗順応した視界に映る――とっくに壊れて動く筈のない携帯は当然、死んだように押し黙り、死体のように横たわっている。

 携帯が鳴る。

 犬塚柾斗はハッと我に返り、自分の手の中を見下ろした。携帯端末は呆けた主人に容赦なくせっつき、着信を報せ続けている。こそばゆい振動で掌がこそばゆい。退屈な呪文は右から左、君の横顔を眺める毎日が楽しくて、楽しくて――そこまで歌ったところで端末は黙った。柾斗が画面に指を滑らせ、応答する。

『今どこ?』

 挨拶も抜きに、電話の相手はそう訊いた。

「どこって普通に部屋にいるけど……お前こそどこにいるんだ。電話してくるって事は、家にいないのか」

『まー、うん。色々視えて、ね。ちょっと外に出てこられる?』

 言葉とは裏腹に明らかに出てこいと指示している声音だった。犬塚柾斗の同居人であり、また現在の業務上の相棒という位置付けでもあるその少女がこういう言い方をする時は、大抵がロクでもない何かに首を突っ込もうとしている時だ。或いは、その一歩手前か。どちらにしてもここでノーと答えたところで、後々揉めるのは目に見えていた。

「……はあ。どこにいるんだよ」

『えっと……あっ、ごめ、ちょっと待って。多分、もうすぐ移動すると思うから……ん、取り合えず住宅街の方、目指してきて。じゃ、また連絡するから』

 一方的に言って、通話は切られた。

「……住宅街の方、て……漠然としすぎだろ……」

 そう呟きながらも柾斗はすぐに思い直し、コートを掴んで外出の用意を始めた。今がどういう状況かを思い出したからだ。現在、水環市では、連続して猟奇的な食事行為、または狩猟行為、乃至はただの殺戮を行う不法な吸血鬼が闊歩している。氷雨宮末理が如何に掴みどころのない変人だとしても、この状況下でわざわざ無関係な要件でこんな風に急に呼び出してくるとは思えない――多分、きっと。

「それに明らかに誰かを尾行している感じだったし、なあ」

 もしかすると吸血鬼本人か、それを追っている水環市の公務員だろう。どちらにしてもどっちでもよく、そもそも今回の事件自体が彼の業務の領分内かと言えばかなり微妙なところだった。犬塚柾斗と氷雨宮末理は確かに水環市のある一部分の管理、調整に携わる嘱託員だが、彼等の立場を考えれば実務的な、こう言ってよければ実害的な威力行動は見方によっては明らかな越権行為に抵触する。事態はお役所的な管轄問題を含む極めてデリケートな話だ。自分達の活躍の場を外様に横取りされ、果たしてこの都市の自治自警を自負する彼等が黙っているかというと、十中八九、猛然と反発してくるに決まっていた。そう分かっているのに二人の直接の雇い主――後見人は、いざとなれば遠慮せず介入しろと言ってくる。

 柾斗は溜息を吐き、部屋の電気を灯すのも煩わしく、勝手知ったる自室を床に置いた本やゲーム機を器用に避けて歩いて本棚に収まっていた箱を取った。鍵は一応付いていたが、掛けてはいなかった。蓋を開け、暗闇に慣れた目がぼんやりと中身を映す。

 今の状況がこれを必要とするほどの事態なのか、柾斗には分からなかった。そうならない方が誰にとっても幸せではあるのだろうが、しかし、過去の経験に嫌というほど学んだ彼は世の中というものが往々にして希望的観測の逆方向へと舵を切るのを知っていたし、こうなれば良いという思考に従う危険性は身を以て理解していた。

「……ま、何事も用意し過ぎて悪い事はない、か」

 呟き、大切な宝物を取り扱うような丁重な手付きで箱の中身を取り出して、ベルトに挟む。

 結局、彼は状況をまるで把握する事無く、パートナーに呼ばれるままに夜の街へと足を踏み出す。直前、テーブルに置いた旧い携帯電話が鳴り出したような気がしたが、柾斗はこれを無視して扉を閉めた。


 男は良くも悪くも古い種類の人物だった。堅物で、自尊心が高く、吸血鬼足る者を自覚しており、これを他者に対して誇る事に何ら躊躇いがなかった。

 仮令、取るに足らない筈の人間の少女に出鼻を挫かれた後であっても、本質的な性格に由来するその自己認識に変わりはない。確かに一度は目当てのものを目の前にしながら、突然現れた少女に意表を衝かれて目的の達成を阻まれた。意想外な出来事に警戒し、身を潜めて情報の収集に努めた。

 そうして食事を終え、目当ての腕輪の行方を捜し当てた男はふとアーケード街の商店の前で立ち止まり、彼の目にはただ陳腐な物品としか見えない小物類が並んだショーウィンドウに映る呆けた面を眺めた。

「……貴様は一体、何をしている……」

 見慣れた顔が、聞き慣れた声で自問する。ぞわりと全身に蟻走感が広がり、堪らず身震いした。何を。貴様/私は、何をしているのか。止まっていた足が自動的に動き、再び人混みに紛れる。知れている。為すべきを、成す為に。さながら薪を焼べられた火のように激しく発火した吸血鬼としての自負心から彼は即座に自答し、自らのその回答に苦笑を浮かべた。なるほど確かに。どうにもらしくなかったのではないか?

 男はこれ以上の警戒は時間の無駄だと判断した。間違いなくあの少年こそがそうだと男自身の血が告げているのだから、これ以上何が必要だというのか。

 だが、物事には作法がある。男は古臭い者に特有の堅苦しい主義からそう考えていた。我々は錆びた夜を歩く者。懐かしき月の同胞、闇から闇を渡る夜陰の獣。或いは、狩猟者。我等は夜を往くモノなれば、その跳梁跋扈は月下を舞台にしてこそだ、と。

 男は堅物だが、馬鹿ではなかった。そうした作法や矜持の尊さを知り、こうして実行に反映してはいるが、一方でそれらが持つ機能的な側面も正しく理解している。

 昨晩の少女を思い出す。恐らくこの地に組織されているというハンター達の一員だ。男の目的がハンター達との戦闘行為ではなく、もっと崇高で切実なるものである以上、その手の連中との逢瀬など可能ならば避けるに越した事はない。

 夜陰を歩み、月明かりに紛れて事を起こすのは、だから二つの意味で正しい判断だった。吸血鬼らしく月光を背に、これ以上の徒労を嫌って、しかし男は一切隠れる素振りもなく堂々と夜の街を歩いた。まさに素晴らしき吸血鬼らしく。

 その姿を、彼を探す者達が発見するのはだからこそ簡単だった。

 検索班所属の感応者からの伝達を受けた新藤陽介率いる水環市都市環境局環境保全課異常事態対策室実務班は即座に移動を開始し、堂々と街中を歩いていた件の吸血鬼を自らの勘を頼りに、つまりはいつも通りの気儘な散策の途中に見掛けた氷雨宮末理は事態の急変を予感してパートナーの犬塚柾斗に一報を入れ、柊余波は寮の共用スペースで深刻そうな同級生から相談を受けていた。

 三者三様の理由と展望を抱き、例年よりも寒さの厳しい今年の冬でも殊更に冷え込む夜の下へ彼等は繰り出した。

ある者は確固たる使命に燃え、ある者は怒りと憎しみに震え、ある者は無聊を慰める為に、ある者は気紛れに、またある者はしばしば物語がそうするように運命に導かれ、そして誰の眼にも見えないカウントダウンが刻一刻とその数字を減らしていく。

 斯くして一連のあれやこれやは風雲急を告げ、想定された最悪目掛けて緩やかに歩を進める。


 吐く息が白く煙る。正面から吹き付ける気紛れな風は鋭く凍え、白く染めた吐息を夜闇に散らしていった。今夜の風はコートの襟を寄せ合わせても厚い生地を透して身体の芯まで沁みてくる。剥き出しの指先はかじかみ、気付くと両手をすり合わせていた。堪らず首を窄め、鼻までコートに隠れる。すると自分の吐息の熱で幾らか暖かくなったと錯覚する。

 静かだった。耳が痛く、気温とは関係なく寒気がするほどに。辺りは静謐に包まれ、植え込みも禿げた木々も今夜は何かを恐れるように身を縮めてじっくりと口を噤んでいる。

 なるほど、と犬塚柾斗は神妙に唸った。確かに、今夜は妙な夜だ。奇妙に血が噪ぐ。うなじがジリジリと痺れるような、背筋に鳥肌が立つような、心臓がおかしな具合に少し早鐘を打つような、そういう焦れた気分がじんわりと彼の足を速めていた。

 柾斗は、数分前に再び掛かってきた氷雨宮末理からの指示に従って、当初の目的地からは些か外れた場所へとやってきていた。普段はあまり足を向ける事のない中央区の公園だ。園内は夜という事もあって人影がなく、少ない街灯が作り出す濃い闇は一層暗く不穏の気配を予感させた。

 相変わらず怖い世の中だ、と彼はふと思った。

 幼い頃、怪物を信じていた。けれど成長し、そんなものより人間の方が怖いと知り、その後の様々な出来事に誘引されてそれまでの彼の人生に於いて隠されていたものが暴かれてしまった。つまり嘗ては虚構に過ぎないと断じた筈の怪物や恐怖が、実際にこの世界には人知れず存在しているという事を。

 つくづく嫌な世の中だ――独りごちつつ暗い園内へと踏み入り、すぐに視線の先、月明かりがあるとは言え夜間に辛うじて視力が働くギリギリの場所に幾つかの人影を認めた。明らかに穏やかではない雰囲気。四つの影が、一人を囲んでいるように見える。柾斗はとっさに足と呼吸を止めると気配を殺した。――気付かれたか? 彼我にはまだかなりの距離があるが、さて。尤も気付かれたところで問題はないが……

 刹那の思案。一瞬の隙だった。

 柾斗の背後から影が飛び出した。影は彼の口を素早く塞ぎ、植込みの陰に引きずり混む。柾斗は咄嗟に左手を胸にやり、ぶら下がったアクセサリを掴もうとして、力を抜いた。耳元で、喋るな、と囁くのが聴こえたからだ。耳慣れた声だった。柾斗は口を塞ぐ腕を軽くタップし、手を外させた。

「お前、こんなとこで何やってるんだよ、末理」

 体勢を立て直して振り返ると、胸が触れ合うほどの近距離にまで身を寄せた少女が唇の前に人差し指を立てていた。

「静かに。見て分からない? 隠れてるのよ」

 氷雨宮末理は柾斗の事を見もせず、立てていた指をそのまま彼の頬に突きつけて顔の向きを変えさせて、その先を指差した。彼は抵抗せずにされるがままそちらを向く。植込みの向こう、先ほど自身も見付けた集団へと注視する。ほとんど小太刀とでも呼ぶべきサイズの刃物に、日本国内での携帯性が許す限りの火力を求めた銃火器。いつの間にか物々しいそれらで武装した四人が対峙する一人に向けてジリジリと戦意を燻ぶらせている。

「…………俺達はここにいていいのか?」

 一触即発の空気を敏感に嗅ぎ取りながらも柾斗はまるで日常のワンシーンであるかのように長閑な口調で言った。

 うーん、と応える末理も何とも間延びしたのほほんとした調子で、見つめる先の緊迫した空気などどこ吹く風だった。

「正直迷ってる、かな。外様の私達がどこまで首を突っ込んでいいのか判断しかねてまーす」

「さいですか」

 相方の若干ずれた返答に肩を竦め、柾斗はその場に尻を落ち着けた。

 植込みに隠れた二人の視線の先では、今まさに水環市の対吸血鬼部隊と吸血鬼によるオーケー牧場の決闘が始まろうとしていた。


 環境保全課異常事態対策室実務班の班員三名を率いて吸血鬼を捜索していた白樺真歩は、人気の少ない路地の一角でその男を発見した。長身痩躯、黒のスーツ、装飾品と銀の髪――写真に写っていた人物はそこにいる男とよく似ていた。

 彼女は愕然とした。検索班からの情報を基に実務班を三つに分けて散っていた彼女等の班が辿り着いた吸血鬼は、在ろう事か身を隠すでもなく悠々と夜道を歩いていたのだ。足取りはさながら気儘の散歩。何も知らない通りすがりの人々には、瀟洒な異国からの逗留客が優雅な夜の散策を楽しんでいる風に見えたかもしれない――彼が外套のように身に纏う、密やかでありながらも明らかな、その空気さえなければ。

 離れた場所にいてすら匂う濃密な暴力の気配に、真歩は引鉄を求めて逸る指先を鋼の心で抑えつけた。後ろから班員の一人が窺うように呼ばわり、ハッとする。真歩は通りを歩く男を見据えたまま建物の隙間に陰と溶け込む背後の三人に向かって掌を向け、逆の手で首のスイッチを押した。咽喉マイクがオンになり、水環市の各所に設置された中継機を経由して接続する二つの班に対象の発見を通知する。返答は即であり、彼女は了解した。水環市は市のほとんど全域に渡って一部例外を除いて車両制限が敷かれている。実務班は一応の秘密部署の為に、指揮車ならばまだしも徒歩で移動している対象を捜すのに大っぴらに警察車両を持ち出すのは人目と効率の面から避けられ、合流に暫く待つ羽目になった。

 無数の肉片が脳裏を過ぎった。地面に広がる臓物、ぶち撒けられた赤、散華したあれそれ、無残にも無益に殺害された――否、屠殺された彼等の声なき口が次の被害者が出る前に一刻も早くアレを処理すべきだと訴える。

 白樺真歩は、賢明な女だ。自分達は対吸血鬼部隊だが本物の吸血鬼との実戦経験が乏しく、これまで積み上げた訓練が現実にどれほど有効なのか慎重に疑問視していた。しかも配備されている装備はいずれも人間相手に開発された道具であり、対吸血鬼用の細工が施されていると言っても程度は知れる。では、それ等を最大限活用するにはどうするか。有機的に機能する集団で相乗効果を狙うしかない。肉食獣が群れで行う狩りのように、自分達も群れで吸血鬼を狩るのだ。

 恨めしげな眼を向けてくる死者達に真歩は努めて冷静にかぶりを振った。

 彼等の悲嘆を想う。踏み躙られた命と、摘み取られた可能性を想う。自身の内側に生じる怒りを義憤を感じる。最早、失敗は許されない。だからこそ今はとにかく他の二班を待つべきなのだ。そう自らと彼等に言い聞かせる一方、吸血鬼の後を追う彼女の胸には徐々に危機感が募っていく。

 状況は刻一刻と変化する。

 数字は瞬く間に減少する。

 時計の針は実務班が揃うまで十分は掛かる事を告げ、同時に白樺真歩を含む四人に選ぶ余地のない選択を迫った。

「いつまで隠れているつもりだ」

 嫌な予感は的中する。

 次第に人気のない方向――より暗く、静かな方へと進んでいた吸血鬼が公園の敷地を幾らか進んだところで不意に足を止め、振り返った。既に隠れる場所はなく、自分達がそこへ誘導されているのは分かっていたが、下手に距離を置いて見失う訳にもいかない彼等にはどうする事も出来なかった。

 三人は顔を見合わせる。現状、三人の指揮を執っているのは実務班の総合成績第二位を誇る才媛、白樺真歩だ。指示を仰ごうと振り向いた三木達哉の暗視補正された目には自分と同じフルフェイスのヘルメットを被った真歩の不気味なほどに静かな姿が映る。闇に黒く塗り潰されたシールドに隠れて表情は一切読み取れない。

 思案するのも煩わしく、真歩は決断した。こうも見通しのいい場所に引きずり込まれた以上、選択肢はない。彼女は目の前の三人に頷き、吸血鬼を囲むように展開してそれぞれが武器を抜いた。

 真歩は舌打ちし、毒づいて感謝の言葉を吐き、乾いた唇を舐めた。緊張と興奮に口角が勝手に吊り上がっていくのを他人事のように感じた。

「――――陽介、春木。悪いけどお先に始めてるよ」

 酒盛りでも始めるかのような気軽さで呟き、彼女の指は待ちに待った瞬間の到来に喜び勇んで引鉄を引いて、それは実質的な戦闘開始の合図となった。

 彼等が頭に装着したヘルメットはオルタナと呼ばれている。全身を包む耐衝撃・防刃・防弾仕様の特殊素材で造られたスーツに組み込まれている各種センサーの統括データと、周囲に位置する班員の方向をシールドの内側に投影表示する装置だ。暗視補正された視界に数字や記号やグラフが重なり、視線を感知して装着者の求めるデータを拡大強調する。リアルタイムで更新され続ける状況を複数の観測点から客観的にデータ化し、班員全員が共有する戦闘情報統制システム。オルタナとは別個の人間を有機的に接続する機械仕掛けの神経網であり、三つに別たれた猟犬の首は今まさに白樺真歩の発砲を聴いていた。

 空気を震わせた銃声と同時に、視界内の表示が戦闘モードに切り替わる。三木達哉はナイフを構えて飛び出した。オルタナが視線を読み、班員達の位置をマーカーで教える。

 三つのマーカーはなぜか彼の後方で点滅していた。耳障りなビープ音が鳴っている。達哉はギクリとした。目の前にいた筈の吸血鬼の姿がいつの間にか消えていた。奴はどこだ? それにこの煩い音――これは一体、何の警告音だ? 視線を動かして音の原因となるものを探す。だが分からない。そもそもどうして目の前がこんなに暗いんだ。

 僅か一呼吸にも満たぬ間隙。その刹那を縫い、白樺真歩の射撃に合わせて踏み込んだ三木達哉の首がぽんっと宙を舞った。彼の脳からは加速度的に酸素が失われ、辛うじて残っていた意識は視覚が完全に暗転すると併せて消失し、頭部に残っていた血液を遠心力で周囲に撒き散らしながら弧を描いて落下していく。力を亡くした身体は慣性のまま二、三歩歩いた後、頽れるようにその場に倒れた。

「な、ん――――」

 真歩は言葉を失った。

 彼女の放った一発を、吸血鬼は脅威と見做さなかった。避けるのも面倒だというかのように純銀加工の弾丸を甘んじて左肩に受け、戦闘の口火を切った真歩を無視して背後に迫る三木達哉に向け腕を振った。ナイフが届くよりも早く吸血鬼の指先は首を貫き、骨肉を切断して彼の頭を刎ね飛ばした。

「た、達……哉……あ、ああ、あアアァああ! お、ま、えええぇえッ!」

 三木達哉と個人的に親しい間柄であった赤井有紀が半狂乱で絶叫する。銃を乱射しながら肉薄し、我に返った真歩の制止も聞こえず、止めに入る間もなく弾倉を撃ち切るとナイフを抜いて襲い掛かった。

 十発以上の銃弾の前にはさしもの吸血鬼も回避行動を選んだ。狙いも何もない出鱈目な射撃から怪物らしい驚異的な動体視力と動きで身を躱し、掻い潜るようにして目の前に突き出されたナイフを、それを持つ腕ごと持ち上げて懐に入り込む。骨の壊れる音が響く。関節が砕け、力任せに引っ張られた腕がまるで虫の足のように簡単に毟り取られていた。先ほどとは異なる理由から細い絶叫が有希の口から迸り、次の瞬間にぷっつりと途切れる。耳元で叫ばれた吸血鬼が顔を顰め、煩わしそうに手にしていた腕を彼女の喉の奥に押し込んでいた。咽喉が裂け、溢れた血液は瞬く間に喉を滑って肺に溜まり、有紀は自らの血で溺れ始めた。

 姿秀介は口の中で罵詈雑言を並べ立てる。口先ばかり達者でイキリ屋の三木達哉の阿呆が初めての実戦に焦って死に、その女の赤井有紀はヒステリーを起こして無謀な突撃をした。無駄死にだ。いや、無駄どころか迷惑極まる死に様だ。手前が死ぬのは勝手だがその所為で俺まで死にそうになっているんだ、畜生!

 オルタナが反応する。秀介は舌打ちしながらも追従した。白樺真歩が絞められた魚のように痙攣する有紀を前にした一瞬の硬直から立ち直り、すぐに行動を再開していた。

 秀介は投げ飛ばされた有紀を避け、真歩は同僚であり親友でもある彼女へのそんな扱いに最早言葉にすらならない激憤を募らせ、二人は拳銃を吸血鬼に向ける。実務班に支給される拳銃――対吸血鬼用装備と言っても中身はシンプルだ。火力を向上させ、吸血鬼の肉を灼く純銀でコーティングしたシルバージャケット弾を射出する。一発程度ではどうやら吸血鬼の動きを止めるほどの威力はない。真歩の初弾を歯牙にも掛けなかった事からもそれは明白だ。しかし、全く効果がないという訳でもない。弾丸はしっかりと肩の肉に食い込んでいた。

 痛みは生ける者に不可欠な防御反応だ。してみるに吸血鬼という不老不死を標榜する存在であってもやはり生物ではあるのだろう。男は手にしていた女を背後に投げつけた後、自分に向けられる二つの銃口を見、うんざりした様子で鼻を鳴らした。先ほど撃ち込まれた銀弾は今も肩の肉を灼いていて不愉快だし、如何に夜の眷属といえどもそうそう何発も銃で撃たれては堪ったものじゃなかった。

 足下に落ちていたナイフを真歩に向けて蹴り飛ばす。真歩がナイフを躱す一瞬の隙に男は素早く身を翻し、目の前の秀介の射撃を獣の如く身を低く駆けて掻い潜り、後ろで真歩が体勢を立て直す前に一気に距離を詰めた。これだけ接近すれば、誤射を恐れた真歩はおいそれと引鉄を引けなくなる。

 秀介は上体を逸らした。吸血鬼の拳が紙一重で鼻先を掠める。しながらナイフを抜いて、頭を刺してやろうと繰り出すが、軽々と腕を掴まれた。

 バキンッという音。ナイフが落ちる。握り潰されて増えた関節のところから腕がぶらんと垂れ、裂けた肉からは砕けた骨が突き出し血が飛び散った。

「ッあ、ア――痛ってぇじゃねえかよ、クソ虫がァ!」

 激痛が脳を殴打する。吐き気を催す強烈な痺れが全身に走る。眼の奥で赤い閃光が炸裂し、まるで歯車が小石を噛むように手足が硬直する。

 ――――それがどうした、クソッタレ! 既に極限まで神経が昂り、苛立ちに突き動かされていた姿秀介は口汚く悪態を吐くだけで止まらなかった。握られた左腕の筋肉がスーツの繊維ごとブチブチと千切れるのも構わず手を引き、吸血鬼の胸を蹴って距離を取り、すかさず拳銃を眉間に突きつけた。

 刹那――姿秀介の眼と、吸血鬼の眼が合う。

 秀介が引鉄を引く。吸血鬼は腕を投げ捨てる。無理な姿勢で馬鹿な火力の拳銃をそれも片手で撃った所為で体勢を崩す。銃口は目の前十センチ未満、防御は間に合わない、当然に回避も不可能――ハッ! 秀介の勝利を確信した嘲笑が弾ける。肩に命中した白樺真歩の銃弾がその肉を未だ灼いているのを見れば、脳を狙えば効果は充分に期待できる。同時に吸血鬼も笑っている。感嘆、嘲弄、圧倒的優越から来る高慢な余裕が笑みとして漏れた。宜しい、腕輪の封印を裂いた時につけられたケチから続くこの憤懣を、是非とも存分に発散させてくれ。

 腹はくちていた。些かマナーは悪いが食事のついでに暴れ、散らかして、幾らかは留飲も下げはした。だが、それだけだ。男――古式ゆかしい、旧いタイプの吸血鬼であるところのエミール=エリアーデにとって、吸血鬼としての誇りに付けられた汚点は吸血鬼らしく正当に雪がなければならない。故に今夜、使命を果たす障害が在り得るのならば、まず真っ先にこれを排除するのは自明。徒労を嫌うからこそ、迷う事無く苦労を買う。これは生存競争であり、必然的な闘争だ。夜の覇者足る吸血鬼である自分が、狩りではなく斗いを挑んで、敗北を喫するなど在り得ない。ひっそりと獲物に忍び寄り狩りを行うのが狩猟者としての作法であるのと同様に、誇りを掲げる者としてその潔白を守る事は義務なのだから。使命の為に、邪魔者は消すに限る――尤もこれが単なる腹癒せである事まで否定するつもりもないが。だからこそこうも愉快であるのだろうし。

 秀介の必殺を確信した銃声が夜空に轟く――その瞬間、文字通りに空気が変わった。オルタナに接続する機器類が異常を感知するより早く、白樺真歩の、姿秀介の、生物としての本能がその場に巻き起こった変異を如実に嗅ぎ取っていた。

 まず、秀介は我が眼を疑った。今この瞬間にまで確かにいた筈の吸血鬼が、目の前から忽然と消失していた。次いで背筋に悪寒が走り、訳も分からず、或いは千切れた腕から大量の血を吐き出す死の危険に研ぎ澄まされた神経に由来する全く出鱈目な勘の働きから、一も二もなく全力で横に飛ぶ。

 死が降りてきた。

 そうとしか表現のしようがない音をさせ、寸前まで彼がいた地面に幅十センチ、拳が入るくらいの深さの一筋の線が刻まれる。転がり、その勢いのまま起き上がった秀介が振り向くと、消えた筈の吸血鬼が再びそこに立っている。悠々と佇み、鉤爪を模した右手を不自然に振り上げたような体勢で、ほう、と感嘆の吐息をつく。

「なる、ほど。なるほど。先ほどの二人は全く話にならなかったが――ふむ。貴様は、多少はやれるようで実に宜しい」

 どこか神妙に、くつくつと喉を鳴らしてエミールは言う。

 それに対して、秀介よりも先に真歩が動く。悪寒と怖気、種の本能が一刻も早くそれから離れろと命ずるのを意志力と培った訓練、何より黒く燃え上がる感情の熱量を以てしてねじ伏せて、凍り付いていた指先に鋼鉄の意思を通した。一度、二度、三度。残弾を吐き出して、ほぼ同時に空のマガジンをその場に落として新しい弾倉を込める。当然、その間も吸血鬼からは注意を外していない――いなかった筈だ。まるで絶えず降り注ぐ月光が目の前を覆い隠したかのようだった。見えているのに、視えていない、という妙な感覚。ぞぞぞ、とぴたりと首筋も覆うスーツの滑らかな素材の直下、うなじの辺りに違和感が走る。右――反射的に拳銃を構える手をずらし、肘を引き、真横の空間を撃っていた。

 エミールは意想外の反応の良さに称賛を送りつつ、半ばアクロバットを極めるかのような回避行動を執った。真歩のすぐ傍にまで接近した状態から一気に逆方向へと舵を切って銃弾を躱し、馬鹿げた思い切りで左腕の負傷など物ともせずに突出してくる秀介の切っ先から身を逃す。地を蹴り、半回転。距離を取って二人と対峙する。

「姿さん。その腕……」

「大丈夫ですか、なんて訊くなよ。見りゃ分かんだろ」

 肩を並べ、短いやり取りをしつつ、二人の視線は目の前の吸血鬼から逸れない。理屈は分からないが、いや理屈なんてあるのかも不明だが、あいつは視野に収めていても真正面から死角を衝いて尋常ならざる身体能力で攻めてくる。

 なるほど、とそれぞれ内心で首肯する。吸血鬼。まさに、怪物だな。

 一方でエミールは興味深い昆虫でも眺めるかのように目の前の人間を見つめる。明らかに反応出来ない速度とタイミングだった。それを一度ならず二度、一人ならず二人に防がれた。本来ならば最初のアッパーカットで姿秀介の首はロケットのように吹っ飛び、白樺真歩の胴体はハンバーグの種になっている筈だったのに、そうはならなかった。

 ふむ、とエミールは唸る。

 これまであまり実感はなかったが、つまりはこれがこの地の影響――曰く水環の封印の波及効果か。事実として彼等は見えている訳ではない。端的に言えば山勘。咄嗟の行動の結果、偶然が積み重なってこちらの一撃を回避している。無論、実力もあるだろうが――そうでなければ偶然さえ起こり得ない――それにしても、だ。エミールは感覚を確かめるように右手を握っては開き、握っては開いて、ふ、と短く息を吐くように笑った。

「……何がおかしい、クソ吸血鬼が」

「いいや、いいや――何でもないとも」

 そう、何でもない。何ともはや、下らない。吸血鬼は自らの思考を一蹴した。

 何もかもがどうでもよかった。この土地に纏わる話も、その影響も、だからどうしたというのか。たかが人間程度を相手に月の恩寵を示すなどやはり馬鹿げた話なのだ。所詮一度や二度の偶然など、あとほんの少し力を入れて押し込むだけで易々と叩き潰せるのだからな。

 姿秀介は舌打ちした。知らずリズムを崩す心音と呼吸、ふとした拍子に遠退く意識に、流石の彼も限界が近い事を悟る。見たくはなかったが、ちらと左腕に視線を送った。手がない。肘と手首のちょうど中間くらいのところから先がなく、割れた骨の白がピンク色の肉の境から飛び出し、引き千切った所為で皮膚も肉も不揃いに垂れ下ったり欠けていたりし、そこから夥しい量の血が流れる、というよりも傷口から何かが剥がれ落ちているかのようにだばだばと吐き出されている。今の俺の顔色はまさにこの公園に現れると噂の幽霊のように蒼白なんだろうな、と他人事のように考えた。

 冷静になれ、と自らに言い聞かせる。白樺真歩の胸中は穏やかとは程遠かった。頭に血が上り、脈拍は早く、分かりやすく平静さを欠いている。ほんの小さな切っ掛けさえあればすぐにでもリードが指から離れ、目の前の吸血鬼に襲い掛かってしまいそうになるのを、だから必死で抑え込んだ。先の二人を見ただろう。無策の突撃は、自殺と同義だ。なのに、今もこの怪物に蹂躙された彼等が視える、囁き、叫んでいる。奴を許すな、と。強くリードを握り込む。逸るな。冷静になれ。時間を稼ぐんだ。

 無論、時間を稼ぐ余裕などある筈がない。

 軽やかに。ステップを踏む気軽さでエミールが踏み切った。一陣の風が吹き抜け、秀介の目の前に。初動からそこまでの間のコマを切り抜いたようにエミールが視界ギリギリのところに現れる。

 ぐん、と視界が歪んだ。

 秀介の、ではない。

「白、か――」

「――ッ、あ――――」

 真歩の視界、風景が右から左に流れた。音、悲鳴、空気、痛みですらを置き去りにして、身体だけが鈍い塊となって吹き飛ばされる。そこにあるのは衝撃だけだった。ほとんど奇跡に等しく咄嗟にガードした腕の上から、この数分間で何度耳にしたかも分からない骨の粉砕する音、ついでに内臓の破ける水の入った袋を破裂させたような音が自分の体内で鳴り響くのを幻聴する。馬鹿げた滞空時間の後、肩から地面に落下、勢いを乗せてそのまま転がっていく。口から吐いたのか、それともどこかの肉が裂けたのか、更に新しい鮮血を辺りに撒き散らして既に月を浮かべていた血溜りにブレンドする。

 済んでしまえば露骨なまでのフェイントだ。偶然にしろ何にせよ、躱されるのなら躱せなくすればいい。エミールは分かりやすく秀介の前に姿を現して攻撃を仕掛けるぞ、と喧伝してみせ、そのまますぐ横にいた真歩の方へ蹴りを繰り出したのだ。

 蹴りの一発で、女とはいえしっかりと鍛え込んだ大の大人の身体が跳ねていった。意識を失ったのか、いや死んでいてもおかしくはない。真歩はピクリとも動かず、秀介が目を戻すと冷めた目でこちらを見る吸血鬼と目が合った――――


 血の悪臭が夜の空気に混ざり、ここにまで漂ってきていた。

 園内に踏み入り、柊余波は顔を顰めて手にした炭酸ジュースの缶を軽く煽り、先ほどまで一緒にいた同級生の言葉を思い返していた。

 友人の一人に連絡がつかないんだ。そう語った友人は、今にも死にそうなくらいに顔を蒼褪めさせていた。曰く、行方不明の友人は学校をサボっていたようで、たまにある事だからとその時はそれほど気に留めていなかったらしい。だが、現在盛んにニュースやネットを騒がせている大量殺人の報道と、その友人の親から行方を知らないかと慌てふためいた連絡が入った事により、状況は一変する。彼女は思い付く限り連絡を取り、調べたが、その友人の居所は終ぞ判明しなかったそうだ。

 相談してきた同級生は、余波とは寮生同士であったが別のクラスだった。その為、彼女の言う友人の名前に覚えはなかったが、友人の友人というのは共同生活を営む寮生達の間では名こそ知らずとも特徴を聴けば何となく誰か分かるもので、余波もすぐにああ、と手を打った。所謂、不良という奴だ。髪を金髪に染め、星型のピアスも付けていた筈。聞けば、その彼女が属していたグループが溜り場にしていたのが例の再開発地区だったらしい。

「普通、そういう相談をただの高校生にするもんかなあ……」

 余波は独りごち、どうすればいいのか分からない、でもどうにかしてあの子を見付けたいのだ、と心配する友人の姿を思い浮かべ、溜息を吐いた。しないよねえ、と呟きつつも、二つ返事で調べてみるよと快諾してしまった過去の自分のいいカッコしいに二度目の溜息。

 仮に、その友人というのが連絡なしに他の誰かの下にいるのなら、話は簡単だ。精々何某かの揉め事があって、その流れから自身の居場所を秘匿しているだけか、或いは無精して無断外泊に勤しんでいるだけだろう。例えば彼氏とか、聞くところによれば、これは友人には敢えて話さなかったけれど巷には援助交際というのもあるというし。

 だがその彼女が再開発地区に屯していた可能性があるというなら話は変わる。こういう場合、偶々彼女だけが別の場所にいた、というのは希望的観測から来る虚しい妄想でしかない。十中八九、友人の探しているという相手はその時、殺人の現場にいた筈だ。

 調べてみる、とはいったけれど、私に何が出来るだろう。

「なあんも出来ないよなあ」

 こういうこと以外は。

 余波は見様見真似に足を振り上げた。ソフトボール部所属のクラスメイトが見せてくれた投球フォームを真似、右手に中身が半分ほど残った缶を持つ。まっすぐに見つめる先では今正に誰かが誰かがに蹴り飛ばされているところだった。あれは死んだかな。死んだかも。よくよく見れば周囲には倒れた人影が更に二つ、夜気を穢し漂う血の臭いには明らかな死臭も混じり、辛うじて立っている残る一人も片腕がなくなっていた。わあ、痛そう。

 袖から覗く包帯を風になびかせて、投げた。


 何かが飛来した。遠心力に従って中身を撒き散らしながら吸血鬼の横っ面を蹴り飛ばし、反動でふわりと返って、弧を描いて落ちた。シリアスに水を差された間の抜けた空白に、気の抜けた音がからころと響き渡る。飛んできたのは、飲みさしの缶ジュースだった。飲み口から零れた中身が路面に広がり、茫然とそれを見下ろしていた秀介は思い出したようにその缶が飛んできた方向を振り向いた。

 そうして、怪訝に眉根を寄せた。

 こんな場面で現れる人物だ。てっきり応援として駆け付けた実務班の面子か、そうでなければ外部委託の誰かだと思った。だが、秀介の想像に反して、そこにいたのは寝間着らしき可愛らしい服にコートを羽織った、白い髪に眼帯という奇矯な風体の中学生くらいの少女だった。両手をポケットに突っ込んで軽く背を丸め、寒そうに白い吐息を口元に漂わせている。

 本当ならば姿秀介は少女に警告を発するべきだった。彼は大人で、市の公務員で、何より吸血鬼を退治する為に――ひいては市民を守る為にここにいるのだから。この状況が見えないのか、市が夜間外出の自粛を呼び掛けているのを知らないのか、危険だ、逃げろ、他にも幾つかの言葉は思い付く。だが、どれも彼の口から紡がれる事はなかった。秀介は多量の出血によって今にも遠退きそうな意識を奮い立たせ、何をか言おうと口を開いた。少女がどんな了見でこの場に介入しようと思ったのかは全く理解不能だったが、それでも彼女を逃がす為の時間を稼ごうと銃口を持ち上げ、自嘲するように笑った。吸血鬼退治を目的に組織されておきながら俺達はこの様だ。まるで太刀打ちできず、詰まらない死に方を晒す。ああ、嗚呼、畜生それはないぜ。秀介は理解し、諦念と共に受け入れる。身体は宙に浮き、夜空を舞った。

 エミールは缶を横っ面に投げ付けられるまで昨夜同様に少女の接近に気付けなかった。つまりは、そういう事だ。あの少女は先ほどまでエミールが蹂躙していた四人の狩人を合わせたよりも遥かに強い。恐らく彼女こそが本命だが、昨夜と同じ轍を踏むつもりはなかった。缶をぶつけられた意趣返しとばかりにボールでも投げるように秀介を投げつけた。

 余波はまっすぐに飛んでくる人間を前に慌てるでもなくひょいっと身を躱した。流石に大の大人一人の体重を受け止めるのは、か弱い乙女的に遠慮したいところだった。実務班の男は後ろで地面に落下し、短く呻き声を洩らして動かなくなった。

「……あっ、ごめん。避けちゃった」

 生きている人は受け止めるべきだった、と気付いたところで既に遅く。エミールは後を追って接近し、繰り出された拳から余波は軽々と飛び退った。

「やっぱり、昨日のお兄さんが話題の吸血鬼さんだったんだね。たった一日でよくもまあこれだけ暴れられたもんだなぁ」

「来ると、思っていた。あの時の礼を是非させてもらいたい」

「来るつもりなかったんだけどね……成り行きで、仕方なく。ちょっと訊きたい事があって」

 間合いを図るエミールを余所に、余波の方は血の臭いが渦巻く死地に立っているという自覚は毛ほどもなさそうだった。それこそ散歩の途中でもあるかのように身構えるでもなくまだポケットに両手を仕舞ったまま、彼女はここへ至る経緯を思い出してむず痒そうに肩を揺すり、気怠い声で言った。

「ふむ。我が使命を、そう易々と語るとでも」

 それに対してエミールが挑発的に返す。

 余波は小首を傾げた。

「使命? ああ……目的はどうせ封印されてるっていう吸血鬼さんでしょ? そんなのどうでもいいよ。好きにしてください」

「…………何?」

「それよりあなたが殺したっていう人達の事で質問があるんだけど。ピアスを付けた金髪の女の子に覚えは?」

 返答は沈黙。ですよねぇ、と余波も最初から答えがあるとは期待していなかった様子で残念がるでもなく首肯した。

 エミールは猛然たる怒りが胸の内――何処と知れず深い部分から沸き起こるのを感じた。封ぜられた姫君をその戒めから解き放つ、崇高なる使命を人間の小娘如きに軽んじられたのだ。侮蔑され、愚弄され、軽々に扱われて、どうして黙っていられるだろうか。粘質なドロドロとした黒い炎が、心臓を焦がすような錯覚。喉が苦しい。眼の奥が痛む。――――殺せ。内なる声が、凛然と囁いた。

「……ふむぅ。私は話が出来ればそれでよかったんだけど。ま、こういう時って往々にしてそうはならないものか」

 死角から黒い影のようなものが現れた。夜の闇が浸透した地面から這い上る虚ろな陽炎のように沸き、音もなく余波の後背を急襲する。余波は振り向きもせずにそれを知覚した。一歩後ろに下がり、最初の一つ目を小脇に抱えるかのようにして最小限の動作だけで回避。次いで四つの棘が地面から迫り出し、それぞれが異なる方向から少女の小さな体躯を刺し貫こうとしたが、余波は身を捻り、飛び上がって、躱した棘の一本を足場に空中で真横に跳ね、残る三本も次々とやり過ごしていった。

 着地の瞬間、無防備な一瞬を狙ったエミールが下から上へ掬い上げるように蹴り、余波は着地しながらも上体を大きく後ろに逸らして悠々とこれも躱す。しながら、いつの間にか拾っていた小太刀ほどの刃物――姿秀介が取り落としていたそれを繰り出された脚に突き刺し捻り、Lの字に走らせた。

「貴、様ァ!」

 右足の傷口がジュウジュウと焼け爛れるのも構わず、傷付いたその足で踏み切り、出鱈目に手を伸ばした。擦れ違い様、鋭い爪が頬を掠める。一筋の血が唇の端に流れ、余波は舌先で舐め取った。

「純銀が吸血鬼に特攻って本当だったんだ」

 感心した様子でうんうんと頷く。

 カラン、と。エミールは脇腹に深く刺し込まれていたナイフを一息に抜いて、その場に投げ捨てた。直接に内臓を純銀の毒によって炙られる強烈な不快感には、さしものエミールでさえ食い縛った歯の隙間から獣の唸るような呻き声を洩らし、いよいよ獣じみた血走った眼差しで余波を睨み付けた。

 一方、余波は相も変わらず状況を理解していないかのような顔をしていた。手にしていたナイフを手放したからか再び両手はポケットに仕舞い、すぐ隣の地面に横たわる口から腕を生やした女の死体を不気味そうに眺めている。

「貴様は、何なのだ」

 荒く息を吐き、エミールが吐き捨てるように言った。幾ら封印の影響を受けていると言ってもただの人間にここまで遅れをとるなど、過去、人であった頃ならまだしも吸血鬼として多くの血と屍を超えてきた彼には信じられなかった。だからそれは、心の底からの科白だった。

「ん、私ですか? 通りすがりの女子高生――って、昨日も名乗りませんでしたっけ。ま、しがない乙女ですよぅ」

 むふふ、と自分の発言の何がおかしかったのか、怪しく笑う余波。

 殺せ、許すな、使命の為に障害を排せ――声は今しもエミールに囁き続けている。沸き起こる怒りが総身を震わせ、使命感は血を熱く滾らせる。足元で何かがうぞうぞと蠢いた。それはさながら巨大なアメーバのように彼の影から這い出し、周囲に飛び散った三木達哉と赤井有紀の血液に向けて細い触腕をするすると伸ばしていく。

 それは一種異様な光景だった。黒一色のスーツに身を包む男の足元から湧き出す暗黒の粘液が原始的な生物めいた動きで瞬く間に広がっていき、路面の血を飲み干していく――冒涜的であり、同時に邪悪な神性をも彷彿とさせる、人知を超えたナニカ。

 粘液状の闇が波打った。まるで別個の意思を備えるかのように枝分かれし、それぞれが異なる角度から目の前の新鮮な獲物目掛けて殺到する。

 冷めた眼でその異様を眺めていた余波は、まずバックステップで大きく距離を取った。次から次へと襲い来る影の枝を危うげなく軽やかに避け、身を捻って躱し、飛び越えて潜り、他より長く伸びた触腕が鞭の如くしなって飛んでくるのをやり過ごそうとして、しかし、がくんっと膝から力が抜けたかのように体勢を崩した。足元――何重もの攻撃の裏で薄く地を這っていた影が、いつの間にか余波の足を掴んでいる。

 触腕は、凄まじい勢いで顔面に向かってくる。試しに右足を強く引っ張ってみたが、びくともしなかった。意地でも離すつもりはないらしい。

 これ見よがしの連打に足止めの罠を隠し、隙を衝いて本命を叩き込む――――

「……はあ」

 ――――見え透いた手を。

 溜息一つ、奇術のように手の中にナイフが現れる。それを回し、順手に構え、眼帯に塞がれていない方の眼を細め触腕を睨み付ける。一閃。純銀の刃が風を両断し、夜を裁断する月光の如き軌跡が奔る。触腕が半ばからズレ、余波に当たる事無く地面に落ちた。

「…………む?」

 はて、首を傾げる。エミールが操った触腕の目隠しを払い、追撃に備えたが、しかしそれはやってこなかった。見遣れば、そこにあった筈の彼の姿は忽然と消え失せていた。足下に纏わり付いていた重さもなくなり、右足を軽く振り上げれば、張り付いていた闇の粘液は砂のようにさらさらと散っていく。

「逃げた、か」

 幻滅したような、興の削がれたような、じんわりと苦い味わいの侘しい風が吹く。それまで鳴りを潜めていた風や水や、それ以外の様々な音が、劇の幕引きと見て騒がしく戻ってくる。

 周囲を見回した。酷い有様だった。血と肉と死体、惨劇の残滓。まさに大敗という言葉がよく似合う惨状だ。一応、任務の失敗という結果に対して彼等――実務班が最低限度の職責を果たせるように他のメンバーが到着するまでの時間稼ぎを試みたつもりだったが、如何に大胆不敵なあの吸血鬼もそこまで愚かではなかったようだ。頭に血が上っていても、流石にそんな児戯には付き合ってくれなかった。

 ゆっくりと首を巡らせて、公園の入り口の方を振り向く。街灯の明かりが不吉に灯り、モノクロの風景が怪しく月光の下に浮き上がっている。

 逃げた吸血鬼はこの後、どうするだろうか。既に存在と凡その居場所が露見した。各所に張り巡らされた警備システムから逃れるのは容易ではない筈だ。純銀の刃による負傷もしている。猶予がないのは明白だ。なら、次の行動は予測が付く。性急に目的を果たそうとするに決まっている。

 余波はそこまで考えて、暫し視線を彷徨わせた。街灯、ゴミ箱、ベンチ、木々に植込。そうして自分の恰好を見下ろす。再び溜息を吐き、ポケットに突っ込んでいた端末を取り出した。

 まず、自分をここへ誘導した相手へメッセージを送る。勿論、嫌味も忘れずにちゃんと添えて置く。次に姉へ。放っておいても今ここにいない実務班が駆け付けてくるのは時間の問題だろうけど、後で変な具合に伝わって怒られるのは勘弁してほしいので、一応。

 そして柊余波は改めて入口の方を見送ってそそくさとその場を離れた。これ以上残っていたところでゴタゴタに巻き込まれるだけなのは目に見えていたし、彼女には向かうべき場所があったからだ。

 目的の場所へ向かった彼女は中の様子を窺って、はたと動きを止めた。部屋の電気は消えている。時間から考えれば眠っていてもおかしくはない。

 ない、が――違和感を、覚えた。

 自己嫌悪と、一歩出遅れている予感をひしひしと感じながらも、藁にも縋る思いでコールする。

 目の前。高遠家の玄関前の暗がりで何かが着信を受けて明滅しながら振動している。敷居を跨ぎ、しゃがみ込む。

 高遠比衣の端末がそこに落ちていた。


 凡そ二十分ほど時間は遡る。

 自室に籠り、数学の課題に手こずっていた高遠天衣は、同じクラスの友人に教えてもらいながらようやくそれを終わらせた。

 その友人はその日の朝からずっと様子がおかしかった。原因に心当たりのあった天衣は心配だったが自分が口を出すべきかどうかずっと悩んでおり、共通の友人である柊余波が「取り合えず様子見しよ」と言っていたのもあって放課後別れるまであまり触れないように気を付けていた。

 最初は当人が話してくれるか、明日も引きずっていればその時は口を出そう、と決めていた。しかし、どうにも課題の最後の問題だけがどうしても解けず、相談したついでに、お礼ではないがそれとなく様子がおかしかった事を訊いてみた。何かあった、と。

 正直、余波ほど分かりやすいシグナルはなくても、天衣にとって不本意極まるそういう空気の変化にくらいは年頃の少女としては敏感に気付けるもので、だから恐らく当事者だろうアレの妹である自分が友人のどんよりした顔色の理由を問い質すのは申し訳なく、何より気まずかった。しかし妹であると同時に、天衣は彼女の親友も自負していた。板挟みの結果、天衣は知らず知らずに発信をタップしていて、そうなればもう迷う事無く吹弦蒼羽の味方をすると心は決まった。あの兄の妹だからと変に気を遣うくらいなら、完全に親友の味方として相談に乗る方がずっといいと思った。

 相談自体はあまりうまく進まなかった。大体何があったのかを聴き、そして恐らく比衣が何をかやらかしたのだろう、というのだけは漠然と分かった。もう少し整理がついたらちゃんと相談するね、と締めくくられた通話が切れた時、天衣は腹を立てていた。これは私の問題だから先輩をあんまり怒らないでね、と親友が困った風に言っていたのもすっかり頭の隅っこに追いやられていた。

 端末を握り締め、どすどすと床を鳴らしながら自室を出た。一言くらい言ってやらないと気が済まない。そう思って扉をノックした。ふにゃけた面を一発ぶん殴ってやる。

「…………あん?」

 反応なし。もう一度、今度は先ほどより強くノックをするが、やっぱり部屋の中からは何の応答もなかった。

 奥の窓から招き入れた月明かりが薄暗い廊下に細い線を刻んでいた。冬の気配は屋内にまで指を伸ばし、暖房のないそこは流石に底冷えするような冷たい空気に満ちている。天衣は爪先に届くうっすらとした光を見下ろした。月明かりよりも明るい照明が扉の隙間から少しだけ漏れていた。

 それを見て、余計にムカムカしてきた。アレは部屋をノックされて無視するほど反抗期でもないから十中八九寝落ちてしているのだ。何だそれは、ふざけんな。私の親友をあれだけ悩ませておいてお前は何をぐーすか寝てやがるんだ! 一層怒りが沸き起こり、その勢いのままノブを掴むと遠慮なく押し開けた。

 部屋は明るく、起動したパソコンのファンと、流しっ放しの動画の幽かな音声だけが聴こえた。仁王立ちのまま室内をぐるりと見回す。誰もいなかった。ベッドの向こう側も覗いてみたが、当然のように人が転がったりはしていない。

「コンビニでもいったのか?」

 首を傾げつつ、何気なくモニターを見た。映っているのはやけに映像の荒い動画――ではなく、リアルタイム放送らしい。どこかの様子を流しているようで、大きく張られたブルーシートや警察官の姿にすぐにそれがニュース番組で見た光景だと気が付いた。

「これって例の事件のところ、だよね」

 趣味が悪い奴。顔を顰め、天衣は部屋の電気を切って廊下に出て二階のトイレを見た。電気が付いていないから、比衣はそこにいる訳でもないようだ。

 どうせコンビニにでもいっているのだろう。そう思い自室へ戻ろうとしたが、電話越しの蒼羽の声が耳に蘇った。どうしてあんなにいい子があんな奴を。何があったのか詳しくは分からないけれど、あれだけ女の子が悩んでいるのなら男側から謝るのが筋ってものじゃないの? 腹立つ。ムカつく。やっぱり一言言ってやらないとダメだ――最早、妙な使命感さえ芽生えさせて、天衣は自室から上着だけを引っ掴むと親を起こさないようにそろりそろりと一階に降り、靴を履いて静かに玄関を出た。

 いや、普通に帰ってくるのを待っていればよかったんじゃないか、と気付いた時にはもう半分ほど進んでいた。なぜわざわざ外に出たのか。それくらい親友を困らせている兄の存在が彼女には許せなかったのかもしれない。とはいえ気付いた以上、わざわざこのままコンビニまで行く必要を見出せず、天衣は自分の間の抜け具合に白い吐息を溢しながら来た道を戻ろうと振り向いた。

 先ほど通り過ぎたばかりの街灯の下。雲が増え、月が覆い隠されて俄かに濃くなった闇のに切り取られた円錐の光芒に誰かが立っているのが見えた。黒いスーツに銀色の髪をした外国人だ。右肩と腹部を真っ赤に染めて、かなりの負傷が見て取れる。

「――――え?」

 瞬間、その姿が消えて、思わず声が出た。悲鳴を上げる暇もなく口を塞がれ、足が地面を離れる。腕を掴まれ、身動きが取れず、訳も分からないうちに何者かに拘束されていた。獣のような荒い息遣いが耳朶に掛かり、ぞわっと全身の肌が粟立つ。脳裏を過ぎるのはここ数日テレビやネットを騒がせている連続通り魔と、その極めつけとばかりに起きた猟奇的な大量殺人。夜に出歩くべきじゃなかったと後悔したところで、何もかもが遅い。

「少年はどこだ」

 そいつは囁いた。

「夕刻に君が共に歩いていた、あの少年だ」

 精一杯首を振る。恐怖が脳の容量一杯を占領していて質問の意味が理解出来なかったからだが、結果的には一緒だった。天衣は兄がどこにいるか知らず、背後の男もそのように受け取った。男は舌打ちし、なぜこうも裏目に、何だこの街は、クソ、ふざけるな、畜生、などと混乱した様子でぶつぶつ呟いていた。

 そうして腕の中の少女の存在を不意に思い出したように見下ろし、言った。

「すまないが、君には餌になってもらう」

 斯くして一連の舞台は俄かに雲が増え始めた空模様に相応ずるように、閉幕へ向けて収束する。

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