第7話『二人の記念日』
【まえがき】
この作品はR指定です。中学生以下の方はお読みにならいでください。
というのはタテマエで、読みたければ誰が読んでも構いません。
書かれてある漢字が読み取れるくらいの方なら、特にまずいことはないでしょう——
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先ほどから、気まずい沈黙が続いていた。
意を決してしゃべっても、なぜか二人の発言のタイミングが重なり、そこからまた、しばらくの沈黙が続く。さっきから、その繰り返しである。
大海物産の販売企画二係の係長、八神奈津子に春が訪れた。
32歳にして、やっときちんとした『彼氏』というものができたのだ。
相手は、部下の二宮篤志。
一週間前の休みの時に、ムードもへったくれもない場所で告られたのだ。
それでも、奈津子には涙が出るほどうれしかった。
実に、恋心など捨てたように仕事に打ち込んできた苦労が報われた瞬間であった。
しかし。それですべてが万事ハッピー、などといかないのが人生の奥ゆかしいところである。
今日、二宮は初めて奈津子のマンションの一人暮らしの部屋に上げてはもらったのであるが——
奈津子はもちろんのこと二宮さえも、実はこうした経験が初めてなのであった。
二人ともいい歳をしながら、男女関係に関してはウブすぎたのだ。
今まで片思いだった二宮は、思い切って告白し奈津子に受け入れられ、天にも昇る気持ちであった。
しかし、人間はステージをひとつクリアすると、必ずワンステージ高い欲求を抱くようになるものだ。
両思いだと分かった男女が(特に男の側が)望むもの——
それは、エッチである。
もっと若いカップルなら、そこに至るまでをそれほど焦らないで時間をかけるのかもしれない。
しかし奈津子は32歳。決して若くはない。
言っては身もふたもないが『賞味期限』というものもある。
食品偽装はしていないから、お早めにお召し上がりくださいという奨励は、この場合適切である。
一方の二宮は、本当に女性経験が皆無に近かった。
奈津子のマンションに呼ばれることに決まったのが二日前。
その間、彼は試合前のロッキーのように、ナニを鍛えた。
オ●ニー断ちをし、エロ雑誌やビデオの類なども一切見ないで過ごした。
これで、弾丸の装填は完璧。
そして、官能小説を買ってきて読み、イメージトレーニングに励み、自分を高めて(?)いった。
愛する者を持つ人たちよ、二宮のことを笑ってはいけない。
異性が本当に好きだという想いと、その愛する人とエッチしたいと思うこととは、決して矛盾しないのだ。もっと言えばそれは表裏一体であり、そのどちらかだけでは、安定を欠く。
彼は彼なりに、真剣なのだ。
生まれて初めて自分でコ●ドームを買った。
わざわざドラッグストアーに行かずとも近所のファミリーマートで売っていた。
でも、それだけをピンで買うのは、さすがに気が引けたので——
大して欲しくないスナック菓子やのど飴、新聞なども買ってカムフラージュした。
日頃であれば、レジがかわいい女の子だとラッキー!とか思う二宮ではあった。
しかし、今日に限っては男性、しかもオッチャンであるほうがありがたかった。
レジに、店主のオヤジがいるのを確認してから、二宮は一直線にレジへ突進した。
「いらっしゃいませ」
店主の威勢のよい声が響く。
その瞬間、コンビニの外の駐車場に、一台のトラックが滑り込んできた。
ファミマのロゴが目立つトラックだったので、きっと商品の仕入れのための車だろう。
従業員しか入れないレジ奥のスペースに、オヤジは声をはりあげる。
「秋本さ~ん、ちょっと仕入れきたからこっちのレジお願い」
……エッ?
「はぁい」
二宮は、心臓が凍りついた。
T女学園のセーラー服の上にエプロンを付けた、サラサラロングヘアで元AKB48のまゆゆ(渡辺麻友)似の、かわいい女の子が現れた。
オヤジは、到着した補充商品を下ろすべくトラック目指して店外へ走り去った。
「いらっしゃいませぇ!」
店員教育がいいのか、きちんと二宮の目を見てニコッと笑った秋本さんは——
さっそく元気良く、商品をバーコードに読み取っていく。
コ●ドームを手にした時、秋本さんは数秒間パッケージに目を注いだ。
見慣れない商品に、興味津々といった感じだった。
彼女の形の良い眉毛が、ピクピクと動いた。
「強い! 安い! 薄い! ヤル気印のハイパーこんどおむ
付けて安心 使ってハッスル これで彼女も大満足!」
パッケージに書かれてある宣伝文句を知っていた二宮は、真っ赤になった。
まるで、早い・うまい・安い!の吉野家のような宣伝である。
聞くだけでもめちゃくちゃ恥ずかしい、このキャッチフレーズを考えた人間の顔が見たいものだ。
コ●ドームと書かずにあえて『こんどおむ』とひらがなで表記するところに、コピーライターの趣味の悪さが光る。
「あ、あれ?」
秋本さんはバーコードを必死で読み取ろうとするのだが、機械が反応しないのだ。
「店長~」
外から商品の詰まった箱を運び入れていた店主に、秋本さんは叫んだ。
「バーコード読み取れない商品があるんですけどっ、これって商品のマスター登録がまだだったりするんでしょうか?」
「何だって? おかしいな、新商品はもう全部データ入れたはずなんだが」
店主のオヤジは、首を傾げた。
「で……何て商品だ?」
そして、二宮が最も恐れていたことが起きた。
擬似まゆゆの、かわいい唇から発せられたその言葉とは——
『ヤル気印のハイパーこんどおむ』でぇす!
店内で商品を物色していた買い物客は、一斉にレジに振り向いた。
買い物かごを下げて二宮の後ろに並んでいたOL風の女性は、クスリと笑った。
……さ、最悪やぁぁ!
「秋本さん、じゃあ今マスター登録入れといて。やり方、覚えてるよね?」
「はぁい」
元気に返事をした彼女は、二宮に「恐れ入りますが、少々お待ちください」とニッコリ笑いかけてから、レジ機械と連動したPCの商品管理システムに、商品情報の入力を始めた。
「ええっと、ヤル気…印の……ハイパー……ああ間違えちゃったぁ」
いちいち声に出して言ってしまう、高校生バイトの秋本さん。
後ろに並んでいるOLが突然顔を伏せ、二宮に背を向けて後ろを向いた。
クックッという忍び笑いが漏れ聞こえる。
「……あれ? 何だっけ。そうそう、ハイパーこんどおむ。何で、ひらがななのかしら?」
この恥ずかしい試練に必死で耐えようとしている二宮の表情は、殉教者のような神々しさに満ちていた。そんな彼には、10秒が5分のようにも感じられた。
やがて、全ての清算が終わり、女子高生店員は商品を詰めたレジ袋を手渡してくれた。
彼女の細くきれいな指が、二宮の指に少し触れ合う。
「ありがとうございました! ……ガンバッてくださいねっ」
最後の一言は、何を頑張ってくださいと言いたかったのか?
考えると、顔から火が出そうになるほど恥ずかしい二宮なのであった。
そのような涙ぐましい苦労を重ねて、今日の晴れ舞台(?)に臨んだのだ。
何としても、初エッチは二人の最高の思い出にしたかった。
しかし——
きっかけというかタイミングというか、そこが大問題であった。
一番のネックは、彼が奈津子の部下であり、日常では主従関係にある、ということだ。
彼のほうが立場が上ならばリードもしやすいのだが、そうもいかない。
しかも、やはりムードというものも大切である。
まさか、
「係長、エッチしたいのですが…よろしいでしょうか?」
などと伺いを立てるのも、何だかなぁーという感じである。
日曜の夜。
とりあえず二人は、TVのバラエティー番組を見て、笑っていた。
確かに、これはこれで楽しいのだが……
とてもではないが、手を握ったり、唇を寄せたり、という展開になる甘いムードには程遠い状況だった。
二宮は、焦った。
このまま何もなしで家に帰ることは、完璧な敗北である。
今までの下準備や苦労の数々は、一体何だったのか?
9時になった。
TVばっかりも何だかなぁ、ということになり奈津子はテレビを消した。
二人の間に、静寂が訪れた。
……チャンスは、今しかない!
「な、奈津子さんっ!」
急にそう叫んだ二宮は膝で這い、座っている奈津子のそばににじり寄った。
まるで『団地妻のなんちゃら』シリーズで、劣情を起こして奥さんに言い寄るセールスマンや、エアコン修理のオッサンのようだった。
「何?」
いつもの職場モードの口調で上司の奈津子にそう切り返された二宮の気持ちは、ショボショボと萎えてしまった。
「いや、やっぱり……いいです」
「よくないっ」
奈津子は叫ぶ。
「男ならハッキリしなさいっ。問題は放っておかないの。何ごとも報告・連絡・相談よっ。早期発見、早期解決っ。ズバッと参上、ズバッと解決!」
また、二宮にはよく分からないポーズをとりだした。
彼女がするからには、どうせ昔のアニメかヒーロー関係のモノマネだろう。
「さぁさぁ。問題は一体何っ。早くおっしゃいなさいっ」
そう言って奈津子は迫ってくる。
「ひぃぃぃ」
この時はもう、二宮は性欲どころではなくなっていた。
ただ、上司としての奈津子が恐ろしいだけだった。
これでは、例え性関係ができても女王様と豚野郎、という構図になってしまいかねない。
「かっ、かっ、かっ、係長と……」
「私と? 一体何よ?」
容赦なく先を言わせようとする奈津子。
「好きだから、好きだから……」
そこまで言われて、鈍感な奈津子にも二宮の欲求が分かった。
しかし、そこで奈津子は困ってしまった。
こういう場合、どのように対応していいのか分からなかったのだ。
奈津子はまず、上司と部下という日常の壁を取り去らないことには、ギクシャクとした壁を打ち破れない、と考えた。
そこまで考えたことは正解だが、その解決法がどうにもいただけなかった。
「それでは、貫一お宮、熱海の別れの場面、スタート!」
鬼監督、奈津子の声が響く。
二宮は腕組みをしたまま、キザに言う。
「来年の、今月今夜この月を——!」
そして、足元に倒れているお宮、つまり奈津子の尻を加減して蹴り上げた。
「あれええええ! 貫一さん、あまりにもひどい仕打ちでありんす!」
何だか口調が怪しい。それではまるで吉原の花魁である。
「あのう、係長……」
急に現実に返った二宮は、奈津子に疑問をぶつけた。
「な~んでこんな時に『金色夜叉』の劇をやらなきゃいけないんです?」
よっこらしょ、と起き上がった奈津子は首を傾げた。
「いやね、いつもの上下関係を解消するには、立場が逆転するようなイメトレが有効かなぁ、って思っったんだけど…。やっぱヘンかなぁ?」
……ヘンだ。ぜ~~ったいヘンだぁ!
二宮はそう思ったが、それでも急激に奈津子への愛おしさがあふれてきた。
常人離れしたマニアックな発想だったが、奈津子は奈津子なりに気を遣ったのである。
そして、それは二宮のことが好きでなければできないことであったから。
「奈津子さんっ」
一切の迷いが吹っ切れた二宮は、奈津子を優しく抱き止めた。
奈津子もまた、二宮の瞳を見上げた。
「私も、好きよ。あなたのこと」
お互いの瞳に移り込んでいる顔は、もはや上司と部下の顔ではなく、男と女のそれであった。
静かに、二宮は奈津子と唇を重ねた。
彼の腕の中で、日頃は鬼上司の奈津子の体は、寒さに震える子ウサギのようにビクッと跳ねた。
そして、相手を信じきったような眼差しで、体を預けてきた。
何があってもこの女性(ヒト)を守ってあげたいー。
二宮は、心からそう思った。
長い口づけのあと、二宮は自然な感じで奈津子をベッドに誘い——
互いが思慕にあふれた良いムードで、体を重ね合わせた。
「初めてでちょっと怖いから……。やさしく、愛してね」
様々な紆余曲折を経てやっとめぐり合えた運命の二人は、歓喜のうちに愛を確かめ合うのだった。
二宮が、奈津子の胸に顔を埋めていたその時——
異変に気がついたのは、奈津子だった。
「ん? どうしたの、篤志(※注:二宮の下の名前)」
「……係長、あれどっかにどけていいっすか?」
急に、マグナムに元気がなくなった二ノ宮は、ベッドの上に飾られていたある物を指差して言った。
奈津子のベッドの頭に近い部分は、ちょっとした棚になっており物が置けるようになっているのだ。
「ああ、これ?」
それは、ハカイダーの見事なフィギュアだった。
「これはね、この前『まんだらけ』で見つけてきた掘り出し物なの。なかなかよくできてるでしょ? 私はねぇ、キカイダーよりもハカイダーのファンなのよね~。8千円もしたんだからぁ」
嬉々として語る奈津子。
しかしその趣味のない二宮にしてみたら、そんな人形に行為を見下ろされては、気持ちが萎えるばかりであった。
あんたにはこの良さが分からないのっ? と言う奈津子を説得して、ハカイダーにはしばらくの間だけ部屋からご退場いただくことになった。
仕切りなおした二人は、やっとこさ元の恋人同士のムードを取り戻した。
今までの時を埋めるかのように、互いを熱く求め合う二人。
いよいよ、『ヤル気印のハイパーこんどおむ』の出番がやってきた!
初めての奈津子は多少不安がったが、それでも二宮を信じて委ねた。
二宮の愛を受け入れた奈津子の体のほうの受け入れ準備は、万全に整っていた。
「ああっ!!」
奈津子の体が弓なりにのけぞった。
ギュッっと二宮の体にしがみつく。
彼の背中に当てた指に、力がこもる。
「係長! ……じゃなかった奈津子!」
ちょっと吹き出した奈津子も、幸せそうな笑顔を浮かべてあえぐ。
「私、待ってた。夢…みたい」
一つになりながら泣き出す奈津子を見て、二宮は深い感動を覚えた。
この女性と知り合えて、本当によかった——
最高の瞬間を迎えるべく、二人のボルテージは高まっていった。
「好きよ……好きよあなたのこと」
「な、奈津子さぁぁん!」
と、その時。
「…………」
奈津子の中で、二宮は急速にしぼんでいった。
「ど、どうしたの?」
我に返って奈津子は尋ねた。
「そう言えば、例の書類早く出さなきゃいけなかったですよね」
何と、ギシギシ動くベッドのせいで位置がズレた枕の下には——
来年度の大海物産の販売戦略計画書があったからだ。
多分、奈津子が書きかけたものだろう。
今度、皆が考えて持ち寄ったものを検討し、課としてひとまとめの案にすることになっていた。
「ゴメン。昨日寝ながら読んでたやつ、片付けてなかった…」
急に現実に引き戻された二人の結合部は、しぼみまた乾いてしまった。
それでも、負けず嫌いの二人はあきらめなかった。
雑念を呼び起こしそうな一切のものをどけて、部屋の掃除までして再び愛の営みに挑むのだった。
こうなるともう、半分意地の世界である。
夜中の4時になって、やっと二人は身も心も結ばれた。
しかし、災難に遭う星の元に生まれた奈津子との生活は——
二宮にとってもやっぱり、波乱万丈の展開なのであった。
体力を使い果たし、グッスリと眠った二人は朝時計を見てビックリした。
「係長、起きてくださいっ! もう8時過ぎっす」
寝癖のついたザンバラ髪になっていた奈津子は叫ぶ。
「なななななな何ですってええええええええ」
二人は、なりふり構わず激走した。
とてもではないが、二人仲良く同伴出勤、という甘いムードではない。
5分遅れで社に着いた二人を見て、販売企画二係の面々は大笑いした。
すっぴんでやまんばのような頭と顔をした奈津子と、なぜか私服姿でご出勤の二宮。
もともとはいったん家に帰る予定だったのに、エッチが延長戦になって疲れて寝てしまったのだ。
でも、営業課の課長の大倉をはじめ、社員一同は二人をとがめなった。
皆、二人の事情が分かっていて、心から応援していたからだ。
奈津子の部下、若菜と美佐子は心の中でそっとつぶやいた。
……お二人さん。これからもずっとお幸せにね——。
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