鶏めし・七杯目
「ああっ、申し訳ありませんいたしかたございません。
アタクシはすっかり暴露することを、忘却しておるようでございます。
アタクシは、マリア・ブラックモアと申しあげるようでございます。
人づてにそう聞き及んでおるような、ないような。
どうぞよしなに、お手
精一杯な日本語で挨拶をする。
彦一たちも、それぞれ簡単な自己紹介をした。
「お茶が凍りつく前に、煮えくり返った状態でお口を火傷なさってお召し上がりくださいまし。
繰り返しご案内申し上げまーす」
マリアはカウンターのイスに腰を降ろし、テーブルの上に、手のひらを差し出した。
ソプラノのトーンは、見た目同様とても美しく、聴く者の心を安らげる。
「いっただきまーす」
いの一番にクッキーを手にとり、パクッと口に運んだのはもちろんひばりである。
彦一とみどりは紅茶をすする。
「マリアさんは、日本語がお上手なんですね」
みどりは紅茶を口に含み、その芳醇な香りと旨味に驚きながら言った。
一生懸命日本語で会話しようとしているマリアは、ホッと表情をゆるめて大きな目元を細める。
「アタクシたち血のつながっていると、勘違いもはなはだしい姉弟は、テテ親のあくどいビジネスの関係で、裏ルートなども駆使いたしまして、いろいろな国へ潜伏していたそうでございます。
毎度ご来場、誠にありがとうございまぁす」
テテ親とは多分父親のことであろう。
アンディはあわてて補足する。
「やましいお仕事ではなくて、父は商社に勤務しておりました」
「見かけだけはクリソツな弟は、言語学に興味をいだき、そちらの道へ足を踏み外していったように聞いております。
いっぽう、このちょっくら垢抜けたアタクシは、言語よりも各国の多彩なお料理に心と身体を
次回、危うしマリア、乞うご期待」
マリアは年のころ、まだ三十歳前であろう。
身ぶり手ぶりで話す姿は、舞台の主演女優のようだ。
彦一がクッキーをつまもうとお盆に手を伸ばす。
だがすでに十枚近くあったクッキーは、すべてひばりの胃の腑へ消えていた。
「それでね、おねえさん」
アンディはしわぶきをひとつ立て、カウンターのイスに座るマリアに顔を向けた。
「あらまっ、ドラマッ!
アタクシが苦心
「とーっても美味しかったでーす。
これはマリアちゃんのぉ、お手製?」
ひばりはニコリと小首をかしげる。
「よくもお召し上がりくださったわね、このカワイ子ちゃん。
アタクシは感謝申し上げるすべもなく、ただ唖然としておりますのでございます。
それは
彦一とみどりは、あんぐりと口を開けた。
手を出さなくて良かったとふたりは安堵する。
「へえっ、蚕ちゃんとぉ、蟻ちゃんのミックスクッキーなんですね。
うーん、これはいいかもぅ。
新感覚のスイーツよ。
つぐみちゃんにも食べさせてあげたいなあ」
マリアは嬉しそうにうなずいた。
「そんなん言うてくれはったら、ウチは照れくそうおまへんか。
などとアタクシは、気取って声を大にいたす所存でございまぁす。
グツミちゃん?
あらあらっ、シスターがいらっしゃるなんてアタクシは知らぬが花。
がってん承知の助でございます。
まだキッチンにて食材は
「いいんですかあ。
やったあ」
無邪気な妹に、彦一は片眉を上げる。
「それよりもさ、アンディさん。
おねえさんにお話ししとかないと」
「ああ、そうでした。
おねえさん」
「なんでございましょう、そうでございましょう」
アンディは背筋を伸ばした。
「おねえさんはフランス料理のシェフとして、一流の腕をお持ちです」
「お餅?
イエース。
そう、アタクシは睡眠をカンナで削り、三ツ星のお店で技術の盗賊。
いまでは、おフランス料理の変人? いえ、鉄人と呼んでもよいでしょう。
自画自賛」
「そのおねえさんが、どうしてそのう、いわゆる一般的にゲテモノ料理と呼ばれる専門店にしようと考えられているのですか」
アンディは普段見せたことのない、真剣な眼差しで姉に問う。
マリアはイスの上で長い脚を組んだ。
「料理はアート、でございます。
アタクシは、おフランスで地獄の修業を終えて故郷に
マリアの大冒険-ッ!
そしてそしてぇ」
いきなり立ち上がると両手を広げ、美しい顔を宙に向けた。
「出会ってしまったのでございますっ!」
彦一は「ヒッ」と驚く。
みどりもビクンッと肩を震わせた。
「現代を生きるひとびとが、いかにタコに、ありきたりの食生活であったのかと。
平民がひれ伏す最高級ビーフ、たった一匹のフィッシュに大量の札束を積み上げる昨今、魔女のごとき調理方法次第では、そこらに潜んでいるワームでさえ、もっと美味なる一品に仕上げることが出来ちゃったりしちゃったりするのであったあ!」
まるでオペラのように、感情表現豊かにマリアは力説する。
「で、でもですよ、おねえさん。
ひとの趣味嗜好はいろいろありますけど、やはりゲテモノ料理だけではお店の経営はなりたたないのではないでしょうか」
アンディは吹き出る汗にも構わず、なんとか姉の考えを変えてもらおうと必死だ。
彦一も相槌を打つ。
「マリアさん。
まあ世の中には
すくなくともこの界隈では聞いたことないなあ、ゲテモノ料理ファンってさ。
それに魔女の料理となると、いわゆるドン引き?」
「そうねえ。
わたしも長年この街に住んでるけど、一般的なお店のほうがいいんじゃないかなあって思うわ。
それにアーケード街には、本格的なフランス料理を提供してくれるお店は一件もないし」
みどりも援護射撃をする。
「おねえさん、それともうひとつ。
なぜ母国ではなく日本で、しかもわたしの教室のあるビルでお店を出そうと考えたのですか」
マリアは上目づかいになり、ピンクの口元をキュッとつり上げた。
「だってえ、お店が軌道衛星に乗るまでは、お時間がナマケモノタイムになってしまいかねぬと、この聡明にして肥大な、いえ、偉大なアタクシは推測いたしかねます。
したがって、その期間のあいだはでございます。
実家の隣に住むご主人に似ていなくもないアンディに、ちょっくらやっかい者になろうとしておる所存でございますもの、おほほほっ」
なにやら勝ち誇ったような高笑いに、アンディ、彦一、みどりはため息を吐いた。
「はあっ。
そういう理由でしたか。
おねえさんおひとりくらいなら、贅沢はできませんけど、面倒をみさせていただくことは可能ではあります」
「それをあてこんで、
さすがはブラックモア家の血を引く、あばずれオンナでございますこと。
みなの笑いものですわね、うふふっ」
辺境の地と言われ、若干ムッとした彦一であったが、どうやらこのおねえさんが操る日本語自体どこかおかしいと思うことにした。
「じゃあアンディさんは、おねえさんがここでお店、ぶっちゃけゲテモノ料理屋を開店することに賛成ってことなのかな」
彦一は紅茶をすする。
さすがはフレンチの料理人。
紅茶ひとつとっても風味が格別だなあ、と感心仕切りである。
「ただそんないかがわしいお店を開いても、よいものでしょうか、この商店街で」
「あたしはぁ、もろ手を挙げて賛成でーす。
だってえ、さっきのクッキーはベリベリグウよ」
ひばりはニコリと微笑む。
「そしたらさ。
一度試食会をやってみたらどうかしら」
みどりの提案にみなの視線が集まる。
「商店街自治会の役員さんとかお招きして、マリアさんのお料理を味わってもらうのよ。
そりゃあゲテモノ料理って聞いただけで、顔をしかめるひとはいるかもしれないけど。
どんなお店だって今までこの商店街は受け入れてきたし、応援してきてるじゃない」
彦一は気乗りしないまでも、みどりの提案にはうなずけた。
「どうだい、アンディさん。
おねえさんの腕前を披露してさ。
もし反対意見が多かったら、そのときにまた考えてみようや」
「若手代表で、あたしとつぐみちゃんも参加しちゃいまーす」
「ひばりはいいけどさ。
つぐみはどうなのかなあ」
「彦ちゃんのお料理を毎日食べているおかげで、あたしたちはぁ、好き嫌いはないもーん」
みどりは自治会の防犯リーダーを務めているため、自治会役員にはみどりから伝えることになった。
「神の舌と寝技を持つともっぱらのアタクシ。
美味なるお料理に、みなさんが泡をふいて腰を抜かすのが楽しみでございますこと」
「いや、原材料を聞いただけで腰をぬかすこと間違いなしだと思うけど。
神の舌かあ。
ね、寝技?
たしかにこの紅茶って、やっぱり高級な茶葉なんか使ってるのかな。
すごく美味しいけど」
みどりも首肯する。
「紅茶って、お湯の温度が大切なのよね」
感心するふたりに、マリアは意外そうな表情を浮かべた。
「紅茶?
ノンノン。
大きな間違い探しに違いないと、アタクシはこの豊満な胸を張ります」
「えっ?」
「それは北欧に
彦一とみどりは顔面蒼白になった。
つづく
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