第8話『交響曲第79番ヘ長調 「快便」』

「さてさて」

 大倉茂課長は、洋式トイレの一番はじの個室に腰掛けた。

 下ろしたズボンのポケットから賞与明細を取り出し、封のミシン目をビリビリと裂いて中身を広げた。

「おっしゃぁ、出たあああ~っ!」

 思わずガッツポーズをとる大倉。



 彼の勤めるこの会社は、『大海物産』と言う。

 わかめやヒジキ・のりなどの海産物やふりかけといった乾物を製造、販売する会社である。

 今年45歳になる大倉は、二人の子どもを抱えて大黒柱としての働きに四苦八苦であった。

 特に、長引く不況で去年の冬のボーナスはたったの35万円であった。

 これは、もっとも業績が高かった5年前にもらえた三分の一にも満たなかった。



 今年度に入ってから、ライバルの大手食品会社が偽装などの不祥事で売り上げを落とした。

 自社の努力というよりは他者の失敗でシェアを増やし、業績を伸ばした格好になる。

 人の不幸を喜んではいけないし、『ウチも油断すれば同じことになるぞ』とかえって自らを戒めねばならないのだが……それでも、今回の明細の数字を見ると顔がゆるんだ。



 ¥81.0000



 大倉くらいの年齢であれば、課長として本来もう少しあるべきなのかもしれないが、今までがひどかった彼としては、まぁそれでよしとした。

 ニュースで、サラリーマンのボーナス平均が61万円と聞いたことがあるから、それを思えばだいぶよいほうである。

 下の子は中学、上の子は高校生で来年受験。

 お金はいくらあっても、ありすぎることはない。

「出た出た出た、出た~~~~っ!」

 それまでの苦労の数々が脳裏によみがえり、涙がにじんだ。

 たまたま小便器で用を足していた男性社員は、頭を振りながらトイレを出て行った。

「あの人、よっぽど我慢してたんだな……」

 


 ブリッ、ブリッと豪快に排●しながら、大倉はホクホク顔でボーナスの使い道をシュミレートしていた。

 ウキウキした彼は、瞬時に作曲した勝手なメロディーを口笛で吹いた。

 頭では、ベートーベンとハイベン(ハイドンでは!?)がヘ長調の旋律を奏でるオーケストラに指揮棒を振るっていた。

「……半分以上は学費に回さなきゃか。クソッ、直美のやつ何とか国公立に合格してくれたらなぁ! 買えそうなのはゴルフクラブかパソコンくらいかぁ。ううむ、究極の選択だ……」



 三宅裕二が、ピカピカのゴルフクラブを持って現れる。「ゴルフクラブか?」

 続いて関口宏が、最新機種のPCを抱えてやって来る。「それともパソコンか?」

 二人の声が気味が悪いほどピッタリと重なる。「あなたのご希望は、どっち!?」

 これはまた、かなり古いTV番組が思い出されたものである。



 ……くそ~っ、選べねぇ!



 苦しいのかうれしいのかよく分からない自虐的な笑顔を浮かべて、大倉はキャッキャッと身をよじった。もはやMっ気があると誤解されても仕方のない仕草である。


 ハイベン作『交響曲第79番ヘ長調「快便」』は、すでに曲のクライマックスに突入していた。

「さぁっ、ますます絶好調!」

 ハイベンの指揮棒を握る手に、さらに力がこもった。



 ふと我に返った大倉は、腕時計を見た。



 ……ゲッ。一時半か。すると15分も座っていたことになるのか?



 想像をたくましくするあまり、ついつい長居をしてしまっていた。

「こりゃ、早く仕事に戻らないと」

 彼は 『どっちの買い物ショー』 に熱中するあまり、ウ●チをしたあとに尻を拭くことを忘れていた。早く拭いて帰ろう、と彼は横に手を伸ばした。



「あれ?」

 その瞬間から、大倉のそれまでの楽しげな夢想は海の藻屑と消えた。

 伸ばした彼の右手の指先は、むなしく空を切った。

 そう。本来そこにあるべき紙が……なかったのだ。



「さて、どうしたものか?」

 大倉は、しばし苦悩した。

 間の悪いことに、今回の彼の便はちょっと『粘着質』の便であった。

 肛●から半径5センチくらいは、恐らく汚染(?)の対象であるはず。

 多分、尻の毛にもそこはかとなくネットリとこびりついている感覚があった。

 何としても、お尻を存分に拭かずしては、部署に戻れない。



 こういう場合、たいがいの人間が思いつくこと。そう、それは——

『ズボンもパンツも下げたまま小股で歩き、他の個室にあるトイレットペーパーを取りに行く』 ことである。

 ジャラジャラして邪魔なので、ズボンからベルトを抜く。

 ベルトを手にした大倉は、今度はSっ気を出して、ピシッピシッと鞭を打つマネをする。

「ベラのムチは痛いよ~」

 別にベラのムチじゃなくても、誰のムチでも痛い、ちゅうねん! という大昔のダウンタウンのネタを思い出した。



 ……オレ、一体何やってんだ?



 個室のカギを外し、そ~っと外に顔を伸ばしてみる。

 小便器にも手洗い場にも、他の社員の姿は見えない。

 大倉の個室以外、全部ドアが開いている。

 彼はフル●ンで、ゼンマイ仕掛けの人形のように摺り足で進んだ。

 一歩歩くたびに、割れたお尻の両サイドの肉がこすれ合わさり——

 拭いていない分の 『実』 がニチャッとうごめく感触がして、気持ち悪いことこの上ない。

「ちっくしょう、何でオレがこんな目に?」



 二番目の個室には、ものの見事に紙がなかった。

 ひいきのチームがゴールされてしまったJリーグのサポーターのように天を仰いだ。

「そそそそそんな馬鹿な!」

 最後の望みを託し、ペンギン歩きで最後の個室を覗き込む。



 なんでや~~~~!



 大倉をあざ笑うかのように、そこにはトイレットペーパーの芯だけがあった。

 しかし藁にもすがりたい思いの大倉は、薄い『最後のひと巻き』の紙が、芯の部分に申し訳程度残っているのを見てとった。

 迷わずそれを外して手に取ると、廊下に通じるドアまで歩き、首だけ出した。

「お~い、誰かいないかぁ!」

 思いっきり叫んでみたが、大倉の声だけが反響し、壁に吸い込まれていく。

 再び廊下に静寂が戻った。



 ……何で、社に誰もいないんだ?



 この恰好で外を歩けば、ストリーキング扱いされても文句は言えない。

 仕方なく大倉は、もとの個室に一時退却することにした。

 とりあえず、なけなしの紙でお尻を拭くためだ。

 足りないだろうことは分かっていたが、何もしないよりはマシだ。



 世にも情けない格好でズリズリと歩いていた時、再び悲劇は起こった。

「ああっ」

 ズリまくったズボンの生地を思いっきり踏みつけてしまった大倉は、床のタイルが目の前に迫ってくる映像を見た。

 哀れにも、お尻丸出しのまま床に転んだ。

 その拍子に、リレーのバトンのように大事に握っていたペーパーの芯が宙に浮いた。



 落下した先は——

 大倉の分身ちゃんが鎮座する便座の中だった。

「そ、そんなあっ」

 最後の望みだったペーパーの切れ端は、見事にう●こちゃんのトッピングと化してしまった。



「クソッ」

 ジャック・バウアー並に物事がうまくいかない大倉は、腹立ち紛れに個室のドアを乱暴に閉めた。どっかりと便座に座り込んだ大蔵は、懸命に頭を冷やそうと試みた。



 ……ここはひとつ、冷静になって考えてみよう。



 方法その① 


 このまま、誰も来ないなんてことはあり得ない。

 誰かがトイレに入ってくるまで待って、紙を持ってきてもらうように頼む。



 一番まともだが、唯一不安なのはさっきからトイレはおろか、廊下にすら社員の姿が見えないことだ。

 大倉には思い当たる理由がなかったが、今のままではいったいいつ人が入ってくるのか、分かったものではない。

 


 方法その② 紙の代用品を使う。



 何が代わりになる?



 第一候補 : シャツまたはパンツ



 そ、それだけは絶対イヤだ!

 ノーパ●の状態でズボンを履いたときのあのゴワゴワした嫌な感じ。

 一歩ごとにアソコに感じる刺すような刺激。

 チャックの金具が、ナニに当たるのを想像するだけでも、背中に虫唾が走る。

 シャツを犠牲にするのもゴメンだ。

 このクソ寒い12月に、地肌に直接カッターシャツはいやだ! 

 破いて生地を減らすにとどめるにしても、風邪を引きそうだ。

 


 第二候補 : 賞与明細の紙


 

 ムリ! 紙質からしても、絶対あり得ない。

 お尻が切れちゃう! 痔なんぞになって、ヒサヤ大黒堂の世話にはなりたくない。



 …そもそも、トイレットペーパー以外のもんで拭いてしまったら、トイレに流せないじゃないか!



 手洗い横のゴミ箱に入れる手もあるが、ここの掃除のオバチャンは気が強い。

 きっと、ウ●チの付いたものが捨てられていたことを訴えてくるだろう。

 外で捨てるにも、捨てれる場所まではウ●チを拭いたものを持って歩かなければならなくなる。

 やはり、その線もナシだ。

 大倉は、今ほどトイレがウォッシュレットだったらどんなにいいか、と思った。しかも乾燥機能付きで。

 しかし、大海物産は、業績も綱渡り状態の会社だ。そんなところに経費をかけているわけにはいかない現状は、彼自身が一番よく知っていた。



 大倉は、焦りを感じ始めていた。

 すでに、紙がないことに気付いてから20分が経過しようとしていた。

 未だに、男子トイレには誰も現れない。

 このままでは、お尻に付着した名残りウ●チ(イルカが歌にしそうだ)は次第に水分を失い……

「カピカピになってくるではないか!」

 八方塞がりになった大倉は、持っていたタバコに火をつけた。そしてため息とともに煙を吐き出した。



 その時だった。

「ジリリリリリリリリリリリリリ」

 急に、非常ベルの音が響き渡った。

 大倉は弾かれたように顔を上げた。

「なっ、何事だ?」

 言った瞬間に、彼は自分の失態に気付いた。

 確か、トイレの壁に『火気厳禁』っていう注意の張り紙があったっけ?

 そして、その次の瞬間に起こることに思い至った大倉は、青ざめた。



 とっさに頭を抱えてしゃがんだが……何の防御にもならなかった。

 稼動し始めた頭上のスプリンクラーは、冷え切った冬の水を情け容赦なく大倉の頭上に撒き散らした。

「そうだ、とりあえず外の、水の飛んでこないエリアに逃げれば——」

 ドアノブに飛びついて回し、力を込めて引く。

「なぜだっ」

 ……開かない。何度ガチャガチャ動かそうがどうにもならなかった。

 その間にも彼は、頭のてっぺんからつま先まで濡れ鼠のようになった。

「今日は仏滅か!?」

 仏滅ではなかったが、今日が実は『13日の金曜日』であることを、大倉はすっかり忘れていたのであった。



 さすがに、非常ベルの音を聞き付けて誰か駆け込んできた。

「うわっ」

 声の主は、あまりの惨状にびっくりしているようだ。

 スプリンクラーの水が止まるのを確認してから恐る恐る中へ入ってきた。

 声から、大倉は彼が部下の二宮篤志だと分かった。

「おいっ、二宮君!」

 大倉は、ドアの数ミリの隙間から外に向かって叫んだ。

「そ、その声は、かっ、課長? 今まで、そんなところにいたんすか?」

 明らかに、二宮は驚いている。

「さっきから、静まり返ったようにこの辺に人がいないのは、一体どういうわけだっ」

 紙よりも着替えよりも、大倉はまずそのことを先に聞きたかった。

「あ、課長聞いてなかったんです? 今日は午後から避難訓練だって。みんなまだ社の前の広場にいますよ。今頃は消火器なんか使って消火訓練とかしてるんじゃないかな」



 うかつだった。

 そういえば聞いたような気もするが、すっかり忘れていた。

「とにかくトイレットペーパーがほしい。それと……すまんがずぶ濡れになっててしまったから着替えも欲しい」

「分かりました」

「ああっ、ちょっと待て!」

 廊下へ戻ろうとする二宮を、大声で呼び止める。

「それとだな。ドアがその……開かないみたいなんだ」



「ぶはっくしょい!!」

 トイレの個室の中で、大倉は大きなくしゃみをした。

 二宮と、応援で駆けつけたやはり大倉の部下である篠塚健太は、問題の複雑さに首をひねった。

「う~ん、どうしたものか……」



 問題① トイレットペーパーがそのまま渡せない。



 どういうわけか個室の上部には、公衆便所によくある隙間がなく、屋根までピッタリと壁が続いていた。足元も、三センチほどの隙間しか空いておらず、ペーパーそのものを差し入れられない。

 仕方なく、二宮が紙をちぎって、必要なだけ下の僅かな隙間から差し入れることになった。

 そこで、さらに解決すべき問題が増えた。

「床、水浸しっすよね。これじゃ、渡す時に紙が床に触れて濡れちゃいますね……」



 そこで二宮と篠塚は、雑巾掛けをして、タイル床の水気を拭き取った。

 床が乾いたことを確認してから、紙をちぎって差し入れた。

 大倉は、夢にまで見たあの優雅で白い、シルクのような(決して大げさではなく、彼にはまさにそのような価値あるモノに見えたのだ)トイレットペーパーで、心行くまでお尻を拭いた。

 しかし、お尻が拭けただけでは、問題を解決したことにはならない。

 大倉は一つの欲求が満たされると、別のところで敏感になった。

「さ、寒い……!」



 問題② すぐに出られない状態なのに、トイレに暖房機能がない。



「トイレに予算かけられないですからね~」

 嘆いた二ノ宮は、篠塚に社の電気ストーブを三つほど持ってこさせ、暖房の代わりとした。

「課長、とりあえず濡れた服、脱いどいたほうがいいっすよ」

「言われんでも、もうやっとるわい」

 扉の向こうかで、大倉はブツブツ文句を言った。

 一瞬静かになって、そのすぐ後にまた声がした。

「先に……タオルくれ」



 問題③ 大倉課長の着替えの調達。そして外への脱出法。



「じゃ、オレ見繕ってきます」

 そう言って篠塚は、外に飛び出していった。

 残された二宮と大倉は、どうやってこの個室から抜け出すかを考えた。

「普通に考えたら、ぶっこわすか業者呼ぶかですよね」

 二人とも、その当たり前の事以上の名案は浮かばなかった。

「しかしだな、業者を呼んでも、少なくとも1時間以上はかかるだろ。取引先へ入れなきゃいけない電話のタイムリミットを考えれば、やはり強攻策しかないな」

 二宮は総務課に怒られそうだ、と嘆きながらもドアノブに蹴りを入れた。

「おりゃああああああああっ」

 荒事に慣れていない二宮は、逆に足を痛めて転げまわるはめになった。

「痛ててててててててっ」

 大倉は絶望のあまり便器にしゃがみこんだ。やっぱり、ダメか——。



「……そ、そうだ!」

 しばらくして、二宮の声がした。何か思いついたようだ。

 彼はすぐさまトイレを飛び出して行った。

 三分ほどして戻ってきた彼は、個室の外側で何やら作業を始めた。

「何やっとるんだ?」

「ああ課長、名案が浮かんだんっすよ」

 二宮の声は明るかった。

「ドライバーでですね……ドアの蝶つがいを外してみるっす。うまく行けばドアを外せますよ」

「頑張ってくれ!」

 祈ってゆだねるしかない大倉は、身じろぎもせずに朗報を待った。



 …………。

 


「おい、どうした。まだ外れないのか?」

 申し訳なさそうな二宮の声が聞こえてきた。

「すんません、課長。しくじって、ネジ穴潰しちゃいました」

 日曜大工など縁がなく、なおかつ不器用であった二宮は、ネジ穴に合わないドライバーを無理に使い、ネジ穴がバカになってしまったのである。

「……アホぅ!」

 もはや、打つ手なしか。

「課長」

 外から二宮の切羽詰まった声がした。

「こうなったら、最後の秘密兵器に頼るしか、ありません……」



 しばらくして、外のほうで声がした。

「……係長、ホントすみません。課長の一大事なんで、どうか助けてやってください。男性トイレっすけど」

 大倉は心臓が止まった。

 係長ってまさか……あの八神奈津子?

 案の定、続いて彼女の声がした。



「条件は、『太極軒』のラーメンと餃子、天津飯付き。間違いないわね?」

「ハイハイ、それはもう……多分。課長、何とかお願いできますかぁ?」



 ……ちっくしょう、助かるのにカネがかかるんかい!



「もうっ。勝手にしやがれっ」 

 二宮が連れてきたのは、販売企画二係の係長、八神奈津子。

 彼女は、お嫁にいけなくなるのでひた隠しにしてきたが——

 太極拳の使い手であった。『全日本柔拳連盟』という、日本における太極拳の総本山では、正式な師範代の地位にあるらしい。

 婚約する仲になった二宮に、誠実な奈津子は初めてそれを打ち明けたのであるが、口の軽い二宮からの情報により、大倉も知るに至った。

 二宮から社員にその情報が漏れたことが発覚した日。

 彼は罰として、一晩中奈津子女王様に「資本主義のブタ」としていたぶられた、と聞く。

 


 ……もしかして、ドアを拳法でぶっ飛ばすのか?



 その、まさかだった。

 奈津子は、下半身を開いてどっしりと構え、手のひらで円を描きながら大きく息を吸い込む。



 ……心は意と合し 意は気と合し 気は神と合す——



 ハアッと息を吐き、ピタッと息を止める。

 次の瞬間、それまでの緩慢な動きとは見違えるような恐るべき速さで、こぶしが繰り出された。



「心意六合 揉身八卦烈閃掌」



 バタン!



 おびただしい埃と共に、蝶つがいの根元からもぎ取れたトイレのドアは、反動で奈津子の側に倒れた。彼女は予期していたように、難なくドアを避けた。

 やった。ついに、オレはこのトイレ地獄から解放されるんだ!

 感極まった大倉は、思わず手を上げて叫んだ。

「バンザ~~~イ」

 その瞬間、恐れるものとてないはずの名物係長・奈津子の顔は驚愕に歪んだ。



 え?



「きゃあああああああああああああああああああああああ」

 奈津子の大絶叫が、狭い男性トイレ内にこだました。

 大蔵が思わず万歳をした瞬間——

 腰に巻いていたタオルがハラリと床に落ちた。

 奈津子は、ハッキリと大倉の自慢の『息子』を見てしまったのだ。



「課長、すみません。これしかなかったんですぅ~」

 一時間半ぶりに部署に戻った大倉を見て、その場の全員が腹を抱えて大笑いした。

 笑っちゃいけない、と思えば思うほど、笑いがこみ上げてくるのだった。

「クソッ。いくら着替えが見当たらなかったからって……これはあんまりだっ」



 上は、OL用の白のブラウスの上にピンクのベスト。

 下は、紺のジャージ……という恐ろしくちぐはぐな組み合わせだった。

 女子社員にしか制服がなかったため、替えというのはその類しかなかったのだ。

 ジャージは、たまたま篠塚が私物で持っていた。

 ブーブー文句を言う大倉に篠塚は、意地悪な提案をした。

「そんなに文句がおありでしたら、上下つりあうようにタイトスカートにしちゃいますか?」

 ブルブル、と大倉は首を振った。

「それだけは……絶対にイヤだ」

 もちろん、帰りにラーメンと餃子、おまけに天津飯まで奈津子におごらされたのは、言うまでもない。




 あれから、一週間後。

 昼休み、大倉はまたあの忌まわしい事件のあった男性トイレに向かった。

 ドアを開けると、掃除のおばさんが仕事をしている最中だった。

「あ、課長さん。もう終わるから。入って大丈夫ですよ」

 そう言ってそそくさと清掃用具を片付けだした。

「ああ、ありがと」

「もう、紙の確認は忘れちゃだめですよ」

 そう言い残して、掃除のおばさんは男性トイレをあとにした。



 ……てか、何であんたがそんなこと知っとお?


 この社では、ちょっとしたことでも隅々までうわさが行き渡る、と覚悟する位が丁度よさそうである。



 人間、何事も一度ひどい目に遭えば、次からはかなり慎重になるものである。

 紙がたっぷりあることを確認した大倉は、個室のドアを閉めて臨戦態勢を作り——

 安心しきって肛●の括約筋を弛緩させた。

  


 ブリブリブリブリッ



 まるでマンガのような、きれいな(?)排泄音が出た。



 ……おおっ、今日も元気に快便だ。



 丁寧にお尻が拭けた幸せを噛みしめながら、大倉はスック立ち上がり、ズボンを上げようとしたのだが——

 ポトン・ベチャッ、という嫌な音がした。

「ま、まさかっ!?」

 大倉は『ムンクの叫び』状態になって、叫び声を上げた。

「ああっ、オレのケータイがあああああ!」

 ズボンのポケットに差し込んでおいた彼のケータイは——

 便器内に作り上げられた、大倉特製の『チョコレート・パフェ』のトッピングを、見事に飾っていたのだ。

 これには、かもめの水兵さんも真っ青であった。



 ♪ な~みにチャップチャップ 浮かんでる~ ♪



 人間、一度ひどい目に遭ったことには慎重になるが、初めてのことには対処しがたいのだ。


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