鶏めし・十杯目
チーン、仏壇のお
一階の仏間である。
柱の少し傾いたボンボン時計が午前五時四十分をさしていた。
開け放された障子戸と廊下のガラス戸。
梅雨前のすこし水分が多い空気がそよ風となって、彦一の髪をもてあそぶ。
父親譲りである天然ウエーブのやや長めの髪。
「ばあちゃん、かあちゃん、おかあさま、ママ、おはようございます。
今日もわが家族を、よろしくお見守りください」
彦一は目を閉じ、普段着兼仕事着である紺色の
いつものように遺影を見上げようとして、はたと思い出した。
「そうだった。
今日はマリアさんのお店で試食会があるんだったよ。
えーっと、もうひとつだけお願いします。
ゲテモノ料理をいただいても、家族がお腹を壊さないように、どうぞお守りください」
あれからちょうど一週間経った。
今日は土曜日。
お昼過ぎにマリアのお店へ自治会役員の面々とともに、
「前もってセイロガンか、胃腸薬を全員服用しておいたほうがいいかな」
彦一は立ち上がると、朝食の準備をするために台所へ向かった。
~~♡♡~~
にぎやかな朝ご飯のあと、彦一はつぐみと一緒に庭の物干しに洗濯ものを干している。
「梅雨に入っちまったら、洗濯物を干すのが大変なんだよなあ」
彦一は両手でシャツをパンパンはたき、針金ハンガーに袖を通す。
「そうだよね。
家の中に干すと、どうしても変な臭いがついちゃうし」
つぐみは部屋着のスエット姿で手伝っている。
「なんだったけ、あの衣類のイヤな臭いを取ってくれる洗剤さ。
あれを使ってみようか」
「みどりさんにあとで聞いてみようよ。
薬品の専門家だから」
「そうだな。
マリアさんの試食会で会ったら聞いてみるわ」
「うん。
ところで、おにいちゃん」
「おう」
「さっきから腕に通したままになってるそれ、わたしのブラなんだけど」
つぐみは目を細めて彦一の肘あたりでぶら下がったままの、ピンク色のブラジャーを指さした。
「もしやおにいちゃん、女性の下着に興味を」
「バ、バカッ!
俺がそんな性犯罪者に見えるか?
ましてや実の妹だぞ。
こ、これは外から見えないようにだな。
最後にタオルなんかで、隠して干すんだ」
真剣な表情の彦一に、つぐみはクスリと笑む。
「ちゃんと考えて干してくれてるんだね。
ごめんなさい」
ペロッと可愛い舌をのぞかせた。
開け放たれた廊下のガラス戸。
部屋のなかでは、日本手ぬぐいを頭に巻いた
同じように頭に手ぬぐいを巻いたひばりがハタキを手に、仏間や居間のほこりを払っていた。
~~♡♡~~
「さあ、絢辻家の諸君」
彦一は居間で、座卓を囲む家族を見渡す。
「いよいよこれからマリアさんの試食会へ出陣いたす!」
「了解ですぅ!」
ひばりは元気よく右手を上げた。
文太と彦一はいつもの作務衣姿だ。
実際には毎日洗濯しているから、替えが五着ある。
つぐみはシャツの上に淡いグレーのパーカーを着こみ、ジーンズを履いている。
ひばりは赤いポロシャツに、ホワイトのロンパース姿だ。
「万が一気分が悪くなったりしたら、すぐににいちゃんに報告すること。
いいね」
「そんなに
なんだかんだ言ったってよ、口に入るもんを食わせてくれるんだろ」
文太は
「まあね。
でもさ、万が一ってことがあるから」
「おにいちゃんの心配性はとてもありがたいけど、わたしは一流フレンチのシェフが作ってくれるってだけで、ワクワクしちゃうなあ」
「そうよぅ、彦ちゃん。
あたしは試食会のためにぃ、今朝はあえてご飯をお替りしなかったんだから」
「いや、でもひばり。
お茶碗にご飯が、エベレストのように山盛りだったけどな」
彦一は苦笑する。
「よし、じゃあでかけるとしますか」
四人は立ち上がると、玄関から商店街方面へ向かった。
~~♡♡~~
土曜日の商店街は相変わらずの賑わいである。
彦一たちは、ひとごみを縫うように目的のビルへ足を進める。
ビルの正面は、まだシャッターが下ろされたままであった。
四人は路地から裏へ回る。
入口のドアは開けられ、ストッパーで固定されていた。
白いカッターシャツに紺色のズボンをサスペンダーで吊るした姿で、アンディが立っている。
「ハーイッ、ミスター・アンディ」
ひばりは元気よく手をふる。
「ああ、これは皆さんおそろいで、ようこそお出でくださいました。
まだシャッターは上げられないので、こちらからお入りください」
アンディは一階のキッチンのドアを開いた。
そのとたん、香ばしい匂いや刺激的なスパイスの香りが四人の鼻をくすぐる。
だがけっして不快ではない。
むしろ胃の腑を刺激してくれるような匂いだ。
キッチンでは真紅のコックコートを華麗にまとったマリアが、忙しく動き回っていた。
「シェフ、こんにちは」
彦一たちの挨拶に、フライパンをふっているマリアが振り返った。
「おこんにちはあ、でございますっ。
今日は心身ともに楽しんでいってほしいとアタクシは思いつつ、冷汗をタラタラ流していまぁす」
アンディは四人を、木製ドアを開け食事スペースへいざなう。
すでに
「おっ、文さん。
今日はご苦労さんだね」
板前帽に白い調理服姿の吟さんが片手を上げた。
「よう、皆の衆。
腹ぁ、空かせてきたかい?」
文太は笑った。
四人はテーブル席へそれぞれ腰を下ろした。
すぐに白衣を着たみどりも現れた。
そのほかの自治会役員も、アンディの案内で入ってくる。
「本日は皆さま、大変ご多忙なときにも関わらずお出で下さり、姉に代わり御礼申し上げます」
アンディはハンドタオルで汗を拭きながら挨拶をする。
店内は閉めきってあるため、エアコンがかけてあり温度はちょうどいい頃合いなのだが、アンディにはそれでも暑いようだ。
「みどりん」
彦一は背中側の席に座るみどりに小声でささやく。
「どうしたの、彦ちゃん」
「いちおうセイロガンとか持って来たからさ、必要なら言ってね」
「シーッ!
マリアさんに失礼よ」
みどりは眉間にしわを寄せたしなめる。
アンディはキッチンに入っていき、しばらくすると銀のトレイにスープカップをいくつかのせてドアをくぐってきた。
「お待たせいたしました」
アンディはスープの入ったカップを、丁寧にみなの前に置いていく。
テーブルにはスプーン、フォーク、ナイフ、さらに割り箸の入れられたケースと、グラスにウオーターサーバーが用意されている。
「うわあっ、いい匂い」
ひばりは湯気の立つカップに顔を近づける。
「スープはカエルのブイヨンを使った、オニオンスープです」
全員がカエルと聞いたとたん顔をしかめる。
だが立ち込める香りは、確実に胃を刺激してきた。
「いっただきまーすっ」
いの一番にカップを持ち上げたのはひばりである。
一口すすった。
横ではつぐみが眉を寄せて、妹の表情を盗み見ている。
「美味しい!」
その言葉に、他の参加者たちもおそるおそるカップを口に運ぶ。
とたんに皆の顔つきが変わった。
「なんと深い味わいなんだ!」
「オニオンだけではここまでの旨味は絶対にでないですな」
彦一も一口ふくみ、目を宙に泳がせる。
「う、うん、これはたしかに美味しいな」
緊張感につつまれていた店内が、まるで張られた糸をプツン切ったように安堵感に包まれた。
次にアンディは白いお皿に乗った料理を運んできた。
「本日のメインとなります、クロコダイルの脚のステーキ、ペリグーソース仕立てとサソリフライです。
フライには、マスタードソースをかけてあります。
付け合せはツムギアリの卵と香草サラダとなります」
彦一は目の前に置かれたお皿に、目を向けたまま固まった。
ペリグーソースとは、トリュフを使った香りのよい豪華なソースのことだ。
たしかにフレンチのシェフである。
サソリフライは、ほぼその生前の姿のままだ。
サラダにいたっては、小さな楕円形の白い卵がいくつも香草とからめてあり、見た目は美しい。
前に座るひばりだけは、満面笑顔で器用にナイフとフォークを使って、次々と口に運んでいる。
とても同じ血を引く妹には見えなかった。
つづく
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