ささみサラダ・八鉢目

 ホテル三階にある大広間は、公民館の集会所とイメージしたほうが納得できるような、ほとんど飾り付けのない会場であった。


 シャンデリアではなく、蛍光灯が低い天井から何列か並んでいるだけ。

 壁もところどころ貼られた壁紙が破れている。


 すくなくともここで結婚式をあげようとするカップルは、皆無であろう。

 会場費無料でも、遠慮申し上げる。


 パイプ椅子が百席ほど並べられ、テーブルはない。

 エアコンの効きが悪いのか、室内の空気はよどんでいる。


 椅子席の後ろには、立食用のテーブルが五つ用意されていた。


 今回のテーマは、「インバウンドが与える景気動向と、これからの資産運用」と配られた冊子にあった。


 中年の講師は、聞いたことのない名前の自称ファイナンシャルプランナーであり、派手なストライプのスーツ姿に縁なし眼鏡は、むしろネズミ講の元締めのような胡散臭さが感じられる。


 もちろん参加費は会場の入り口で徴収されており、ひとりにつき一万五千円とかなりお高い。


 ファイナンシャルプランナーの先生はマイクを片手に、かたわらに設置されたホワイトボードへ、象形文字のような判読不明な文字を書いては面白くないジョークを語り、聴衆に「フヒャヒャヒャッ」と笑いかける。

 席は空席がかなり目立つ。

 七割程度の出席率であろうか。


「おにいちゃん」 


 つぐみは正面に顔を向けたまま、小声で隣の彦一へ呼びかけた。

 少し舟を漕ぎだしていた彦一は、ハッと目を開く。


「この講演会って、参加は自治会加入店の義務なの?

 知ってるひとは、誰もいないよ」


「うん、そうだな。

 強制じゃあないから、うちの商店街の連中は来なかったんだろうよ。

 それに土曜日はさ、本陣メーエキ商店街は特売デーだからな」


「なーんだ。

 せっかく勉強になるかなって期待していたのに。

 この程度の講演なら、わたしだってできるわよ」


 つぐみはやれやれと肩をすくめた。


 ~~♡♡~~


 一階居酒屋の厨房である。

 お店の開店は午後六時からのため、アルバイトを中心に仕込みが始まっていた。

 三人のアルバイターがのんびりと、食材を切ったり茹でたりしている。

 居酒屋チェーンの揃いの制服姿だ。


 ひとりは男子大学生のようだ。

 もうひとりは髪をピンク色に染め、大量のピアスをしている二十歳代半ばの女性。

 三人目はとうに三十歳を越えているようだがいまだに正職にはつかず、日銭を稼いではギャンブルに血眼、と想像できるような男性であった。


「今日は上のホテルで、宴会だったよな」


「うん。

 あらかたの料理は、昨日の残りもので済ますって、店長が言ってた」


「その店長は、今日も堂々の遅刻を決め込んじゃってるしい。

 土曜日だってのに、仕事かあ。

 はあ、かったるいなあ」


 男子学生がニヤニヤしながら、段ボールからだした野菜を洗いもせず適当に包丁で切っている。


「アタタターッ、必殺皆殺しの包丁暗殺者ぁっ!」


「くだらんねえ、学生くん。

 それよりも、こんなのどうよ」


 三十路過ぎのアルバイターはフライヤーの温度を上げ、ジャガイモを丸のまま、次々と落とし込む。

 高温で揚げられるジャガイモが、みるみる焦げ茶色に染まっていった。

 どうせあとでポテトフライとして出すのだから、多少焦げても差し支えないだろうと考えている。


「見よ、巨大隕石が地獄の釜を襲う!」


「じゃあさ、ついでに生卵もいっちゃいますか」


 ピアス女はいきなりプラスチックボールに入れてあった生卵を、フライヤーへ投げ込んだ。

 高熱の油に卵は勢いよく破裂し、カラが飛び散った。


「アッ!」


 カラの破片が三十路男の両目を襲う。


「いってえっ!」


 両目を手で押さえたまましゃがみこんだ。

 熱を持ったカラの破片や、ドロリをした中味が辺り構わず飛び散る。


「あぶねえっ!」


 大学生は身を守ろうと両手をあげたとき、フライヤー横の天ぷら鍋がひっくり返り、床に大量の油が飛散した。

 熱をたくわえた卵が油にベシャッと着した直後、ボッと炎が上がった。


「いやだっ!

 燃えだしてるよ、これっ。

 ちょっと、誰かなんとかしてよ!」


 普段の清掃が行き届いていない床は、こぼした油や段ボールの切れ端がそこかしこにあり、みるみるうちに引火していく。


 ピアス女は後ずさりする。

 だが三十路男は目をやられ、大学生はその炎に怖気づいたように首を横にふるばかりだ。

 炎はどんどん勢いを増していく。


「に、逃げなきゃ!」


 ピアス女は消火活動などする気もなく、我先に厨房を飛び出した。

 男子学生は足が動かない。


「だ、誰か、誰か助けてようっ!」


 炎はすでに厨房の半分にまで広がっていた。


 ~~♡♡~~


 まったく役に立ちそうもない講演が、ようやく終了したのは午後六時前であった。


 七十名ほどの参加者たちは支払ったお金の元をとろうと、広間の壁際、並んだテーブルにセッティングされた料理とアルコールに群がっていた。


 一応ホテルらしく、制服を着た数名のウエイターやウエイトレスが待機しており、お皿や箸、グラスを渡してくれる。


 彦一は並んだ料理を見回し、ため息を吐く。


「なんだか、まったく食欲がわかねえわ、俺」


「なにこれ。

 油でべしょべしょだし、表面は乾いているし、わたしもちょっと遠慮しとこうかな。

 盛り方もいいかげんで、ホテルのバイキングとは呼べないよこれは」


 つぐみは整った眉をしかめる。

 普段彦一の手料理を美味しくいただいているつぐみは、料理とはどうあるべきかを知らず学んでいた。


 食べるひとを思う心があれば、こんな料理は絶対に出さない。

 ましてや今回は、この料理も参加費に含まれているはずなのだ。


 彦一はグラスを持ってアルコールだけでもいただくかと歩き出したとき、鼻孔が異臭を感知した。

 クンクンと臭いをかぐ。

 日頃焼き物を自ら調理しており、香りには敏感なのだ。


「うん?

 なんだか変な臭いが」


 さらにその異臭が強くなった。

 彦一は辺りを鋭い目つきで見回す。


「どうしたの、おにいちゃん」


「つぐみ、なんか焦げ臭くないか」


 つぐみは目を閉じて形のよい鼻を動かした。


「あれっ?

 なんだかイヤな臭いがするよ」


 他の参加者たちは誰も気にしていない。

 それよりも、とにかく飲んで食べてと、必死の形相だ。

 彦一はグラスを置いて、大広間から外へ出た。

 うっすらと灰色の煙が漂ってきていることに気づいた。


「おいおい、まさか火事、なあんてことは」


 そのとき、足の下方でボンッと音が響いた。


「マジかよ!」


 きびすを返すと大広間に駆け戻る。


「みなさんっ!

 火事です!

 下から煙が上がってきてる、急いで退避してください!」


 大声で叫んだ。

 ところが飲食に没頭している参加者たちはそれどころではない、とばかりに詰め込めるだけお腹いっぱい食べようとしている。

 彦一は近くにいたウエイターの胸ぐらをつかんだ。


「おいっ、あんた!

 下で火災が発生してんだ!

 早くお客さんたちを非難させろっ」


 若いウエイターはしどろもどろに返答する。


「お、お客さま、どうか落ち着いてください。

 非常ベルも鳴ってないし、万が一の場合、当ホテルでは館内放送が流れますから」


「あんたっ、そんな悠長なことを言ってる場合か!

 ほら見ろ!」


 彦一は大広間のドアを指さす。

 そこからゆらりと煙が様子をうかがうように室内へ忍び寄っている。

 ウエイターは驚いて言った。


「ま、まずは上司の指示をあおいでまいります」


 彦一はウエイターの胸元から掴んでいた指をはずし、つぐみの姿を求めた。

 つぐみも、飲食に我を忘れている参加者たちに大声で呼びかけている。


「火事です!

 早く逃げて下さい!」


「うるさいなあ。

 この一皿を食ったら出ていってやるから」


「本当に火災が発生してるんです!」


「そんなこと言って、おねえちゃん、この料理を全部いただこうってことかい」


 彦一はつぐみのそばに駆け寄る。


「つぐみ、ここから早く避難するぞ」


 つぐみは涙目で訴える。


「おにいちゃん、ここにいるひとたちをみんな避難させなきゃ!」


 彦一は大きくうなずく。


「よし!

 とにかく避難経路の確保だ」


 彦一とつぐみは大広間から走り出した。

 煙は完全に建物を支配下に収めようとするくらい充満していた。


「ダメだ!

 煙で見えねえ!」


 つぐみがせき込んだ。

 彦一は自分のジャケット脱ぎ、つぐみの頭からかむせる。


「つぐみ、おまえだけでもここから逃げろ」


「イヤだ!

 絶対にイヤだ!

 わたしはおにいちゃんといる!」


 つぐみは涙を流しながら彦一に抱きつく。

 彦一は妹の背中を抱きながら思案する。


「よし、もう一度広間の連中に」


 と振り返ったときだ。

 悲鳴を上げながら、人々が大広間から飛び出してきた。

 先頭がエレベーターホールへ走ると、誰もがその後ろについていく。

 彦一は煙にせき込みながら大声で叫んだ。


「災害時にエレベーターは無理だ!

 こっちに非常階段がある。

 そこからならまだ間に合うから、みんな、走れ!」

 

 彦一の声に反応した一部がきびすを返し、非常階段へと向かう。

 悲鳴に怒声が入り混じり、混乱がさらに恐怖を誘う。

 非常階段の手前で将棋倒しが起きた。


「ああっ、危ない!

 おーいっ、ホテルの連中はいないのか!

 避難誘導してくれ!」


 彦一はあらんかぎりの声で叫んだ。

 大広間のなかには、逃げ遅れたお年寄りや女性がいる。

 彦一はつぐみをかばうように、なかへ足を踏み入れた。

                                  つづく

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