3-水の街の御諚

 来たばかりの道を足早に戻りながら、比衣は周辺の雑踏に負けず劣らぬ迫力で静かにがなり立てる電話口の声に応じた。妹はすっかり機嫌を損ね、どこにいるのか問う語気は普段通りを装ってはいても実際はほとんど喧嘩腰ですらあった。その背後では放課後の活動音がざわめいている。管楽器のチューニング、他愛のない笑い声、ランニングの掛け合い、硬球を金属バットが打ち返す快音が辛うじて聞き取れた。どんなに兄に対して厳しく当たっていても、仲が悪くても、根は素直な高遠天衣は母親の言い付けをきっちりと守ってまだ学校に残っていたのだ。けれど、その事実に比衣が気付いたかどうかは微妙だろう。彼は保健室に続くほんの十数分程度の先ほどの出来事にいよいよ打ちのめされ、比衣の十七年が培った世界観をぶち壊そうとここぞとばかりに畳み掛けてくる色々に、抵抗する気力もなくしていた。何も考えず、アーケードを歩いている、とうっかり口を滑らせた。

 返ってきたのはたっぷり五秒の沈黙。そうして背筋が凍えるほど冷たい声で妹が言った。

「母さんに今日は一緒に帰れって言われなかった?」

 学園の昇降口に立つ妹が放った鋭い一発は遠い距離を隔てて飛来すると一陣の風となって肋骨の隙間を縫い、的確に兄の肝臓を打ち据えた。痛いところを衝かれた比衣の口からは意図せず「ぐぅっ」と冗談のようにコミカルな嗚咽が洩れ、彼の失念を誤魔化しようもなく相手へと伝えた。幽かな溜息を、マイクが拾い上げたのが僅かだけ聞こえた。

「あー、その。悪い。すぐにそっちに戻る」

 久し振りにきちんと妹と会話するので、咄嗟に言葉が出てこなかった。それで余計に慌てつつそう言うと、妹はしかし兄の戸惑いなど気にした様子もなく、ぶつぶつと某かを呟いていた。

「忘れてた訳……チッ、待ってた私が馬鹿みたいじゃん」

 舌打ちだけ辛うじて聞き取れたが、恐らく自分への罵倒だとろうと判断して比衣はもう一度謝罪した。

「悪かったって。ごめん」

「別に。どうせ母さんが無理やり言ってきただけだし。そもそも母さんの言う通りにする必要もないし。もういいよ、私も帰るから」

 もういい、とそう言った言葉は、思いの外に幼く拗ねて響いた。いつだったか、妹との間にまだコミュニケーションが成立していた頃のような。本人もすぐにそれを自覚したらしい。電波の向こう側から羞恥に動揺する気配が伝わってきて、何をかいう前に通話は一方的に打ち切られた。耳に当てた端末から味気ない不通音がする。比衣は歩きながらそれを見下ろし、自らの鶏チックな馬鹿さ加減に妹そっくりの舌打ちをして、それをポケットへと突っ込みながら急いで学校へと取って返した。普段、妹がどの道を使って登校しているのか把握している訳ではないが、わざわざ登下校に遠回りするとも思えない。高遠天衣という少女の性格から言っても顔を合わせたくないからと、それこそ嫌いな相手の為に苦労を選んだりはしない筈だ。学校と自宅、現在地の距離と順路を計算する。天衣が殊更に急いだりしなければ、そして道草を食わなければ、自宅までの道中でうまく彼女を捕まえられるだろう。

 果たして高遠天衣は商業区の程近く、停車駅へと滑り込む路面電車の通過を待つ人込みの中に憮然と立っていた。彼女は澄ました顔をしてイヤホンで音楽を聴いていたが、比衣が見つけたのと同時に彼女も兄の姿に気付いたらしく心底嫌そうに顔を顰めて、今はこちらを見ようともせずにそっぽを向いている。

 ここまで走っていた比衣はゆっくりと足を止めて、呼吸を整えながら対応に困った。二人の間を路面電車が通り過ぎる数秒の間、視線を彷徨わせて悩み、結局馬鹿馬鹿しくなって手を挙げた。天衣はあからさまに気付かない振りをしながら自宅の方向へと、比衣から逃げるようにつま先を向けた。兄は妹の素っ気無い態度に動じた様子もなく軽く駆けて隣につき、兄妹は互いに目を合わせようともせずに妹は前を見つめ、兄は道々に立ち並ぶ書店やコンビ二の看板を眺めながらしばらく歩いた。自宅はここから少し離れた区画にある。

 辺りは既に日が落ち始めている。次第に重く深い黒が夕焼けの赤色を塗り替え、夜が近付いてくる。そんな空を見上げ、比衣は隣をこちらを無視して歩く妹に改めて謝った。天衣はやっぱり前を見つめたまま言った。

「いいって言ったでしょ。元々母さんが勝手に決めた事なんだから、おに……比衣は、悪くない」

「それでも約束は約束だろ。お前は忘れずにちゃんと守ってた。忘れてたのは俺なんだから」

「ふん」

 どうでもいいとばかりに鼻を鳴らされても比衣は気にせず、むしろ気まずい沈黙を埋めるようにほとんど独り言のように続けた。

「今日は色々あって余裕がなくてさ、気付いたら学校が終わってたくらいなんだよなあ――いや、ほんと。参っちゃうよな」

 保険医にナイフを突きつけられ、お前は吸血鬼だと糾弾され、でかい犬だか狼だかが現れて消え、この街には吸血鬼が封印されていて、仕舞いには未来が見える占い師の登場だ。妹と一緒に歩いているからだろうか、比衣は奇妙なほどに冴えた冷静さで今日一日をざっと振り返って呆れた。何だこれ。どう考えたって頭のイカれた与太じゃないか。元々説明する気はないし、約束を忘れたのはどこまで行っても自分の責任なのだが、流石にこれはこいつには話せないよなあと溜息をついて、首を傾げた。ポケットに突っ込んだ指先に何かがカサリと触れ、取り出してみると、アーケードの広場でバイトのサンタが配っていたチラシだった。煌びやかなデザインに、見た目から可愛らしいケーキと、期間限定という文字、そしてクーポンらしきチケット。比衣は特に考えもせず妹の手首を掴むと、半ば反射的にまなじりを吊り上げている天衣にこんな事を言っていた。

「よし。ケーキ食いに行くぞ」

「…………はあ?」

 呆気に取られる、とはまさにこんな顔を言うのだろうな、と比衣は思った。 


「……ねえ」

 目抜き通りから幾らか外れた寂しい通り。喫茶スペースを店内に併設したチラシのケーキ屋に到着した二人は道路に面したガラス際の席に通され、向かい合っていた。未だに困惑気味ながら年頃の女の子らしく目の前のスイーツの誘惑に抗えなかった天衣は道すがら不満げにむっつりしていたが、彼の目的地が最近クラスで噂されて自身気になっていた店であると知るといそいそと扉をくぐってメニュー表を開き、期間限定のケーキを注文していた。比衣もそれに倣って別の限定品を注文し、ウェイトレスがオーダーを通しに席を離れていく。その金髪ツインテールが頭の左右でふりふりと揺れている後ろ姿を眺めていると、まだメニューに掲載されているケーキの写真に見入っていた天衣がメニュー表の上から目を覗かせた。

「何だよ」

「さっき、今日は色々あったって言ってたけど。それって余波とあおちゃんに関係あったりする?」

「……唐突だな。どうした」

「私は二人と同じクラスで、友達なんだけど。様子がおかしくて気付かないと思う? いや、余波がおかしいのはいつも通りなんだけど」

「あー……そう、か。なるほど。でもその原因が俺とは限らないんじゃないか。寝坊して、朝食を食べ逃した、とか」

 言った瞬間、僅かに崩れた前髪と赤い表紙の間で二つの瞳が細められる。比衣は軽く鼻白み、所詮は姑息でしかないが、冷視から逃れようと反射的に硝子の外へと目を向けた。暮れなずむ路地に色濃い陰が亡羊と横たわっている。人通りは、そもそもが目抜き通りを外れている為にほとんどなく、その彼等もまるでこの路地には見てはならないものが潜んでいると知っているかのように俯き、せかせかと足早に通り過ぎていく。

 天衣の視線がちくちくと突き刺さってくるのを頬に感じる。比衣はそっと吐息を洩らして向き直り、疑念の眼差しを正面から受け止め肩を竦めた。

「少なくとも蒼羽は関係ないよ」

 嘘ではなかった。少なくとも今朝からの事情に蒼羽は無関係だ。天衣の言う通り彼女が落ち込んでいるなら、そこに昨日のやり取りが影響していると思うのはきっと自惚れではないだろう――尤も、それがどういう心境から来ているのかが比衣にとってはまさにこれこそ重要な訳なのだけれど、それはまた別の話だ。

「じゃあ余波は関係あるの? あ、いや。やっぱいいや。あの子が関わってるならどうせ碌でもない事だろうし」

「よく分かってらっしゃる」 

「あの子と友達なのは比衣だけじゃないからね」

 どれくらい碌でもない話かまでは流石に分かってないだろうけどね、とは比衣も当然言わなかった。

「お待たせいたしましたー」

 いつの間にかウェイトレスが立っていた。トレイにケーキと紅茶を載せて、彼女はそれをテーブルに移すとにこやかな笑顔を残して二本の尻尾を揺らしながら去っていく。太陽の光を織り込んで編み上げた美しい金髪がやけに眩しく目を灼いた。

 比衣は印象的な後姿から視線を引き剥がして、きょとんと目を丸くした。運ばれてきたケーキを前にして、普段なら絶対にそんな表情を見せたりはしない天衣が、この時ばかりは兄の存在を忘れて目をきらきらさせて小さな歓声を上げていた。いつもそうしているのだろう、小さな芸術品を撮影した後、フォークを右手に持って暫くケーキを矯めつ眇めつ眺める。どこからフォークを入れれば形を崩さずに食べられるかを考え考え、慎重にクリームや生地を切り崩し、果物を分けて一口頬張り、堪らずふにゃふにゃに甘く蕩けた吐息が洩れた。どうやらご満足いただけたようで、と比衣も自分の分のケーキを軽くつつき、チョコレートの層を掘削して苺の化石を発掘したところで何年も前に流行したというアイドルの声が不意に聞こえてきた。放課後の廊下で君とすれ違う瞬間がどうだのという澄んだ歌声に至福の時間を邪魔された天衣がのろのろと自分の携帯端末に手を伸ばした。

「……お母さんだ」

「今帰ってる途中だぞ。分かってるな」

「分かってるよ」

 今朝家を出る時に言われた寄り道せずに帰宅しろという言葉を忘れた訳ではなかったが、それを今思い出し、兄妹は咄嗟に口裏を合わせた。夕焼けに染まった教室に君がいたところで、天衣は観念して電話に出た。

「……母さん、何だって?」 

 母親からの通話に応じて二、三言葉を交わした天衣が通話を切ったのを見計らって比衣は声を掛けた。

「お土産買って早く帰って来いって」

「バレてるじゃん」

「そもそもお母さんに隠し事なんか出来る気がしない」

「まあ、確かにそうだな」

「あとなんかニュースを見なさいって言ってたけど」

「ニュース?」

 通話画面を消し、いつも使っているSNSを取り合えず開いてみる天衣に倣い、比衣も自分の携帯端末を取り出してブラウザを開いた。

 うわっ、と天衣が悲鳴のような声を上げる。比衣は何も言わず、位置情報からローカルネタを選別して表示するように設定されていたブラウザの、普段なら気にも留めないトップニュースをタップした。そこにはここ数日、巷を騒がせている連続通り魔犯との関連を記者の勝手な憶測を交えて半ば断言している恣意的な文面と、何とか現場を写そうと苦心したらしき数枚の写真が添付されていた。曰く、予期されて然るべきだった凶行の実現と、それを防げなかった当局の責任、及び現代の若者の異常性とその趣味からの影響が云々――比衣は食い入るように画面を見つめた。込み上げる吐き気を飲み込み、眩暈と頭痛に小さく咽喉の奥で唸る。今日一日の出来事からようやく立ち直って、先ほどまでゆったりと寛いでいた心臓が途端に落ち着きを失って、腰を浮かし、そわそわし始めた。彼は今、不意に、早くこの肉体から逃げ出さなければ自分まで道連れに死んでしまうと唐突な真理に達し、性急な危機感に突き動かされた身も蓋もない取り乱し様は細胞から細胞に伝わって、血管に流れ込み、ガソリンに燃え移った火もかくやと瞬く間に悪寒が全身に広がっていった。

 記者の偏見と無根拠な論調に彩られた醜悪な文面はタブロイドの芸能ゴシップ程度の関心すら沸かず、ただただ嫌悪感ばかりを読者に与える。しかし、それでも比衣が記事を閉じずに内容に目を通したのは、そうしなければいけないと思ったからだ。問題は最初に目に飛び込んできた一枚の写真で、文面の中に込められた幾つかの端的な事実だ。つまりはいつ、どこで、何が起こったかであり、表示された記事には迂遠さを回りくどく加工した主題とは無関係な言説を経由して――水環市の行政と企業連の商業主義的な、つまりは市民感情との著しい乖離を伴う非人間的な秘密主義への非難と嫌悪を経て、読者がそもそもこれが何の記事だったか忘れた頃にひっそりとそれが仄めかされていた。日時は今日、場所は再開発地区、口にするも悍しい惨劇が行われた。

「……比衣?」

 天衣が兄の様子に気付いて声を掛けるが、彼は応えなかった。無視したのではなく、脳がそれを必要な情報として処理しなかった。

 端末の画面から文字が浮き出して蝶のようにひらひらと舞い始める。頭上を旋回し、硝子をすり抜けて通行人の周囲を一周して、看板のあちらからこちらを巡り、時たま中空に立ち止まってみたりして通りを軽く流してから、比衣を小馬鹿にするようにこれ見よがしに眼前を横切り、頭の中に飛び込んできて脳にノイズを突き刺していく。

 回る。目の前がぐるぐると回る。ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐると。

 唐突に身体が呼吸法を忘れて息がうまく出来なくなった。

 血の色を幻視する。空も、街も、全てを染める異常な空間を。異質な世界を。

 これまで安全なシェルターだったものが、今や死に向かって直行していると信じてやまない心臓が外に出ようと胸郭に刃物を突き立て、痛みを感じるほど大きく鼓動が脈打った。その音は頭蓋骨で反響し、まるでサルがタップダンスでも踊っているかのようだった。

 既視感? いや――俺はこれを知っている。比衣は拡大表示されたその写真をジッと見つめ、奇妙な確信を抱く。

 それは再開発地区の一角、まだ建物とも呼べない中途半端な建造物が幾つか並ぶ場所で、一部の素行不良な若者が自分達の縄張りのように屯していると噂されている辺りだ。ブルーシートが幕の代わりに大きく張られ、周囲の視線を完全にシャットアウトしている。写真の中だけでも十数名の制服警官が慌しく行き来し、群がる野次馬を遠ざけようとあちらからこちらに渡した立入禁止の刻印されたテープの外に陣取っているのが見て取れた。それはさながら注連縄だ。ブルーシートの向こうは秘密めかした儀式の祭儀場で、そこに人目に晒してはならない神聖なあれそれがあるかのような。

 無論、実際はその逆だ。それが人目に触れてはならないのは単に目も当てられない惨状がそこにあるからだ。千切れ飛んだ腕や足や首や腸の一部、分割された上半身と下半身、ハンバーグでも作ろうとして途中で飽きて投げ出したかのような挽肉と、夥しい血と、臓物と、うっかり誰かが置き忘れた眼球、そして運悪くこの場に呼集されてしまった警官達の向こう数ヶ月の――或いは生涯に亘っての――夢と理性を侵す後ろ暗い影が落ちているからだった。少なくとも今回の事に関係する彼等の内の少なくない人数が、当分は菜食主義者か断食する修行僧への転向を余儀なくされるのは間違いなかった。実際、比衣は気付いていなかったが、写真に映っている警官達は心なしか顔色が悪く、ブルーシートから慌てて飛び出してきたと思しき若い刑事に至っては建材の陰に蹲ってげえげえやっており、その背中に先輩らしい壮年の男が軽い蹴りを入れていた。

 比衣はのろのろと手を動かして目の前にあるケーキに改めてフォークを差し入れた。苺を発掘した部分から更に下を掘り進めると、切断されたスポンジの地層からどろりと赤黒いものが溢れ出して甘酸っぱい匂いを鼻先に漂わせた。それは当然、力任せに引き千切られた太い血管から吐き出される汚れた血液などではなく、どれほど似ていたとしても腹腔から零れ落ちる臓物の塊でもない、この店のパティシエが長く苦しい修行の果てに丹精込めて丁寧に煮詰め練り上げた苺と他の――恐らくは柑橘類の――果物を混ぜ合わせた特製ジャムで、その酸味はスポンジ自体の柔らかな甘味、クリームの濃厚さと調和して舌の上に幸福を織り成した。

 天衣はそんな兄をぼんやりと眺める。彼女は血の繋がりに基づく、或いは単純に共にしてきた時間の長さから、明らかに普段とは様子の異なる彼の奇態に言い知れぬ不安を感じ取っていた。心ここに在らずといった風情でもそもそとケーキを食べる兄の姿は、単に共通の友人との揉め事に気落ちしているだけとは到底見えず、天衣はまだ何かあるのかと不審がった。が、しかしそれ以上は何も言わなかった。呼びかけを無視されてお腹の底がむかむかしていたし、その不機嫌の虫に糖分を捧げて鎮めるのに忙しかったからそこまで気が回らなかったのだ。

 頭の中にスイッチでもあるみたくオンオフの切り替えが早い彼女の違和感は、極上のスイーツを前に抵抗らしい抵抗も出来ずにすぐに甘味な夢の彼方へと消し去られた。二人が日頃抱える軋轢がここでも勤勉に働き、小さなもやのように立ち込めていた黒い塊を意識の表層へと浮かび上がる前に曖昧なものとして忘れさせてしまったのだ。天衣はケーキを頬張り、素直に舌鼓を打った。もくもくごっこん。それですっかりなかった事になる。

 異なる理由から現実逃避に耽る二人の目を盗んで、比衣の腕にぴったりと密着した腕輪はテーブルの隅に差し込んだ夕陽を袖の下からこっそりと窺った。暮れなずむ夕陽が、朝生まれて今まさに死に逝かんとする太陽の吐く血が路地の建物に降り注ぎ、その隙間から滴り落ちてガラスに染み込み、腕輪の艶やかな黄金の表面に触れてきらりと反射する。さながら夜に燈す水銀灯が彼岸への道標となるように、それは黄昏の向こうから非日常を誘っているようにも思えた。そして実際に高遠比衣とその妹はこの時既に日常の境界を知らずに踏み越えていたのだが――正確には、境界線の方が自ら彼等の足元を通過していったのだが――二人はその事実に気付く事はなかった。

 事態は彼等の与り知らぬ場所で人知れず静かに、しかし確実に、淡々と後戻りの出来ない領域に突入していく。比衣にとってそれは、不運にも天衣にとってもだが、いや彼を取り巻く全ての人々にとってという表現が最も適当だろうか、とにかくそれは明確な平穏の終わりを意味していた。

 つまり、柊余波が何度も繰り返してきた日常の、その崩壊を。


 両親への手土産を購入し、店を後にした二人は帰路に着く。当然、徒歩だ。水環市は都市の性質上、基本的に車の走行を禁止しており、同じ理由から電車も路面電車が数本市内を巡回している以外は隣の市と接続する部分までしか通っていない。よって市内の移動は専ら徒歩か自転車、電動式の走行機械、路面電車であり、高遠兄妹は精々が数駅程度の距離ならば自分の足で歩けばよいという健全健康な肉体派志向の共通認識から肩を並べていた。

 日は既にギリギリまで傾き、ともすれば空の端っこから太陽が転がり落ちてしまいそうな微妙な時間だった。

 人通りは、明らかに普段より少ない。ここ数日、物騒な事件が重なり、先日などは遂に死者まで出て、終いには先ほど確認したあのニュースだ。会社勤めで生活のルーチンが厳守される人々を除けば学生やら主婦やらペットの散歩やらジョギングやらといった人々は全くと言っていいほどいなかった。何となれば、いつもは見かける三毛猫や鳥まで見掛けない。まさに不穏としか形容し得ない空気がいずれ醸成されつつあった。

 比衣は鞄を持っていなかった。喫茶店へ向かう途上で妹に手ぶらを指摘されて、初めて自分がそれを学校の自分の席に置き忘れているのに気付く始末だった。取りに戻ろうか、とちらと考えたが、しかし今日は課題をこなす気分ではなかった。そもそもひねもすぼんやりしっ放しだったので本当に課題が出ているのかも把握していなかった。一々クラスメイトに確認を取るのも面倒だったし、結果として彼は嫌な顔をする妹の隣に並んで箱のケーキが傾かないように注意しいしい家路を急いでいた。

 そう、急いでいた。

「ちょ、比衣、早いよ……何そんな急いでるの?」

 路面電車の駅を通り過ぎ、いつもの順路に差し掛かる辺りで、早足というよりいっそ少し緩い小走りになり掛けていた比衣はその声にハッと我に返った。無意識に息を詰めていたのか、咽喉を締め付けられるような息苦しさに思わず喘ぐ。天衣は数歩ほど後ろにいて、眉間にしわを寄せていた。

「あ、ああ……悪い。ちょっと考え事してた」

「考え事? そう、ね……確かに色々あるでしょうけど、気を付けてよね。それ、母さん達の分だけじゃなくて私の食後のデザートも入ってるんだから、ちゃんと運んでよ」

「分かってる」

 比衣は頷く。たったそれだけの動作に頭が痛んだ。うなじの辺りがぶつぶつと粟立つのが感じられた。季節の寒さとは異なる種の、冷たい風が吹いて、妹がコートを着込んでいて尚も肩を竦めているのとは違う意味での寒気、悪寒。内相から込み上げる悪心。何でもない風を装って歩き出した妹の背中を追いながら、彼の背にはぴたりと幽霊が寄り添っていた。音に釣られ、天衣の向こうに視線を向ける。凝った意匠の欄干、中ほどに街灯とベンチが置かれた大きめの橋があり、下には既に幾つも超えたり横切ったりしてきた水路が通っていて、比衣はいよいようんざりしてきた。喫茶店を出てからここに到るまでの間に見掛けた水路は大小合わせて十本を優に超える。この街で生まれ育った所為かこれまでは気にも留めていなかったが、改めて見渡して見るとこんなにも都市の到る所に水路が縦横無尽に張り巡らされているなんて思いもしなかった。今の比衣にとってすれば、こんなにも暮らすのに向かない街も他にないだろう。

 小説、映画、漫画、或いは伝承、そして柊水鳥に曰く吸血鬼は流水を渡れないという。誤謬だ。現実問題として渡れない事はなかった。水環の水路にはほぼ全て橋が架かっているし、そもそも流水というのはどの規模からを差すのか、例えば目の前の家の庭で水遣りでもしたのか漏れ出したか細い水はどうだろう。例えば雨は? 市内には目に見える場所にはないが、側溝や、マンホールの下の下水はどうか。学術的に閾値を検証するだけの価値があるかどうかは不明だが、とまれ、どうやら水環市のそれが何かしらの悪影響を高遠比衣の肉体と精神に及ぼしているのは確かなようだった。頭痛は酷くなる一方だし、気分は陰鬱と落ち込んでいく。かと思えば、水路などから距離が開くとさっきまでの不調が嘘のように晴れていく。そしてまた水路が現れ、比衣はげんなりとしつつ込み上げる怖気を受け入れた。

 だから。

 比衣は、自分を見つめる眼に気が付かなかった。

 暮れ落ち、静々とにじり寄る夜の闇に紛れて、二人の背後にひっそりと佇む影があった。長身痩躯、希薄な気配、その印象からは明らかに相反する怒りと憎しみが熱となって放出され、周囲の風景を陽炎のように揺らめかせている。

 二人は気付かない。

 自分達を見つめる視線に。比衣の腕に注がれる瞳に。憎悪と憤怒に。敵意を通り越した害意を隠そうともしない匂い立つ暴力――ここに到る以前に存分に行使された後の残り香と微熱が、思考の介在しない無意識下でぞろりと動く。

 そこは住宅街に程近い、地元民が利用するだけの路地だった。人通りはやはりなく、ただ高遠兄妹の後ろを一人のサラリーマンがコンビニの袋をぶら下げながら家を目指して歩いているだけだった。

 それは、高遠兄妹とサラリーマンの間の陰に隠れるでもなく潜んでいた。

 ほとんど反射と言っていい。満腹のそれが今更食欲に従ってという訳もない。ただ冷静さを欠いていたが故に衝動的に反応した、ただそれだけの話だった。彼等が命を奪うのに然したる理由は求められないのだから、やっぱりつまりはそれだけの話だった。ひたすらに無意味で、どこまでも無為だった。

 ――――ぐしゃり。

 悲鳴は上がらなかった。そんな隙もなかったからだ。体内に燻る行使された暴力の熾火が不意にぱちりと弾けた拍子に腕が伸び、指がサラリーマンの首を横合いから掴み、潰した。肉が圧壊し、破損した血管から鮮血が迸る。宙に飛び散った赤い液体は建物の外壁をべったりと汚し、むっと嫌な臭気を撒き散らした。まだどことない青臭さを残す若いサラリーマンの男は、自分の首を握る手をぼんやりと見て、腕を辿り、いつの間にかそこに立っていた日本人離れした風貌を目撃し、一目でその正体を看破した。声は出ない。声帯が破壊されていたのだから、当然だ。眼が見開かれた瞬間、首を掴む指が動き、手首が返る。たったそれだけの軽い動作で捻り切られた首が飲み干した後のペットボトルのように無造作に横道の奥へと放り投げられた。凄絶な死に顔を晒した生首は室外機にぶつかり、誰かがそこに放置していった黒ずんだバケツの中に収納される。

 脳という司令塔、意識という指揮官を喪った身体が、その場にぐにゃりと倒れこむ。瞬く間に路面は出血で溢れ返り、血の海は兄妹が家に辿り付く頃になってようやく第一の発見者を得た。

 常備している盗品のプリペイド式端末から水環市警の電話番が繰り返し身元を問うているのを無視して通話を切り、発見者は死体を見下ろした。現場は住宅街から僅かに離れた横道だ。既にこれを成した者は姿を消していたが、いずれ水環の市警はこれも吸血鬼による犯行だと断定するだろう。自治組織とその意思決定機関たる市議会は当然、ここ数日の通り魔事件、先日の殺人、僅か数時間前に起こったもう一つの事件とこれを関連付ける。そうなれば実働部隊の本格投入は避けられず、規定通り対吸血鬼プロトコルが採られる事になる筈だ――或いは、既に。どちらにせよいよいよ以て事態は予断を許さず、それは水環市の環境保全課のみならず同時にこの狂った土地に纏わる者達の介入をも惹起する。罔象や蛇、獣達、異端者、あの音社の陰陽師、何よりあれと所縁ある外道筋は火苛奇の粋たる到達者……

 ふ、と溜息が漏る。これから何が起こるか予想は付く。しかし、結果どうなるのかは誰にも分からず、それこそ神のみぞ知るところだ――いや。

「まさに吸血姫のみぞ知るってところか」

 嗤い捨てると、その拍子にじゃらっと胸元のチェーンが揺れた。その先に繋がれた円と十字の銀細工の中心で、何かを訴えるように青白い光が淡く明滅を繰り返している。彼はちらと一瞥し、疎ましそうに周囲を見回して鼻を鳴らす。季節外れの蚊か蝿でもいたのか払うような仕草をし、血溜まりを踏まないように死体を避けて通りへと戻った。

「どうだった?」

 声を掛けられる。大きなキャスター付きのケースに腰を凭せ掛け、途中のコンビニで買ってきたらしい餡まんを少女が頬張っていた。視線の先には首なしの死体が転がっていたが、全く気にした素振りもなくもしゃもしゃしている。

「私見だが、十中八九、高遠比衣は無関係。やっぱ犯人は別の吸血鬼だなあ、これは」

「でしょうね。あの子はまだそこまで踏み外している感じじゃなかったもの。というより、彼女がそれを許したりしないでしょ」

「彼女、ね。何にしたところで仕事は仕事だ。気は進まないけどな。どうせ碌でもない事になる」

「いずれ死体は増えるでしょうね。いいじゃない、お陰でただ面倒くさいだけの剪定をやらなくて済む訳でしょう? 私達の仕事は安泰。自由な時間も増える。ついでにお給金も良くなる。ね、生活費の為に頑張りましょう」

「気軽に言ってくれるなぁ」

「ええ。だって他人事だもの。どこまでいっても私は他人よ。お忘れ? それとも、自分は違うと? まさか立場を忘れた訳じゃないわよね」

「それとこれとは別だろ。他のバイトでもすっか?」

「私は構わないけど……これ辞めたら、普通に私達のこの身分も取り上げられると思うけど。この国って戸籍とやらがなくてもお仕事もらえるの?」

「無理だな。ふむん。しゃーなし、勤勉に庭師のお仕事に励みますか」

「はーい。あ、君も食べる?」

「お前も好きだなあ。もらうよ。ありがとう」

 餡まんを齧り、彼は死体に背を向けて少女の鞄を引いて繁華街の方へと取って返した。誰もいなくなった路地に、がらがらとキャスターが路面を転がる音と二人の他愛ないやり取りだけが響く。

 

 映像は語る。そこで何が起きていたのかを。

 男を囲んでいたのは十四人の少年少女だった。いずれも十六歳から二十歳そこそこといった若者達で、彼らはいわゆる不良グループというものを徒党していた。とはいえそこに意味らしい意味があるでもなく、思春期特有の自己顕示欲の歪んだ発露や、充足感の欠乏の補填、或いは現況からの逃げ場を求めて集まっているだけに過ぎない彼等はたまたま街の外れのそこら一帯を縄張りと呼んで溜まり場にしていて、その縄張りにふらりと現れた男――映像では、彼は少年達が屯していたのとは別の資材置き場の陰から姿を現していた――をこれまで同様、野生動物よろしく侵入者として威嚇した。

 これまではそれでよかった。ちっぽけな反社会的行為による境遇への反抗。仲間内での団結。結束。インスタントに得られる快感と安堵を、この日も彼等はいつも通りに享受出来る予定だった。それが、彼等の生涯最後の過ちとなる。

 開発途中で中断されていた工事現場に歪む鋼材や破砕されたアスファルトが飛び交い、血と血と肉が散華し、腕や足があちらこちらへと吹き飛び、臓物が撒き散らされ、抉られた眼球があまりの惨劇を直視出来ないと行方を晦ませ、狂騒の最中、誰一人として逃げる事も叶わず、或いは果敢にも仲間を救う為に立ち向かって殺され、壊され、ファーストフードのようにお手軽に捕食される紛れもない地獄の顕現が、偶々悪戯防止にと数日前に設置されていた監視カメラの、安っぽく荒い映像内にこれまた偶然、映り込んでいた。

 単に不運だった、とそういうべきなのだろう。率直に愚かだ、と侮蔑しても構うまい。どちらにしても結末は変わらず、五分後、その場を後にした男は振り返る事もせずに市街地へ繋がる道路を歩き出していた。背後には十四の死体――否、首をねじ切られた者、手足を引き抜かれた者、腹を裂かれて臓物を撒き散らした者を含む為に正確な人数など一見しただけでは判別不能な多数の肉片から成る即席のゴミ捨て場と化していた。

 この死体の山が発見されたのはその日の夕方だった。犬の散歩に出た小学生の男の子が犬に強くリードを引かれて引きずられていった先でそれを目撃し、家へ取って返して母親に報告、母親は現場を確認すると慌てて当局へと通報するに至る。

 事態の発覚後、即座に現場に入った鑑識から無惨な状態の十三人の被害者の中には身体中の血を一滴残らず失って干からびた異様な死体が含まれている旨の報告が上がり、水環市議会は規定通りに庭園の派遣要員を含む機密議会を緊急招集、十分にも満たぬごく短い協議の末一つの決定を下す。これにより水環市都市環境局環境保全課異常事態対策室実務班が本格的に動員され、市へと侵入した大量殺人犯を相手とする対吸血鬼プロトコルの発動、及びこれに伴う超法規的道義的対応策が採られた。

 こうして事態は想定された最悪に向けて疾走を開始した。


 夕食後、高遠比衣は自室に籠もっていた。

 彼の脳裏には今もなお喫茶店でフラッシュバックした光景――悪夢――の断片的で、恣意的な、連続するイメージの残像が鮮明に残っていた。それはまるで下手なフィルムの焼きつきのように無作為に重複し、飛び飛びで、陽炎のようにぼんやりとしていたが、比衣はそれを現実に起こった事だと確信していた。それは柊姉妹の言いを信じるとすれば、彼が吸血鬼となってからこちら、度々起こる奇妙な感覚だ。自分の知らない知識を自覚していないところで知覚して、あたかも自らが経験、予測した事であるかのように感じる既視感の亜種。赤く染まった空、死体ですらない肉片へと解体されていく人型、血と臓物、苦痛と恐怖によって狂っていく耳慣れぬ少女のモノローグ、全てに身に覚えがない。だから勿論、これは錯覚だ。当然のように現実ではなく、有り得ぬ出来事の連続に疲弊した比衣が垣間見た幻覚だ。

「クソ、どういう事だよ……」

 比衣は震える声を辛うじて抑えて吐き捨てる。PCは常駐している水環市のローカルネット上の掲示板のトップ画面とありとあらゆるニュースサイト、SNSを複窓しており、リアルタイムの中継動画が煌々と明かりの焚かれた現場の喧騒を垂れ流していた。

 喫茶店で見た写真に触発され、紐付けられた要素とファクターの再構成の連鎖によって忘却の彼方から発掘された悪夢。その瞬間までそんな夢を見ていた事すら綺麗さっぱりと忘れていた筈なのに、直接現場を写した訳でもない遠間からの雑音の多い下手なその写真を一目見ただけでそれは鮮明に蘇った。ただでさえ希釈されつつあった高遠比衣の現実感の中、曖昧模糊とした感覚記録が悪意を隠そうともせずせせら笑う。

 これは、記憶ではない。何故なら悪夢だから。しかし夢ですらない。故に記録だ。

 それは高遠比衣が知り得る筈のない情報であり、感知し得ない主観であり、観測し得ない客観だ。

 同時に、どうやらこれは現実に起こった出来事でもあるらしい。

 予知夢? 千里眼? 未来の自分が何かを伝える為に送りつけて来た記憶とか、実はこれは二度目の出来事で今の自分は未来から舞い戻った二週目だったりとか。或いは極めて精緻でぶっ飛んだ、天文学的確率の果てにラプラスの悪魔が微笑んだが如き運命の悪戯。共感覚、シンクロニシティ。共振とも呼ばれる現象。虫の知らせ。もしくは某かの理屈に従った超自然的能力の覚醒とか天使の囁きとか神のサイコロとか魔女の呪いとか。何でもいい。理由になど意味はない。起こった事は既に過去だ。それが如何なる現象、どんなに理不尽で不条理な因果に起因するものであれ、実際にこの身に起こったのなら起こっているのならばそれは紛れもない現実なのだ。少なくとも、彼にとっては。

 重要なのは、ネットに出回っている幾つもの情報を比衣が知っていた、という事実だ。偶々どこかで誰かの会話を漏れ聞いていて、比衣の脳がそれを基に記憶の捏造を図った可能性も皆無ではないが、しかしもしそうならばこんなにも克明に夢の内容を思い出せるだろうか。映画の一場面から切り抜いたような前後の欠落した部分的連続性ではあれ、夢中のイメージを比衣の意識は明確に拾い上げる事が出来た。それこそまるで自分がその瞬間にそこにいて、実際に殺されてしまったかのような恐怖と痛み――ああ、そうだ。痛みだ。保健室で目覚める瞬間、確かに自分が死を予感するほどの激痛によって叩き起こされたのではなかった。飢えと渇き。怪物めいた衝動――――

 まさか。馬鹿げている。比衣は伏せていた顔を上げ、モニタ上に今も映し出されている映像を注視する。夜だから全体的に暗いが、同時に異様なほどの光量によって照らされた再開発地区の一角。個人が何かしらの機材を持ち込んで配信している為か見ていて苦痛になるほど画質は荒いが、現場を遠巻きにする野次馬の群れと忙しなく動き回る警察官が見て取れる。そこには大きくブルーシートが張られていて、現場にすら足を運んでいないあのシートの向こう側を俺が知っている道理はない。作り物のような内臓や死体やその部品、現場の惨状のイメージを明確に想起できるのは、あの瞬間に写真と記事から逆算して記憶を捏造したからに決まっている。保健室で目覚める前に見ていた悪夢が実際にあったとしても、夢の内容を鮮明に思い出すのは困難だ。第一、見たものと思い出したものが一緒だとどうやって答え合わせをしろと? 仮に相違点があったとしてもとっくに脳がすり合わせを行っているに決まっているのだから。

 貪るようにネットを巡回し、ありとあらゆるサイトを飛び回って、ほんの数時間前に起こったばかりの十三人もの被害者を出した猟奇事件の情報を玉石混交寄せ集めていくうちに、比衣の顔色はどんどんと蒼褪めていった。大手ニュースサイトに採り上げられた発表されている事件の概要を古いものから順に読み進めていた彼は、ふと奇妙な感覚に襲われた。最初は単なる違和感だ。次に疑念。最後には蒼褪めて、困惑から言葉を失った。メディアの報道や面白がった人々の流言飛語の中に散文的に読み取れる真実を、未発表の事件の詳細までを含め、彼は明確に見出す事が出来た。

 そうと確信したのは被害者の人数だった。事件が発覚してから被害者の人数はずっと不明のままとされていた。死体の多くがバラバラに損壊されていて、中には明らかにパーツが足りていないものもあったというから、DNAなどの照合を済ませて人数を確定させるまでに少しの時間を要したのは仕方のない話だろう。だから二時間ほど前に正式に被害者の人数を警察が発表してから、その多さにネットは大盛り上がりしていた。

 だが比衣には面白がる余裕も、面白がっている連中に苦言を呈する余裕もなかった。

 ――――俺はいつから殺されたのが十三人だと考えていた?

 決まっている。最初からだ。あの時、保健室で悪夢を見た時からだ。目の前で殺される十三人の姿を、比衣は一つ一つはっきりと目撃していた。だから再開発地区で殺されたのは十三人だと疑いもせず、最初から事実として受け止めていた。

 身体が震えた。

 恐怖だ。未経験の既知とは正常な感性には恐怖以外の何物でもなかった。しかも事は人死にが絡む。何人もの少年少女が無惨に殺されるという今回のような猟奇的事件でそれが起こっている。最早、これは数日前に起こった通り魔殺人の延長でも、ただの殺人事件ですらもなく、何者かが超常的な身体能力で人々を殺戮するという極めつけの異常事態なのだ。

 その時、もう何度目かも分からない警官の警告と野次馬達のどよめきが映像で沸き、ふと顔を上げた比衣は視界にちらりと入り込む光にハッとなった。声を上げるように蛍光灯を反射して比衣を呼んだのは、彼の腕に嵌まった件の腕輪だ。相変わらず手首にぴたりと引っ付き、目で見ていても装着しているという実感が驚くほど薄い。比衣は左手で包み込むようにし、人差し指で腕輪の輪郭を撫でた。光に透かしてようやく見える程度の意匠が辛うじて指先に読み取れ/祝福と呪い。呪詛と福音。×××の××たる××と狂えるオトのイ。イなる世界の旧い詞が語るのは神の裏切りへの憎悪となおも尽きぬ信仰と愛だ。血を捧げ、血を繋ぎ、血に秘められたる系図を辿れ/た。

 これを見ていると、おかしな気分になる。ひどく懐かしく、とても恐ろしくて、どうしようもなく愛おしい、途方もなく狂おしいほどの感情の混淆に吐き気すら覚える。愛情、嫌悪、憎悪のような、恋情のような。

「腕輪か」

 比衣はぼんやりする頭でそれを見つめた。俺は一体いつからこれを身につけているのか。これは昨夜、水路で拾い上げたものだ。それで――それで? やはりそこから先が思い出せない。気付くとベッドに倒れて込んでいて――いや。その前にどこか……別の場所にいたような、気が…………

 円い輝きが脳裏を過ぎった。ハッとし、振り仰ぐと、予想以上の眩しさに目が眩んだ。光が瞳孔を刺す。網膜を刳り貫くかのような衝撃にたたらを踏む。そこにはあったのは夜空に穿たれた琥珀の孔だ。満月。身を切る風の冷たさがぺたりと二の腕に触れる。誰かがストロボを焚いた。連続した映像というよりも場面場面を写した写真をパラパラと捲るように風景が進む。比衣はそれを他人事のように認識している。甘い痺れ。焼けるほどの渇き。血が熱い。彷徨うように写真が切り替わる。橋を渡る、角から角へ、花壇、水路、電柱と陰。後輩達が暮らす寮。耳元で声がして――声? 誰の? 分からない。腕が重い。そこだけ氷に漬けたみたいだったが、比衣は気にも留めない。ふらついた拍子に壁に突いた右手が視界に入る。金色の腕輪が月光に映え、突然眼窩から毒虫が湧き出す。血の赤と、骨の白と、月の錆……皮相の螺旋……水面に浮かぶ泡が弾けて……

 その時、止まりなさい、と怒気を孕む声がスピーカーを震わせ、部屋に響いた。被害者の人数が発表された所為か、時間は深夜に差し掛かろうというのに野次馬の数が俄かに増え始めていた。スピーカーから漏れるざわめきは次第に酷く、警官が声を荒げて人々を制止する頻度も高くなっていく。

 だが、そんな騒ぎも比衣の耳には入っていなかった。

 腕輪を見下ろす。彼はこの時初めて意識的に腕輪を拾ってからの記憶を遡り、それがそこにある異常さをようやく自覚した。ほんの一瞬前までは嵌めているのが当然だと気にも留めなかった筈の腕輪が、唐突に蛇か何かが巻き付いているかのような怖気を振るう代物にすげ替わる。身体の震えと共に全身に寒気が走り、肌が粟立って、危うく取り乱して悲鳴を上げそうになるほどの焦りが募る。ジッとしていられず、衝動的に立ち上がり、その拍子に椅子が倒れて大きな音を立てた。全く今更な話だが、比衣は初めて自分が置かれた状況を理解した、ような気がした。

 これまでは柊姉妹との問答やナイフや狼のあれやこれやを経験しても心のどこかで本気で受け止めていなかった。いや、より正確には何か得体の知れないものが緩衝材のように間に入り、高遠比衣という人格が必要以上に差し迫った現実に打ち据えられるのを防いでいた。彼の奇妙なほどの実感の欠如――様々な非現実的事柄を現実だと認め、受け入れても尚、心の一部がそれを分厚い硝子の向こう側に見つめているような感覚は、比衣の理性を正常に保たせようと働く一方で彼にその重大さ、重篤さを悟らせないよう麻酔に掛けているかのようでもあった。

 それが今、この瞬間。ほんの僅かな違和感から生じた冷静さに導かれた思考が、比衣に施された魔術をあっさりと解除するに到る。途端、多くの感情が殺到し、鬩ぎ合い、彼は途方に暮れた。

 自分が吸血鬼になったらしいという事。また、現在起こっている事件の犯人がやはり吸血鬼らしく、そしてなぜか自分がそれを夢として観たという事。水環市はある吸血鬼を封印する為に造られた都市であり、その為に市には対吸血鬼用の恐らく暴力機構としての組織があり、柊水鳥はその構成員で、妹の余波も恐らくはそちら方面の人間であり……そこまで考えたところで、あまりにも自身の常識から乖離した現実の荒唐無稽さに膝から力が抜け、堪らずベッドに倒れ込んだ。

「なんだよ、これ……」

 絶句する。まさに言葉を失う、という奴だった。

 今日一日で――正確には昨日の夜からだが――比衣の日常は一変した。これまでフィクションに語られる虚構に過ぎなかった吸血鬼なんて存在がたった一日でこうも生活に入り込んでいる。

 そう考えたところで、比衣はいやと首を振った。

 この場合、侵入という表現は誤りだ。そもそもこの水環市で暮らしている時点で全ての市民が例外なく吸血鬼という存在を日常の底流に潜ませて日々を謳歌しているのだから、正しくは表出とでも言うべきだろう。

 曰く現実は、観測者のそれ自体への理解の度合いによって構築される。

 吸血鬼なる存在を要素として加えただけで比衣の現実は薄氷の危うさを思い出した。彼や他の大勢が唯一無二と信じて疑わなかった日常がたった一個の要素を孕む事で薄っぺらなベールを脱ぎ捨て、真実の姿を現す。吸血鬼とは謂わば鍵だ。その存在はこの水環市に於いて隠匿された真理を鎖す錠前の鍵であり、同時に秘密そのものだった。知らなければ門の外に締め出されたまま、真相真理から遠ざけられたままこれまでと同じ平穏を甘受し続けられたかもしれない。昨日と同じ今日と、今日の延長でしかない明日を得られたかもしれない。愛すべき退屈を。

 しかし鍵を手にした今、鍵と、それによって明かされる秘密は、筆舌に尽くし難い不愉快で不穏な気配を帯び、知らずに暮らし続けるあの日々への回帰に忌避感を惹起した。絶対と信じていた常識は脆くも崩れ、それをそれとして規定する定義は揺らぎ、そしてこれから自分は一体どうなってしまうのか――呪縛の解けた比衣の脳内にはこれまで何度も繰り返してきた問題が一層鮮明に浮かび上がってくる。不確かで、不穏で、腹の底を冷たい指先が持ち上げるような薄気味悪い問題の数々。吸血鬼はあらゆる意味でその象徴のように思え、重々しい嘆息が知らず宙に浮かんだ。

 比衣は上体を跳ね起こしてベッドの端に座り直した。自覚すべきを自覚した途端、まるで忘れていたものを思い出すように疲労がどっと押し寄せてきた。膝の間に頭を垂らし、打ちひしがれたように深々と項垂れる。そうすると当然のように肘を膝につく形になり、目の前にそれが現れた。比衣は左手で右腕を掴み、不可解な懐かしさ、身に覚えのない愛しさが胸の奥から滾々と湧き出てくるのを今ではハッキリと自覚しながら親指で腕輪の表面を撫で――ふと、ある事を思い付いて、うなじの辺りにぞわりと怖気が走った。

 そもそも――――

「俺は一体いつ吸血鬼なんてものになったんだ?」

 疑問は勝手に口を衝いて出た。


「こんな時間に何の用かと思ったら……すっごく今更を話ですね」

 こんなにも多岐に渡ってどうしようもない問題を相談できる相手は限られていた。というより、今となっては思い浮かぶのは一人だけだ。

 モニターに表示されていた全ての窓を閉じ、通話も可能なチャットツールを起動する。夜も更け、普段なら自重する頃合だったが、比衣は時刻の確認も忘れて少ないフレンド欄の中から目的のアカウントをクリックし、デフォルメしたオレンジの毛並みの猫――柊余波のアカウントが離席中からアクティブに変わるまでの二分間をじりじりと待った。彼女はパソコンから離れていたらしく、妙に慌ただしく通話に応じ、挨拶もそこそこに切り出した比衣の問い掛けには溜息混じりの呆れ声で応えた。

「自分でもそう思う。けど、なんていうか……それどころじゃなかったんだ」

 がさごそという雑音が返答の代わりに返ってくる。恐らくマイクの位置を調整して椅子に座り直したのだろう、先ほどよりも明瞭な声がスピーカーを震わせる。

「それどころじゃなかった、ね。確かに? 色々それどころじゃない事が重なっているのは事実かもしれませんけど……ふむ。先輩がいつ吸血鬼になったのか、ですか。あーそういえば。姉さんもそこのところを全く気にしていませんでしたね」

 半ば独りごちる余波に、比衣も確かにそうだと思った。

 事の当事者である比衣が原因よりも現在の状態を深刻に受け止め、そこで思考が停止してしまうのも至極真っ当な反応だ。しかし、翻って柊水鳥はどうか。彼女はエージェントだ。高遠比衣の吸血鬼化はひいては水環市民の吸血鬼化という最悪の想定に数えられるものであり、立場上、彼女はその原因を追究して徹底的に洗わなければならない義務を負っている。そしてこの水環市に於けるエージェントの義務とは決して軽んじられるものではない。少なくとも余波はそう聞いているし、理解してもいる――是非と、実行が伴うかはともかく。であるなら自らの役割に対して誠実足らんとする柊水鳥が、あの教師が、あの姉が、まさかそこのところをすっぽりと抜け落とすなんて愚を犯すだろうか?

 まさか。余波は首を振る。そんなのは当然に在り得ない。胡坐をかき、腕を組んで背凭れに体重を預けると、椅子がぎっと軋んで喜びの声を上げた。つまり、とぼんやり考えた思考が無意識のうちに口から零れ落ち、勤勉なマイクがいそいそとそれを拾ってスピーカーへ放り投げた。

「姉さんは先輩の問題に乗り気じゃなかった、と。だからさっさと片付くならそれでいいと性急に解決策を執ろうとした半面、重要なところには触れなかった。まず間違いなく忘れてたんじゃなくて、敢えて追及しなかっただけでしょうね」

「どういう事だ? あの人は、えぇっと、それが仕事でもあるんだろ」

「そうですけど……うぅん。どうしてでしょうね」

 言いながら、余波は何となく見つめていた比衣のアイコンから目を逸らした。

 妹の彼女には姉がそうした理由に何となくの察しがついた。柊姉妹の事情であり、同時に高遠比衣が絡んでもいる、実に下らない馬鹿げた理由だ。

 マイクの向こう側で余波が幽かに言葉につかえているような感じがしたが、それも一瞬、次の瞬間には先ほどまでと変わらない普段通りの彼女に戻っていた。嘆息し、素知らぬ素振りで言葉を継ぐ。

「どっちにしろ私にそんな風に訊いてくるって時点で吸血鬼になった原因に心当たりはないんでしょう?」

「ああ、ない――な。流石に吸血鬼に噛まれたら覚えていると思うんだが」

「どうだか。だって先輩、昨日の夜どうやって家に帰ったのかも覚えてないじゃん」

「エ。なんでそんな事」

「知ってるのかって?」

 ふ、と少々上から目線に呆れ気味の、苦笑めいた笑いが気配で伝わってきた。

「寮の前で倒れていた先輩を、一体誰が、誰にも見付からずに部屋に連れ帰れます?」

 閃くように脳裏に蘇った断片化されたイメージに、比衣は、今日はひねもすこんな感じだといよいよ他人事のように思った。

 そも思い返せば、というより思い返す事すらも満足に出来ない訳だが、昨夜の記憶の大部分が曖昧になっているのは疑いようがなかった。もしかすると脳のどこかが非常にマズい故障を起こしていて、可及的速やかな受診の要ありなのかもしれない。

「いやあラッキーでしたね。最初に発見したのが私じゃなかったら普通に通報ものですよ」

 あっけらかんとした後輩の言い様に、堪らず比衣は頭を抱えた。

「……チッ、くそ。あれは夢じゃなかったのか」

 記憶とも夢ともつかない風景の連続――渇きと夜の引力による酩酊――さながら月の狂気に魂まで侵食されたかの如き不安定。前後不覚の断絶に塗り固められた闇の中、瀟洒な外観の建物が朧気に浮かぶ。それは何度も見た建物だ。彼が親しくする後輩達が暮らす寮であり、夢に登場してもおかしくはないだろう。だのに脳裏によぎる光景は夢というには些か生々しく、何よりもそれを夢だと思い込もうとしていた自らの欺瞞に比衣は既に気付いてしまっていた。

「残念ながら夢じゃないんですよねーこれが」

 比衣の心を見透かすように余波は言った。

 つまり比衣は今朝の保健室だけでなく、その数時間前にも余波によって命を救われていたという事だ。冬の寒空の下、ロクな防寒もせずに路上に転がって夜を明かせばどうなるのかなんて目に見えている。比衣は自らの末路を想像して、ぶるりと身震いした。いつの間にかこんなにも死が身近に迫っているのだという事実に――死とはこれほどにありふれているのだという自覚に、改めて恐怖を覚えた。

「余波」

「はい、先輩。何でしょう」

「その……先に、言っとかなきゃいけなかったな。ありがとう。助かったよ」

「ふ。いいですよ、別に。自分で誘導したみたいでなんだかもにょりますし。それより重要なのは、先輩が昨夜の事をどれだけ憶えているのか、です。そこのところはどうなんですか」

「ちょっと待ってくれ。思い出すから」

 椅子にしっかりと座り直して、比衣は昨夜の記憶へと感覚の触手を伸ばしていった。

 鈍い、ざらざらとしたモザイク状のノイズを掻き分け、慎重に慎重に、記憶庫の時計の針を過去へと巻き戻す。その指先に感じる柔らかな抵抗が果たして何者の意志によるものなのか、頭のどこかに座っている小人が思案する――内なる自分が自ら思い出さないように忘却機能を働かせているのか、それとも……或いは本当に、誰かが比衣の身にこれから降りかかる苦難に彼自身が堪えられるように麻酔を処方しているのか。

 逡巡する。

 しかし、彼は自らの意思で押しとめようとする不可視の力に逆らい、時計の針を後ろへと送った。すると、内なる彼か、はたまた何者とも知れぬ庇護者は比衣の決意を認めたらしく、意識に掛かる負荷が嘘のように軽くなり、抵抗が不意に消えた。

 比衣は喪っていた記憶を取り戻した。というような劇的な変化は特別起こらなかった。

 ただただ昨夜の家を出た後の顛末を思い出せる限り思い出し、その上で彼はこう言った。

「これと言って特に何もなかったな、うん」

「どうして寮の前にいたのかは?」

「正直、分かんねえな。コンビニの帰りに月を見上げて歩いていたらいつの間にか、としか」

「……因みに本当にその間に怪しい人と接触したりとかはしてないんですね」

「コンビニに店員と客が二、三人いただけで、そもそも行き帰りの間には誰ともすれ違ってない」

「つまり先輩は昨日の放課後、私と別れて、寮の前で私が見付けるまでの数時間の間に吸血鬼に変わる某かのイベントフラグを回収した、と」

「イベントフラグって言うなよ。一気にチープになるだろうが。こっちにとっちゃ笑い事じゃないんだぞ」

 いつものような余波流の下らない言い回しに、思わずいつも通りの突っ込みを入れる。お互いにようやく何かが噛み合ったような心地がして、余波は楽しそうにごめんなさいと笑いながら謝った。

「しかし、本当に吸血鬼に噛まれた記憶なんて全くないんだが……」

「他に普段と違う事は何かなかったの。木の実を拾い食いしたとか、魚が空を飛んでいたとか、家の押し入れから封印された骨董品を見付けたとか、白い光が頭上からスポットしてきたとか、誰かじゃなくても何かに会ったりとか、もしくは何かを拾ったり?」

「――――拾う?」

 余波の言葉に、比衣は手元を見下ろした。金色のブレスレット。この不気味で悪趣味な腕輪も昨日の夜に――それも、記憶が不鮮明になる直前、異変のあれこれが始まる直前に――拾ったものだ。

 確かにこれはいつ身に着けたのかも分からない、身に着けている事にすら気付かせなかった隠しステータス的な呪いの装備品だ。しかし所詮はそれだけじゃないか。少なくとも今のところは。まさか、これが原因で吸血鬼になったなんて、そんな馬鹿な話もないだろう。

 なんて考えていた比衣を余所に、余波の声が思案げに言った。

「腕輪、ですか。やっぱり」

「……だよなあ、やっぱそうだよなあ……! というか気付いてたの、これ」

「気付くよ、当たり前。昨日の夜からでしょ、珍しく趣味の悪いもの付けてるなあって」

 そこで余波が言葉を切った。一瞬、重苦しい吐息を高感度マイクが幽かに拾ったが、彼女は何事もなかったように先ほどと変わらない口調で続けた。

「覚えてます、保健室で話題が出たんですけど。水環市の結界の話」

「ああ、お前が知らなくていいって言って、詳しくは教えてくれなかったけどな」

「拗ねないで下さいよ」

「拗ねてない」

「私は今も先輩はそんなの知らなくていいと思ってるのに変わりはないけど……うぅむ、このくらいは知っていた方が色々安心、かも、しれないし……うぅーん……うむむむ……」

「何だよ。勿体ぶるなあ」

 あまりにも長々と唸っているものだからつい急かすように言ってしまう。唸り声の後ろでマイク近くのデスクを指先で叩いていた音が止み、何かしらの結論を出したのか、代わりに長い長い溜息を吐いた。

「さっきも言ったけど、私はただの征汀館学園の一年生で、可愛い可愛い先輩の後輩なんです。だから正確なところは何も知らないし、姉さんも特に何も言ってこないし。私が興味ないので覚えてないだけかもだけど。とにかく、だからこれはあくまでも私が見たものからそうじゃないかなーと適当に推測しただけの当て推量です。いいですね」

 大仰な前置きに気圧されつつも比衣は素直に頷いて、それじゃ通じないと気付き分かったと答えた。

「先輩が腕に嵌めてるそれ。多分、十二本の剣の一本ですよ」

「…………ん? 何が?」

「だから、先輩のその腕輪がこの街の封印の要の一つなんですよ」

 頭の上に幾つもハテナを浮かべて比衣は首を傾げた。余波が何を言っているのか分からなかった。

 水環市に結界があり、それが十二本の剣を使って構築されている。それは彼なりに何となくだが理解していた。水鳥、余波の柊姉妹の説明を額面通り受け取って、まあそうなんだろう、と。例えば水路の底に岩塊や台座があって、そこに剣が突き刺さっているといったようなものを想像した。漫画やアニメに登場するような凄まじい力を秘めた刀剣を。

 しかし、と彼は腕に纏わりつく違和感から無意識に腕輪の輪郭を指先でなぞりながら、先ほどの余波の言葉を反芻した。この腕輪がその剣だと彼女は言った。

「いや、これはブレスレットだが」

 大丈夫か、頭。もしくは目?

「心配してくれなくても私の『眼』も頭も正常です。呼び方の問題だと思いますよ。言い換えというか、ある種の儀礼的な。こういう世界では割とよくある話じゃないかな」

「そうなのか?」

「さあ」

「適当だな」

「そこはどうでもいいんですよ。問題はそれがこの街の結界の要の一つの可能性があるってとこなんだから」

「仮にそうだとして何でそんなものが水路にゴミみたいに引っ掛かってたんだよ。ちゃんと保管しとけよ、迷惑だな」

「最初はちゃんと安置されてましたよ。ほら、公園の湖、真ん中にあるちっちゃい島。あそこのお社に」

「それがなんで水路流れてるんだよ」

「え?」

「というか、それってこの街のトップシークレットって奴じゃねえの?」

 沈黙。ちっ、と舌打ち。

 喋りすぎた、と小声が聴こえた。

「まあ、まあ、まあ、それはいいじゃないですか」

「いやよくないだろ。喋りすぎたってなんだよ。なんでそんな事知ってるんだお前」

「黙秘権を行使しまーす。そんなの先輩が知る必要ありませーん」

 話せ、話したくない、と押し問答を何度かするうちに、まるで狙い澄ましたかのようなタイミングで余波がへくちっと奇妙な声で鳴いて、二人の詮無いやり取りに水を差した。

「……風邪か?」

「うー、かも。先輩が無理やり私から秘密を聞き出そうとするから」

「人の所為にするな。関係ないだろ」

「ふーん。あるもんね。こんな時間に通話掛けてくるんだもん。お風呂から慌てて出てきて、私まだ裸なの! パンツも穿いてないの!」

「エ。あー……そ、れは、申し訳ありませんでした」

 予想外の台詞に思わず謝罪の言葉が口をついて出たが、しまった、と思った時には既に手遅れだった。心底楽しそうに含み笑いしながら身を乗り出してきた、というのが目に浮かぶような調子で余波が言った。

「えへへへへぇ、想像した? 可愛い後輩ちゃんの全裸。興奮する?」

「うるさい。知るか」

「ふへへ。本当にパンツも穿いてないですからね。急いで通話に出ようとして。生まれたままの姿でこうして先輩と誰にも秘密の深夜のお話をしてるんですよぉ」

「人に誤解されるような言い回しするな!」

「誰も聞いてないからヘーキヘーキ。あ、そうだ。何なら今からビデオ通話にします? カメラつけましょうか…………先輩? 今ちょっとそれもいいかもとか思いませんでした? にへへ、しましょうか、本当に」

「馬鹿か、うるさいこの馬鹿、本当に風邪引かないうちに服着て寝ろ! じゃあなお休み!」

 言うが早いかキーをタップして通話を切った。

 暫くデスクに向き合ったままじっとして、ようやく立ち上がれるだけ落ち着いた頃、比衣は自分が後輩に言い様にあしらわれたのだと気付き、死にたくなったあまりにベッドへと倒れこんだ。その振動が隣の妹の部屋に伝わったのか、壁が殴りつけられる。果たして吸血鬼は羞恥心で死ねるだろうか。そんな詮無い事を考えながら目を閉じる。

 目蓋の裏に全裸の柊余波が現れ、しなを作ってにじり寄ってくる。自らの逞しい妄想に驚いて跳ね起きた拍子にベッドを転がり落ちた。

 また壁が殴られ、今度はうるさいと怒鳴り声まで飛んでくる。


 月の音が聴こえた――――深く闇に浸透する月光の波紋、狂(くるい)の調、我等が祖に交えたる知の福音、嗚呼、嗚呼、旧き篩を振りしキの、血の内より聖別されたる、其こそは正に、マサに――――アァ。アア。これこそは。ミオ、見よ、御代に聴こえし月の唄が、今ぞ聴こえるホウマツの、三七喪に揺蕩うヤミを味わえ。

  ――――――。

  ――――、――――――――。

  ――――、――、――――。――――……、――……。

 気付くと。

 周囲には、絶えず水の流れる清冽な音色が響き渡っていた。近く遠く、上で下で、左右やあちらのこちらで、流水が空間を擦り、水晶を共鳴させ、水と水とが十重二十重に輪唱していた。

 一繋ぎの水音。比衣にとってそれは身と心を重く縛る呪いに他ならないが、翻り、彼女にとっては安らかな子守唄に過ぎなかった。

 いや……彼女? 彼女って誰の事?

 彼女は眠っている。昏々と。来るべき目覚めの声を聴くまでは。ここは彼女の為の場所であり、彼女の為の世界であり、彼女の為の彩られた舞台だ。だから、彼女って誰なんだよ。彼女は眠っている。森深く、茨に抱かれて眠り続ける、我等が貴き眠り姫。

 朱い雫の滴りが響いた。

 白い波紋は瞬く間に世界を呑み込んだ。


(正直――――)

 と、耳には聞こえない、敢えて例えるならば心に響く声が、不意に言ったのが聴こえた。しかしそれは高遠比衣にではない、別の、どこかの、或いは何時かの誰かに対して発された言葉であり、彼はそれを壁の後ろ、床の下、陰の中、空間の膜の裏側に隠れて、ひっそりと盗み聞きしていた。

 話者は、明らかに不機嫌だった。苛立ち、否、率直なまでの怒りを隠そうともせず、不平不満を声音にふんだん盛り込んでいる。

(――正直、気に食わない。今回の事、全てが。今更になってお前が表立って干渉し始めているのもそうだし、その手段としてあの人を選んだのもあまりにも恣意的に過ぎて癪に障る。あいやちょい待ち、ライバルだとかほざいてたのは、そういう意味け? え。まさか。……マジに?)

 水が振動する。波紋が無数に生じ、生じる端から別の波紋とぶつかってランダムな消滅を繰り広げる。感覚的ノイズ。共振障害。

(うっさいな。こっちがどうか、はこの際、関係ないし)

 声が応えた。しかし、相変わらず会話は一方の発言しか聞こえない。

(ふん。何とでも。どうせ起きたらここでの事を憶えていないんだから)

 水面は黙っている。対して話者はそっと溜息を溢す。

(黙秘、ね。君が何者なのかは推測の域を出ないけど、それでもある程度は予想が付いてる。その上で言わせてもらうけど、あの人を守りたければ君自身が関わらなければ一番だったんじゃ)

 短い思索。振動。波紋が生じ、それは意味ありげに伝播する。

(冗、談。ふざけるなよ、この――)

 話者はその波紋にはっきりと反駁の意思を示し――――


 ――――夢だ。途端に自分が取り留めもない散文的な夢を見ていたのだと自覚した、瞬間に、周囲の風景がさあっと魔法の砂を振りかけられたように様変わりしていく。視覚を塗り潰していた闇が白け、色を持ち、陰と輪郭を取り戻す。黒が溶け落ち、その下に巧妙に隠されていた形が浮き彫りになる。まだ、どうにも気でも狂ったように遠近の感覚が歪んでいたが、しかしここがどこなのかは何とか把握する事が出来た。

 部屋だ。

 自室ではない。

 赤い壁紙に文机と書棚。窓が一つあって、外に向かって開け放たれており、白いカーテンが颯爽たる風に揺れている。独特の気配。潮風。目を向けるとそこには紺碧が広がっていた。その手前に白い線が左右に伸びる。右に伸びた線は、窓からギリギリ視認可能な離れた場所でシの魔女の棲む森へと繋がっていた。

 夢だ。夢か。夢、なのだろうね。そもそも現実とは何だ。この世界に存在するあらゆる現象、物質、幻想の何を以てして現と定義し得るのか。即ちは固定式の問題だが、固定式を確定させる流動波長を算出する方法はエニスの海で失われて久しく、いや、そもそもエニスの海自体にシカクシテイリロンの機能があり、ならば帰納的に固定式が海岸にてルイ結晶として出産されるのは自明に過ぎるのではないだろうか。そうなると、そもそもが夢を規定するという行い自体が夢物語となる。逆説、現に於いてをや、だ。空白を空白で埋める事ほど愚かしい事もあるまいに、なぜ、そうすべきであるというだけの理由で我々はそのようなイギョウを求めねばならないのか。七ツ緋之魔女式に語られるシケツソシが正しいと、ならば、誰に保証し得ようか。無だ。無駄だ。無断ゆえに。下らない言葉遊び。否、否、否。そも我等とは。我等? 水の音が聴こえる。ああ、遠く、遠く、湖の底の、決して流れ去らぬ、永遠を謳う、旧き森の――――

 窓の外にふと誰かが立っているのが見えた。空に向かって伸ばした右腕。その手首に刻まれた膿んだ醜い傷から鮮血が流れ、どくどく、ドクドク、心臓の鼓動に合わせて、熱く、蕩けるように甘く、痛みと悦びと、恍惚とした渇きを伴い、肘から二の腕を通って胸元を汚し、一方で肘の先からは絶えずぽたりぽたりと滴り落ちていく。

 白い砂浜に赤い汚点が増えていく。そいつは指先を空に向けている。そこに目には見えない何かが見えているかのように一心不乱にどこかを見つめている。風が吹く。潮の匂い。鉄と錆の生臭さ。生命の名残。或いは死の。伸ばした指先はどこにも届く事はなく、何ものも掴めない手は虚しく空を切る。ざざん、ざざーん、ざざん、寄せ返す音、音、音の連なり。まるで一枚の絵画のように世界は完結していた。過ぎ去ったいつかのように時間は停滞していた。未来はなく。故に、今もない。

 全ては誰かがチラシの裏に書き散らした夢物語のように取り留めもない。散文的で、倒錯的だ。行間には錯誤が潜み、明らかに文脈の底流には韜晦めいた欺瞞と偽証が隠れている。これは夢であり、夢であるなら、果たして誰の見る夢なのか。

 そも。

 夢と現実の違いなんて、一体どこにあるというのだろう?


「――――エ。は、何……? うわっ、寒っ、えぇっ!?」

 突拍子もなく首筋に走った総毛立つほどに冷たい風に、比衣は悲鳴を上げながら震え上がった。我に返ったその瞬間の困惑など、それこそ一瞬で消し飛ぶほどに現実に吹き付ける冬の夜半の空気は冷たかった。

 どのくらい夜風を浴びていたのか、体はすっかり冷え切っていた。かじかんだ指先を無意識に擦り合わせ、はーっと少々大袈裟に息を吹きかけるとそれすらも白く煙り、しかしお陰で指先にはじんわりと血の熱が戻った。と言っても吐くのを止めると次の瞬間には余計に寒さを強調し、いよいよ痛いくらいだったが。

「俺……なんでこんなところに……」

 自問したところで、答えは返ってこなかった。ただとにかくここが自宅でないのは確実で、見回すまでもなく外だった。

 自宅から少し離れた場所にある高台だ。特に何がある訳でもなく、精々が東屋とベンチがあるだけで、水環市の夜景を眺められる地元民だけが知る景観のよいスポットではあるが、結局はそれだけだ。デートの締めに利用する以外に用事のあるような場所ではなく、少なくとも高遠比衣はこういう場所がある事自体ほとんど忘れていた。

「うううう寒い寒い寒い寒い寒い! あああああックっソ嘘だろ上着とかねえのかよ俺!」

 単に寝ぼけていただけなのか夢遊病という奴なのかそれともそれ以外の某かなのかはもうこの際どうでもいい、と半ば以上ヤケクソ気味にうっちゃって、全身を小刻みに揺するような動作をしながら喚き散らす。ご近所迷惑かもと一瞬脳裏を過ぎったが、そもそもこんな場所にご近所も何もあるもんか。大声で、ともするとこうも静かな夜の冴えた冬の空気なら、離れた家々のどこかに届いてしまってもおかしくないほどの勢いで寒い寒いと叫びまくりながら、比衣はその場で足踏みを繰り返した。

 しながら、ぐるりと首を巡らせる。

 街灯もなく、ぼんやりと明るい月に照らされて浮き上がった東屋のベンチに、見覚えのある上着が無造作に置かれているのが目に入った。比衣は一も二もなく駆け出して飛び付き、それはやはり普段の外出用に着ている自分のコートで、確かめるが早いか、慌てて袖を通した。これも長い間寒い風に晒されていたらしく表面の生地は凍り付いたように冷たくなっていたが、着ると中は暖かく、しっかり一番上までファスナーを上げて前を閉じると風も遮断して一気に全身にぬくもりが戻ってくる。

 ほう、と一息つき、頽れるようにベンチに座り込み、比衣は改めて自分の状況を確認した。

 また記憶を失っている。否、正確には、昨夜に引き続いて――これもやはりあまりよくは覚えていない訳だが――眠っている間に勝手に出歩いていた、というべきか。うむぅ、これは本気で夢遊病の気があるのかしらん、なんて軽く冗談めかして呟いてみたところで、白々しい風が吹き抜けるだけで然して可笑しくもない。そして当然、この症状が突発性の睡眠障害の一種である可能性が如何ほどのものなのか、素直に考えるほど比衣も今更無邪気ではなかった。夜の帳と月のベールなんて血の因業と比肩する吸血鬼を語る上で欠かせない要素だ。

「なあ、君はどう思う?」

 比衣は自分の左隣に目を向けてそっと問い掛けた。隣からは返事は返って来ず、元々期待した訳でもなかったが、にべもなく黙殺される。ですよね、と肩を竦めて、吐き出した溜息が白く煙るのをぼんやりと眺めた。

 東屋の屋根の下に斜めからそっと射し込む月明かりに照らされ、ベンチに座った比衣のすぐ横に、手足を折り畳んで蹲った小さな影がいた。月光程度の明るさでは色彩の把握は難しいが、黒よりは明るい色味なのだろう姿が淡い銀のベールにぼんやりと浮かんでいた。人との接触には慣れているのか、見ず知らずの人間――いや、今となってはそれも怪しいが――が隣に座っても逃げたりせず、ちらりと片目を開けただけですぐにまた閉じてしまった。

 猫だった。

 水環市には、というより、水環市の特定の区画にはなぜかやたらと猫が多い。そのほとんどは野良で、勿論飼い猫も混ざっているらしいが、いつから、どうして、こんなに多くの猫が住み着くようになったのかは誰にも分からない。ただ水環市と言えば猫、というくらいに猫好きの間では有名だった。なのでここに猫がいる事、彼乃至彼女が人慣れしている事自体はその実それほど不思議でもなく、大方風除けに東屋に入り、そこに置かれた比衣の上着に潜り込んでいたのだろう。毛布を剥がれた彼乃至彼女は不満そうに一声鳴くと立ち上がり、ちらりと比衣を見上げたかと思えばついっとそっぽを向き、そのままベンチから飛び降りて東屋を出て行く。小さな影は音もなく優雅に、長い尻尾をくねらせながら夜の闇の中へと消えていった。

 ひどく思わせ振りな後姿をぼんやりと見送った比衣は、ふと我に返って肩を震わせた。幾らコートを羽織ったといってもその下は部屋着のままだ。ただでさえ冷たい風を知らず長時間浴びていて身体は冷え切っているし、このままだと朝から風邪で保健室へ直行なんて事にもなりかねない。そうなれば十中八九、保健室という密室で柊水鳥養護教諭と二人きりになる。

「流石にそれは、なあ……」

 如何なる理由からにしろ不干渉を約束してくれた翌日にのこのこと体調不良を訴えて、一体どんな顔をしろというのだろう。何せベッドを借りて、次に目覚める保証がない。手は出さない、と余波に約束させられたとはいえ、果たしてその取り決めはどれほどの効力を持つのか。比衣には皆目見当もつかなかった。

 よし、と膝を叩いて立ち上がる。

 とにかくさっさと家へ帰ろう。帰って、シャワーを浴び直して、さっさと寝直そう。そうだそうだ、それがいい。どうしてこんな場所に、とか。本当に夢遊病なのだろうか、とか。そんな詮無い思考を弄ぶにしてもわざわざここでやる必要もなし。というか、普通に考えて現状は家へ帰る以外に選択肢がない。それとも俺は何かすべき事があってこんな時間にこんな場所にいるとでも? 何をどうすればいいか不明だが、何かがどうにかなるまで待ってみるか?

「…………あほらし」

 溜息を一つ。

 比衣はぐるりと首を巡らせ、目を凝らして、少し離れた場所にある階段を見付けた。足元は想像するよりもずっと暗く、転げ落ちないよう慎重に急いで段差を下りていく。どこかの藪の奥から猫の鳴く声がして、さっきの猫かしらん、なんて考えるでもなく思いながら注意しいしい家路に着いた。

 寒い夜空の下。一刻も早く自宅に逃げ込もうと慌てて玄関の扉に飛び付いた、その時だった。

 コートのポケットで携帯端末が鳴り始めた。比衣はピタリとノブを握ったまま動きを止め、訝りながらそれを取り出す。

 右腕のブレスレットが火を灯したように熱を帯びていた。

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