1-月夜の陽炎

「そ、その……ありがとう、ございます。そんな風に言ってもらえるなんて私、思わなくて……でも、ごめんなさい。私、先輩の事、先輩としてしか見れません。だから、あの……ごめんなさい」

 ――――刺さった。

 それがその瞬間の高遠比衣の率直な感想だった。

 こちらの決死の科白に対して、小さく縮こまった彼女が懸命に言葉を選び選び頭を下げた時、彼は完全に悟った。嗚呼、これもう脈ゼロじゃん、無理じゃん、と。だから咄嗟に「そーだよね、悪い、気にしないで忘れてよ」などとおどけた調子を見せたのは本当に無意識の反射だったのだ。泣きたいのはこちらだというのに今にも泣き出してしまいそうな申し訳なげな表情。表面張力に押し止められ、涙に潤む上目遣いの瞳。僅かに蒼褪めた心許ない顔色。それ等を見た瞬間、色々と考えていた思考は一瞬で空の彼方に吹き飛んだ。

 だからその言葉は油断した思考の隙間を衝いて喉から滑り出た。口をついて出たのは「冗談」の一言だった。へらへら笑って、気が付けばぽかんとする彼女にこう言っていた。

「ちょっと性質が悪かったかな」

 彼女は仲の良い後輩だった。ひょんな事から知り合ったのが二ヶ月前。それから度々顔を合わせて、放課後も一緒に帰る事があり、五度目の偶然――いや、少し期待したし、タイミングが合うように見計らいはしたけど――が起こった折に折角だからと寄り道に誘った。そうして休日に二人で一緒に映画を観たりもするようになって、ついに今日、昼休みにメールを送って放課後に校舎裏というべたべたなロケーションに呼び出した。正直、自信はあったんだ。一緒にいる時の彼女は趣味が合うからか話していてとても楽しそうで、キラキラしていて、一緒にいるこっちがドキドキさせられた。きっと彼女だって憎からず思っているに違いないと思えるほどにそれは輝いて見えた――童貞臭い勘違いだったけど! 彼女はこちらを同じ趣味を持つ学校の先輩としてしか見ていなかった。こちらが一方的に勘違いしただけで、彼女にとっては友人の一人でしかなかった。尤もそれも今日までの話だけれど。

 その言葉を耳にした彼女の顔にありありと浮かんだのは失望と怒りだった。傷付いた表情のままついに堤防が決壊し、溢れ出た雫が頬を伝うのが見えた。振り上げられる右手。思い切りのよいスイング。思いがけない涙に茫然自失する頬に風を切る掌が接近し、

 パァンッ――――

 と、コミカルな渇いた音が校舎裏に反響する。ジーンとした痺れが頬に伝わり、余韻が脳の奥深くにまで染み透るのにたっぷり数秒。思考の麻痺から我に返ると、そこにはこれまでただの一度だって見せた事のないほど鋭い眼光でこちらを睨み付ける可愛い顔があった。彼女は何かを言おうとして口を開くが、その何かは上手く言葉にならず、しばしもどかしそうに唇を開閉していた。やがて諦めたように俯くとくるりと背を向ける。

「…………最低」

 ようやく、と言った風に搾り出す声。小さく呟かれた捨て台詞だけが、さながら二人の関係への死刑宣告よろしくはっきりと聞き取れた。

 明るい栗毛を靡かせ、小さな背が肩を怒らせたまま去っていく。

 少年は慌てて『高遠比衣版』と隅っこに記載された薄っぺらな辞書を捲った。だが、生憎と呼び止める為の言葉はその辞書には記載されていなかった。少年は呆然と少女の背中を見送り、こんな校舎裏になぜか一脚だけぽつんと設置されているやけに小奇麗なベンチにふらふらと近付いていくと、腰を下ろした。肩を落とし、がっくりと項垂れる。何をやっているんだと頭を抱え、切実に死にたくなった。見てみろ、何もかもが見事に台無しだ。友人は無理でもせめて先輩後輩としてたまに顔を合わせて話をする程度の関係なら今後も維持できたかもしれないのに、掌の中には、素晴らしいほどさっぱりとそのせめてもの関係をすら断ち切ってみせた快刀乱麻の感触が克明に残されている。今日ほど自らの愚かさと迂闊さを呪った日はないと、高遠比衣は目頭に込み上げてくるものを辛うじて堪えた。これ以上、惨めな思いはしたくなかった。

「最低、か……」

 顔を覆う掌の中に、後輩によって吐き捨てられた科白を反芻する。口から飛び出たナイフは目に見えないバリアーに反射し、グサッと胸へと突き刺さった。それは我ながらほとんど自殺行為じみていた。

 そりゃあ怒るに決まってるよなあ、と他人事のように納得して比衣は深々と溜め息を零す。彼女がこの手のデリカシーを欠いた冗談――いや、冗談ではなかったのだけど――を何よりも嫌っている事くらいこれまでの付き合いの中で充分に分かっていた筈なのだ。にも関わらず咄嗟にどうにかしなければと思い、考えるよりも早く条件反射的におどけ、冗談だと言ってしまった。言ってから、あっと思い、しまったと後悔したが、口にしてしまった以上、言葉は取り戻せない。どうにかしようとしたところでそれは後の祭りだ。

 けれど、と比衣の身体は更なる失意に沈みこんでいく。

 でも、だって、信じるか普通? あの状況で、嘘だ、冗談だ、と言われて「そうか冗談か」なんて普通は信じないだろう。苦し紛れの誤魔化しだと誰だって気が付くものだろう? 確かにそういう素直すぎるところも自分が惹かれた理由の一つではあるが、純粋すぎるほどに真面目な彼女の内面的美しさはひたすらに眩しく、そのひた向きさは憧れそのものだったが、今だけは、今この時だけはそれが恨めしくて堪らなかった。

 ――――ああ、くそ、クソ、糞。どうしようもない馬鹿め。誰にともなく、或いは世の中の全てに対して比衣は口の中でぶつぶつ毒づき、反動をつけて勢いよく身体を起こした。ベンチの背凭れを軋ませてぐっと背を逸らし、指を組んだ両手を突き上げながら空を見上げる。空気の透き通った突き抜けるように真っ青な冬の青空だ。綿菓子の破片がぷかぷかと泳いでいて、牧歌的な穏やかさが放課後の構内を満たしている。

 不意に、どこからか吹奏楽部のチューニングが響く。グラウンドの方からは運動部の掛け声。或いは換気の為に開けっ放した頭上の窓のどれかから、居残っているらしい生徒の楽しげな笑い声まで降ってくる。愚か者が自らの迂闊さに後悔している傍らで部活動に勤しむ彼等は青春の汗を流し、そうでなくともアルバムの一頁は何気無い日常の喜びに華やかに彩られていく。対して俺はどうだ? 灰色だなクソッタレ。こうなる筈じゃなかったのに。

 今更のように寒さを覚えて比衣はぶるっと肩を震わせた。吹き付ける風の冷たさは鋭さと錯覚するほどだった。流石にコートを教室に置いてきたのは間違いだったかもしれない。このままなら確実に風邪を引くだろうが、分かっていても、比衣はその場を動かなかった――いや、動けなかった、という方がこの場合は適当か。彼は再び溜め息を吐き、ベンチに座ったままぼんやりと目の前の木立を眺め、冬でも葉をつけているからこれって常緑樹なんだなーと無為な思考が浮かんでは消える。どうにも自分で思っているより遥かにずっと彼女に振られたのがショックだったらしいと遠い場所で実感する。

 ずりずりと、崩れ落ちるようにしてベンチに横になり、右腕を枕に流れていく雲を追いかける。やがて雲は校舎の陰に隠れて見えなくなり、比衣は眼を逸らすように瞑目した。閉じた目蓋の裏に彼女の笑顔が現れ、次いで立ち去る直前に見せた侮蔑の表情が取って代わった。眩暈がした。比衣は更にもう一段階意識を内側へと向ける。目蓋の裏の彼女の顔は真っ黒な闇に塗り潰されて、消え失せる。まるで実際に彼女が高遠比衣の日常から立ち去ったように。それを思い知らせるように。彼が仄かに恋心を抱いた少女の笑顔と侮蔑は忽然と消失して、星々の煌きを亡くした漆黒が当たり前に視界を覆い尽くした。それはささやかな、でもだからこそ絶望によく似ていた。昨日と同じ明日は来ないのだという理解は、ナイーブな青少年の心を切り刻むのに充分な鋭さを持っていた。

 不意に目頭が熱くなる。鼻の奥がツンとする。悲しくなって、胸が苦しくなって、泣きそうになった。我慢した筈の涙が込み上げてくるのが分かり、慌てて掌で押し戻す。溢れようとして水位を上げてくる涙を堪えるのに必死で、比衣は近付いてくる人影に気が付かなかった。

「こんなとこで寝てたら風邪引くぞ」

「え――うわっ!?」

 突然の声に慌てて起き上がろうとして危うくベンチから転げ落ちそうになった。寸でで背凭れを掴み、冷や汗をかきながら座り直す。

 顔を上げると人が立っていた。尊大な口調に教師かと思ったが、制服を着ているので生徒だ。上着は着崩していて、ネクタイも締めていない。胸ポケットに付けるよう校則に明記されている徽章も見当たらず、代わりに吊られているのはシルバーアクセサリー。円と十字を重ね合わせたデザインで、胸ポケットから細いチェーンに繋がれてぶら下がっている。同学年にこんな目立つ格好をした生徒がいれば幾らなんでも気付かない訳がないし、かといって下級生という感じもない。多分、上級生だ。比衣は羞恥心を裏返した僅かな警戒心も露わに胡乱な眼差しを相手へ向けた。長めの黒髪、どこを見てるともつかない曖昧な眼、悪目立ちする風体に反してこれといった特徴のない表情に乏しい顔。絶対に知らない相手だと断言できた。

 反応に困る比衣の隣――ベンチの反対側の端に上級生は特に先客を気にした様子もなく腰を下ろした。

 さっきの……見られてたりしないよな。気にはなったが、比衣は口を噤む。自ら進んで藪をつつき、出す必要のない蛇をわざわざ狩り出すのも馬鹿馬鹿しい。

「飲むか?」

「えぇっと……」

 ちらちらと窺う様子が物欲しげに見えたのだろう。上級生は眉間に皺を寄せると、手に持っていたものをぽんっと放り投げてきた。比衣は反射的に受け止め、声を上げてそのまま投げ落としそうになる。無意識に握り締めたものは長い間冷たい風に晒されてすっかりとかじかんだ手に火傷しそうなほど熱かった。食堂の自販機で売っている缶珈琲だ。困惑する比衣を余所に上級生は自分の分のプルトップを折ると早速缶を傾ける。

「ありがとう……ございます。いただきます」

 比衣は肩を縮めて小さくなり、もごもごと礼を述べた。缶を両手で包み込むと、最初は火傷しそうだった熱がじんわりと掌に馴染んでいくのが心地好かった。

 手が缶の熱さに慣れ、中身がそろそろ温くなってくる頃、隣からハミングが聴こえてきた。吹奏楽部の演奏する耳慣れた曲に合わせて上級生が鼻歌を歌っている。彼は缶を一口煽って空を眺め、辺りに漂うメロディにそっと歌詞を載せる。無意識に視線を追った。当然、そこには何もない。親に置いて行かれた子供のように心許ない雲の切れ端がゆっくりとあちらからこちらへと流れていく何の変哲もない空があるだけだ。遠い眼差しの向こうに見えるのは穏やかな冬の日の午後だけだった。授業の集中で凝った身体をほぐし、緊張を解いて、ホッと一息つく時間。比衣もいつもなら誰かと食堂に寄ってジュースでも飲んでいるか、そうでなければさっさと街へ繰り出している頃だ。

 ――――振られた後でなければな。

 比衣は深々と溜め息をついた。古墳並みの墓穴を盛大に掘った後でなければ、今この時は比衣にとっても昨日と同じか、それ以上の素晴らしい時間になっていた筈だ。諸々がうまく運んでいれば今頃は彼女と一緒に手を繋いで下校デートと洒落込んでいる筈だったのだ。互いに距離感を掴めずに微妙にぎこちない態度を取りつつ、勇気を出して伸ばした指先がぶつかって一瞬引っ込め、しかしどちらからともなくおずおずと指を絡めて手を繋ぎ、こそばゆい空気にもじもじしながら、何でもない事が無性に可笑しく、喫茶店にでも入って今日からはもうただの友人ではないんだという関係性の変化を実感する。共通の話題で盛り上がりながらも、どうしてかいつもとは勝手が違う事に戸惑い、ゆっくりと新しい関係に馴染んでいく……

 だがそうはならなかった。嬉し恥ずかしの青春の一頁を飾る予定だったスペースには、眺めるだけで首を括りたくなってくる灰色で塗り固められた写真がぺたと貼り付けられている。可能ならば今すぐにでも心の書棚からアルバムを取り出して焚き火に焼べたいところだ。こんな本は発禁にしろ。焚書にしろ、焚書に。

「溜め息は幸せが逃げるっていうぞ」

 突然、上級生がそんな事を言い出した。

「……吐いてましたか」

「それはそれは深々とな。そのまま溺れるんじゃないかってくらいに」

「そんなにですか、はは……」

「分からないでもないけどな。誰だって玉砕すれば落ち込みたくもなるもんだ」

「やっぱ聞いてますよね。そりゃ」

 比衣は小さくなり、尻の置き場所に困った。

「言っとくが好きで立ち聞きしてた訳じゃないからな。ここは俺の特等席なんだよ。喧しい連中から離れて静かに気分転換したい時の逃げ場所に最適なんだ。今日もな。そうしたらお前が下級生を壁際に追い詰めて告り初めるから暫くそのまま隠れてた。あれだな。人に聞かれたくない話ならちゃんと誰もいないか確認してからやるべきだったな」

「……ちょっと待て。いや待って下さい。今のおかしい。え、先輩。どこから見てたの?」

「どこからも何も、最初から」

「いや、ちょ、そもそもなんであんた隠れてんの!?」

「だから逃げてたって言ってるだろ。人の気配がしたからてっきりあいつが俺を探しに来たのかと思ったんだよ。で、隠れたら、下級生二人が連れ立って現れて、何か真剣な空気作り出すもんだから出るに出られなくなって」

「そのまま見てた、と」

「そうだな。うん」

「うん、じゃねえよ! 完全にただの覗きじゃねーか!」

 思わず身を乗り出して食って掛かる。相手が上級生だという事実はすっかり頭から吹き飛んでいた。

 というより、もう半ば以上そんなのはどうでもいいと思い始めていた。

「あのなあ……」

 すると今度は上級生が深々と息を吐き出す。それは溜め息は溜め息でも嘆息とでも呼ぶべきものだった。見上げていた空から視線を外し、じろりと半眼を比衣に向ける。そもそもお前が悪いんだろうが、とまるで怒っているような声音で、しかし諭すように言う。

「人に聞かれたくないならもっと用心深く、うまくやれって話だ。違うか、ええ?」

 うぐ、と言葉に詰まる比衣。ほぼ逆上しかけていた頭に出し抜けに冷や水をぶっ掛けられ、我に返る。

「その通りです。け、けど!」

「次からは気をつけるんだな」

「…………はい」

 反論を試みるも逆に有無を言わさぬ正しさにぴしゃり鋭く捻じ伏せられ、釈然としないながらも渋々頷いた。

「でも、次か。次なんてあるのかなぁ」

「一回振られただけで諦められるならそれでもいいんじゃないか。俺は告った事とかないから同じ子に二回以上告るのがいいのかどうかは知らんが」

「ただ単に振られたってだけならリトライするのもアリだったかもしれませんけど。でも俺、絶対嫌われましたから」

 見ていたなら知っているでしょ、と肩を竦めて、比衣は自虐的な笑みを浮かべる。

 上級生は気のない風にぽつりと呟きを溢した。

「嫌われた、ねえ。自業自得だと思うが」

 ぐうの音も出ない。

 分かっている。きっと言った当人も意識して発言した訳じゃない。そんな事は分かっている。だが、カチン、と来てしまったのだ。頭の中の機械が何か不愉快なものを噛み、甲高い音が鳴ったのだ。今更言われるまでもなく痛いほど自覚していた比衣は、予期せぬ第三者からの指摘に思わずムッと腹を立てた。親切心からだろうが何だろうが、名前も知らない赤の他人にそこまでずけずけと正論で殴打される謂われはない。大きなお世話だ。苛立つままに彼は上級生を睨み付けた。ただでさえ落ち込んでいた比衣はそれが無様で、情けなく、浅はかなくらい滑稽なただの八つ当たりだと頭の冷めた部分で理解しながら、しかし沸き起こる刺々しい感情を抑えられなかった。弱った今の彼の自制心は機能不全を起こしていた。

 当然、そんな事は一連の顛末を最初から見物していた側にすれば察して余りある。そして心底からどうでもよかった。上級生は感情的に言葉を吐き出そうとしていた比衣の機先を制して冷ややかに一瞥を浴びせると、その眼差しと同じくらいに冷めた無感動な声音で言った。

「率直な感想だ。俺にキレるのはお門違いだぞ」

「な、それは、でも……くそ、これ、ご馳走様でした!」

 どこまでもひたすらに正しい言葉に二の句も告げず、苦し紛れに改めて缶珈琲の礼だけを半ばヤケクソ気味に言って立ち上がり、さっさとこの場を去ろうとする。上級生はそんな失礼な態度にも気を悪くした風もなく口元だけで苦笑い、缶を持った手の人差し指で大またで歩き去ろうとする後輩の背中に狙いを定めた。バン――放つ弾丸は悪戯な響きを伴っていた。

「奢る、なんて誰も一言も言ってないぞ」

 反応は素早かった。尻ポケットから財布を取り出しながら振り向く。

「払うよ! 払えばいいんだろ払えば!」

「馬鹿。嘘だよじょーだん。そんな本気で怒るなって。ちょっと場を和ませようとしただけだ」

「……和むと本気で思ってる訳じゃないですよね。こんな時にそんな下らない冗談、誰だって怒るに決まってる」

「そうだなぁ。そんなに真剣に話してなかったこんな場面ですら、多少真面目な空気の時に冗談を言われりゃどんなに温厚な奴だって怒る。怒るまでいかなくても機嫌を損ねる。そらそーだ。発言する時は言葉を口にする前に時と場合を弁えろ、という事だ。お分かり?」

 立ち去る背中に追撃を仕掛けた上に倒れたところを徹底して止めまで刺しにくる。大変親切で、なんて後輩思いな先輩だろう、比衣はありがたくて泣きそうになった。

「そんな事、あんたに言われなくたって……」

「分かっているなら」

 恨めしげな呟きを遮ってさらりと畳み掛ける。

「こんなところで落ち込んでる暇はないんじゃないか? 悩むな、行動しろ。うんうん唸ってからやっても、頭空っぽのままやっても、結局やるなら結果は一緒だ。迷ったら動け、動いてから考えろ。後悔するのはその後だ、てな。ま、俺も人の受け売りだけど」

 もの惜しげに振っていた空き缶を足下に置き、ゆったりとベンチに座り直して足を組み、両手を背凭れへ載せてふんぞり返る。

 比衣はその場に立ち尽くしたまま、わざとらしい態度を演じる上級生を物憂くじっと見つめた。

「さっきの今だ。鞄も持っていなかったし、走って追い掛ければ間に合うだろ。こういうのはお互いに冷静になる為に一旦時間を置けっていう奴もいるけどさ、俺はそうは思わない。時間が解決してくれる問題なんて実はそう多くないんだよ。そして安易にそういう姑息な発想に縋った時こそ大体失敗する。そもそも感情的な話なんだから、感情的に動かないでどうすんだよっていう。――ほら、追っ掛けろ。今すぐ」

 上級生はグッと身を起こした。彼の胸元でアクセサリーが揺れて、じれったそうに鎖が鳴った。けれど比衣はもうその音を聴いてはいなかった。踵を返して走り出し――数歩行ったところで忘れ物を思い出して振り返った。

「あの」

「ん?」

「俺、高遠比衣って言います」

「ああ。犬塚だ。犬塚柾斗いぬづかまさと

 比衣は素直に犬塚柾斗に頭を下げると、勢い良く駆け出した。彼女はまだ教室にいるだろうか。或いはもう敷地外かもしれない。何をか考えるより前に感情的になれという犬塚の助言に従ったつもりもなかったが、比衣はとにかく数分前に立ち去った背中を求めて走り出した。

 犬塚柾斗の眼はその後姿が見えなくなるまで見続けていた。


 時計を見ると時刻は既に日付の変わる直前だった。喉の渇きを覚えた比衣がマグカップに手を伸ばすと、いつの間にか飲み切っていたらしく、中身はすっかりと乾いて染みになっていた。

 暫し取っ手に指を掛けたままぼんやりと窓外を眺める。やがて先ほどまで今日の失敗談について相談していたネット上の友人――常駐している掲示板のチャット仲間に休憩を告げ、一旦パソコンをスリープさせる。放り出してあった財布とケータイを手に持ち、すぐそこまでなら着替えるほどでもないかとコートを部屋着に羽織ってそっと自室を出た。家の中はシンという無音が聴こえてきそうなほど冷たく静まり返っている。恐らくはみんな寝ているか、起きていても自室に篭もっている。比衣は出来るだけ音を立てないよう注意して階段を降りて外に出た。

 家の中同様、静まり返った住宅街をポケットに両手を突っ込み、首を窄めた亀を真似ながらコンビニに向かってのらりくらりと進む。日本のどこにでもあるありふれた風景は仮令この街、次世代の実験都市と謳われる水環市に於いても例外ではなく、寝静まった深夜ともなれば辺りの人通りはほとんど皆無となる。ターミナル周辺や商業区にでも足を伸ばせばまだネオンが煌々と灯り、大勢の人が行き交っているのだろうが、流石にここまで離れるとそういった喧騒とも無縁だった。

 夜の住宅街は静寂の加護に守られ、特に今夜は、更に輪をかけて街全体が息を潜めている。然もありなん、と思いつつ、自分は大丈夫だろうと比衣も他の多くの人々と同じように根拠もなく確信した。

 街灯も碌にない道すがら、立ち並ぶ家と家と家はすっかり暗く、月明かりが両脇の花壇と赤煉瓦の夜道を照らす。道路にかつこつと自分一人の足音を並べ、何を考えるでもなく今宵の夜道の安全性について思いを巡らせていた比衣は、不意と冷たい夜風に首筋を撫でられるこそばゆさに震え上がった。数歩先の地面を見つめていた視線を持ち上げると、聞き慣れた水音が耳に届く。ぼんやり歩く内、いつの間にか三つ子橋のすぐ近くにまで来ていたらしい。橋の下には幅三メートルほどの街の象徴の一つでもある水路が通っていて、ただでさえ寒いのに、流水の音に体感温度が更に幾らか下がった気がした。

 橋を渡って最初の角を曲がると、そこに目当てのコンビニが見えた。店内にはレジに立つ店員以外に人の姿はない。比衣は近頃お気に入りのコーラとプリンを買い、やる気のない声に見送られてコンビニを出る。

 橋にまで戻ってきたところで違和感を覚えて足を止めた。ビニール袋を揺らさないように気をつけ、耳を澄ませる。無数の運河と水路によって編まれる水都、水環市では日常の中に水の流れる音が深く染み込んでいる。それは住民にとって生活の一部であり、風と一緒に右から左へと流されていくものだ。改めて耳を傾けてみても聞こえてくるのはそんな耳朶に馴染んだ水の音だけだった。しかし、さっきはそこに混じって奇妙な音が聞こえた気がしたのだ。金属の擦れるような、或いは人の声。ほんの一瞬ではあったが、こんな静かな夜でもなければ聞き逃すようなか細い音。馴染んだ音に潜んだ僅かな違和感。もしかしたらどこかのマナーの悪いクソッタレが水路に放ったゴミが壁にぶつかった音だったかもしれない。或いは風で煽られた何かの倒れる音。何にしたところでどんなに静かな夜であろうが街中なのだから別に気にするものではない筈だ。世界の全てが静止したように錯覚する今夜、けれども本当に世界が停止している訳では当然ないのだから、音は響くだろう。なのにどうしてか、先ほどの物音が気になってしょうがなかった。

 ………………、

 まただ。今度は確かに聞こえた。幽かな音……声……不思議と無視できない奇妙な波紋。橋の手前で立ち尽くして上流を眺めていた比衣はそれが聞こえた方に目を向けた。

 橋の下に降りる。足場から身を乗り出して水面を覗き込むと、水草に引っ掛かった、月明かりを反射してきらりと光るものが見えた。比衣はその場に膝をつき、袖を捲り上げて、落ちないよう気をつけながらぐっと手を伸ばした。水草は水の中で揺れており、水面は足場から目一杯に腕を伸ばしてようやく届く位置を流れている。水は驚くほどに冷たく、思わず声が出た。我ながら馬鹿じゃないのかと思いながらも彼は一度は引っ込めた指先を思い切って水中に突っ込んだ。そしてほとんど地面に伏せるようになりながら水草に絡み付いていたものを掴み、凍傷になる前に急いで手を引き抜いた。

「…………ブレスレット?」

 それは何の装飾も施されていない、至ってシンプルな金属製のリングだった。指で摘まみ、月光に翳して眺めてみる。表面に淡く何かの模様が彫られている以外、これと言った特徴は見られない。模様もやけに複雑で、イニシャルだとか、持ち主に関連するようなそういうものではなかった。

 比衣はじっとそれを見つめていたが、不意に吹き抜けた風にぶるりと身震いして我に返り、腕輪ごと両手をポケットへと押し込んだ。寒さに肩を竦め、脇に放り出していた袋を取り上げて先ほど降りてきた道路に上がる為の階段を一段飛ばして駆け上がる。この落し物は明日にでも交番に届ければいい。今はともかくさっさと帰ってシャワーだけ浴び直したかった。

 ポケットの中、凍り付くような感触に指先がちくりと痛んだ。ビックリして確認すると、どこに引っ掛けたのか、人差し指の先に小さな血の泡が一つ浮いている。親指でそれを押し潰し、比衣は再び手をポケットに戻して家路を急いだ。

 通り慣れた角を曲がり、パンジーや葉牡丹、スイートアッサムなどの冬の花々が寄せ植えされた花壇を通り過ぎ、目の前に現れた街灯の一つに目を遣った瞬間――どこからか。綺麗な透き通った音が聴こえ、ぐらりと僅かに地面が揺らぎ……

 そこは、見も知らぬ部屋だった。ベッドが置かれていて、自分はそこに寝かされていた。真っ白なシーツの海にやけに重く鈍い熱い身体を投げ出して、もぞもぞと手足が蠢いている。天井が遠い。白い壁紙が目に刺さる。窓が開いているらしく新鮮な風が頬を撫でていく。

 比衣は身を起こした。被っていた毛布が滑って床へ落ちる。その音が酷くうるさく脳に響く。頭痛だ。こめかみが万力で締め上げられているかのような痛み。頭を振る。零れ落ちそうになる脳味噌を抑えようと手を持ち上げる。すると霞む目に飛び込んできたのは肢だ。人の、自分の手ではなく、そこに現れたのは巨大な虫の肢だった。ぼんやりと不思議な面持ちで比衣はそれを眺める。手を動かした自分の意思に応じて視界に現れた虫の肢をジッと眺める。堅そうな毛の生え揃った節くれ立った肢。蜘蛛の肢にも似たそれは、彼の思いに従って上へ下へと動く。

 まだ自失したまま首だけを巡らせる。室内を見回す。鏡があった。ベッドの上に蹲る一匹の巨大な虫が鏡の向こうからこちら見つめていた。

 虫の身体は真っ赤に濡れていた。

「っ――――!」

 瞬間、声にもならない悲鳴を上げて、比衣は夢から覚めた。膝から力が抜け、転びそうになったところをギリギリで手を付いて身体を支える。全力疾走の直後のように呼吸が乱れていた。全身汗だくで、手が震えている。心臓の鼓動が大きく頭に響く。とても悍しい夢を見ていた気がする。しかしそれがどんな夢だったのかはっきりとは思い出せない。ただ頭が痛く、息が苦しく、不愉快な気分が胸の底に蟠っている。醜悪な夢だったという不確かな感覚だけが彼に言語化できない不安を抱かせた。

「さむっ……って、え?」

 突然、凄まじい寒風が肌を切り裂いた。微睡みに垣間見た悪夢の残滓がそれで綺麗さっぱり吹き散らされ、悪夢を見ていたその感覚すら失せて、意識が覚醒する。不意の寒さに自分の肩を抱いて震え上がり、周りを見ると、どういう訳だかそこは自室ではなかった。部屋着のままコートも羽織らず、寒さに身を震わせて電柱にもたれ掛かっていた。困惑しつつ周囲の景色を確かめるとすぐに見覚えのある建物が目に入り、理解出来ない状況と光景に「……は?」と間の抜けた声が口から零れ、吹いた風に切り刻まれた。煉瓦の壁。小さな庭と、一本の木。そこは放課後などに彼女を送り届けた際によく見た建物だ。生徒の為に学園側が用意した寮であり、ここの寮生である彼女を何度か送ってきた事がある。

「なんで……」

 疑問を言葉にしてみたところで答えは出ない。もしかしてこれは悪夢の続きかもしれないという思いが一瞬過ぎるが、それは身を切る空気の冷たさに即座に否定された。

 夢遊病じみた――或いはその通りの――無意識の自分の行動にゾッとして足下がよろけ、右肩をさっきまで支えにしていた電柱にぶつけた。頭の奥深くで不安の虫が蠢いているのが感じられた。恐怖と疑問と交じり合い、心の器から溢れ出して全身に蟻走感めいた寒気が広がって鳥肌が立つ。夢遊病。これまでの高遠比衣の人生でただの一度も関わった事のないその病名がストロボのように何度も明滅する。夢遊病。夢遊病。夢遊病。自分ではない誰かが自分の代わりにコックピットに乗ってこの身体を操縦している。勝手に歩き、勝手に呼吸して、勝手に彼女の家の前にやってくる。それは高遠比衣であって高遠比衣ではない。俺であって、俺ではない。ならそこに、ここに、こうして立っている男は一体誰だ?

「――――毒虫だ」

 唐突に。

 本当に予期せず、どこか宇宙の彼方からそんな発想が降ってきた。虫。虫。夥しい蟲だ。皮膚の裏側を無数の毒虫が歩き回っている。血管のチューブを蛆虫が這い回り、鼓膜の内側でごそごそと何かが動いていた。吐き気がした。胃液が食道を逆行してくる。まだ夢の中を彷徨っている気分だ。しかしここが現実だと強く実感してもいた。視界がぐるぐると空転する。ぐらりと頭が揺らぐ。頭痛がした。強烈な眩暈。額の真ん中にノミを突き入れられ、歯を食い縛って喚き散らしたい衝動を必死に噛み殺さなければならなかった。そうでもしないと今にも地面の上をのた打ち回って叫び出していただろう。いつの間にか寒さもどこかへ行っていた。粘ついた汗が滝のように流れてくる。激痛を堪える一瞬の油断をつき、根拠のない不安と死にたいほどの恐怖の波頭が瞬く間に心を浚う。疑問になんて何の意味もないという理解がまた唐突に落ちてくる。高遠比衣はここにいる。僕は彼女の家の前に立っている。それだけが事実で、それこそが現実だ。辛うじて残っている理性が一刻も早くここを離れるべきだと告げる。比衣はノミに穿たれた穴から脳味噌が零れてこないように額を渾身の力で抑え付けながら、右にふらふら、左にふらふら、覚束ない足取りでズタ袋の身体を懸命に運んだ。全身が燃えるように熱かった。

 出し抜けに喉の渇きを感じた。焼け付くようなその渇きを誤魔化す為に唾を飲もうとしたが、喉は受け付けず、比衣はほとんど喘ぐようにして息を吐き出す。燃える吐息は口元で白く染まって小さな雲が空中に漂う。粘つく汗が止まらない。馬鹿みたいな心臓の鼓動が耳元で煩く響いていた。水の流れる音が聞こえる。ザーザーザー。ラジオのノイズのような。或いは頭の中を駆け巡る血脈の。ザーザーザー。その音はまるで古いテープに録音された誰かの笑い声のようにも聞こえた。

 どうしようもない疲労感に足が止まる。肺腑の底にまで深く息を取り込み、その拍子にがくりと頭が後ろに傾いた。頭上に広がる夜空を振り仰ぐ。冴え冴えしい冬の空。そして――――

「ああ、今夜は満げ……つ…………」

 意図せず持ち上げた視線の先。遥か成層圏の彼方から、凍て付くほどの琥珀色の月が漆黒のベールを纏って高遠比衣を見下ろしていた。

「――――――――ぁ」

 指が伸びて、周囲の明かりの目盛をぐんぐんと下げていく。影が降りるように目の前が暗くなり、暗くなり、暗くなって、浮遊感がふわりと身体を下から包み込む。滴り落ちた夜の漆黒が視覚を完全に染め上げた次の瞬間、比衣はベッドの上で仰向けに倒れこんでいた。彼は見慣れた天井をぽかんと見上げて思いもかけず素っ頓狂な声を出し、見当識を失う。

「えぇっと……」

 身体を起こし周囲を見回すと、そこには壁に貼ったアイドルのポスター、無秩序な本棚、床に転がった携帯ゲーム機。――間違いない。ここは俺の部屋だ。

 でも、一体いつの間に? さっきまでは彼女の住む寮の前にいた筈なのに。

「……夢?」

 無論、そうなのだろう。そうに決まっている。夢現を彷徨っている時はそれが現実かどうかなんて見分けが付かないものだが、起きてしまえば如何にも現実感が欠けている。あれではまるでストーカーじゃないか。比衣はどうしようもない夢の内容に自嘲めいた溜め息をついて立ち上がり、拍子に、針にチクリとやられたような鋭い頭痛に思わず顔を顰めて舌打ちした。寝起きを差し引いても身体が重い。それに頭も。風邪でも引いたかなあと首を傾げ、そりゃおかしな夢も見るよな、と頭を振り振り空気の入れ替えでもしておこうとまずはカーテンに指を掛け――はた、と動きを止めた。閉め切られた射光カーテンを前に訳もなく立ち竦んだ。

 黒い影が胸に去来する。それはどうやら恐怖心だった。

 しかし、それも一瞬。比衣はすぐに気を取り直してシャッと小気味のよい音をさせてカーテンを開いた。朝日が差し込んで視界を真っ白に染め、眩しさに目を細めた。肌に日差しを感じる。窓を開けると新鮮な冷たい空気が吹き込み、室内の澱みを、いつまでも辺りに居座っている据わりの悪い夢の気配を清々しく一掃する。いつもと変わらない朝。身体の芯にまで染みるような風で頭が冴え、馬鹿な予感も何もかもが一発で覚める。そうさ、馬鹿馬鹿しい話だ。夢は夢。いつまでも引っ張るものじゃない。朝日を浴びたところで灰になったりする訳がないんだ――――

「…………朝飯食べよ」

 まるで吸血鬼に噛まれでもしたかのような自身の発想の違和感に気付きもせず、比衣は制服に着替えて部屋を出た。


「行ってきます」

「はーい、行ってらっしゃーい」

 階段を下りると、頭の右側にお下げを垂らした赤味掛かった茶髪の小さな背中が見えた。ちょうど靴を履き終えた高遠天衣は鞄を持って立ち上がるところで、見送りの母親を振り返り、階段の途中に立っている兄に気付く。だがすぐに目を逸らし、そのまま玄関を出て行った。比衣は妹の背中が扉に遮られて見えなくなるまで階段の上から黙ってそれを見送っていた。

「たーくん、今日はお寝坊さんなんだね。お父さんもあーちゃんも先に出ちゃったよ?」

 リビングに入り、トースターに食パンを二枚差し込んでいると戻ってきた比衣の母、高遠紗由子が食卓の二人分の皿を片付けながら言った。

 比衣はその言葉に起きてから初めて時計に目をやった。父がおらず、時間キッチリな性格の妹が出ていくところだったので予想はしていたが、壁に掛かった時計の針はいつも起きる時間より三十分近く遅れていた。登校まではそれでもまだ余裕はあるものの、普段通りに朝食を食べるなら少し急ぎ足で学園に向かう必要があるだろう。ちらりと肩越しに紗由子を振り返り、すぐにカウンターのトースターに目を戻して曖昧に頷く。

「あー、うん、まあ。なんかいつの間にか寝ちゃってたみたいで」

「しようのない子ねぇ。風邪だけ引かないように注意しなさいよ? ほら、すぐにたーくんの分、用意するからさっと食べて早く行きなさい。ほんとは今日くらいあーちゃんと一緒に登校して欲しかったんだけど……あーちゃんも兄妹で登校なんて出来るかって、嫌がって先に出てっちゃうし」

「……ま、そりゃそうでしょーよ……」

 焼けたトーストにバターを塗りながら気のない返事を返す。

「聞こえてるわよー」

「あーはいはい、分かってるよ。仲良くしろ、でしょ。分かってる分かってる。聞き飽きたよ」

「はあ……いいわ、もう。それより、今日の帰りはちゃんと一緒に帰ってきてよ。あーちゃんにもまっすぐ帰ってくるように言ってあるから一人で帰らせないでね。お願いよ」

 スクランブルエッグにベーコンとサラダを盛り付けた皿をテーブルに置いて、紗由子は息子の顔を覗き込む。彼はベーコンを乗せたトーストを齧りながらまっすぐに目を見返し、噛んで飲み込み、その後で「了解しました」と首肯して心の中で天衣次第だけどなと付け加えた。そんな適当な反応に満足した訳もなく紗由子は溜め息を一つ、エプロンを脱いで対面の自分の席の背凭れに掛け、腰を下ろした。ついでに用意していたマグカップを両手で包み、テンポ良く食事を済ませていく比衣をじっと見つめて「約束したからね」と更に念を押した。年齢にそぐわず若々しいその顔に思いもかけず神妙な表情が作られ、流石に奇妙に思った比衣は首を傾げた。

「何かあったの」

「何って、昨日の夕方の事よ。まだ犯人が見付かっていないんだから用心するに越した事はないでしょう。人気のない場所にはいかない、一人で暗がりにいかない。リスク管理はしっかりと、よ」

「ああ……」

 言われてようやく比衣は納得した。殺人事件が市内で発生し、犯人が現在も逃走中であるらしい。特に興味もなかったので比衣は携帯端末に表示された知らせをさらりと受け流してしまったが、どうも母親の反応を見ると単なる親の心配性とも違うようだった。それだけ危険性の高いセンセーショナルな事件だったのだろう。少なくとも半ば放任主義的な高遠紗由子がこんな珍しい事を言い出す程度には。

 などと彼が考えていると、そわそわと珈琲を啜っていた紗由子が辛抱堪らずとでもいうようなにんまり笑顔で比衣を指した。

「それ、どうしたの」

「それ? それってどれ?」

「だからそーれ。珍しいじゃない、たーくんがそういうの付けるなんて。まさか、女の子からの贈り物だったりして」

 彼女が示したのはマグカップを掴んでいた比衣の右手だった。最初、比衣は母親が何を言っているのか理解できず、不思議に思いながらその指先を追った。そして、そこにそれを見た。蛍光灯の明かりを浴びて艶やかに照る金色のリング。うっすらと複雑な模様が彫刻されているそれは、昨夜、水路から拾ったあの腕輪だった。

 今の今までそんなものを付けているだなんて全く自覚していなかった。そもそもいつ身に付けたのかも定かではない――いや、やはり思い返しても腕に嵌めた記憶自体がない。というより、昨夜、あの後どうしたのかもよく覚えていなかった。ポケットに突っ込んで、それから多分まっすぐに家へ帰って……そのまま寝落ちしたのか。比衣はサラダを食べていた手を止めて、じっと腕輪を見つめた。何故だか、不思議と目を惹かれる。こういうものはあまり好かない性質だが、身に付けている事に違和感を覚えなかった。そこにあるのが自然で、至極当然のような……

 比衣はひらひらと手を振った。

「…………ちょっとね」

「え、ちょっと。待って待ってほんとに? ねえってば、たーくん!」

「ご馳走様。もう行くわ」

 まだ突っついてくる母親を適当にいなして朝食を食べ終え、比衣はさっと家を出た。


 学園へと向かう歩き慣れた道すがら、比衣は重々しく溜め息を吐いた。どうやら本格的に風邪気味らしい。起きた時から妙に頭が重く身体がだるかったが、家を出てからその症状は酷くなる一方だった。学園指定のコートを通して染み入る風の冷たさに身を震わせ、今や鉛のようになってしまった足を何とかかんとか前に前に動かして、彼はいつもの倍以上の苦労を強いられながら歩き続ける。爪先を見つめ、ぼんやりしたまま一歩ずつゆっくりと、習慣に従って。やがて昨夜の水路に差し掛かったところで自然と足が止まり、彼は橋の欄干から目線だけで下を覗き込んだ。

 周囲の雑踏に紛れ、日常に溶け込んだ清流が聴こえる。朝日を水面が反射し、キラキラと白く輝いていた。いつも聞くとはなしに聞き流している水の流れる音が、どうしてか今朝はやけに耳に障った。

 比衣は首を振り、さっさと行って自分の席で寝よう、と早々に授業をサボる決意を固め再び歩き出した。

 水環では数少ない車道沿いの道を進み、周囲が同じ格好の男女で溢れ返る頃、それは見えてくる。市内の土地を区画ごとに分けて開発された水環市の中心近くに作られた、実験都市の開発に携わった複数の企業及び政府の合同出資によるこの街唯一の教育機関、征汀館学園だ。巨大な敷地面積とまだまだ真新しさの残る六階建ての三棟の建物。比衣が向かっているのはその高等部の門であり、そこまでくれば初等部や中等部の生徒は既に周囲にはいない。比衣は少し前から痛み出した頭を抱え、もう何度目になるかも数えていない苦しげな吐息を吐いた。周りの元気な声が頭に響き、酷く心がささくれ立っていた。ふらふらと覚束ない足取りはもう誰の目にも明らかな体調不良で、だから、門のところに立って生徒達に挨拶を返している人物が比衣に声を掛けたのは至極当たり前の成り行きだった。

「ねえ、君。そこのあなた。体調悪いの?」

 俯いていた顔を上げると、門にもたれて生徒達を出迎えていたのは暖かそうなセーターに白衣を纏ったおかしな女だった。一瞬、ぼやけた比衣の頭はそれが誰なのか判別できなかったが、教師でない事だけはすぐにわかった。白衣を着ている教師といえば思い当たるのは一人だけ。そして化学担当の松毬初実はもっと小柄で色々貧相な――こういうと本人は激怒するが――子供のような外見の教師だ。少なくとも目の前の凹凸のはっきりした体型とは程遠い。

「いって……」

 訝りながらも足を止めると、ズキリ、太い針が深く脳に突き刺さった。堪らず額に手を宛がい、霞む視界に目を凝らして、自分に声を掛けてきている相手の顔を確かめようとした――――

 ――ところで、ふと思い浮かぶのはいつだかの朝礼だか生徒総会だかの光景だ。生徒会長の訓示が終わり、次いで登壇したのは白衣を着た人物だった。そう、今目の前にいるような。

「あー……柊、先生?」

「話は後。とにかく保健室へ行きましょう。君、今にも倒れそうな酷い顔をしているわ」

 征汀館学園高等部の養護教諭、柊水鳥ひいらぎみどりは比衣の目を覗き込むとキッパリと言って彼の腕をむんずと掴んだ。そうしてずんずんと構内へと戻り、まっすぐに一階にある保健室へと向かう。

「あ、あの、センセイ?」

「黙ってなさい」

「いや、でも」

「黙れ」

 朝早くから養護教諭に連行されている男子生徒の図は否が応にも人目を惹いた。門のところでも既に何人もの生徒が立ち止まって二人が構内に消えるのを見送っていたし、構内に入れば入ったで廊下で擦れ違う生徒や教師がそれぞれ好き勝手な解釈をしている表情で二人が保健室に入っていくのを目撃していた。頭痛と倦怠感で抵抗する気にもなれずされるがままになっていた比衣は、目立ちたくないなあと思いながらも、保健室のベッドを借りられるならもう何でもいいやと半ば投げ遣りにそれを受け容れた。

 そうして、保健室の扉をくぐり、鼻につく薬品臭に顔を顰めつつ、これで少しは楽になれるだろうかとぼんやり考える比衣の背後で、ピシャリと嫌にハッキリと扉が閉め切られ――突然、不安が襲ってきた。心臓が不自然に跳ね上がり、自分が外の世界と切り離されたような奇妙な心細さにゾッとする。そして、カチリ。鍵の掛かる音がして、予想外の状況に戸惑う比衣を存在そのものを忘れてしまったかのように捨て置き、柊水鳥が何食わぬ顔で正面のデスクへと近寄った。整頓されたデスクの上には書類の束と私用らしき鞄が置かれ、水鳥はその鞄に手を入れて中を探り始める。外の廊下にはまだ多くの生徒が行き来している筈なのに、保健室には異様なほどの静けさが満ちていた。

 不穏の気配。

 不安と予感。

 ……何だか、と比衣は無意識のうちに後退りする。何だか、とても、嫌な感じだ。突拍子もない展開を繰り広げるB級ホラー映画に不用意に踏み込んだら、きっとこんな気分になるに違いないと馬鹿みたいな考えが頭を過ぎった。水鳥が鞄から筒状のものを取り出して、ようやく後ろに立つ比衣を思い出したかのように口を開いた。

「気分が悪い?」

「え……?」

「全身が気だるく、倦怠感がある。節々が痛み、体温は高いのに寒気が止まらない。まるで、そう。性質の悪い風邪のように」

「は、はい」

 不意に始まった背中越しの問診にほとんど条件反射的に応じる。

「朝起きて、日差しがいつもより眩しく感じた。目が痛むくらい」

 イエス。

「頭が朦朧としている。意識にも僅かに霧掛かったような感じが残っている」

 イエス。

「そう。やっぱりね」

 くるり振り返ると、その手の中には先ほどの筒状のものが握られていて、水鳥は言いながら鞘を外してデスクに置き、その下から現れた銀色の煌きをこれ見よがしに翳して見せると、尖端を徐に自分の指先に近付けた。

 比衣はハッとし、息を詰める。

 柊水鳥養護教諭は鞄から取り出したナイフで左手の人差し指の先を軽く一センチほど切った。傷口から血が溢れ、膨れ、傷の端から伝って流れ、ポタリ、ポタリ、リノリウムの床の上に小さな赤い雫が落ちていく。

 ねえ、と水鳥は自ら傷つけた指先を比衣の方へと差し出しながら、言う。

「君は今、無性に喉が渇いたりしていないかしら」

 家を出る前を思い出す。普段なら珈琲を一杯飲む程度だ。多くてももう一杯くらいしか飲まない。なのに今日に限って三杯飲み、更に水をコップ二杯分飲んでいる。別に特筆するほどおかしくはないかもしれない。所詮はその程度。だがその事を、彼は今、この瞬間にどうしてだか思い出していた。

 同時に、強烈な喉の渇きが意識の表層へ浮上する。どれだけ水を飲んでも満たされず癒されない強烈な渇感。それは自覚された途端、瞬く間に喉を焼き、息が苦しくなり、目の前が赤く明滅して、杭を打ち込まれるのに似た頭痛の雷鳴が頭蓋骨の中を乱反射し始めた。

 喉が渇く。渇く。渇く。どうして今まで気付かなかったのか。或いは、気付きたくなかったのか。

 比衣の目は知らずそれに釘付けになる。水鳥の指先。滴る雫。血だ。目も覚めるほどの芳醇なる血の香り。保健室に漂っていた薬品の臭いなど最早、どうという事もない。甘い匂い。喉が鳴った。唾を飲み込み、身体が、一刻も早くこの乾きを潤したいと切実に訴える。赤い色。命が溶け込んだ、魂の液状化した美しい深紅に興奮して呼吸が乱れていく。頭痛。他のものが目に入らなくなる。ポタリ、ポタリ、ポタリ。落ちる。床の上へ。雫が溢れて落ちる、その音が、比衣を誘惑する。濃厚な血潮の味が舌先に触れるその瞬間を想像しただけで恍惚とした歓びがゾクゾクとした寒気となって全身に広がっていく。深い渇きだけが比衣を支配していく。それだけが何もかもを塗り込めていく――――

 だから、それは全くの無意識だった。一歩、比衣は柊水鳥の方へと後ずさっていた分の距離を詰めた。それは餌を前にした無防備な一瞬であり、故に、獲物の間隙を狩人が見逃す道理はなかった。

 水鳥は素早かった。

 さっと足を前に出し、自身の間合いへと彼を呼び込む。重心の移動と予備動作が同時に行われ、ナイフが突き出された。比衣の視線は胸の高さに持ち上げられた左手の指先に注がれ、切っ先は誘導によって作られた死角をするりと滑る。最短を、最速で、的確に。ものの本にでも掲載されるべき柊水鳥の必中の一撃が走る――瞬前、二人の意識の外側を動く影があった。間抜けにも曝された無防備な腹腔をナイフが掻き回すまでの瞬きほどの空隙。身を撓めていた獣が今まさに飛び出す鋭利な呼気が音もなく発され、ベッドを遮る閉め切られていたカーテンが人知れず揺れていた。

 誰かがこの場面を映すモニターのリモコンを手に取り、停止ボタンを押したらしい、奇妙なほどの静けさが訪れる。ナイフが比衣の腹部に突き立つ寸前で、切っ先は制服の生地が鉄板であったかのように止められていた。

「邪魔をしないで」

 ナイフよろしく険の尖った剣呑な声音で呟き、水鳥は逆の手を柄に当ててそこにぐっと体重を上乗せする。しかし、刃先はピクリとも進まない。水鳥の手首に巻き付いた細い指先が鋼鉄のワイヤーのように絡み付き、骨がポキリと折れてしまいそうなほどの怪力でがっちりと抑え付けていた。

「するに決まってるでしょ。流石に教師が生徒を刺すのは問題があるよ」

 応えたのは涼しげな声だ。あからさまな溜め息を溢し、声は続ける。

「ナイフを引っ込めて。じゃないと本当にこのまま折るよ」

 掴まれた右腕に更に力が込められ、顔を引きつらせた水鳥の額に汗が浮かぶ。冗談でも何でもなく、言葉通りに握り潰すぞとしなやかな指先が如実に語っていた。

 着ているものはかなり乱れてはいるが、まだ真新しさの残る征汀館の制服だ。まるで銀河の星雲を閉じ込めたような蒼い左眼と黒い眼帯を当てた右眼という一目見ればまず忘れない奇矯な風体。背丈は比衣の肩ほどもないにも関わらず、一方で胸は栄養を蓄えていて、そのアンバランスさが余計に胸部の膨らみを強調して見せていた。病的なまでに色素が抜け落ちた真っ白なセミロングの跳ねた毛先が切れ長の目と相俟って活発な印象を受ける。それは口元にだらしのない涎の跡をつけたままの小柄な少女だった。

「先輩、せんぱーい。喉が渇いているのは分かりますがしっかりして下さいよ。それでも私の敬愛する先輩ですか?」

 ミシミシと軋む手首の痛みに耐え、尚もナイフを突き出す水鳥の全力に苦もなく抗しながら、少女は肩越しに比衣に呼び掛ける。催眠術にでも掛けられたかのような比衣はそれでようやっと肩が触れ合う距離に少女がいると気付いたらしく、そちらを振り向いた。

「……柊?」

「はーい、先輩の可愛い後輩ちゃんですよー。大丈夫?」

「えっと……」

 比衣は言葉の意味をうまく捉えきれないとでも言うように困った風に首を傾げた。ともすれば少女が何と言ったのかすら分かっていないかもしれないほどの曖昧な反応だった。

「はあ。りょーかい、センパイ」

 溜め息を一つ。高遠比衣を先輩と呼び、比衣に水鳥と同じ苗字の柊と呼ばれた少女はただ得心したとばかりに小さく頷くと、握り締めていた手首を軽く捻り上げ、ナイフを壁際に弾き飛ばしながら比衣の肩を掴んで素早く押し倒した。

 ふと。この無防備な唇に、一発熱いものをぶちかましてやろうかという馬鹿げた考えが脳裏を過ぎり、堪らない甘い疼きが胸をくすぐった。

 しかし少女はすぐにそれを放り捨てる。幾らなんでも御法度だ。戦争に法や規則はないが、それでも尚、守られるべきモラルはあると彼女は信じていた。少なくともこんな形であの親友との友情を壊すなんて馬鹿馬鹿しいにもほどがある。

 なので、押し倒されてもまだ反応がハッキリしない比衣を見下ろした少女は、甘美な誘惑から目を逸らして、背後に立つ痛む腕を抑えた水鳥の声を無視して、断固とした意思を決然と振り下ろした。

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