第11話 四章 惨劇 その2


 ――その時の様子について教えてください。

 筆者が話しかけると、彼女は読んでいた紙の束をサイドテーブルに置き、咳払いしてから話し始めた。

「突然スライムが暴れ出してみんなパニックになっていたわね。神父様は長い髪も振り乱して、教会の方まで逃げてきたの。こう、ほうほうの体って感じで。でもあの時のスライムと来たらとんでもない速さで。まるで羽根でも付いているみたいだったわ。扉の前はもうスライムでいっぱいだったから、裏口へ回ってきたみたいだけど、あいつは数もいたから。それでとうとう」

 ――追いつかれてしまった、と。

「教会の裏庭の方だったわね。私が裏口の戸を開けて様子を覗くと、こうスライムに囲まれた神父様が世にも恐ろしげな顔をされていたわ」

 ――神父様はその時何かおっしゃっておられましたか。

「『助けてくれ』とかそんな言葉だったような気もしますが、正確には覚えていません。というより言葉になっていなかったような気もします」

 ――その時あなたはどちらに?

「教会の中です。スライムが暴れ出したという悲鳴を聞いてすぐに教会に逃げ込みました。そこから奥の物置に。ええ、普段は使わない家財道具だとか季節の服だとか衣装とか置いているところです」

 ――衣装?

「神様の、ですよ」

 そこで彼女はくすりと微笑んで見せた。

「昔、神父様が村の子供たちと一緒に劇をしたことがあるんです。ほら、聖者様が女神様の洗礼を受けて村娘と巡礼に向かうところの」

 子供向けの宗教劇というところのようだ。

 ――評判はどうでした?

「もう散々でしたね。子供たちは言うことを聞かない。大人たちは退屈そうにしている。神父様も困り果てていましたよ。拍手もまばらで。あの頃はまだ神父様も赴任されて間もない頃でしたから布教に一生懸命だったんでしょうねえ。台本もご自分の手で書かれていましたし」

 その演目なら筆者も昔、体験したことがある。聖者様を乗せる馬の役だった。配役を決めたのは故郷の教区の神父様だった。優しく神の教えに熱心なお方ではあったが、人の話を聞かないことでも人一倍ひどかった。いくら当時一番年上で背も高かったからといってあんまりな仕打ちではないかと子供心に傷ついたものだ。

 ドミニク神父も同じようなものだったのではないだろうか。若き神父の情熱は空回りしていたように思える。


「ええと、何の話だったかしら。そうそう、神父様のことよね。このままじゃあ神父様が殺される、と思ってね。物置の扉を開けて呼びかけたのよ。こちらに、って。そしたら神父様ははっと、救われたような顔で裏口の方に走ってきたわ。でももう少しというところでスライムが後ろから飛びかかってきて、このままでは教会の中にまで入り込んできて食べられると思って、とっさに扉を閉めたんです。扉の外から聞こえてきた悲鳴は一生忘れません」

 背筋を丸め、ため息をつく。事件後、教会裏手の木の上にボロボロのカソックが枝に引っかかっていたという。その根元からは汚れた手袋も発見された。

「音がしなくなって、しばらく経ちました。多分、五分か十分かそこらくらいだと思います。様子をうかがおうとそっと扉を開けた途端、扉の上の方から火の付いたスライムが飛び込んで、私の顔に」

 そこでアルマ氏はしわの深い両手で顔を覆った。嗚咽が聞こえた。そこで激しく咳き込まれたので看護師を呼ぶ事態となり、取材は一時中断となった。

 続きは後日改めて、と申し出たがアルマ氏の強い申し出で再開したのは一時間ほど後のことである。看護師からは、くれぐれも刺激しないようにとのきつく申し渡された。


 幾分やつれた面持ちのアルマ氏に向き直り、極力刺激しないよう声音に気を付けながら改めて質問する。

 ――それからあなたは、どうされました。

「近くにあったたいまつを近づけて、皮膚ごと手で引きはがしました」

 そう言いながら顔の傷を指の腹でおずおずと撫でさする。事件より半世紀以上経過して既に痛みはないと聞いているが、老人の指先は傷跡がまだ熱を持っているかのように不安げに揺れていた。

「それから扉を閉めてスライムが入ってこないよう、隙間に木ぎれやら衣服やらを差し込んだのですが、それでもスライムは入り込もうとしてきました」

 そこで彼女はとっさに、教会内の聖堂に戻って水瓶にくんであった水を汲んできた。ドミニク神父が洗礼を授けていた水を扉やその隙間に力一杯振り掛けたという。聖職者による洗礼を受けた水は聖水となり、魔物やアンデッドを退ける力がある。聖水の効果は聖職者の修行や法力により左右される。強い魔物では効果がない場合もあるが、スライムを退けるのには十分だったようだ。

「それから顔にも振り掛けてわずかに残ったスライムの破片をそぎ落としました。あとは内側からカギをかけて、助けが来るまで倉庫の中で隠れていました」

 発見された時顔の傷は皮膚の深くまで傷つけていた。事件後、軍によって州都の病院に運ばれて手術を受けたが、完治には至らなかった。

 彼女が残りの生涯を独身で過ごしたのは顔の傷と無関係ではあるまい。

「だからねえ、正直村のみんながどこでどうなったかとか全然わからないのよ。本で読んだり人に聞いたりしたけれど」

 ――ご家族とも会われなかったのですか?

 義母(亡夫の母)のイボンヌは近隣の者に背負われて、南門から避難している。事件後はフンボルト州北部の従兄弟の世話になっており、晩年は老人性痴呆症を悪化させ、近所を徘徊していたところを車にひかれて死亡している。

「会いたくなかったのよ」きっぱりと言った。

「あの人とは相性が悪くてね。この顔の傷を見ればまた何を言われるかわかったもんじゃないって。足も弱かったから病院にも来なかったのはむしろほっとしたわ」


 スライムの暴発はトレメル村を恐怖の渦に陥れた。

 スライムは己の体に火が付いたまま、血肉を求めて村の中を徘徊し始めた。

 手にたいまつを持って牽制していた者もいたが、意に介した様子もなく飛びかかった。 

 スライムに構造上脳は存在せず、知性が存在しない。常に食欲や生存本能といった原始的な衝動で行動する。火を恐れるのも本能的に危険を察知してのことだ。それらが火を怖がることもなく、飛びかかった。奇妙な言い回しではあるが、正気を失っていたのだ。

 村人たちは恐慌に駆られた。物陰から大勢が見ていたし、悲鳴は村の外にいても聞こえそうな声だったという。

 火をつけた村人たちがスライムの餌食になった後、次の犠牲になったのは家畜たちであった。つながれた牛や馬が飲み込まれ、逃げることも出来ず痛ましい悲鳴を上げながら腹の中に飲みこまれていったという。溶かされていく光景を見た村人たちはさらなる恐怖に駆られた。

 その時の光景は一生忘れられない、とエーリッヒ・カウフマン氏は語る。


「母に手を引かれて逃げていく途中で、ですね。村はずれに一匹だけなぜか牛がいるんですよ。火の付いたスライムがそいつにぶつかったとたん、牛の後ろ半分がスライムの中にすっぽりと入り込みまして、苦しそうに悲鳴を上げるんですよ。熱いのか苦しいのか、首をめちゃくちゃに振りながら助けを呼ぶんですよ」

 今でも時折夢に見る、と苦しげな顔をされたのが印象的であった。家畜の犠牲は不幸なことではあったが、村人にとっては幸運でもあった。牛や馬が犠牲になっている間に逃げる猶予が生まれたからだ。スライム退治に失敗した今、残された方法は逃げるだけであった。

 逃げ場は大きく分けて二つ。村の外と中である。

 

 大勢の人が向かったのは村の南側だ。

 スライムは村の北側から来たのだから南側に逃げるのは当然の反応だった。

 村人たちはパニックを起こしながら南側へと走った。家の中にいた母親は子供の手を引いて南門へ向かった。走りながら「南へ逃げろ」「南門へ行け」と狂ったように叫び声を大勢の人が聞いていた。声を発したのは村長である。教会の塀の上に登り、声を限りに叫び続けた。

 村長の声に気づかされた者たちが南門へと次々と駆けていった。

「南門へ逃げろ、南へ行くんだ。南門へ」

 村長の声が途切れた。逃げる途中だったクラリッサ氏がとっさに振り返った。村長はすでにスライムに包囲されていた。人の背丈ほどの小さな塀である。スライムが昇るのに不自由はなく、村長の死は目の前に迫っていた。

「南門へ逃げろ、逃げてくれ」

 懇願するような村長の叫びは、その後二回半繰り返されて不意に途絶えた。


 村長の叫び声に促され、村人たちは南門へと駆けていった。南門は北門と同じ作りをしている。閉じられていたはずの門扉は大きく開け放たれていた。

「早く逃げろ、こっちへ来い」

 扉を押さえるようにして大声で呼びかけていたのは、ホラントだ。

 南門の見張りに任じられていた一人である。夜間のため門は閉じられていたが、スライム退治に失敗したと聞いて、かんぬきを外したのだ。

 村人たちは次々と門を駆け抜けて外へと逃れていく。トレメル村の事件において、助かった者の大半はこの時、南門へと逃れた者たちである。

「慌てるな、ゆっくり外に出るんだ」

 呼びかけながらホラントは焦っていた。スライムはいつ南門まで来てもおかしくはない。早く門を閉じてスライムを村の中に閉じ込めたかった。

 既に八十名近くが南門をくぐって外に出ている。もういい頃合いだろう。あとは外側から扉を戸板で釘を打ち付ければ持ちこたえられるという判断である。あとは扉の隙間に泥を詰めるだけだ。

「早く来い、門を閉めるぞ」

 返事はなかった。

 よし、と門を閉めようとした時、待ってくれという声が聞こえた。

 ホラントが顔を上げると、村人二人とそれを追いかけるスライムの姿が見えた。一体何人を腹の中に納めたのか、大人ほどの大きさに肥大している。体に火が付いている。

 追われているのは村の東側で麦畑を耕しているマルセルと、その父親ボッツだ。当時マルセルが三十二歳、ボッツは五十七歳。懸命に南門まで駆けてくる。だが、ボッツは半月前の農作業で腰を痛めていたため、早く走れない。マルセルは父親を引きずるように腕を引くが、速度は期待できそうにない。歩くのに適していないスライムを引き離せないほどに。

 まずいな、とホラントは爪をかんだ。子供の頃から母親に厳しくしつけられていたので控えてはいるが、緊張したときにはつい昔のクセが顔を出した。

 このままではぎりぎりというところだろう。だが、火の付いた体で門に張り付かれたら塀ごと炎上するかも知れない。そうなってはおしまいだ。

 何人かが門の外側から石を投げた。スライムの膨張した表面にはじかれ、あるいは体の中に取り込まれた。当然、逃げ遅れた親子のためだったが、悲劇が起きた。

 赤子の手ほどの投石がマルセルの額に当たった。

 マルセルは顔を押さえて転倒する。手を引いていたため、ボッツも覆い被さるようにして前のめりに倒れた。

 ホラントは指示を出した。

「おい、閉めろ」

「待てよ、まだ」

 同じく南門の見張り役だった、マルコをはじめ逃れた者が反対する。逃げ遅れているのはマルセルやボッツだけではない。家族もいるのだ。

「このままじゃあみんな道連れだ」

 押しとどめようとする腕を振り払い、ホラントは門を閉めると戸板で打ち付けた。

 閉じていく門の隙間から絶望する顔が見えた、とマルコは証言している。

 ほどなくしてぬるま湯のような水音が門の内側に広がった。村人たちはそれをのんびり聞いている暇はなかった。扉の隙間からスライムが村人たちを追って這い出てくるからだ。ホラントは急いで隙間を埋める作業にかかった。手伝う者は誰もいなかった。


 南門から数百フートほど離れ、リードはひとまずの無事を確認した。村人たちが避難したのは村の南側にある小高い丘の上である。ここからスライムが追いかけてこようと思えばでこぼこで曲がりくねった道を通らねばならず、時間稼ぎにはもってこいだった。村の方を振り返ると、塀の上から火の粉が舞い、煙が上がっているのが見えた。

 リードはひとまず無事だった者たちの数を確認することにした。村長が死んだかどうかは不明だが、スライムに襲われては生存の可能性はほぼ絶望的だった。ともかく、今できることをやらねばならない、とひそかに気を引き締める。

 助かった者は八十七名。スライムが追って来られないよう、途中の道に四か所ほどたき火も作ってあるものの安心などできようはずもなかった。炎が役に立たないのは先ほど確認したばかりである。それでもほかにスライムへの対処法など知らない以上、炎以外に頼れるものを知らなかった。とにかく何でもいいから安心できるものが欲しかった。今は村の中に居座っているスライムがいつ外へとエサを求めるか知れたものではない。もちろん、村に取り残されたものを助けに戻るなど論外である。リードは混乱のさなかにある村人たちに呼びかけ、今後の方針を相談した。村人たちの意見は二手に分かれた。朝を待って、ふもとへと向かうか、危険を冒してでも夜の間にふもとへと向かうか、である。

 話し合いの結果、やはり一刻も早く助け補求めるべきだという意見が大勢を占めた。だが、全員で向かうのは危険すぎる。

 そこで村の代表としてホラントが向かうことになった。


 『報告書』に残されている証言では、話し合いの結果、彼に決まったと言うことになっている。だが『手記』の方では少々ニュアンスが異なる意見も載せられている。「誰が行くべきか」という問いかけに誰かが「ホラントが行けばいいんじゃないか」とつぶやいた。その意見に皆が乗っかるような形で決まったとされている。

 おそらく、村の仲間を積極的に見捨てた者への同調圧力が働いたものと思われる。もう一人はマルコに決まった。本人の意思がどうであったか定かではないが、ホラントとマルコはたいまつを手にふもとへの道を下っていった。

 残された者たちは村の外で恐怖に震えながら夜を明かさねばならなかった。

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