ささみサラダ・十鉢目

彦一ひこいち、彦一」


 呼びかける声に、彦一は「もう少しだけ、寝かせてよ」と返す。

 とても暖かな陽射しが全身を包んでくれているようで、心地いい。


「彦一、目を覚ましなさいな」


「だってまだ眠たいんだよ、かあちゃん」


 自分の声に驚く。


「かあちゃん?

 どうして、かあちゃんが」


 つむっていたまぶたを持ち上げた。


「彦一、すっかり大きくなったのね」


「か、かあちゃん!」


 彦一は飛び起きた。

 辺りを見回すと、足もとは床でもベッドでもなく、淡い光を発する雲のようだ。

 頭上では太陽が柔らかな光で輝いている。


 目の前には彦一を産んでくれたかあちゃんが、優しそうな表情を浮かべ立っているではないか。

 ただ見たこともない、真っ白な貫頭衣かんとうい姿である。


「えっ?

 かあちゃんがいるってことは、ここは天国で、俺は死んじまったてこと?」


 かあちゃんはそれには答えず、あのころのような慈愛に満ちた目で彦一を見ている。


「彦一さん、お元気でしたか」


 その声も忘れたことはない。


「お、おかあさまっ、おかあさまではありませんか」


 おかあさまは白衣ではなく、かあちゃんと同じ貫頭衣を着ている。

 眼鏡だけは変わっていない。


「うふふっ、ひーこちゃん」


「ママ!

 ママじゃないか」


 ママは可愛い笑顔のまま彦一の名を、当時のように呼んだ。

 かあちゃんにおかあさま、そしてママまで現れたとなると、やはりここは天国に違いない。

 彦一は結論付けた。


「そうかぁ、俺は天国へ召されたのか。

 まあ、真面目にやってきたつもりだから、地獄へ落とされなくて良かったわ」


 彦一はホッと安堵する。


「彦一、どう?

 毎日毎日家族のお世話に、お店で働いてばかりで。

 辛くない?」


「かあちゃん、どうして辛いことがあるもんか。

 だってさ、かあちゃんは俺を、おかあさまはつぐみを、ママはひばりをこの世、じゃねえか、現世で産んでくれた。

 それだけでも充分幸せだよ」


「彦一さん。

 妹たちはあなたにとって、お荷物ではないかしら」


 おかあさまが問う。

 彦一は大きく頭をふった。


「おかあさま。

 あんなに素直で可愛い妹たちが、なぜお荷物になるんですか?

 俺はあの子たちがいてくれるからこそ、毎日充実した生活を送っていけるのですよ。

 俺はつぐみもひばりも、本当に可愛くて可愛くて。

 だから俺の命と引き換えにできるなら、あの子たちのためにいつでも喜んで差し出す覚悟があります」


 彦一は真っ直ぐに、おかあさまを見上げる。


「本当はぁ、彦ちゃんに迷惑を掛けたくなかったんだけどぉ。

 ごめんねえ、彦ちゃんにお任せすることになってしまって」


 ママはしょんぼりと肩を落とす。


「そんなこと言わないでよ、ママ。

 ひばりは覚えちゃいないだろうけど、俺もつぐみも、ママにも本当に可愛がってもらっていたんだから。

 ママがお弁当を作ってくれてさ、つぐみと三人で東山ひがしやま動物園へ行ったじゃない。

 みんなで手をつないで、ママが歌を口ずさんでくれながら。

 楽しかったんだ、すごく」


 彦一は思い出していた。

 かあちゃんはもちろんだけど、おかあさまもママも心から子どもたちを慈しみ、両手からあふれるくらい愛情を注いでくれていた。

 そして続ける。


「かあちゃん、おかあさま、ママ。

 俺は心から感謝しています。

 いまの俺があるのは、あなたたちが精一杯の愛情を俺に注いで、はぐくんでくれたからです。

 ありがとうございます。

 つぐみもひばりも、素敵な女性に成長してきていますから、安心してください。

 もう俺がいなくたって、大丈夫だと思う。

 だからこれからは、俺をまた天国で可愛がってください」


 かあちゃん、おかあさま、ママは顔を見合わせる。

 かあちゃんが口を開いた。


「彦一。

 あなたには、まだまだ妹たちの面倒をみてもらわなければなりません。

 それにあの子たちが嘆き悲しみますよ、あなたがいなくなったら」


「だ、だけどさ、かあちゃん。

 俺はもう死んじゃったんでしょ?」


 彦一は子どものように口元を尖らせた。

 本当をいえば、まだ死にたくはない。

 文太より先に死ぬわけにはいかない。

 せめてつぐみとひばりが、幸せな家庭を持つまでは。

 三人の母親の姿がじょじょに薄くなっていく。


「彦一、元気でね」


「彦一さん、妹たちをよろしくね」


「ひーこちゃん、あなたにはぁ、まだまだ頑張ってぇもらわないとぉ」


「かあちゃん!

 おかあさま!

 ママーッ」


 彦一は這いずるように手を伸ばす。

 母親三人は、まばゆい光のなかへ溶け込んでいった。


「彦一さん!

 お待たせしましたっ。

 もう大丈夫ですから!」


 彦一の耳元で声がする。

 恭司だ。

 つぐみを無事に外へ連れ出したあと、他の隊員と一緒に小型油圧ジャッキを抱えて炎の中へ入ってきてくれたのだ。


 すぐに作業が開始される。

 うかうかしていると、有害ガスで彦一の身に危険が及ぶ。

 恭司はマスクの下で、たくましく心強い笑顔を彦一に投げた。


 ~~♡♡~~


 時間を少しだけ巻き戻す。


 野次馬たちをかきわけ、文太とひばり、そしてみどりも非常線ロープが張られた現場前に立ち尽くしていた。

 消防車数台から放水される水流がしぶきをあげている。


「お、おいっ!

 官憲!」


 文太は後ろ手に組んで立つ、若い制服警察官に詰め寄る。


「おじいさん、危険ですからさがってください!」


「うるせぃっ。

 わしの孫がふたり、このホテルにいるんだ!

 どうなってるか教えろいっ」


「我々にもまだ把握できてはいないのです。

 さあ、さがったっ」


 文太の肩を押そうとした警官の腕を、横からひょいとひねり上げたのは、みどりであった。


「痛ぃっ!

 なんだあんたは!

 公務執行妨害で逮捕するぞっ。

 イテテテーッ」


「へえっ、やれるものならやってみなさいよ、図体だけでかい若造のくせに。

 それにお年寄りを突き飛ばそうとしたのは、アンタが先でしょ」


 みどりはいくらも力を入れているようには見えないが、確実に警官の関節をきめている。

 警官は顔をしかめながら、近くにいる仲間の警官に叫んだ。


「おーいっ、このオンナを公務執行妨害でワッパかけてくれ!」


 あわてて駆け寄ってきた警官は、みどりを見て思わず敬礼した。


菓子間かしま先生っ、お疲れさまです」


「ああ、あなたね。

 ちょっとぉ、若い者の指導がなってないわよ」


 みどりは手を離した。

 最初の警官は怒気を含んだ目でみどりをにらみ、同僚に顔を向ける。

 いったいこの暴力オンナは誰なんだと。


「菓子間先生は、月に二回、警察官有志に古武術をご教授いただいているおかただ。

 ところで先生。

 いったいどのような要件でありますか」


 そのとき、後ろでオロオロしていたひばりが大声で叫んだ。


「ああっ!

 みんな、あそこの階段から抱っこされて下りてきたのは、つぐみちゃんよ!」


 指さす方向へみなの視線が向く。

 舞い上がる火の粉と煙に包まれた非常階段を、ひとりの消防士がひばりを肩に担いで下りてきたのだ。


 すぐに救急隊員が用意したストレッチャーにつぐみをのせ、呼吸器をあてがう。

 事情を察した警官は張られた、非常線ロープを持ち上げた。


「先生、どうぞお通りください。

 ご家族のかたもどうぞ。

 ただ、くれぐれもご注意ください」


 三人は煙に顔をしかめ、ストレッチャーに横たわるつぐみに駆け寄る。


「つぐみっ、つぐみっ、じいちゃんだ、わかるか!」


「つぐみちゃーん、怪我してない?

 ウエーンエーンッ」


「つぐみちゃん、大丈夫っ?」


 三人はすすで汚れた顔をのぞき込む。

 うっすらと目を開くつぐみ。

 文太、ひばり、みどりの顔に気づき、嗚咽おえつをあげた。


「お、おにいちゃんが、おにいちゃんがっ」


「えっ、彦ちゃんがまだ中へいるの?」


 みどりはキッとビルをにらんだ。

 いきなり走り出す。

 驚いたのは小型油圧ジャッキを用意し、再度彦一を救出に向かおうとしていた恭司だ。


「ダメです!

 危険ですから近づかないでっ」


「そんな悠長なことを言ってる場合じゃないわよ!

 わたしが彦ちゃんを助けに行く!

 邪魔立てするなら、遠慮なくやらせてもらうよ」


 みどりは右脚を引き、手刀を構える。

 般若はんにゃも腰を抜かして失禁するほど両目をつり上げて、両手で遮る消防士、恭司を恫喝どうかつした。


「あっ、みどりさん!」


「えっ」


 恭司はマスクを外す。


「ぼくです、安曇あずみ恭司です」


「あっ、あなたは、恭ちゃん?

 恭ちゃんね!」


「お久しぶりです、みどりさん。

 挨拶は後まわしにして、ここはぼくに任せて下さい。

 必ず彦一さんを、無事に救助してきますから。

 約束します」

 

 恭司は力強く、みどりにうなずいた。

                                  つづく

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