第3話『歯医者復活戦?』
32歳のOL、八神奈津子はさっきから顔をしかめて頬を押さえていた。
どうも、右下の奥歯の辺りが、ズキズキと痛む。
「こりゃもしかして、虫歯かしらね……」
放置して済ますには、ちょっと痛すぎる。
奈津子は早退も考えたが、やっぱり今はそれどころではない、と判断した。
「大海物産」という会社の係長である彼女の元には、さっきから部下の立案した販売企画立案の書類が次々と舞い込んで来ており、いちいち目を通して使えそうなものをピックアップしないことには帰れない。
営業部門の役員会が迫っている今、お偉方を納得させられる販売戦略をひねり出さなきゃならない。
何より、役所仕事と違い、過酷な自由競争の戦いの場だ。
ただでさえ、売り上げアップのために他メーカーと血で血を争う戦いを繰り広げているのだ。 ちょっとやそっとのことで、自分の事情を優先するわけにはいかない。
……まぁ、歯痛だから自分が痛いだけで、別に死ぬわけじゃないしね。
そう思って、二時間後の退社時間まで、我慢することにした。
「まったく、冗談じゃないわよ」
自らの不幸にプリプリ怒りながら、奈津子は社の女子トイレに向かった。
まぁ、虫歯というものは、ある意味 『自業自得』的要素が強い。
きちんと歯を磨かないから、つまり自己管理がなっていないから、なるのである。
男のいない奈津子にとって、食べることは何よりもの楽しみなのである。
歯が痛かったら、そのせっかくの楽しみさえ半減してしまう。
愛社精神はある奈津子なのだが、この時ばかりは新企画の立案よりも、歯を治すことのほうが気がかりであった。
奈津子は、先ほど会社のPCで、真向かいにあるビルの歯医者の電話番号を調べておいた。
そして、トイレに着くやいなや、予約を取るためにケータイを取り出した。
番号を押すと、数回のコール音のあと、先方が出た。
「はい、服部歯科でございま~す」
事務の受付にしては、テンションが高い。
まるで、日曜日の6時半に 『サザエでございま~す』と言われたかのようだ。
「あの、急に歯が痛くなりまして。今日見ていただきたいんですけど…予約はできますか?」
「ちょっとお待ちくださいね……」
何やら紙をパラパラめくるような音が、電話越しに聞こえてくる。
きっと、予約表を確認しているのだろう。
「一応ですね、一週間半先まで予約は埋まっているんですけどねぇ」
奈津子は青ざめた。
「ど、どんだけぇ~~~~!?」
絶句する奈津子に、電話の相手は尋ねて来た。
「えっと、初診の方ですか?」
「は、はい。そちらは初めてです」
そうですねぇ……などと言いながら受付の女性は付け加えてきた。
「それでは、緊急ということで。予約優先ですので、お取りした時間からは少しずれるかもしれませんが、何とか先生に診ていただけるようにはしてみますね。それでもよろしいですか?」
「そ、それで結構ですっ」
イラチの奈津子は、ちょっとご機嫌斜めになった。
企業戦士奈津子は、回りくどいのや分かりにくいのは大キライなのだ。
……それを先に言えよ、それをっ!!
とり合えず、夕方5時30分に予約を入れることに成功した奈津子は、残りの二時間を耐えるべく部署に戻って行った。
向かいのビルの二階に、その『服部歯科』はあった。
…服部って、まさか下の名前は半蔵、とかじゃないでしょうね?
そんなしょうもないことを考えながら、入り口の看板を見たら——
院長 : 服部十兵衛
奈津子は、ガックリと脱力した。
それじゃあ、柳生十兵衛とのあいの子じゃないのさ。
世の中には、我が子に冗談のような名前をつける親もいるんだなぁ、とヘンなところで感心しながら、奈津子は医院のドアを開けた。
カランカラン、とドアに取り付けられたベルが鳴り、あのあまり嗅ぎたくない歯医者独特の臭いが、奈津子の鼻を襲った。
その臭いが、これからされるであろう 『あんなことやこんなこと』(??)を連想させ、奈津子は暗澹たる気分になった。
靴を脱いでスリッパに履き替え、受付へと進む。
「すいません。5時半に緊急で入れていただいた八神と言いますが…」
受付に座っていたのは、栗色のロングヘアをくくってアップにした、ちょっときれいな女子大生風の子だった。
彼女の胸のネームプレートを見るとー
歯科衛生士 : 志穂美 悦子
「うそーっ」
奈津子は絶句した。
「失礼ですが、それって本名ですか?」
本当に失礼な質問である。
本人も聞かれ慣れしているのか、
「ええ、本名です。よく言われるんですけど、私はその有名な同姓同名の方のこと、全然知らないんですけどね」
そりゃそうだ。最近の若い子は知るわけがない。
もう少しで、奈津子は思わず、『ビジンダーに変身できるんですか?』 と聞いてしまうところだった。
その悦子さんは、話を元に戻してきた。
「確か、初診の方ですよね? 保険証はお持ちですか?」
「エッ」
奈津子は焦った。怪我をするのでもなければ、風邪もひかず健康そのものの奈津子は、滅多にお世話にならない保険証のことをすっかりと忘れていた。
「あっ、スミマセン。ちょっと今、保険証持っていないんですけど……その場合どうなりますか?」
悦子さんは済まなさそうな表情で、提案してきた。
「それではですね、今回は保険証なしの実費で治療を受けていただいて、次回保険証を持参した時に今回の分の差額をお返しする、という形でいかがでしょう?」
あわてて財布とにらめっこした奈津子は、眉間にしわを寄せた。
「それって……大体でいいんで、どれくらいかかるか教えていただけます?」
美人の悦子さんは、ちょっと小首を傾げて考えるような仕草をする。
「治療内容にもよりますが、最低4千円くらいで、上は八千円くらい見といていただければいいかとー」
「じょじょじょじょ冗談はよしこさぁぁぁん!!」
絶叫した奈津子は、血走った目で受付に乗り出した。
「ひいいっ」
『呪怨』の伽椰子ばりの恐ろしさに、悦子さんは身をのけぞらせた。
「い、今その額を払っちゃったら…いつも帰りがけに買う『平和堂の大判焼き』と『マスヤのおにぎりせんべい』が買えなくなっちゃうじゃないのぉぉぉ」
「……はぁ」
それがどれだけつらいことなのか理解の難しかった悦子さんは、目を丸くした。
「お願いっ。今回だけは負けといてっ。私はね、向かいの大海物産の社員なの。逃げも隠れもしないからぁ!」
こめつきバッタのように頭を下げる奈津子を憐れんで信用することにした悦子さんのおかげで、何とか保険の適用額にしてくれることになった。その代わり、できるだけ早めに保険証を見せに来てもらうことを約束させて。
奈津子が待合室に座って女性週刊誌を読んでいると、奥の方からマスクをした歯科助手が顔をのぞかせた。
「八神奈津子さ~ん、お入りください」
……いよいよかっ!
これから痛い治療をされるかもしれないが、あとでおいしく大判焼きとおにぎりせんべいを食べれるようにしてもらえるのだと思うと、ルンルン気分になるのだった。
奈津子は、気分に合わせて『花の子ルンルン』の歌を口ずさんだ。
妙な鼻歌を残して治療室に消えていった奈津子だったが、待合室にいた患者は誰一人何の歌なのか分からなかった。
案内されたイスに靴を脱いで上がった奈津子は、幼児がつけるような前掛けを首からかけられた。
「先生がみえますので、もう少しお待ちください」
することのない奈津子は、何気に周囲を見回した。
頭上には、関節が数箇所あって自在に動かせるまばゆいライトがにょっきり腕を伸ばしていたのだが、そこにくくりつけられているぬいぐるみを見て笑った。
多分、小さい子どもの治療の時に気をまぎれさせるためのものだろうがー
……そんなもん、今時の子が知るかよ!!
UFOキャッチャーで取ってきたような 『ミラーマン』のぬいぐるみが、ライトにくくりつけられていた。そんなもの、普通は昔盗撮問題を起こした某教授のことか?ぐらいにしか思わないだろう。
今更ながらに、この歯科医院のセンスが恐ろしくなった。
それでも奈津子が『これ、欲しいかも!?』 などと思っているところへ、医師と歯科助手が現れた。
助手は、どうやらさっきの悦子さんではない。
ちょっと暗い感じのその子のネームプレートには…
歯科衛生士 : 大多 光
……この医院には、冗談みたいな名前の職員しかおらんのか?
そういわれてみると、ちょっと暗めで、すっとぼけたような感じが『だいたひかる』に似てなくもない。
奈津子はもう、あえて 『それ本名ですか?』などと尋ねる気はなかった。
「え~、八神さん、ですね? 初めまして、院長の服部です」
そう挨拶してニュッと横から顔を出してきた服部の顔を見て、大笑いしそうになった。
額には、炭鉱にもぐるかトンネル工事でもするかのようなライトにも似た、ピッカリ磨き上げられた額帯鏡。そして、冗談のようにデカいマスク。
……まるで、レインボーマンじゃん。
「あのう。その額帯鏡って、耳鼻科以外では必要ないって聞いたことあるような気がするんですけどっ!?」
不安に感じた奈津子は、服部先生に尋ねてみた。
「ああ、こりゃ私の趣味でね。これをしてると、何だか調子が出てくるんですよ」
……ここ、ほんまに大丈夫か?
ついでに奈津子は、気になっていたもうひとつのことも聞いてみた。
「それにこのぬいぐるみも、ミッキーマウスとかキティちゃんとか、有名どころに変えたほうが良くないです? ミラーマンなんて今時の子誰も知りませんよ?」
それを知っていたり、院長を見てレインボーマンなどと連想する奈津子も、どうかと思うのだが。
「ああ、それもまずかったですかいの? この前もこれはマズイ、と言われて変えたばかりだったのに…」
服部先生の顔は曇った。
「それじゃあ、この前は一体何のぬいぐるみだったんですか?」
興味本位で、奈津子は聞いてみた。
「…これじゃよ」
「げっ、ジャガーさん!!」
服部先生の取り出したぬいぐるみを見て、奈津子は絶句した。
少年マンガ誌連載の『ピューッと吹く!ジャガー』というギャグマンガの主人公だった。
…そりゃまた別の意味で問題だよなー。
面白さの分かる対象年齢が少し上なのと、教育的に問題がありそうなのがネックだ。
とりあえずイスが倒され、奈津子は歯を検診してもらった。
「え~っと右上から1番・ギレン。2番・ランバラル。3番から5番までがガルマで、6番がシャア……下行って1番から6番までフィンファンネル」
はぁ?
普通、マルとかバツとか、Cとか何番から何番まで斜線、とかって言わない??
恐ろしいことに、歯科助手のだいたひかるも、フンフンと当たり前のように聞き取ってカルテに書き留めている。いったい、どんな暗号を職員間で設定してるのか?
どうも、この職場の面々の趣味は、おかしい。
「どうやら、あなたの右奥歯はランバラル……じゃなかったC2、つまり立派な虫歯ですね。今から虫歯を削って、そこに被せ物をしましょう」
奈津子はあきれた。
……ランバラルってなんじゃい!
患者の治療にまで趣味を持ち込むなぁ! このガンヲタめ。
C2だと言われた奈津子は、よっぽどこの医院をC2爆弾で爆破してやろうかと思ったが、ムリなので想像の世界で我慢した。
「それでは、今から削りますね。痛かったら、手を挙げてください」
チュウウィィィィィィィ~~ン…と、ドリルの嫌な回転音が周囲に響く。
服部先生は、だいたひかる助手のほうを振り向いて、声をかけた。
「ひかるくん。例のものを頼む」
部屋の奥でだいたひかるがガサゴソするのが、奈津子の目の端に見えた。
すると、今までイージーリスニングの穏やかな曲が流れていたのに、異様に勇ましい音楽が鳴り響いた。
てか、ちょっと勇ましすぎる。
それは、どうやら 『ゲッターロボ』の主題歌だった。
「せ、先生! 何でこの音楽なんですかっ!」
グフフフ、とマッドサイエンティストな笑いを浮かべた服部先生は、血走った目で奈津子の顔をのぞきこんできた。
「そりゃあ君、このほうが調子が出るからだよ」
奈津子は非常な恐れを感じたが、ついに観念して口を開けた。
「ヒッヒッヒッ。行くよ、ひかる君!」
助手のひかるも、バキュームを片手にうすら笑いを浮かべて奈津子に覆いかぶさってきた。
そして、恐ろしい速さで回転するドリルが、奈津子の虫歯を粉砕して行った。
チュイイイイイイイイイン~チュウイイチュウイイイイイイ~~~~ン
ささきいさおの、やたらよく通る声が室内に満ちる。
服部先生のドリルアームは、奈津子の歯の深いところまで到達しようとしていた。
奈津子の口内に、激痛が走った。
叫ぶことのできない奈津子は、右手を上げた。
痛かったら手を挙げろと言われていたからだ。
挙げるなら、まさにこの時をおいて他にない。
しかし、である。
ショッカーの改造人間でも手術するかのようにー
先生とひかる女史の目は『逝って』しまっていた!
……コイツら、ゼンゼンこっち見てねーよ!!
二人の頭の中にあるのは、恐らく目の前の獲物を削り取ることだけだろう。
いくら手を挙げても分かってくれないので、足をバタバタさせてみた。
しかし、それでもこの二人は気が付かない。
「受けてみろっ、ブーメランフックにギャラクティカ・マグナム! グヘヘヘ」
……それは 『リングにかけろ』じゃないか!
奈津子は激痛のさなかにも関わらず、そうツッコミを入れてしまう自分が悲しかった。
「……私だけ? ゲッタービームが使えれば、ゲッターロボの変形はいらないと思う」
ズビビビビと横から唾液を吸引しながら、だいたひかるもおかしなことを口走っていたが、それもそうかも……? と同意してしまう奈津子なのであった。
いらないことを考えると、痛みもだんだん平気になってきた。
オタクな二人の独り言に反応しているうちに、いつしか治療は終わってしまった。
削ったところにはとりあえずの詰め物をし、来週銀歯を被せることになった。
きっちり千円を残して服部歯科の建物を出た奈津子は、念願であった平和堂の大判焼きとマスヤのおにぎりせんべいを買って帰った。
次回、しっかりと保険証を持っていくことを、悦子さんに約束させられた。
「もしお忘れになったら、ロケットパンチですからねぇ~」
それを聞いた奈津子は、ガックリと肩を落とした。
……あ~あ、この医院でまともなのは彼女だけだと思っていたのに。
やっぱり、この医院の職員は揃って懐かしのアニメオタクだったのだ。
今の治療が済んだら、次があれば別の歯医者にしよう。
奈津子は、そう心に誓うのだった。
マンションの自室に着いた奈津子は、さっそく買ってきた大判焼きとおにぎりせんべいをテーブルに広げ、ヤケ食いを始めた。
「フンッ、ホントあったまにくる! クソ痛いのに私の歯を掘り続けやがってっ」
プンスカと怒りながらも、心は大判焼きのもっちりとした衣の感覚と、あんこの絶妙な甘さ加減とを存分に楽しんでいた。
食べ方がいつもよりもワイルドに過ぎたからだろうか。
突然、歯がスースーするような嫌な感覚が奈津子を襲った。
……そ、そんな!!
モッチリした大判焼きの生地が、奈津子の歯の詰め物を持ち去ってしまったのだ!
「あ、そういえば一時間はモノを食べるな、って言ってたような!?」
奈津子が時計を見て逆算すると、今は治療後からまだ40分。
「やってもうたぁ!」
頭を抱える奈津子の脳裏では、ゲッターロボの歌がリフレインしていた。
詰め物を失った歯の隙間に食べ物が詰まって、気持ち悪いことこの上ない。
「……係長、大丈夫ですか??」
社員食堂に昼食を取りに着たOLたちは、上司の奈津子を心配した。
「は、はいほうふっ」 ※ 訳→だ、大丈夫
詰め物が取れてしまったので、奈津子は片側の歯だけで食事を噛もうと苦戦しているのだった。
事情を言って、今日の退社後にでももう一度詰めてもらう気でいた。
この状態で一週間を過ごすなど、あり得ない。
「な、なんほひへもほはんははへふんたからねっ!」
部下の美佐子は、横の若菜にそっと尋ねる。
「係長、何て言ってるの……?」
若菜は、気の毒そうな視線を奈津子に注いで通訳する。
「何としても、御飯だけは食べるんだからねっ! ですって」
この時、詰め物を再度してもらった後で、また前回と同じ目に遭うという情けない未来を、まったく予想していなかった奈津子なのであった。
~終~
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