2-残華の灯火

 ――――瞬間、目を焼くような赤色が強く網膜に突き刺さった。今にも滴り落ちそうなほどの鮮烈な真紅が空と街を染め上げていた。冬の大気が燃え上がり、骸骨を思わせる風景の何もかも悉くを赤く紅く朱く染め上げて、世界は緩やかな鮮血に鈍く延焼していく。苦痛さえ伴って、焦げ付くほどの赤色が深々と瞳を焼いていく。

 音が響いた。肉を裂く音。骨の折れ、砕ける音。次いで悲鳴と悲鳴と怒声と意味を成さない動物的絶叫。苦鳴。懇願。罵倒と侮蔑。身も世もない、嬌声。鋼材が歪み、アスファルトが割れ、衣服の繊維が千切れ飛び、筋肉の破け、眼球は潰れ、一呼吸分の時間の空白がそれ等の生命活動を無慈悲に停止させる。幼い子供が行軍する蟻を靴底で磨り潰すほどの出来事。僅か数秒前の威勢の良い威嚇と恫喝は一瞬で砕け散り、情けない悲鳴と哀願が取って代わった。目の前で恋人の少年の首を両肩の間から取り外された少女の絶叫が高く空を衝き、その金切り声も不自然に途切れて空気が奇妙な声とも何とも付かない音を鳴らす。目の前で恋人だった肉塊が臓物と糞尿を地面に撒き散らしながら四散するのを目撃した少年は、咄嗟にぐちゃぐちゃしたロープ状の赤黒いものを拾い上げようとしたがどうしてか身体が動かず、自身が既に胴体と切り離された頭だけの存在だと気付く暇もなく赤とピンクの斑模様で傍のブルーシートを彩った。地面に突き立っていた鋼材が何かを叩きつけられて半ばから折れ、叩き付けられたものは名刀に打ち下ろしたナマクラのように半分になって向こうへ飛んでいった。踏みつけられた彼女はちょうど子宮を踏み抜かれて割れたアスファルト片を孕み、獣染みた雄叫びを上げたところをそのまま粉砕された。音が響く。音が。音。血の音。死の音。網膜に焼き付く赤色が世界を燃やす。響いた血と死と凄惨な情景が鼓膜を破り、反吐を吐きながら首筋から吸い上げられる何かが肉の内側から抜け落ち、残された魂が干からびてコチコチに固まり餓えと渇きと痛み痛み痛ミ痛みイタみ。

 そして――――

 不意に、胃を抉り出したくなるほどの、空腹が、襲ってきた。

 痛みが頭蓋骨を満たす。脳味噌がドロドロに溶けて穴という穴から染み出していく。熱いものが吸い取られた魂が冬の乾いた空気にカラカラと鳴った。頭の中で。胸の奥で。鳴る。カラカラ。餓えと渇きと痛みとカラカラ鳴る何かがとてもいい匂いの音が滴って燃える青い空の色は痛くて赤色が濡れて柔らかい肌の奥の声がぬめぬめと焦げて痛いドロドロが喉を食べて黒い眼が懐かしい誰かをごめんなさいの炎が聴こえて吐き出した舌の空が乾いて餓えて痛くて痛くてただ痛くて――――


 ――――あまりの痛みに目が覚め、途轍もなく不愉快な気分に言い様のない吐き気を覚えた。

 冷えた脂っぽい汗がねっとりと全身を覆っている。鮮明さを欠く悪夢の残滓が身体の奥深くに澱み、枕に沈めた頭は重く、息を吸う度にこめかみがずきずきと痛んだ。しかし、それも目覚める直前/瞬間に感じた痛みよりは遥かにマシで、知らず固くしていた身体を脱力させると喉元に詰めていた息を安堵と共にゆっくりと解放する。どうにもここ数日、夢見の悪い日が続いている。理由は幾つか思い当たるが、正直なところどれもあまり深くは考えたくはなかった。

 目の前には見慣れない天井。明らかに自分の部屋ではない場所での目覚め。ああ、またか。今度こそ現実だろうな――訝りながら身を起こした比衣は、頬に走った痛みに小さく呻きを洩らした。なるほど、これは現実だ。確信しながら恐る恐る手を触れると、そこは誰かに思い切り殴りつけられたみたいに熱を持って、木の実を蓄えた栗鼠のようにたっぷりに腫れ上がっていた。

 身に覚えのない怪我に首を傾げベッドを降りる。サイドテーブルに丁寧に畳んで置かれた制服の上着を羽織り、肩と首を回して両手を天井に伸ばし軽く深呼吸すると、薬品独特のニオイが鼻先を掠めた。どうしてこんな場所で寝ているのかも今一ハッキリと思い出せないが、少なくとも体調は良くなっている。一部外傷によると思しき痛みがあるのを除くと、今朝の体調不良が嘘のようにすっきりしていた。比衣はズキズキ痛む頬に手を当て、ベッドの周囲を仕切る白いカーテンを勢い良く開き――――

「あんまり触らない方がいいわ。我が妹ながら、こういう時の思い切りだけは人一倍なんだから」

 ――待ち受けていた声に為す術もなく立ち尽くした。

 サラサラと紙面をペンが走る心地好い音が静寂に満ちた室内に波紋を投げている。部屋の奥のデスクに向かい、作業の手を止めずに目の端でベッドを抜け出てきた比衣を出迎えた女は、その一瞥だけですぐに手元に注意を戻した。そうして作業に一区切りを付けて椅子を回し、スカートを履いた足を大胆に組み、未だに身動き一つ取らずに固まっている比衣をまっすぐに見つめる。

 一瞬、その端整な顔に苦虫を口いっぱいに噛み潰した苦渋の、或いは困惑の、その味をどう捉えるべきか掴みかねているかのような複雑な表情が浮かぶ。デスクの角を神経質にペンでコツコツと鳴らして、足を組み替え、白衣の下からセーターを押し上げる豊満な肉体を揺らし、また足を組み替えて、ようやくペンを置く。鋭い眼差しはモルモットの状態を観察する学者の目だ。彼女の中で目を覚ました高遠比衣を見て一つの結論が下された。恐らく初めてであろう『食事』を経ても変化は見られない。だから彼の眼球を抉る必要はなく、いつまでもペンを指先で弄くる必要もなかった。一方で、気を失う前、目の前の人物が取り出したナイフを思い出した比衣はその場を動けなかった。動かなかった訳じゃない、動けなかったのだ。彼の手足はこの場から逃げる為の動作すら恐怖から拒絶していた。そしてその恐怖を、目の前の人物は手に取るように感じ取っている筈だった。

 だから彼女は人差し指を前髪に突っ込んで苦笑を作り、努めて柔らかに響くよう気をつけて口を開いた。

「おはよう。気分はよくなったかしら、高遠比衣くん。言えた義理ではないけれど、そう身構えないでいいわ。私はもう君を刺そうだなんてあんまり考えていないから」

 柊水鳥は保健医として至極まっとうに生徒の体調を気遣い反応を待ったが、彼がカーテンに手を掛けたまま微動だにしないのを見て肩を竦めた。両手を挙げて何もしないと態度で示し、主に保健室を訪れた生徒を座らせる為の、たまに自分がフッドレスト代わりに使っているデスク前の丸椅子を勧める。当然、比衣は警戒したままで、動かなかった。

「気になる?」

「え……」

「どうして私が君を刺そうとしたのか。理由を知りたいとは思わない?」

 知りたいに決まっている。

 そう答えようとして、しかし出来なかった。胃の腑から込み上げた恐怖が石になって喉の半ばに詰まっていて、代わりに慎重に小さく頷いた。

「なら、まずはここに座って。話はそれからよ」

 静かな、有無を言わさぬ迫力に比衣が大人しく丸椅子に腰を下ろすと、逆に水鳥は椅子から尻を浮かせ、ずいっと身を寄せてきた。脳裏にナイフの鈍い輝きが過ぎり、比衣は反射的に目を瞑った。一秒二秒、永遠にも等しい三秒が経過する。しかし腹部に予感した激痛は来ず、代わりにすぐ間近に甘いニオイが漂っているのに気付いた。幽かな息遣い。人の気配を肌に感じる。恐る恐る目を開けると、またギクリと身体が強張った。今度は恐怖ではなく、もっと純な、青少年の心と心臓に悪いタイプの驚きと緊張から。あ、睫毛長いな、なんて場違いな感想が思い浮かぶ。目を開けると柊水鳥の見惚れるほどに整った美貌が眼前に迫っていた。

「……あの」

「ん? 何かしら」

「えぇっと、一体何をして……」

「何をって、見て分かるでしょう。傷を見てるの。……ふむ、この調子ならすぐに腫れも引くでしょうけど、一応氷嚢を用意するから暫くそれで冷やしましょうか」

「え、あ、はい。ありがとうございます」

「お礼なんて。お仕事よ、お仕事。だって私は保健医だもの」

 言葉通りただ職務規定に従っただけなのがありありと透けて見える態度で淡々と言い、水鳥はテキパキと準備を済ませた氷嚢を無造作に放り投げてきた。慌てて掌に受け止め、釈然としないものを感じながらも小さく謝意を述べる。ズキズキと熱を帯びた腫れにひんやりと冷感が染みて、ほんの少し痛みが和らいだが気がした。

 保健室には診察とは別に生徒や教師、来客と話をする為のちょっとしたスペースが設けられていた。ファイルや書籍の収まった棚に区切られた小さな丸テーブルと三脚の椅子、窓辺には観葉植物があり、その隣には奇妙にデフォルメされたぬいぐるみが三体、仲睦まじく寄り添って座っていた。棚には無造作に珈琲メーカーが置かれていて、水鳥は硝子戸を開き、カップを二つ取り出しながらテーブルの方へと比衣を誘導した。

「砂糖とミルクは?」

「ふた……いえ、ブラックで平気です」

「そういう見栄は可愛いと思うけど、無理に大人ぶる必要はないんじゃないかしら。甘さは脳の栄養よ。今の君の状態なら特にね。はい、砂糖とミルク二つずつ」

「あ、ありがとうございます。そ、それで……えぇっと――先生はどうして俺を、その……」

 刺そうとしたのか。真っ赤になって俯いた比衣が恥ずかしさを誤魔化す為に咄嗟に切り出したその言葉を、しかし彼はどういえばいいのか分からず口をもごつかせた。高遠比衣の十七年と少しの人生経験からは、生憎と誰かに刃物を突きつけられた場合の正しい理由の問い質し方なんてひっくり返しても出て来やしなかった。

 そんな彼を見かね、助け舟を出した訳でもないのだろうが、端から見付かりもしない言葉を探してあたふたしている比衣に代わって水鳥が先にそれを口にした。彼女にすれば先ほどからの言動からも分かる通り別段に憚られる表現でもなかった。

「どうして刺そうとしたのか、でしょう」

「……はい」

「ふむ。そうね。実は私は猟奇殺人鬼で、好みの男の子を殺すのが趣味だった、とか。モチロン、そんな理由ではないわ」

 そりゃそうだろう、とは思っても言わなかった。

「高遠比衣」

 鋭く突き出されるナイフにも似た言葉――温度の感じられない声音に名前を呼ばれ、比衣の背筋は反射的にまっすぐ伸びる。向かい合わせに座る水鳥がこちらを見つめ、比衣は魅入られたように彼女の顔に視線を吸い寄せられた。威圧的な眼差しはどこまでも真摯で真剣だ。それこそ、その瞳だけで斬り殺されてしまいそうなほど、そこには厳しい意思が灯っている。

「まず君に確かめておきたい事が一つ。君は、一体いつ吸血鬼になったの」

「…………は?」

 あまりにも予想外なところから飛び出した単語に思考が停止した。

「きゅう、けつ、き。きゅうけつきって、あの吸血鬼?」

「他にどの吸血鬼がいるのか知らないけど、私が言っているのは人の生き血を啜る怪物の事で合ってるわ」

「それと俺に何の関係が? 今の言い方じゃまるで俺が吸血鬼みたいじゃないですか」

 そうやって知らず笑っている自分の声がやけに遠かった。耳に届く声は真冬の山に落ちている枯れ枝のように乾き、ちらちらと舞い降る雪のように白々しかった。真面目くさった水鳥の顔を正視できず、堪らず目を逸らした。

 吸血鬼。吸血鬼だって? 冗談にしたって出来が悪い。比衣は水鳥の言葉を笑い飛ばしながら、しかしどうしてだか無視できなかった。心のどこか、自分でも手の届かない場所で、理解不能の焦燥が燻る。鼓動が早くなり、不安な気持ちが込み上げてきてそわそわと落ち着きなく身体を揺すり始める。吸血鬼? 馬鹿馬鹿しい。何が、吸血鬼だ。

 水鳥は取り乱した様子の比衣がカップを傾けるのを油断ない眼差しで見つめ、頷いた。

「ええ、その通り。君は既に人間ではなく、我々が吸血鬼と定義している怪物へと変生している。より正確にはその前段階、成り掛け……とでも言うべきなのでしょうけど」

 比衣が吸血鬼である事を確信した口調である一方、その言葉尻はどうにも歯切れの悪い表現だったが、動揺しきりの比衣にはそんな不審さに気付く余裕は既になかった。

「嘘を吐くなら、もっとマシな嘘を吐いてください」

「こんな下らない嘘は吐かない」

「荒唐無稽すぎて冗談にしても笑えませんよ」

「冗談だと思う? 私が、冗談や何かで、生徒を刺そうとすると」

 余裕の、或いは心底どうでもいいと思っている突き放した態度で、彼女は珈琲を啜る。

 比衣は言葉に窮して手元のカップを見下ろした。柊水鳥というこの養護教諭が嘘や冗談を軽々しく口にするタイプとはとても見えなかった。むしろそういう態度を軽薄だと嫌う清廉潔白さが言声の調子や言動に滲み出ている。事実はどうあれ少なくとも彼にはそう思えたし、それ以前に、自分がナイフで刺されなければならない理由が思い当たらなかったのも事実だった。柊水鳥とは恋人同士で、彼女がすぐにナイフを取り出してくるメンヘラだったり、或いは本当に彼女が殺人を嗜好する異常性癖の持ち主だったり、という阿呆な展開も当然だが在り得ない。いや、実際のところ、彼女がどのような性癖を持っているのかなんて分かりようもないけれど、そこは重要ではないだろう。

 比衣は自分を殺そうとしていた相手と密室に二人きりという状況に身を置いているのだと思い出して、心臓がキュッと痛くなった。逃げるべきなのではないか。踵を返し、今すぐに扉に飛びついて廊下に出、助けを求めるべきなのではないか。全力で抵抗すれば如何に大人とは言え相手は女、それほど身体を鍛えている風にも見えないし腕力での勝負なら勝ち目はある。多少の怪我は負っても、気を付けさえすればきっと致命傷は避けられる。勢いに押されて珈琲なんて飲んじゃっているが、冷静になって考えれば話を聞くなんて自殺行為だ。そもそもこの珈琲だって混ぜられているのは本当にミルクと砂糖だけか? 何が混入されている分かったものじゃないんじゃないか。噴出する疑問に、疑惑に、頭の中でぐるぐると黒いもやが渦を巻く。冷静に考えるまでもなく逃げるべきなのは明らかなのに、どうして俺はうだうだと考え込んでいるのか。一歩間違えれば殺されるかもしれないのにこんなにも彼女の話が気になって仕方がないのはなぜなのか。自分の行動を理解できず、比衣は右手に嵌ったリングのつやつやした感触を無意識に指先に味わいながら深く息を吸い込んだ。

「……本気、ですか」

「信じられないのは分かるわ。でもそういうものでしょう、常識が破綻する時というのは」

「生憎と常識が破綻するようなおかしな経験はした事がないんです。だから、もう一度聞きます。ちゃんと答えてください。先生は、本気で俺が吸血鬼だと思っているんですか」

「ええ。思っているわ。残念だけど君はもう人間ですらないの。君は……」

「……吸血鬼」

「ヴァンパイア、と言い換えてもいいけれど」

 腕輪が僅かに熱を帯びた。ように錯覚をした。頭に血が昇って、体温が上昇し、目の前がクラクラした。別に吸血鬼になってしまったと、そんな戯言を真に受けた訳じゃない。ただ「吸血鬼」という単語を聞くとどうしてだか胸がムカついて仕方なかった。そういえばつい最近、どこかで、やっぱりそんな連想を思い浮かべたような……夢の残り香……黒い影……不安と恐怖……胸に去来したのは朝日に対してのささやかな嫌悪感……比衣は軽い吐き気を催し、それを珈琲で押し流してから、はたとカップの中身を見つめた。そうして、ああ、毒とかそういうのはもうどうでもいいか、と投げ遣りに考えている自分に気付き、ビックリした。

「根拠……そう、根拠はあるんですか。僕が吸血鬼だと確信する根拠です。……先生?」

 問い掛けにしかし水鳥は応えず、じっと比衣を見つめていた。比衣は居心地が悪くなり、手の中でカップを回しながら相手の反応を待った。白濁した珈琲の水面を覗く。影が落ちるだけで牙を生やした自分の顔なんて映ってはいない。当然だが、舌で触れても同じだ。そもそも太陽が昇っている中、灰になる事もなく学園まで歩いてきたじゃないか。なんて風に真面目に確認している自分が可笑しかった。

 水鳥は目を閉じて考えを纏めるように間を置き、再び比衣へ目を戻した。優雅に足を組み変え、口を開く。声には面白がるような、これまでのやり取りの中で唯一と言ってもよいほどに幽かではあるが明るい響きがあった。

「いいえ、何でもないわ。何だったかしら、そう根拠だったわね。勿論、あるわ。日光への拒絶反応。水流による心的不調とそれによる体調不良。極度の倦怠感。そして強烈な飢餓と渇感。典型的とは言えないけれど、これらは史料に残っていた吸血鬼としての変生過程の初期段階の症状だわ」

「飢えとか何とかは分からないですけど、症状だけ聞いていると完全に風邪や貧血ですね。どう区別するんですか。……あれ? と、いうか……それじゃ理屈が通らなくないですか。まさかたったそれっぽいってだけの理由で先生は俺をここまで引っ張ってきた訳じゃないですよね? それとも最初は単に保健医としての職務倫理に従っただけで、その途中で俺が吸血鬼だと疑いを持った……?」

「あら、少しは頭が回るのね」

「馬鹿にしてますか」

「ふ。いいえ。感心しただけよ。君は正しい。そもそも吸血鬼化の症状なんてもの自体がナンセンスなんだもの。だから今の君の状態は腑に落ちない部分が多い、だからこそ興味深くもあるのだけど。いいかしら。普通、吸血鬼への変生というのは今の君のような形では起こらない。何故なら吸血鬼化というのはそういうものではないからよ」

「よく、分かりません」

「吸血鬼化、変生や転化と呼ばれる現象は、段階を経て――時間を掛けて起こるものではないの。吸血鬼化はほとんど瞬間的な、即時性の現象よ。吸血鬼になるにしろならないにしろ、感染した場合はすぐに発症し、転化、変生する。早ければそれこそ一瞬で。だから君のような中途半端な状態は物語の中にしか存在しない」

「それはつまり……俺は吸血鬼じゃない、って事になりませんか。ただ単に体調不良なだけで……」

「本当にそう思う?」

 ピシャリと反論を遮られ、比衣は言葉に詰まる。舌の上に苦いものが広がり、やけに喉が渇いた。

「高遠くん。君は自分が吸血鬼だという自覚があるんじゃないかしら。或いは自覚がなくとも、何か、不安に感じている事がある。そして君はそれを認めたくない。その気持ちは分かるわ。いきなり襲われて殺されそうになって、その理由がお前は吸血鬼だから死んで下さいなんて「はい、そうですか」と簡単に納得できるものじゃない。でもね。それでも。私は言うわ。高遠比衣、君は死ぬべきだ。吸血鬼の本能に負けて誰かを襲ってしまう前に。どうしてこんな中途半端な状態で症状が止まっているのかは知らない、けれど、人間として理性的な良心が残っているうちに、簡単に死ぬ事が出来るうちに、命を絶つ事をお勧めするわ。今ならまだ、楽に死ねる筈だから」

 水鳥がテーブルの上に何かを置いた。それはさっき、比衣を刺そうと突きつけられたナイフだった。既に鞘から抜かれ、抜き身の鋭さにゾクリと悪寒が走る。

「突然吸血鬼に襲われて不運にも死に切れなかった被害者の多くが獣に変わる時、最初の犠牲者のほとんどは身近な人間よ。彼等は夢現に自宅や見慣れた場所へと戻り、家族や恋人、或いは友人を襲う。そしてそうなった時、彼等の多くは後悔しない。高らかに笑いながら食欲を満たし、人間的制約から解放される。そうして完全に人間とはかけ離れた怪物へと成り果てる」

 比衣はナイフの切っ先を見つめながら妹と両親の姿を思い浮かべた。友人。クラスメイト。――そして昨日泣かせてしまった一人の後輩が最後に見せた、怒った顔を。

 いつしかテーブルの上に置かれた氷嚢の中身が溶け出し、結露した雫が小さな水溜りを作り始めていた。

「ね、高遠くん。君は大切な人を食べて、それでも悪びれず生き続けるような醜悪な怪物に成りたいの?」

 水鳥にすれば比衣の見せている人間らしさはそれ自体が腐敗し、呪いが細胞を焼却し、駆逐すべき怪物へと存在を変貌させていく最後の数秒に垣間見える幻、在り得る筈のない一つの奇跡だ。しかし、それは彼にとって良い事なのかといえば水鳥にはとてもそうは思えなかった。柊水鳥は水環市に請われて出向しているエージェントだ。当然、その立場と経歴から吸血鬼の脅威は見知っている。ヴァンパイアと呼ばれる怪物を殺す為に必要なものを経験則として知っている。同時にその悲惨さ、無残さと虚しさを。そこに不要なものが何かさえも、よく知っていた。

 だから彼女は死ねという。ナイフ一本で死ねる可能性が残っているのなら今のうちに死んでおいた方がまだマシだ。

 それはきっと柊水鳥なりの、水環市議会から求められた役割としてではなく、それ以上に征汀館学園の非常勤とはいえ一教師、保健医としての職業倫理から来る、ささやかな、せめてもの優しさだったのかもしれない。

 だが、悲しいかな。天へと届く塔を砕かれた現在世界の人間にとって、或いは単に意思持つ全てにとってその十全の疎通は極めて難題だ。もしかすると意思には生来、機能的にそういった欠陥が意図的に組み込まれているのか。言葉の壁だけでなく、時には正しく言葉を介してさえ意味と意図は往々にして履き違えられる。特にそこへ秘密や謎めいた示唆が含まれるのなら尚更に。だからこそ、ここまでの一連の会話から柊水鳥がその凝り固まった頭で考えていた事柄が瑕疵なく完璧にそっくりそのまま言葉に載って相手へと届いたのかといえば、それは端から無理な話だった。比衣は見るからに答えあぐね、困った様子でナイフを眺めていた。

「いや……そんな事、急に言われましても…………待って。無言でナイフ構えないで話を聞いてください!」

 比衣は慌てて両手を前に突き出してナイフを手に腰を浮かせた水鳥を制止する。彼女はしばらく黙して比衣を見つめた後、ナイフを先ほどよりも自分の方に寄せて置き、逸る気持ちを落ち着ける為なのかやけにゆったりとした動作で徐に珈琲を飲み、目で先を促した。一先ず危険の回避に成功した比衣は胸を撫で下ろして慌てて説明した。

「えぇっと、とにかく落ち着いて聞いてください。その、吸血鬼化の症状? とやらが風邪に似たものだというなら、俺は大丈夫。多分、柊先生の勘違いだと思います」

「へえ。と言うと」

「今日は確かに家を出てから少し体調が優れませんでしたし、風邪っぽかったですが、少し寝かせてもらってすっかりよくなりました。今はもう全然、辛いところも苦しいところもないんです。なぜか頬が痛いですが……まあ、それくらいで」

「じゃあ、体調はすっかりよくなったのね」

「はい、おかげさまで」

 快活に頷く比衣に、うっすらと笑みを浮かべる水鳥。

 それは、どうにも奇妙な反応だった。

 やおら向けられた視線にぞわっと背中に寒気が広がる。どうして疑いが晴れたのにそんな目をするのだろうか。

「あの……」

「私はね」

 比衣の言葉を制して水鳥が言った。

「一応、止めはしたの。これでも保険医ですから、仮にも生徒にどうなるかも分からない処置を施す訳にはいかないもの。吸血鬼になりかけている奇妙な状態の君に不用意に何かをするべきじゃないって。でも、ほら。あの子ってば、私の言う事なんて一切聞かないから」

「…………、」

 風向きがおかしい。不意にそう思う。

 比衣はゆっくりと身体の向きを調整した。足を引き、フライング気味に尻も椅子から浮いている。

 息を詰め、目の前の相手の動向を窺う。自虐的な乾いた笑みが水鳥の頬を引き攣らせていた。

 空気の温度がいつの間にかほんの僅かに下がり、粘性を持ったかのように錯覚する。聞こえていた筈のグラウンドの掛け声、遠く走る車の走行音、世界を彩る様々な音がいつしかぱったりと止んでいる。

 知らず、固唾を飲む。ギリギリまで張り詰めた糸がまさに切れてしまいそうな緊張感に萎えかけていた危機感が再燃する。場の雰囲気がおかしかった。何度目になるだろう、ここにいるのはやっぱり、絶対に、間違いだったのではないかという思いが胸を過ぎった。ええ、ええ、勿論。間違いに決まっている。――――誰かが頭の奥でそう頷いて笑った。

「高遠くん、君、今はとても気分が良くなっているでしょう。身体の不調だけじゃない、喉を強く焼いていた飢えと渇きもすっかり癒されている。違うかしら」

 水鳥がまだ何かを喋っていた。しかし比衣は聞いておらず、既に行動を開始していた。保健室を出てさえしまえば、人目のある場所にさえ出てしまえばさしもの柊水鳥と言えども強硬な手段に訴えたりは出来ない筈だ。そう考え、椅子を蹴って身体を反転させる。

 テーブルから出口に向かい、距離は一メートルと少しほどしか離れていない。その間に視界を遮るものはなく、比衣の位置からは振り向けば扉が視認出来た。その瞬間、踵を返した彼は即座にそちらへ向かおうと足を踏み出し、そうして凍り付いていた。ひぅっ、という奇妙な音は、自分の喉を通過した空気によって唇の間から洩れ聞こえたものだ。目の前の光景への驚きや困惑よりも先に、遺伝子の螺旋に刻まれた記憶の底から食物連鎖の恐怖が瞬く間に甦り、鳥肌となってぶわっと全身を広がっていく。背後で比衣の蹴った椅子がゆっくりと傾き、床に倒れて大きな音を立てた。

 比衣が振り向いた先には扉が見えなかった。そこにはつい先ほどまでは存在しなかった黒く大きな影が立ち塞がっていた。

 この場を去ろうとする彼を逃がすまいと立ちはだかる巨大な影。この狭い保健室のどこにもその巨躯を隠す場所などないにも関わらず、当然扉や窓が開いて外から入り込んだ訳でもない、自分の真後ろにそんなものがいたのなら絶対に気が付かない筈はないほどの圧倒的な存在感をその影は放っている。それはつまり、その影が、比衣が水鳥と向かい合っていた状態からそちらを振り向くまでの僅か一瞬の間に出現した、という事だった。

 それは犬だ。

 いや、正しくは狼と呼ぶべきだろうか。銀色の毛並みに気高さと威厳を兼ねる雄々しい顔立ち。腕は大人の胴にも匹敵し、尻尾はさながら鉛の詰まった鈍器だ。扉を背に座っているにも関わらず尖った鼻は見上げる高さにあり、その上から見下ろす二つの眼光はたった一言の指示さえあればすぐにでも目の前の小さな獲物の頭を食い千切る準備は整っていると言外に告げていた。

 牙を剥いている訳ではない。唸って威嚇している訳でもない。なぜならそれは自らを誇示しなければ示威も出来ない者の行いだからだ。巨狼がただ向かい合うだけで、ただ座し、ただ在り、ただ視線を向けるだけで、獲物は自らが絶対的な捕食者の前にその身を供物と捧げてしまったのだと理解する。硬直し、目と目を見交わしたまま、視線を外す事すら叶わずに原初の恐怖に呪縛される。喰らうものと喰らわれるもの。食物連鎖が地上の絶対的法則であった頃の記憶が彼の身体を縛り付ける。

「私の妹の血はそんなに美味しかった?」

 狼に睨まれ、漲る殺意と敵意の視線に雁字搦めにされた比衣の背後に、いつしかテーブルを迂回した水鳥が音もなく近付いていた。左手の指が喉に添えられ、右手には先ほどのナイフを持っている。

 逃げろ、と心のどこかで誰かが言った。しかし前門の狼、後門の保健医という状況に逃走を試みる隙はなく、比衣は震える声で応えた。

「柊の、血……? ど、どういう事、ですか。それ……」

 しどろもどろにながらちらりと後ろを振り返る時、今まで気にならなかったが首筋に触れる指先に絆創膏が貼り付けられているのに気付いた。保健室に満ちる薬品臭と珈琲の匂い。そこにごく僅かに赤い錆臭さが混ざっている。そう思った瞬間、背筋に悪寒が走る。絆創膏に抑えられた指先の小さな傷口から洩れる血の匂い――そんなものをどうしてこんなにハッキリと嗅ぎ分けられるのだろうか。

余波なごりが君に血を飲ませたの。私の血の匂いにすっかりと酔っていた君は、意識もないくせに、それはもう美味しそうにあの子の腕にしゃぶり付いていたわ」

「そんな、事、あり得ない――――」

「――――と否定できない事くらい、君にももう分かっているんじゃないかしら」

 不愉快なほどに、彼女の言葉が腑に落ちる。まるで最初からすっかりと理解していた事実から単に自分が目を逸らしていただけであるかのように。いや、或いは本当にその通りなのかもしれない。俺はいつの間にか吸血鬼になっていて、柊水鳥によってその事実を突きつけられているだけなのか。あまりにもあまりな現実に危うく卒倒しそうになる。否定し切れない現状への理解と納得、そして吐き気を催すほどの理性的現実との認識の乖離に眩暈を覚え、ぐらりと身体がふらついた。

「高遠くん。私は君がいつ、どうやって、吸血鬼に噛まれたのかなんて興味はないの。でも君がそうなってしまった以上、私は服務規程に従いこれに対処する義務が――――」

 その時だった。比衣の背後で扉が開いた。隙間からにゅっと手が伸び、狼の尻尾をむんずと掴む。狼はその手の主の接近を一切感知できなかったらしく、突然尻尾を握り締められてきゃいんっと悲鳴を上げ、天井にぶつかりそうなほど飛び上がった。そのまま全身の毛を逆立てて慌しく比衣の脇を、彼を突き飛ばすような勢いで通り過ぎ、まるで脅かされた子犬のように耳を伏せて全く隠しきれていないが水鳥の背中に身を隠した。巨体が目の前を駆け抜ける迫力に尻餅をついた比衣がきょとんとしながら扉の方へと目を向けると、隙間から室内を覗き込む猫眼と目が合い、ガラッと大きな音を響かせて隙間が一気に拡大した。少女はズカズカと無遠慮に保健室へと入ってくる。ニコニコと笑みを浮かべながら、しかし明らかに笑っていない顔で。

「ね・え・さん」

 軽やかな弾むような声音に、自分へ向けられた訳でもないのにギクリとする。出逢ってから数ヶ月、三年という限られた学生期間に於いて決して短いとは言えない付き合いの中、ただの一度も聞いた事のない声が見慣れた顔から発せられていた。柔らかく、冷たく、鋭い、文字通り真剣めいた声。いつも能天気で、明け透けな、おどけた調子の彼女からはとても想像できないほどに剣呑な声色。

「私、センパイに手を出しちゃダメって言ったよね」

 柊余波は後ろ手にピシャリと扉を閉めて言った。

 妹の厳しい声も何のその、姉は素知らぬ顔でしゃあしゃあと応じた。

「――――ええ。だから、手は出してないわ」

「直接手を出さなければオーケーじゃないからね。自殺に追い込むのも、ぽちを使うのも、モチロン駄目だからね?」

「あら、それは言われてないわね。初耳だわ」

「姉さん……」

「はいはい、分かってます」

 姉は年頃の妹が見せる捻くれた甘えた態度にうんざりと首を振る。性質が悪い事に柊水鳥の妹はこれで中々頑固な性格をしていて、一度言い出すと聞かない。そして更に問題なのは、彼女にはそれを押し通すだけの力がある。何にしたところで水鳥は余波が縋るようでいて、決然とした目を向けてきた時点でどうするかは決まっていた。ありありと溜め息をつき、降参と両手を挙げて投げ遣りに続けた。

「オーケイ、分かった。もうあなたの好きになさい。私自身はこれ以上関与しないとハッキリ約束するわ。ただし、もし高遠くんが何か問題を起こせば、その時は」

「私が全てに始末をつける、でしょ。分かってる」

「……どうだか」

 そうとは思うが、けれど水鳥はそれ以上の追求を行わなかった。余波がどうして彼にここまで肩入れするのか、その理由を薄々察している水鳥にすればいつの間にそんな風になっていたのか気になるところではあった。しかし彼女は大人で、青春を謳歌している妹の楽しみに水を差すほど野暮でもなかった。ただ考えるでもなくぼんやりと、いつかタイミングが来れば、と彼女は思うのだ。世の中の姉妹がそういう話題を秘めやかに花咲かせるように、いつか自分達もそんな風に語らう日が来るだろうか。

「それより、余波。まだチャイムは鳴ってないと思うけど授業はどうしたの」

 この話はここでお仕舞いとばかりに話題を変えると、どうしようもない妹はさっと目を逸らして黙秘した。仕様のない余波への水鳥からのささやかな意趣返しのつもりだったが、征汀館の教師としての言葉でもあった。立場上、何より同僚への体面上、そこは無視できない。相手が身内なら尚更だ。ジロっと生白い半眼を向けられた余波は口笛を吹いたって誤魔化し切れないと分かると姉の顔色を窺い、とぼけた仕草でこつんっと自分の頭に拳を当てた。ぺろりと舌を出し、小首を傾げる、見事にあざとい仕草だった。

「てへっ」

「また抜け出してきたのね? 西九条先生にぶちぶち言われるこちらの身にもなってくれないかしら。どうせ言っても無駄でしょうけど。ただ、出席日数にだけは気をつけなさい。流石にそこまで面倒は見切れないから」

「はーい。落第しない程度にしまーす」

 妹の素行不良に呆れ返る水鳥と、そんな優しい姉に甘え素直に手を挙げて返事をする余波。場違いなほど自然に日常的な会話を交わす姉妹を立ち上がるのも忘れて呆然と眺めていると、余波がそんな比衣を振り返り、いつもと同じ懐っこい笑みを浮かべて手を差し出した。

「せーんぱーい。いつまでも私のパンツ覗いてちゃヤですよ?」

 角度的に見える訳はなかったし、鉄壁を誇る柊余波が易々と安売りする筈もなく、彼女は挑発するように――というか、あわよくば少しくらいはなびいてくれてもいいんだけれど、挑発のつもりでスカートの両裾を摘まみ、右に左にひらひらと揺り動かした。けれど比衣の目は明らかに別の場所へと向けられていて、際どい部分を全く見てはくれなかった。余波は内心ムッとしながら、しかしそんな悩ましい乙女心はおくびにも出さない。

「センパイ?」

「柊、それ……」

 彼は差し出された後輩の右腕を見つめていた。白く細い、女の子の腕だ。そこには痛々しい包帯が巻かれていた。青い瞳と眼帯、白い髪という特徴的な外見から普段から気合の入ったコスプレ趣味の残念な美少女と定評のある余波がそんな風に包帯を巻いていると、大体の人は今日は一段と拗らせているなと彼女がネタ振りをしてこない限りは触れない方向で暗黙のうちに了解する。実際、授業前に教室へ戻った余波を出迎えたクラスメイトは腕の包帯へ怪訝な目を向けはしたものの、そこへ触れるでもなく、朝の挨拶をして次の授業の小テストについて仲良くぼやいた。比衣も何も知らずに別の場所で今の彼女と鉢合わせていれば、無視をするか、からかうかしていた筈だ。

 だが、今の彼はそれ以上、うまく言葉を紡ぐ事が出来なかった。嫌に粘ついた唾を苦労して飲み込む。ドクドクと血の流れる音が耳元に聞こえる。舌の上に微かな鉄と錆が香っていた。脳裏には我を忘れた自分が後輩の腕に吸い付いていたという、先ほど水鳥が発した信じ難い科白が、吐き気を催すほどの質感を帯びて耳障りに反響していた。

「ああ……」

 余波も流石に視線に気が付いてスカートを放し、今度はひらひらと手を振って見せた。

「これくらいならすぐに治りますよ。ま、おあいこって事で、一つ」

 あっけらかんと、冗談めかした口調でそう言って自分の頬を指差す余波。比衣は無意識に顔に触れた。頬の腫れは、すでに近くで見ても分からないほど綺麗に引いていた。


 日本国内のみならず、世界的な知名度を誇る地方都市、水環市。

 この街は水の都、水路の街、日本のヴェネチアなどと広く呼ばれる事からも分かる通り水と密接な関係を持ち、全域に張り巡らされた水路や、一つの区が丸ごと湖の中に沈められた世界から見ても珍妙な水没地域、清冽な滝やら河やら地底湖やらがこれでもかと詰め込まれた水の豊かな土地として有名だ。敷地の外縁を長大な運河がぐるりと囲み、近接する市町とは三つの橋とリニア鉄道のみで接続するこの街は、それらの多くの観光名所だけでなく、特に水力を利用した次世代エネルギー技術の研究・開発を目的とした一種の実験都市としての側面も備えている。水路のあちらこちら、ありふれた生活の一郭に到るまで、都市全域に実験的な幾つもの技術が惜しげもなく投入され、観光資源や生活水準の向上にかこつけて都合よくトライ&エラーのデータ収集をしているのは公然の秘密だ。こんなものは水環市役所発行のパンフレットにも言葉を変えて当たり前に掲載されているし、水環市に社屋と研究所を持つ協賛企業もほとんど同様の内容を一般人には縁遠い専門用語と単語を羅列して小難しく語っている、何となればインターネットで検索を掛けても一発で似た文言にヒットするだろう。日本政府がこの都市を舞台に極秘裏に新型核兵器だの何だの研究を行っていると陰謀論をぶっているサイトへ行き着くのも簡単で、水環市に住む学生ならば一度はそういった方面に興味を持って調べるのは割によくある話だ。大よそ特定の年代で、そういったオカルトの類がなぜかブームを巻き起こすのだ。比衣にも覚えがあった。あれは小学生くらいの頃だったろうか。クラスでそんな話題が俄かに盛り上がり、誰もが様々な文献を紐解いて好き勝手に噂し合った。兄妹がいればその年代に流行った噂も入り込み、玉石混交、収拾のつかない街談巷説へと到るのにそうは掛からなかった。仕舞いにはその他の、全国的に膾炙する種々の都市伝説まで混ざり、最後には馬鹿馬鹿しいという白けた空気が醸成されて自然にブームが霧散した。その中に吸血鬼についての噂も含まれていたのをふと思い出した。当然、当時の彼等の多くはその全てを空想だと切って捨て、退屈で忙しない日常へと戻っていったという訳だ。中にはそこからオカルトに嵌り出す者もいて、比衣の友人にもどっぷりなのが一人。あいつに少し話を聞いてみるのもいいかもな、ぼんやりと考える。というのも今日、常識の裏側に巧妙に隠された秘密の存在を比衣は打ち明けられたのだ。水環市で生活していれば小学校の授業で調べさせられるような「あなたの街の成り立ち」とは異なる、都市伝説に語られる魅惑的な空想譚とも違う、本物の秘密がこの街には隠されているのだと比衣は知った。市の成り立ち、エネルギー技術の開発を隠れ蓑とした本来の目的、そして差し迫った一つの危惧。冗談のような話だった。全く荒唐無稽極まる。どこまで真に受けていいのか本当に困る。しかも、全ては高遠比衣の吸血鬼化を前提とした――そうでなくば到底信じられないような――話だった。

 一日のお勤めを終え、その間に何の授業を受けたのかも誰と何を話したのかもまるで憶えていないがいつの間にか放課後になっており、ふらふらと校門を出た比衣はとにかくこんがらがる頭を整理しようとあてどもなくそぞろ歩いていた。

 放課後の繁華街だ。軒を連ねる大手書店、CDショップ、ブティック、パン屋、コンビニなどは店先も冬の装いに変わり、街路樹には日が落ちれば色取り取りに点灯するのだろうイルミネーションが飾られて、道行く人々もその煌びやかさに負けじとすっかりと流行のコートに身を包んでいた。この時期になると気の早いサンタクロースが何人も現れて、せっせとチラシ配りに精を出し始める。横を通り過ぎようとしたタイミングで差し出されて思わず受け取ってしまい、何気無くチラシを眺めると、クリスマス用のケーキの広告と一緒に年末まで有効の割引券も付いていた。比衣はぼんやりと辺りを見回す。場所はちょうど繁華街の中ほど、大よそ十字形に展開するアーケードの交差点に当たる広場の近くだった。ありがちな銅像前の待ち合わせの人混みの向こうに、この区のシンボルでもある花畑と仕掛け噴水が見え、周囲にはどこからともなく耳慣れたクリスマスソングが垂れ流されていた。

 こうして無秩序な雑踏に身を浸し、足の向くまま歩みを進めていると、頭の中がいい具合に空っぽになっていく。冬の冴え冴えとした風が乱れた思考に吹き込んで、面倒な疑問やら当惑やらを爽快に切り刻んで吹き飛ばしてくれる。それで何か解決するのかと言われれば何一つも問題は改善されていないのだけれど、それでも今の彼には落ち着いて考えを纏める時間が必要であり、それはその為の余暇を取り戻す心強い手助けとなった。と言って、結局はこれまで授業も聞かず、友人との話も右から左にして何度も反芻してきた思索の詮無いリフレインに過ぎないのだが。

 つまりは水環市の封印と結界の秘密についてであり、それら種々に纏わる吸血鬼についてだ。

 あの後――保健室に余波が現れ、今朝を焼き直した状況に再び掣肘を加えた後、信じた訳じゃない、と彼は念を押した。

 そもそも脈絡もなく貴様は吸血鬼だと言われて納得するには高遠比衣の頭は常識的に過ぎた。しかし一方で、柊余波の腕の包帯、体調不良の改善、更には柊水鳥の言葉を借りれば彼は余波の傷口にしゃぶりついてその血まで啜ったというではないか。意識を失っていた比衣はそれを憶えていないけれど、話を聴く限りではそうらしい。

 高遠比衣の頭脳の一隅、常識を司るピンク色のぶよぶよがそれに異を唱えた。

 余波の怪我は他の要因によるもので、比衣の体調が悪かったのも寝不足が理由で、少し眠ったから改善した。こちらの理解の方が吸血鬼化よりは分かり易く、まだ幾らかは道理に適っている。何かしらの動機から柊姉妹は共謀してこちらを担いでいるのではないか?

 ちらとそんな風に考えもした。けれどそれは比衣がピンク色の常識の部分で抱く二人の印象とどうにもそぐわず、かけ離れた行動に思えた。比衣が知る限り、余波は冗談を好むし場合によっては平然とすっ呆けるタイプだが、それはあくまでその場限りの冗句であって、決して他人の不調などを悪し様にする人間ではない。姉の水鳥は直接話をするのは今日が初めてなので実際はどうともいえないが、校内での評判やここまでの会話から至極真面目な一教育者という感想を抱いた。果たしてそんな二人が吸血鬼なんて荒唐無稽を病人に吹き込むだろうか。さしものピンク色の常識もこれには閉口した。そうして閉じた口の中、舌の上には、まるで身に覚えの無い蕩けるような熱と味がほんのりと思い出されていた。

 痛々しい包帯。突きつけられる姉妹の証言。憶えていないのにまざまざと蘇る鉄錆。それに――と、そこまで考えたところでぐっと息を詰めた。心臓が奇妙に高鳴る。肌が冷たく痺れ、脳の血管が萎縮して痛み、比衣は苛立たしげにこめかみを揉む。

 比衣はテーブルの対面に座り、これでもかと甘くした熱い珈琲を息を吹き掛けて冷ましている余波の、カップを支え持つ手をそっと窺った。細い手首に白い布が巻かれ、緩まないようきっちりと止められている。昨日の放課後はあんなものはなかった。盛大な墓穴を掘った後、その後姿を求めて教室へと飛び込んだ比衣はちょうど出てくるところだった余波と鉢合わせたのだ。あの時は我ながら恥ずかしいくらい焦っていたし、気が急いてよくよくそこまでは見ていられなかったけれど、しかし包帯なんて巻いていれば流石に気づいた筈だ。だからそれはその後に付いたもので、もっと言えばこの怪我自体が見せ掛けだけの虚言でない保証もどこにもない――筈、なのに、比衣はその可能性を一切考慮していなかった。知らず知らずのうちにその怪我と自身の快復を結んで考えているのは、直接見た訳でもないのに彼女の包帯の下に決して小さくない醜い傷口がぱっくりと口を開けているのを感じ取っているからだった。

「そんなに匂いますか、先輩」

 ジッと見過ぎていたのだろう。いつの間にか珈琲の湯気の向こうから表情のない顔をした余波がじっとこちらを見つめ返していて、比衣はその透明な眼差しの気まずさに堪らず目を逸らした。

「ああ、いや……その、悪い」

「だーかーらぁ気にしてませんって。でも、それにしたって凄い嗅覚ですよねー」

 ふにゃっと頬を和らげ苦笑する余波は、感心したように言って小さく首を傾げる。

「これだけ薬品臭い中で、しかも珈琲の匂いも混ざってるのに、幽かな血の匂いを嗅ぎ分けられるんだもん」

「そんなの俺の方が言いたい。なんで俺はこんなにハッキリと嗅ぎ取れるんだよ……いや、分かってる。何も言うな。どうせお前も俺が吸血鬼だからっていうんだろ」

「朝日を浴びて体調を崩して、血を飲んで治ったんですよ? 他に理由が思い付きます?」

「思い付かない……けど、さ……吸血鬼になったっていうよりは尤もらしい理由が何かある筈だろ」

「例えば?」

「た、例えばこう、寝不足で、貧血だった、とか」

「先輩は寝不足や貧血になったら生き血を啜るんですか。私はレバーとかひじき食べますけど」

「俺だって食べるよ! ココアも割といいらしいよ!」

「へー、そうなんですか」

「母さんが言ってた」

「一体何の話をしてるのよ、あなた達は……」

 デスクに向かい、掲示板に張り出す新しい「保健室からのお報せ」の作成に取り組んでいた柊水鳥が緊張感の欠如したやり取りを交わす二人に呆れ果てたとばかりに溜め息を吐き、くるりと振り向いた。背凭れに背中を預けると安物の椅子は歓喜の声を上げて体重を支え、水鳥は指の中でボールペンを器用に取り回す。今更授業に戻っても半分以上終わっているのだし、休み時間に入るまでここにいてもいいでしょ、と甘ったれる余波を確かに今更だからと許したのは失敗な気がした。片や進学してから別人のように明るくなって喧しい妹と、片や人間を辞めている癖にそれを信じられずぐずぐずぼやく吸血鬼モドキ。最初の十分こそそれぞれに思うところがあったのか沈思黙考に耽っていた二人だったが、なぜか貧血に効果的な食べ物についての雑談を始め、うるさくて仕事に集中できなくなった。仕方なく口を挟んだ水鳥は二人を順に見遣り、ペンの先で怪訝そうな比衣の顔を指した。

「君の体調不良。強烈な渇感、眩暈、寒気、頭痛、耳鳴りに倦怠感の原因は、血が不足していたから、寝不足だったから、日光を浴びていたからだけが理由じゃないわ」

「え」

「そうなの?」

 こくん、と顎を引き、あくまでも個人的な見解だけど、と前置きしてから水鳥は続けた。

「血の不足や日光を浴びていたのも少なくない影響を与えていたのは勿論、あると思う。けれどそれ以上に、君が完全な吸血鬼と呼べる状態でないのが何より大きく関係しているんじゃないかしら」

「ふーん。寝不足は?」

 余波が姉に素朴な疑問をぶつける。

 水鳥は顔色一つ変えずぴしゃりと答えた。

「それは普通の人間でも良くないから睡眠はしっかりと取りましょう――あ、これ、今回のお報せに載せよう」

 いいネタを思い付いたとデスクの紙面にメモを書き取る水鳥。背中に刺さる二つの視線にハッとなり、素知らぬ顔で咳払いを挟んだ。

「多分、高遠くんに強く影響を及ぼしているのは、この街そのものでしょう。中途半端な吸血鬼としての特性故に、君は本来なら吸血鬼が物ともしない迷信に囚われている。この水環市自体が、君をそんな風に縛り付けているのよ」

「…………はい?」

「ああ、なるほど。なるほどね。その設定、すっかり忘れてた」

「設定言わない。そもそもこの都市自体がそういうものなんだから」

「この街自体がって、どういう意味ですか」

「高遠くんは吸血鬼についてどんな事を知ってる?」

 水鳥は比衣の質問を無視して言った。

「どんなって……俺、吸血鬼と会った事ないんですけど……」

「漫画くらい読むでしょう」

「そりゃあ読みますけど……えっと、日光を浴びると灰になるとか、十字架とニンニクが苦手とか……?」

 自信なさげに思い付くまま挙げてみる。たまに深夜にやっているアニメやら、暇潰しに読んだ漫画から得た朧気な知識だ。指折り数え、水鳥が続けた。

「他に裏面が銀メッキの鏡に映らない、心臓の破壊で死ぬ、白灰の杭や銀に弱い、招かれなければ家に入れない、とかね。大抵は迷信よ。実際、君は日光を浴びても灰にならなかったでしょう? それを併せて考えても、精々が日に焼けやすい程度。つまり人より紫外線が苦手なだけね。恐らくだけれど、吸血鬼伝承のほとんどはそういう風に吸血鬼が苦手だからと忌避したものが大袈裟に言い伝えられたのでしょう。でもだからこそ、全てが完全に出鱈目という訳でもない」

「……何が言いたいんですか」

 つらつらと得意げに言葉を募らせて長い前置きを並べ立てる水鳥を比衣が刺々しく遮る。無知な子供に悪い子をさらってしまう怪物の迷信を語って聞かせるような口調にただでさえ苛々させられていた彼は、長広舌を振るう水鳥に相手が目上の、しかも教師だというのも忘れて不快感を隠すのをすっかり失念した様子だった。尤もここに至るまでに連続した不可解なあれそれ、訳知り顔で訳の分からない事情を説明する後輩や教師に、いい加減耐え切れなくなっていたらしいから、それも仕方ないのかもしれない。だからいつもなら多少の自制心が働くところで言葉が脳から直接口をついて出た。水鳥はそんな態度にも気を悪くした風はなく軽く肩を竦めて見せただけで、しゃあしゃあと先を続けた。

「それにこんな話もある。吸血鬼は流れる水を渡れない」

「流れる水を……? えっと、もしかして、だから俺は体調を崩した、とか。いやいや……本気で言ってます、それ」

「半分くらいは。実際はどうかな。本当に流水を渡れなかったとしても、それは多分、一種の恐怖症のようなものでしょうね。だから本物の吸血鬼なら大して影響はないけれど、君は違う。強く受けてしまう。そう考えると運河と水路で構築された水環市は今の君にとってはまさに牢獄ね」

「でも、流水――水路の所為ならそこに近付かなければ平気なんじゃ……」

 言いながら、比衣は通学路の途中にあった橋を思い浮かべた。今朝、いつも通りに通りかかった際は多少水の流れる音が耳に障ったくらいで、それ以外に苦しかった記憶はなかった。日々暮らしていれば、その日の体調や精神状態によっては日頃耳にする音や目にする風景がやけに気に障る事だってあるだろう。そんなものは気分の振幅の程度差であって、時々にご機嫌の角度がなだらかだったり急だったりはそれこそ心身ともに健康であろうがなかろうが誰にでも起こり得る問題だ。そう考えると、やはりその程度の心理的変化とそれによる肉体の変調を吸血鬼なんてものに結び付けるこの姉妹は、俺の何かを著しく誤解しているんじゃないだろうか、誇大妄想的な血筋なのではないか、と内心で首を傾げると同時に少し心配になる。水鳥は一拍の間を置いて「そうね」と頷いた。一瞬、失礼な考えを見透かされたのかと焦ったが、当然、そうではなかった。柊水鳥は水路に近付かなければ影響は受けないのではないか、という比衣の発言に対して同意を示しただけだった。

「確かに水路に関して言えば近付かなければ問題ないでしょう。というより、どこに行くにしても大なり小なり必ず水路を渡らなければいけないのに、君がここにいる事を考えると、それ自体はそこまではっきりと悪影響を及ぼす訳ではないみたいね。……ふむ。君が今朝、あそこまで体調を崩していた理由は、やはり複数の要因によるものと考えた方が適当でしょう。より根本的な部分を指摘するなら、吸血鬼として不完全であるが故に普通の――なんて、酷く倒錯した表現だけれど――吸血鬼なら無視できるレベルの外界からの刺激にすら弱くなっている、といったところかしら」

「つまりこういう事、お姉ちゃん」

 それまで黙って姉の推論に耳を傾けていた余波が指を立てて割って入った。食べ掛けの、唇に咥えていたクッキーを人差し指で奥に押し込み、甘ったるい珈琲で流し込んで、ぽかんとしている比衣に苦笑しながら言う。

「先輩は吸血鬼に成り切っていないからこの街の結界に縛られている、と」

「が、妥当なところでしょうね。世に言う恐怖症の類はその原因と接触しなければ基本的に問題はない訳だからして。ま、正確なところはわからないけど」

「ちょ、ちょっと待って。なんかまた新しい単語が……え、け、結界? はい? じょ、冗談でしょうっ」

 吸血鬼も大概だけれど、この街自体が実はファンタジーでした、は流石に素直に受け止め切れなかった。これまでも半信半疑――いや、二割信八割疑で、その二割も原因はなんであれ結果的に自分の体調がよくないから、という結果論から信じているに過ぎない――だったが、自分の生まれ育ったこの街に結界だかなんだかというフィクションの産物が存在するというのは何とも言えず根源的な抵抗を呼び起こした。嫌悪感、と言ってもいい。既に自分の中の常識が揺らぎ始めているのを心のどこかで感じ取っていた比衣は、しかし高遠比衣という人間が縁(よすが)としてきた常識的な――少なくとも昨日まではそうであった世界自体が本当は無知の虚飾の上に成り立っていたものなのかもしれない、という示唆に咄嗟に反発した。彼だって自分の知るものが世界の全てだと思っている訳ではない。高遠比衣は人並に世間を知っているし、人並に下卑ているし、世の中が常識的な良心と理性によって運営されていると信じるほど純粋でも潔癖でも素直でもなかった。ただ、彼は普通に人並に、自分の住んでいる街は多少特殊な遍歴を経ているだけの、しかしどこにでもある街だと思っていた。いや、思ってすらいなかった。そんな事は考えた事もない。だって、と比衣は自分が思った以上に動揺しているのをバクバクと鳴り響く動悸の激しさに思い知らされながら、椅子を蹴立て立ち上がった。だってそれじゃあ、何を信じればいいのか、分からなくなるじゃないか。これまで多くの馬鹿げたものを見、説明を受けながら、そんな事でと我ながら思わなくもない。だからこの反応は彼自身にとっても予想外だった。

 そして当然、それは二人も同じだ。突然立ち上がり、しかも無自覚なのだろう、テーブルを叩き付けて椅子を倒すほど勢い付いて身を乗り出す比衣に、余波は目をまんまると大きく丸め、水鳥はきょとんと不思議なものを見るように見返している。比衣はハッとなり、小さくごめんと呟いて椅子を起こして座り直した。自分一人の問題なら、と彼はぼんやり思う。自分がどうにかなる程度の話なら、別にどうだっていいんだ。でも、この街にも何か秘密があり、そしてもしそれが危険を秘めているのであれば、それは彼の中の、決して覆してはならないものを揺るがせるに足る充分な材料となる可能性を十二分に秘めているのではないか――――

 足下で、地面がばらばらと崩れていくかのような心許なさに、背筋が震えた。

 目敏い後輩はそんな先輩の恐怖を俯き気味の表情から読み取ったのだろう、殊更笑みを浮かべ、明るい声で言った。

「そんな深刻な話じゃないですよ、先輩」

「ああ……だろうな。で、結界って何なんだ?」

 答えたのは水鳥だった。

「この街の外縁、水環市を取り囲む運河そのものであり、要所要所に穿たれた十二本の剣を楔とする円環。それがこの地の結界と呼ばれているものの正体。そしてこれは外敵を拒絶するものでなく、その逆。つまり内側にあるものを閉じ込める為に構築されているの」

 硬質な声と固い口調。柊水鳥は突き刺さらんばかりの真剣な眼差しを比衣に向けた。

 比衣は気圧され、息を呑む。瞬前までそこにいたのは妹である柊余波と馬鹿みたいなやり取りもしてみせた、厳しくも優しい姉である女性だった。だが、今目の前にいるのは、腹部にナイフを突きつけ、死んだ方がいいと無機質な声音で囁いた恐ろしい人物だ。まるで別人のような豹変振りに圧倒され、失語する比衣に、水鳥ははっきりそうと分かる剣呑さを纏う。これから語るのは嘘ではないと、やはり優しい彼女は態度で示した。

「この街――水環市は、とある吸血鬼の封印を目的とした巨大な結界構造体なのよ。そして、いえだからこそ、というべきでしょうね。水環市には吸血鬼を駆除する専門の部署がある。――そう、ここまで言えば理解力に乏しい君にだって分かるでしょ。その組織にとって、君は既に駆除すべき害虫となっている。封印と結界の影響による不調なんて本当はどうだっていい。気にするだけ無駄というもの。だって、そうでしょう? このままだと君は吸血鬼として処理されてしまうのだから」

 ――――先刻、私がそうしようとしたように。彼女は言外にそう含ませた。

 比衣は何か言おうとした。けれど、その何かはうまく言語化できず、あまりにも観念的に過ぎて自分自身ですら如何なる感情から来るのか判断に困った。水鳥の言葉は相も変わらず余波の言う通り全くシリアスとは程遠い事態のようで、比衣は自分が笑っていると気付くのに暫く掛かった。それこそ十年は笑っていただろうか。少なくとも今日が初対面になる水鳥は完全にドン引きして顔を引き攣らせていたし、余波に至ってはそれでこそ先輩ですねといわんばかりの謎の信頼を込めた憧憬の目をしていた。人間、本当にどうしようもなくなれば、笑う以外に仕様がなくなるのだ。

 事態は高遠比衣の常識の範疇を大きく逸脱し始めている。結局、彼にはその程度の理解しか及ばないのだと変な納得さえあって、それがかれこれ数時間前の話だ。その後、チャイムが鳴り、比衣と余波は廊下に蹴り出された。寸前、水鳥は比衣を呼び止めるとつっけんどんに言った。君には妹がお世話になっているようだから、私はこれ以上、君に干渉しない事にする、と。鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする比衣にはどういう意味なのかは図りかねたが、語調と、後ろにいた余波の小さな驚きの声からそれがかなりの譲歩を含んだ科白だったのは何となく察せられ、反射的に礼を述べようとしたところ、ピシャリと扉を閉め切られて素気無く袖にされた。

「――っ、さっむ……」

 強く寒風が吹きつけた。

 吐いた息が白く煙る。小さな雲は、風が吹くまでもなく中空で掻き消え、その儚い様に自らの未来を見つめながら、比衣は足取り重く屋台や、何かの告知イベントで賑わう広場を遠巻きに東側へと抜けた。特に当てはない。偶々目の前の人の流れがそちらに割れ、移動し易かったというだけだ。列を作るクレープ屋の脇を通り、ベンチに座ってぼんやりとしているサラリーマンや寄り添う男女や携帯を弄っている女子高生や凛々しく座っている澄まし顔の犬の前を素通りし、何人目になるかも覚えていないチラシだかティッシュだかを配っている赤い服の白ヒゲを横目に更に歩き続ける。アーケードに入り、コンビニ、ランジェリーショップ、雑貨屋、ファーストフード、銀行、ゲームセンター、携帯ショップ、飲食店が何件も並び、派手な看板や、くすんでいたり真新しかったりのネオンのどれもが瞳の表面を前から後ろに滑っていく。比衣の焦点は正面に固定されてやけに遠かった。周囲の風景が明らかに見えておらず、ふとした拍子にまた頭が勝手に思考を始めてどうしても注意散漫になり、擦れ違う人々や冬の装飾に色付いた町並みのどれもが意識の網を素通りしていった。身体に備わっていた自動歩行機能は入りっ放しで、足が動くままに任せ、ぶらぶらと漫ろ歩いた。

 現実では中央の広場から東に伸びるアーケードをその先へと進む比衣は、頭の中では学校の廊下を進み、食堂の入口に差し掛かったところだった。封印や結界、吸血鬼といった存在について保険医よりも対応に融通を利かせてくれそうな後輩に改めて問い質す彼に、自販機でいつもの変なパックジュースを購入した余波がストローを挿しながら呆れ顔でこう言った。

「あのさ先輩。私はただの可愛い可愛いあなたのこーはい。そんなの知ってる訳ないじゃないですか」

「けど、さっきはそれらしい事も言ってただろ」

「そりゃ多少はね。姉さんからここで――この街で暮らす上での注意点として幾らかは聞いてますよ。でも、それだってさっき姉さん自身が言ってた程度が精々です。十二本の剣、封印と結界。この街は吸血鬼に対して厳しい管理体制が敷かれている。ただ、ぶっちゃけこんなの、先輩が気にするべき話じゃないです。聞くだけむーだ」

「な、なんでそんな事が言えるんだよ。お前らが言ったんだろ、俺が吸血鬼化してるって。なら、俺にだって知る権利くらい――――何だよ。そのため息は」

 比衣の台詞に、余波は深々とため息をついた。ストローを咥え、ちゅうちゅうと可愛らしく絶妙に微妙な味のジュースを大して美味くもなさそうに吸い上げながら生温い半眼で見つめてくる。

「知ってどうするんですか」

「え?」

 透徹な眼差しは鋭かった。内面に潜む怯えを見透かされそうで、比衣は堪らず目を逸らす。しかし柊余波という少女は成すべきを成す時と場所を弁えた少女だった。当人が普段からそうしているかどうかは、この際、脇に置いておくとして。彼女はこの時の高遠比衣の情けないとも取れる態度を許さなかった。ただでさえ普通の先輩後輩にしては近い距離から更に一歩、余波はずいっと遠慮なく比衣に近付き、上目遣いに顔を覗き込むと、息を呑む彼が吐息の距離ほどの眼前に迫る双眸の透明さにたじろぐのも構わず、ゆっくり、はっきりと、逃げ腰に追い討ちを掛けるように言葉を継いだ。

「知って、どうするんですか。と、言いました。いいですか先輩。先輩はそんならしくもない事を一々気にしなくて大丈夫です。吸血鬼になったって学校には通えるし、ゲーセンにはいけるし、喫茶店でお茶も出来ます。要はバレなきゃいい。そうすれば今まで通り暮らせるんだから。血が飲みたいなら、私が死なない程度になら分けてあげますし。姉さんに頼めば輸血パックくらいなら多分、入手可能です。あと、何でしたっけ。知る権利? 先輩に? どうかな。私にはそんなものが先輩にあるとは思えないし、必要とも思わないけど」

 そこまで捲くし立てて、彼女は周囲に自分達の会話を聞いている者がいないか目を走らせた――勿論、こんな話を始める前にそんな野暮天がいないのは確認済みだが、敢えて比衣に自覚を促す為にこれみよがしにして見せたのだ。飲み干したパックを手の中で潰し、その手の人差し指を比衣の鼻先に突きつける。

「それに何より、先輩にはもっと他に気にすべき事がある筈でしょう?」

「え? 他に気にするべき事……」

 自分が吸血鬼になったり、この街の秘密だったり、そういう事以上に緊急を要する問題なんてあっただろうか。そんな戸惑いが顔に出ていたらしい彼に、後輩の少女は心底呆れた、見損なったと落胆の吐息を返した。いや、無理もないのかもしれないけれど、と思う半面で、それでもこの人には非日常的あれこれではなくてもっと大切な退屈な事に頭を悩ませてほしかった、とやっぱり残念でならない。

 柊余波にとっての高遠比衣は、今やただの先輩以上の存在だ。例えばそれは輝かしい日常の象徴であったり、人間的な素養の支柱であったり、交友関係の要であったりと、まあ色々だが、総じて言えるのは彼が少女にとって日々の安穏を教えてくれる大切な一人だという事だろう。それは大抵の物語に於ける少年と少女の初めての出逢いがそうである例に洩れず、この少年と少女も――そして往々にして、一方の価値観は他方には共有されていない訳だが――そのような出会いを経て、その時から彼女にとって彼は重要な意味を持つようになった。曲がり角でのごっつんこと、遠慮のない一言と、初めての経験。つまりは人生の転換と価値観の変転だった。そんな訳で、柊余波は高遠比衣の身の回りが大きく変わりつつ現状を個人的に厭うており、現実的にそれが避けられないとしても、彼には彼の日常があるのだという事を忘れさせたくなかった。

 親友と先輩が揉めたまま、というのも、据わりが悪い。出来れば改善してほしかった。或いはそれが全部だったかもしれないけれど。

「呆れた。昨日、あれだけあおちゃんを怒らせて、泣かせた癖に。まだちゃんと許してもらってないんでしょ?」

「はい……そういえばそうでしたね……」

「そうでしたね、じゃない。昨日言わなかったっけ。ちゃんと追いかけてごめんなさいしてねって」

「ち、ちがっ、あの後ちゃんと追いかけたんだ。でも、その……追い付けなかった……」

「ああ……ね。あおちゃん、運動神経凄いから……」

 何ともいえない空気の中、昨夕の親友を思い出し、味わい深い表情で遠い目をする余波。運動能力が人より優れていると自覚している余波に引けを取らないほどの親友が嵐に遭って荒れ狂う大波が押し流すままに任せて教室へ飛び込んできたのは昨夕――つまり比衣がヘマをやらかしたすぐ後の話だ。あおちゃんと呼ばれた彼女は自分の席の鞄を掴み、待っていた余波の方を向こうともせずに一言の謝罪と先に帰る旨だけを一方的に告げ、驚きと困惑から言葉に迷っている余波を置いて怒涛の如き勢いで飛び出ていく背中を、余波は呆然と見送った――ややあって目の前の先輩が現れた時、どうして謝っていた声が震えていたのか、教室を出て行くまで一度も窓辺にいるこちらを見なかったのか、腑に落ちた。だから早く追って、ちゃんと謝るようにとその尻を蹴飛ばしたのだ。先輩は追い付けなかったみたいだけど。何度目になるかも分からないあからさまなため息をついて、余波は呆れる。

「私は、ね。先輩。先輩には吸血鬼だのこの街がどうだのなんてのに頭を悩ませてほしくないんですよ。先輩にはもっとこう……他の人がそうするような、身近な悩みに苦悩してほしいんです。そうすべきなんです」

 というかして? と小さく首を右に傾ける後輩。

 そんな事を言われても、と比衣は一歩後ろに引きながら、思う。外見は可愛い、性格も好ましい、知り合ってからどうにも懐かれていると自他共に認めているこの後輩は、時々過剰なくらい距離を詰めてくる。無意識なのか、分かってやっているのか。無意識ならあざといし、分かっているならやっぱりあざといけれど、こうやって顔を近づけられると昨日と今日の二つの異なる事情からそんな場合じゃないだろうと自戒しつつも健全な男子高校の自然な反応として血圧は上がり、胸が高鳴る。顔が熱く、多分赤くなってもいるから、誤魔化しも利かない。せめてと顔を逸らし、前髪に指を突っ込んで額を掻く。余波はそんな彼をじっと見つめ、溜息交じりに肩を竦めると身体を離し、手にしていた丸めた紙パックを自販機横に設置されたゴミ箱の小さな穴目掛けて投げた。緩い弧を描き、枠にぶつかる事もなくシュート。そして、祝砲のチャイムが鳴った。構内が俄かに慌しくなり、教室を出ていた生徒達が予鈴に追い立てられてクラスへと戻っていく。余波は食堂の入口を振り返り、チャイムの音をわんわんとがなっている天井付近のスピーカーを眺めている。

 結論から言えば余波も彼女の姉が語った以上の事は教えてはくれなかった。自分はあくまで征汀館学園の一学生であり、特殊な組織に所属する姉を持つだけの立場なのだ、と言って憚らなかった。比衣には彼女が敢えて情報を伏せているように思えた。理由は彼女自身が口にした通りなのだろうが、比衣には後輩の考えがよく分からなかった。何を言っているのかは分かる、言葉の意味も。けれど発言の意図が理解できなかったのだ。その結果、彼の悩みの種は一つ増えた――いや、忘れていた、思い出さないようにしていたのを思い出させられたと言った方が正しいか。柊余波の言を借りるならばその悩みは比衣の現状とはかけ離れた日常の中の苦悩であり、あの後輩は比衣はそれにこそ目を向けるべきで、今ここにある日常を蔑ろにしてはいけないという。

「そんな事言われても、な……」

 勿論、正しいのは余波だ。彼女に言われずとも比衣だって早くあの子と話をしなければいけないとは思う。けれど、どうしても、今はそんな気分にはなれなかった。大仰な言い草をすれば自己存在の根底を揺るがし、これまで暮らしてきた日々すら虚構のうちに溶かし込んでしまいそうな現在の状況を顧みれば、我が身の色恋沙汰の何と陳腐で矮小な事よ。知らずこれでもう何度目になるのか数えるのも馬鹿馬鹿しくなった溜息が白く漂って消え、比衣はアーケードを先へと流れていく人の動きに流されるまにまに空を見上げた。冬の冴えた青さが遠く、酷く素っ気無くて、肌を裂く心細さにぶるりと身を震わせる。

 今歩いているアーケードはこのまま進むと有名ブランドのテナントが幾つも入った大手デパートに突き当たる。水環市は市のマーケティングが奏功してか、休日平日を問わず観光客が多い。特に商業施設やイベント会場が集まり、宿泊施設なども建っているこの区画はそれこそ昼夜関係なく人通りがある。当然、様々な店舗が集中しているという利便性の高さから地元民も頻繁に利用する事から、商業区と一括りに呼ばれるこの一帯から人足が途絶える事はまずない。更に言うならクリスマスも間近に控えたここ最近は、大小様々な企業が出資し、運営に参画するこの都市には必然とでもいうべき多種多様なイベントがほぼ連日行われている。今日も売り出し中のアイドルが広場のステージで派手に興行しているらしく、普段よりも輪に輪をかけて黄色く賑わっていた。

 なので最初、比衣はそれが自分に向けてのものだとは思わず、そのまま歩き去ろうとした。適当に歩き回るにしてもこうも人が多いと避けて進むだけでも気を使うし、ぼんやりしていると向こうから来る通行人と正面衝突しそうになり、実際、何度か肩をぶつけたりもしてしまっていた。また益体もない思考に徒然と没頭して、自己嫌悪に苛まれる前にさっさとここを抜けてしまおう、そう思っている時だった。

「そこ行く少年。ちょっと寄っていきなよ」

 喧騒の中、声はやけにはっきりと耳に届いた。けれど比衣はまさかこんな場所で、そんな風に声を掛けてくる相手がいるとは思わず、だから足早に立ち去ろうとした。しかし、声は今度こそ明確に、自分に向かって発された――なぜかそんな風に感じた。

「おーい。雰囲気に酔って、黄昏に浸っているショーネン。君だよ、キーミ」

 雰囲気に酔い、黄昏ている――とはつまり物思いに耽っている、という事だろう。もしかすると漫然とそぞろ歩く自分は、教室で頭を抱えている時から、周囲からはそんな風に見えていたのかもしれない。比衣は足を止めて、軽い羞恥の熱を覚えながら困惑気に振り向いた。

 奇妙な風景がそこにあった。あまりにも奇妙で、見慣れないものが並んでいるから一瞬、ついに幻覚まで見始めたのかと目を疑った。

 どこかの国の魔除けか、或いは単に飾りでしかない木彫りの動物の頭が数珠繋ぎになったものが幾つも吊り下げられていた。魔方陣や、見た事もない毒々しい造花、虹色の鳥の羽根、森から拾ってきたかのような大きな枝、岩の破片、明らかに小動物と思しきものの木乃伊、等々が雑然と展示されたファンタジー世界から引っ越してきたかのような店構えの雑貨屋と、他方、少し古びてはいても日本中のどの街でも見かける小ぢんまりとした薄汚い雑居ビルとの間。何とも言えぬ独特の風情を醸す猥雑な区画に続く片隅にこれまた見慣れない奇妙なものがあって、声の主はそこから気安く頷き、ちょいちょいと手招きしていた。

「そう。君だよ。こっちこっち。人生にお迷いなら少しばかり立ち寄っていきなさい、ふわふわ毛皮の狼さん」

 占い師だった。それもこてこての、占い師と聞いた多くの人がまず真っ先に思い浮かべる古典的なほどに怪しいステレオタイプの占い師だ。紫色のローブを纏って体型を誤魔化し、フードで顔まで隠した記号的な占い師が辛うじて見えている口元に客商売に相応しくないにやけた笑みを浮かべ、明らかに比衣の方に眼は見えていないけれど目を向けていた。

 比衣は呼ばれているのは自分だと半ば確信していたが、もしかしてと河に流されながらストローに縋る溺れた人のような思いで周りを見回し、改めてそれらしい人物は誰もいないのだと思い知って渋々占い師に向き直った。それでも万が一の可能性を期待して自分を指差すと、占い師もそのポーズに付き合ってわざとらしく大きく頷いてくれた。

「何の用ですか……?」

 さっさと立ち去りたいのを堪え、人の流れから抜け出て比衣は占い師の前に立った。取り繕うつもりもなく訝りながら、目の前の人物を観察する。ローブの所為で分かり辛いが、声からして女だ。雑貨屋の壁を背に椅子に座っている。つまり、路地の片側に位置取って、通りに横顔を向けている形だ。袱紗を敷いたテーブルがあり、指を組んだ占い師の両腕が載せられている。両腕以外、何もなかった。占いというもののイメージでよくある水晶や筮竹、タロットなどの占い道具、手相を書いた紙やらといったものは一つも見当たらなかった。

「さあ、どうぞ座って」

「はあ……」

 比衣は気後れしつつも勧められるままに対面の丸椅子に腰を下ろす。

 小さなテーブル越しに向かい合うと、目の前の人物は思った以上に若く見えた。少なくとも目深なフードから覗く口元、肘杖をついて橋を作っている両手の肌は白く瑞々しい。恐らく二十代前半か、もしかすると同年代という事も有り得る。少なくとも声や調子に説得力を糊塗できるほどの枯れた年季は感じられず――しかし、怪しみながらも言葉に従ってしまう不可思議な雰囲気が彼女にはあった。

「君は今、何か悩みを抱えているみたいだね」

 比衣の胡乱な眼差しをニコニコと受け入れていた占い師は出し抜けに断言した。世の多くの彼女の同業者がそうするように具体性の欠片もない言葉を一切の躊躇なく臆面もなしに断定的に放言する。

 普通、社会に出て暮らしていれば大なり小なり人は悩みを抱えている。つまりこれは数を打てば当たる類の一般論だ。開幕のジャブに最適の探りの一発。取り合えず鼻先に繰り出しておいて相手からの反応を引き出す。素直で可愛らしい愚かな善人であればズバリ心を見透かした台詞に驚嘆するだろうし、賢しらに頭を回す無粋者ならば誰もが考え付く程度の論調を尤もらしく自慢げに語るだろう。占い師にとっては客のリアクションはどちらでも構わないし、どちらと違ったっていい。重要なのはその言葉にどう返してくるのかだからだ。占いとはとどのつまり情報だ。客の挙動を観察し、言葉巧みに自分の事をよく知っているのだと思わせる一種の詐術。そうやって自分の言葉を信じ込ませてインスタントな信頼関係を築き、偽薬を処方する心のヤブ医者にとってみれば、先ほどの比衣みたくあからさまに心ここに在らずといった様子で歩いている相手などはまさにカモが葱を銜えて鍋を背負ってやってきたようなものに違いない。後は適当に焚き火を熾してその火にかければ立派な鴨鍋の出来上がり。

 虫になる夢を見て、吸血鬼になっていると言われ、今度は鴨か。比衣は自身の連想に内心で失笑し、ここはどう返答するのがベターかと暫時思考する。長々と引き止められて望みもしない御託宣を頂戴するだけでも滅入るのに、対価としてただでさえ心許無い財布の中身を更に目減りさせるなんて気が進まないのを通り越して豆腐の角に頭をぶつけたくなる。

 なる――――けれど。

 ほんの少しだけ、ほんの僅かだけれども、今の自分に何かしらの指針が得られれば、という思いが比衣にはあった。普段ならこんな怪しい勧誘に乗ったりはしないところを、だからこうして不承不承ながらも従っている。

「何を使うんですか」

「ん?」

「占いの道具。タロットとか、水晶とか。よく知らないですけど色々あるじゃないですか」

「私はそういうのは使わない。私は親にもらったこの身体一つで今も昔もやっています」

 占い師はどこか得意げに言った。

「私が使うのは、これ」

「…………目?」

 これ、と右手をフードの下に向けるが、顔の半分が陰になるくらい目深に被っているのでその眼がどこにあるのか全く分からなかった。そもそもあれは前が見えているのだろうかと余計な心配をしたくなる。

「私は所謂、千里眼という奴でね。何でもかんでも見通せるってほど便利ではないけど、ちょっとした占いくらいになら使える程度には便利だよ」

「千里眼」

「そう。千里眼――待って。帰らないで。冗談じゃないから。本当だから。いやいやホントに。ホントだって」

 尻を浮かせ、回れ右をし掛けた比衣の袖を掴んで占い師が慌てて引き止める。比衣は迷惑そうに顔を顰め、やんわりと腕を払って渋々座り直した。身を乗り出していた占い師も行き場のない手をひらひらさせながら、自分の椅子に腰を落ち着ける。比衣の疑惑は最高潮だった。半ば詐欺師を見るように目の前の相手にジト眼を向ける。

「いやでも、千里眼でしょう? せめてもうちょっとこう……何かなかったんですか。今時千里眼って……」

「ちょっとそれは聞き捨てならないぞ、高遠くん。千里眼に今時もあの時もないでしょうが。あるものはある。何なら実証してみせましょうか」

「実証」

 一連の会話の中、のど元まで出掛かった違和感が形を取る前に、占い師の言葉が比衣を捉えた。千里眼の実証とは、これまた興味深い事を言い出すものだ。

「と言って、大した事が出来る訳じゃない――私の眼は詩的だから、酷く断片的で、そして抽象的なのよ」

「はあ……」

「という訳で、手を貸してください」

「え。手相見るんですか」

「いいから。早く」

 占い師がやにわに身を乗り出し、比衣が出そうとした左手を無視して右腕をがっしりと掴んだ。驚く比衣を無視して引き上げ、勢い良く袖を捲くる。ビルの渓谷の向こうにひっそりと沈みいく太陽の流す血の雫が反射する。夕暮れへと移り変わっていく間際の残り日がチカッと目に刺さり、比衣は思わず目を細め、拍子に頭がくらりと揺らぐ。捲くり上げられた制服の袖の下にはギリギリ校則違反を問われない程度に隠されていた金色の腕輪が朝から変わらず嵌っていた。ああ、やっぱり――占い師の口から、これまでとは少しだけ音程の異なる、歳相応な好奇心から来る無邪気さが響いた。

「ふぅん。へぇ。なるほどね。リズヴェット・ヘクセリオが身に着けていた保持系の魔具に近いかな。ううん、それよりもトゥバナ高原の遺跡にあった祭壇の台座か。血と刻印で紐付けを行っているのかな。なるほど。だからこんなに中途半端。根が張っているだけで、まだ土壌ごと汚染した訳ではない、と」

 腕輪をもっと良く見ようと腕を持ち上げて、矯めつ眇めつしながら小声でぶつぶつと呟いている占い師と、そんな彼女の突然の奇行に絶句してすっかりと固まっている比衣。まだまだ人の多いアーケードを行き来する人波の中には路地の入口で行われる奇怪なやり取りを物珍しげに横目に通り過ぎていく人が何人もいて、中には少し歩調を緩めたり、立ち止まったりする者もいた。が、占い師は職業柄か気付いていても気にする素振りもなく、比衣はそもそも目の前の事態に対応するのが精一杯でそちらの事など全く意識の埒外に吹っ飛んでいた。

「何なんですか、一体!」

 我に返り、慌てて腕を引く。占い師は楽しそうにニマニマと笑いながら立ち上がった比衣を見上げる。左手で右手を掴んで庇うようにしている比衣のそんな所作を彼女はつぶさに観察した。その眼差しは程遠く、眼前に立つ比衣を通して全く違うものを見ているようにふわついていて、比衣は身に覚えのある奇妙な居心地の悪さに僅かに身構えた――保健室でのやり取りと、その中で水鳥が口にした忠告がふと脳裏を過ぎる。占い師の謎めいた雰囲気がそこに輪を掛けて余計に彼の警戒心を刺激した。

 そんな比衣に反して、占い師はやけに明るい声でごめんごめんと浅薄な謝罪をした。

「珍しくてつい興奮しちゃった。気を付けようと思っていたんだけど、趣味人の性だね、これはもう。反省」

「……これが何か、知っているんですか」

「いいや。知らない。でも私の《眼》にはとても美しく見えたのよ。金色に輝いて、深く、深く、入り込むような……ええ、ただそれだけ。さて、今はそれよりも私が君に視たものについて語りましょう。あまり時間もない事だし」

「時間って?」

 しかし、占い師は聴こえていないようだった。或いは単に無視していた。

「ねえ、高遠くん。君は今、変化の只中に立たされているようね。君自身はまだ信じ切れていないようだけれど、早めに覚悟を決めた方がいいわ。人は時として自らの判断の外側で最初の一歩を踏み切ってしまう事もある。そういう時、覚悟の有無は君だけでなく君の大切なものの安否をも左右する。分水嶺はすぐそこに迫っているわ。そこに立たされた時にはきっとあまり猶予は残されていないでしょう。だから、私が言えるのはこれだけね。気をつけて。そして、妹は大切に。仲良くね」

「は?」

 どうしてここで妹が出てくるのか。そう問おうとした時だった。ポケットの中で携帯が鳴り、ギクリとした。占い師が大仰に肩を竦め、どうぞ出て、とジェスチャーする。携帯を取り出して発信者の名前を見る。妹だった。驚いて目の前の占い師に目を戻すと彼女はもう一度、言い聞かせるように繰り返した。

「たった一人の妹なんだから、仲良くね。約束は守らなきゃ」

 朝、母親に言われた言葉を比衣は思い出した。言葉を失い、喫驚覚めやらぬまま親指をディスプレイの上でスライドさせた。耳に当てる。

「比衣? 今どこにいるの……ちょっと、聞いてるの、ねえ?」

 電話口から不機嫌な妹の声が聞こえてくるがすぐには応えられなかった。立ち尽くし、占い師を見つめる。

 にぃ、とフードの下で、口元が笑みを浮かべた。

「珍しいものも見せてもらえたから御代は結構。ほら、早く妹ちゃんを迎えに行かなくていいのかしら」

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