第9話『ロマンチックが染まらない』

 アフター5にどこへも寄らず、真っ直ぐに自宅マンションに帰って来た八神奈津子は、部屋着に着替えてからさっそく、マツモトキヨシで買ってきたヘアカラーリング剤の箱を開けた。

 中には、色々入っている。

 混合して使う二つの薬剤・付属のコームブラシ。

 作業用のビニール手袋・電化製品顔負けのデカい取り扱い説明書ー。

「ふむふむ」

 奈津子は、実はこれまでに美容院で髪を染めてもらったことしかない。

 市販の毛染めを買ってきて自宅でするのは、これが初めての経験なのである。



 何とも贅沢な話だが、ではなぜ今回に限ってそうするのか?

 今まで奈津子には男っ気がなかったため、お金を自分の楽しみのためだけに使えていた。しかし、32歳にして彼女にもやっと春が訪れた。

 彼女が係長を勤める大海物産・販売企画二係の部下・二宮と、ついに恋仲になったのだ。上司と部下、というぎこちなさはあるものの、先日にはついに初エッチを果たした。

 これはまだ二人の間だけの話で、互いの両親や親族もまだ聞かされていないことではあるが、来年には結婚して式を挙げよう、というところまで話が進んでいた。

 奈津子にとっては、人生が一気にバラ色になったようなものだ。



 しかし、何事もよいことずくめではない。

 二宮と、休日を楽しくデートするには……

 今までのようなお金の使い方をしていたのでは、経済的にきついのだ。

 毎晩のように、焼き芋や今川焼やケーキを買い、マニアックな特撮ヒーロー関連のグッズを『まんだらけ』で買い漁っている奈津子は、その無茶苦茶な出費をセーブしなければならない時を迎えていた。

 しかし、好きなものをいきなりすべてストップ、というのも実にキツい。

 そこでまず、奈津子が手をつけた経済改革は……

 1万円近くを払って通っていた美容室でのカット&カラーをやめて、カットだけにした。そして、髪染めを自分で行うことにした。それだけでも、6千円ほどが浮く。

「今月は、何が何でも 『マグマ大使』 のフィギュアをゲットせねば!」 

 ……そっちをやめるほうがいいように思うのだが?

 好きな者にしか分からない、やめられない・止まらない何かがあるのだろう。

 まるで『かっぱえびせん』である。



 ドレッサーの前に立った奈津子は、説明書を片手に髪染めを開始した。

「えっと、チューブのA剤の中身をB剤に混ぜてフタをしてよく振る……と」

 ヘアカラーの混合液をつくり、専用のコームで髪にしみ込ませていく。

 人にやってもらっている分には何とも思わなかったが、自分でやってみると、これがどうしてなかなか面倒で、手間のかかる作業だった。

「……ふぅ」

 奈津子はそれほど長髪でもなかったので、ほどなくして混合液を髪につけ終わった。彼女が今回選んだ色は、おとなしめの 『シックブラウン』 だった。

 当たり前のことだが、髪の毛が重い。

 25分ほど放置しなければならないため、奈津子は普段カップめんの3分を計るのにしか使わないキッチンタイマーを、25分にセットした。



 さて、この空白の25分をどう過ごすか——。

「とりあえず、テレビでも見るか」

 そう思ってテレビのリモコンを持ち上げた時、ふと思った。

「上半身、ある程度脱いでおいたほうがよかったなー」

 そうすれば、カラーリング剤を落とすだけでなく、連続してシャワーも浴びれて一石二鳥だったのに。

 エアコンさえ入れておけば、ちょっとばかり寒いのだって問題ないし。

 いつも服を着たまま美容室で染めてもらっていた習慣が染み付いていて、今回そういう発想ができなっかったのだ。

 トレーナーなど着込んでしまっていたので、下手に脱ぐわけにも行かない。

 首をくぐらせたとたんに、服に髪染めの液がベッタリだ。

 こうなってしまっては、美容室の要領で首だけ突き出し、服の姿のまま頭を洗うしかない。面倒だが、毛染めを洗い落すには、それしかない。



 奈津子は、テレビのリモコンを必死に操作していたが、テレビ側の主電源を入れ忘れていたことに気付き、自分のバカさ加減にあきれた。

「もうっ」

 生来の性格か、はたまたカルシウム不足か。イラチの奈津子は、自分が悪いくせにプリプリ怒って、テレビに向かって歩いた。頭をあまり揺らすことができないので、普段と違う歩き方をしたのがいけなかった。

「痛でええええええええええええええぇぇぇぇぇぇ」

 部屋中に、断末魔の叫びが響いた。

 ソファー脇のサイドテーブルの足に、しこたま足の小指をぶつけたのだ。

 嘉門達夫の『小市民』を地で行くような悲劇である。

 余りの痛さに、涙があふれてきた。

 奈津子は思わずぶつけたほうの左足を上げて両手でかばい、からかさお化けのように右足だけでピョンピョンと跳ねた。



 ……ウソっ!?



 すべてが、スローモーションで流れていった。

 視界が、ゆっくりと傾いてゆく。

 ヤワラちゃんに大外刈りでも決められてコケたら、負けた選手には周囲がこういう風に見えるのだろうなぁ、とそんな場合ではないのに奈津子は考えた。

『TOKYO★1週間』 という雑誌を無造作に放っておいた奈津子の自業自得である。

 うまいラーメン店特集を見るために、食い意地のはった奈津子が数日前に買ったものだ。表紙でにこやかな笑顔を見せる中条あやみの顔が、踏みつけられてクシャクシャになった。

 つるん、と足を滑らせた奈津子の体は、ズシンと背中から床へ——

「ああああああっ」

 当然、奈津子の頭に塗り込んである毛染め剤が、べっとりと絨毯に付着。

 ちょっと贅沢して買った、純白のフカフカの絨毯が、一瞬にして茶色とも紫色ともつかない色に侵された。



 ……たっ、高かったのにぃ!



 激痛にエビのように身をくねらせながら、奈津子は髪染め液がじゅうたんにもたらした被害がどれほどのものかを考え、暗澹たる気分になった。

 起き上がって、ズキズキする頭を押さえながら奈津子は立ち上がった。

 その瞬間、奈津子はしまったと思った。

 当然、頭を押さえた手が……毛染め液だらけになった。

 手近にあったスコッティの箱からティッシュを数枚取って、手の平をやけくそに拭っている時、奈津子はあることに気付いた。

 奈津子は、まるで怪我をした我が子を見つけた母親のように泣き叫んだ。

「ああっ、ザボーガーちゃんっ!」



 奈津子が苦心して手に入れた、『電人ザボーガー』のフィギュア。

 手足首の関節が可動で、様々なポーズを取らせることが可能な、マニア垂涎の一品である。しかし、こんなものを欲しがるのは奈津子くらいのものであろう。

 何と、サイドテーブルの足に奈津子がけつまずいてしまったお陰で、飾ってあったフィギュアが落下してしまったのだ。

 無残にも、ザボーガーの右手がもげてしまった。

「ななななななななんてこと!」

 一ヶ月も前から通販の予約までして、やっと我が家にザボーガーちゃんを迎え入れた時の喜びの日をまざまざと思い出した母・奈津子は目に涙を浮かべた。

「あああっ、愚かな母さんをゆるしてちょうだいっ」



 ……こうなったら、可動はあきらめてでも、腕をくっつけるしかないわっ!



 そう踏ん切りをつけた奈津子は、机の引き出しから『アロンアルファ』を引っ張り出してきた。そして、チューブの先をパックリと割れた肩の付け根に這わせる。

「チッ。出すぎたか」

 接着剤がはみ出た部分を何とか内にやり、ザボーガーの腕をくっつける。

 付け根をしっかりと押さえたその時——



 ムニュッ



「…………!」

 あわてすぎて、多すぎた接着剤の乾ききってなかった部分が、接着面の隙間からはみ出し、あろうことか奈津子の指の皮膚ににひっついてしまった。

 親指と人差し指が触れてしまい、離れなくなった。

「あががががががあああああああああっっっ」

 奈津子は、焦った。

 こうなったら、もうきれいに毛染めなどする心の余裕は無かった。

 今すぐ毛染めを落として、くっついた指と、転んで毛染め液に汚れた床やじゅうたん、名誉の負傷(?)をしたザボーガーちゃんを何とかしなければ気が済まない。

 奈津子は、なりふり構わず風呂場へ駆け込んだ。

 しかし、彼女は自分が靴下を履いたままであることをすっかり忘れていた。

 風呂場の中に駆け込んだとたん、彼女は前のめりに滑った。 



 ガツン!!



 奈津子は、浴槽のへりに『超電磁スピン』をかましてしまった。



 ひげえええええええええええおおおおお」

 奈津子の脳天を、激痛が走り抜けた。

 目の前に星が散る。



「もういやあああああああこんなセーカツ!」

 ひと声絶叫した奈津子は、何も考えずに水道の栓を捻った。

 シャワーの頭は天井近くの金具にさしてあり、固定したままだった。

 結果奈津子は、服のまま頭からズブ濡れになった。

 毛染め液の毒々しい焦げたような紫色が、全身にまだら模様を作った。

 湯沸かしのガスの電源をONにしていなかった当然の報いとして、奈津子に降り注いだのはお湯などではなく、冷たい水だった。

 あまりの寒さに、震えあがる奈津子。

「殺してっ! いっそ誰かアタシを殺してえええええええええ」



 その時。



 ピンポーン



 呼び鈴が鳴った。



 ……もしかして、二宮? 助けに来てくれたのかしら?



 奈津子の心に、希望の光が差した。

 手負いの獅子のような状態の彼女は、ズルズルと這いずって玄関へと向かう。

 希望に心奪われてしまった奈津子は、インターホンに出ることもせず、玄関へと到着した。遠目に、鍵をかけ忘れていたのを見た奈津子は言った。

「開いてるから、入ってきて」



 読売新聞の集金のバイト・岡本安奈は不思議に思った。



 ……エッ? 確かに鍵開いてるみたいだけど、入っていいの?



 安奈は、とにかく集金をと思い、ゆっくりとドアを開けた。



 ギィィィィィィィ……



 安奈は、見た。

 この世のものとは思えない、その光景を。

 全身、おかしな色合いの液体でグショグショになった女性が、這って来る!

 恨めしそうな眼差しをこちらに向けて!

 振り乱した髪の毛の隙間から、上目使いにこちらを見るその目は——

 完全に白目をむいていた。

「きゃああああああああああああああああ」

 集金のことも忘れて、安奈は渾身の力を振り絞り、ダッシュで逃げた。

「来るぅ! きっと来るぅぅぅぅ~~~!」

 呪いのビデオを見たわけでもないのに。



 30分後。

「係長、何っすか、これぇ!?」

 気が狂ったかのように泣き叫ぶ奈津子から、要領を得ない電話を受けて参上した二宮は、まるで悪魔祓いでもあったかのような部屋の惨状を見て、愕然とした。



 ……何をどうやったら、部屋がこうなるんだぁ?



 奈津子はものすごい恰好で廊下にペタリと座り込み、ワンワン泣いていた。

 とりあえず、二宮は奈津子の服を脱がせた。

 そして風呂場に行き、温かいお湯で体の隅々まできれいに洗ってやった。

 接着剤でくっついた指も、入浴中に何とか離れた。

 茶目っ気たっぷりの二宮は、どさくさに紛れて奈津子にキスしたり、胸に口を寄せたりする。

「こら。洗ってる意味がないじゃないの」

 そう言いながらも、奈津子の声にもやっと明るさが戻った。



 何より大変だったのは、部屋の掃除。

 至る所に髪染め液が付着しており、二人がかりでも拭き取るのは一苦労であった。

 じゅうたんは、明日にでもクリーニングに出すことにした。

 もしかしたら、「これもうどうにもなりません」 と言われるかもしれないが、その時はその時だ。

 とりあえずは一件落着、といきたかったところなのだが——

「髪の毛、明るいっすねぇ」

「……そうね」

 アクシデントに次ぐアクシデントのせいで、髪染め剤を長時間落としてなかった奈津子の髪は、必要以上に明るい色に染まってしまった。

 毛染めの放置時間を計る肝心のタイマーも、25分にセットしただけでスタートボタンを押していないことが明らかになった。

 ビジネスウーマンとしては、ちょっと明るすぎかな、という気はする。

「ま、今さら気にしてもしゃーないか」



 自然な成り行きで、二人はベッドで愛し合った。

 本当は、行為を見下ろす『電人ザボーガー』が気になってしょうがなかった二宮だが、奈津子が 「今日はザボーガーちゃん、ひどい目にあったんだからぁ! 寂しい思いはさせられませんっ」 などと涙目で言うものだから、二宮は我慢した。

 今まで心細い思いをした分、奈津子は飢えたように二宮を求めた。

 二宮もまた、可哀想な目に遭った奈津子を思い、この上なく優しく抱いた。

 行為が終わってからも、二宮は何度も奈津子の背中をなで、唇を優しく塞ぐ。

 奈津子は、安心しきった表情で目を細めるのだった。



 二宮の腕の中で、奈津子はスヤスヤと眠ってしまった。

 まるで、子どもみたいだ。

 遊びつかれて眠る子どものような奈津子の頬に、キスの雨を降らせる二宮。

 規則正しい寝息をたてる奈津子の横顔は、いくら見つめ続けても飽きなかった。



 眠ってしまった奈津子から離れた二宮は、台所へ行き、冷蔵庫を開けた。

 今から彼は、奈津子が目覚めた時に食べれるような食事を作ろうとしていたのだ。

 目覚めた時の、彼女の喜ぶ顔が見たい一心でー。



 ……今はただ、ゆっくりお休み、奈津子。

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