鶏めし・六杯目

「デエエッ!

 み、みんな、逃げるんだーっ」


 彦一ひこいちは我先にビルから飛び出ようとした。

 作務衣さむえの襟元を、ガシッとみどりに握られる。


「ちょっと、彦ちゃん!

 わたしたち女子をほったらかして、自分ひとりで逃げようだなんてっ」


「ウエーン、彦ちゃんがあたしを置いて逃げていっちゃうよう」


 もちろんひばりは、泣きまねである。

 むしろなにが起こったのかと、ワクワクしている。


「アタタタッ!

 ご、ごめんなさい、みどりん、許して!

 く、首がしまるっ」


 やっと解放された彦一は膝に両手を乗せ、ゼイゼイと荒い息を吐いた。


「どうしちゃったのかな。

 まさか、本当に襲われているんじゃないでしょうね」


「それならぁ、あたしがぁ、確認してきまーす」


 ひばりがニヤニヤしながらドアノブをつかむのを、彦一がまたもや必死に止める。


「待った待った、ひばり。

 やはりここは、男であり兄である俺が行くぜ!

 あっ、ふたりもちゃんと後ろからついてきてよ。

 ほら、ひとりより三人のほうがなにかと」


「いいから。

 さっ、男を見せるのよ、絢辻あやつじ彦一!」


 みどりは両腕を組んだ。


 ~~♡♡~~


 ギッと鉄のドアを細めに開き、彦一は目だけをのぞかせた。

 天井の蛍光灯が点いており、中が見渡せる。

 元は和菓子作りの調理場であったところのようだ。

 大きな冷蔵庫やコンロ、棚には色々な調理器具が並んでいる。

 

 彦一は鼻をヒクヒクさせる。

 嗅いだことのないスパイス系の香りや、甘い蜂蜜のような匂いが漂っていた。

 ドンッ!

 いきなり背を押され、彦一は恥ずかしながら悲鳴を上げ、たたらを踏んで調理場に転がった。


「なんだか香しい匂いだわね」


 みどりが続いて入り、ひばりも顔をのぞかせる。


「あれぇ、ミスター・アンディの姿は、どこ?」


 ひばりは手庇てびさしをかざし、キョロキョロと大きな目を動かす。

 調理場には、誰もいない。


「ホントだ。

 でもたしかに激しい物音が聞こえたよなあ」


 彦一は何事もなかったかのような振る舞いで、作務衣のすそをさりげなく払いながら立ち上がった。

 すると、再びものをひっくり返すような音が響いてきた。


「あっ、あの店舗へつながるトビラのほうよ」


 今度こそ走って逃げ出そうとする彦一の作務衣さむえの裾を、強烈な握力で握りしめながら、みどりはもう片方の指をさした。


 調理場の奥、つまり商店街側の販売コーナーから響いてくる。

 このトビラは木製のため、先ほど踊り場で聞いた音よりもかなり激しく鼓膜を揺さぶった。


 ニヤニヤがとまらないひばりは素早く動き、その木製トビラを勢いよく開けた。


「あーっ!」


 ひばりの声に彦一は振り返ると、瞬時に駆け寄る。

「ああんっ」と腕力では大抵の男にもひけをとらないみどりも、彦一のクソ力には敵わなかった。

 作務衣の裾を掴んだまま引きづられる。


「どうしたっ、ひばり!」


 蟲がコワいなどと、チャラけている場合ではない。

 最愛の妹に危機が迫っているのだ。

 彦一は立ち尽くすひばりをかばうように前に回り、両手を広げた。

 ところが。


「えーっと、アンディさん。

 いったいなにをしておいでに?」


 勇ましく立ちはだかった彦一は、床に腹ばいになっているアンディの丸い身体を見下ろした。


 アンディは床にふせたプラスティク製のキッチンボールを、両手で押さえた格好であった。

 

 彦一のドングリ眼は、そのまま販売コーナーへ向けられる。


 和菓子店だったころの面影はなく、いかにも素人の手作りといったカフェ風のカウンター、どこかの廃品回収所からくすねてきたような、色も形も異なる四人掛けテーブルが三卓、それぞれにこれまた材質や座り心地を無視したバラバラの種類のイスが並んでいた。


「ああっ、彦一さん。

 やはりみなさんで入らなくて、大正解です」


 床に伏せたアンディは、真ん丸な顔に安堵感を浮かべている。


「そのボールで、いったいなにを?」


「ああ、これですね。

 実はおねえさんが誤って、カゴから生きたサソリを逃がしてしまったので、あわてて取り押さえたところなんです」


 激しい物音の正体はわかった。

 理解はしたが。


「サ、サソリィッ」


 裏返った声で叫ぶ彦一。


「マイブラザーであろうと思われる、アンディ!

 こっちにもどっちにも、大発見してしまったでございまわよう!

 これぞコロンブス、どこぞマゼラン!」


 カウンターの陰から、ソプラノの張りのある声があがった。

 腰の力が抜けて、ひばりに背からもたれかかるように立っていた彦一は、顔だけ後方へ向けて、ひばりと目を合わす。


 みどりも作務衣の裾をつかんだまま、ひばりの背後から首を伸ばした。

 カウンター奥にしゃがみこんでいた声の主が立ち上がった。


「なんと!」


 思わず彦一は唸った。


「まあっ!

 モデルさん?」


 ひばりとみどりも同時に息を飲む。

 そこにはカールしたブロンドのミディアムヘアを後ろで束ね、真紅のコックコートをきらびやかに着こなした美しき女性が立っていたのである。


 十頭身と思われるほどスラリとしたスタイルに、ハリウッド女優も斜め下を向いて舌打ちするほどの気品ある美貌。

 ブルーに輝くサファイアのような瞳が、持ち上げた指先を見つめている。


「ひばり、見えてる?」


「うん。

 ばっちりぃ見えてます」


「ひばりちゃん、あれって」


 金髪美女の指先には、大きなハサミを振り回し、助けを求めるサソリの尻尾がつままれていたのである。


 ~~♡♡~~


「まさか、逃げ出したサソリちゃんが、まだどこかに逃亡中ってこたあないよな」


 彦一は座ったイスの周りを、目を広げて見渡している。

 向かいに座るアンディは笑顔で言う。


「ええ、ご安心ください。

 逃げたサソリは一応回収しましたから」


「一応って、大丈夫かなあ。

 俺、いやだよ商店街でサソリに襲われて、謎の怪死だなんて」


「まあ、あとはそれほど害のない蟲が、数匹潜伏を図っているようですが」


「おいおいっ」


 彦一、ひばり、みどりは勧められるまま店舗のテーブルに腰を降ろしていた。


「ところで、あのとーっても綺麗なおねえさんとやらは、いずこ?」


 テーブルの下で、みどりが思いっきり彦一のすねを蹴り上げた。

 彦一はけっして鼻の下をのばしているわけではないのだが、他人から見るとあきらかに淫猥いんわいな表情が浮かんでいるように写っている。


 痛みに七転八倒する彦一を視界の外に置き、アンディたちは会話を進める。


「おねえさんは、いま調理室でお客さま向けにお茶を用意しておりますので、しばらくお待ちください」


 みどりは店内を見渡す。


「いかにも手作りって感じのお店で、雰囲気はすごく素敵だわ。

 どう、ひばりちゃん。

 若いあなたから見て」


「うん、あたし的にはぁ、こういう空間ってなんだかワクワクしていいなあって思います。

 おしきせの画一的なカフェなんかよりぃ、ずっと楽しそうなんだもーん」


「ありがとうございます。

 ただ、おねえさんがフツーの料理店を開いてくれるのなら、わたしも全面的に応援したいと思ってはいるのですけど」


 すねをさすりながら、涙目の彦一も参加する。


「だよなあ。

 気取らすに食事できるお店が多いこの商店街だから、誰もが気軽に入れる店ならば申し分ないんだけど。

 ゲテモノ料理専門店ってなあ」

 

 木製のドアが開かれ、トレイにティーカップとティーポット、それにクッキーを乗せたお盆を手にしたオーナーシェフが入ってきた。


「長らくのお待たせ、大変感謝しておりますか? ヨーソロゥ。

 面舵イッパァイ!

 平素はアタクシの本当の弟かどうかあやふやではございますが、アンディが大変お世話になり、誠にもってありがとうございまーす。

 発車いたしまーす、オーライ」


 美しきシェフは、ニコリとサファイアの光を帯びた目元に笑みを浮かべる。

 日本語は、少し意味不明であるが。

 白い肌は欧米人よりも日本の女性のようにキメが細かい。

 

 みどりも美貌では引けは取らないが、やはり日本人男性のサガであるのか、ブロンドヘアに青い瞳は魅かれるであろう。


 みどりは何気なく彦一の表情を盗み見る。

 ハート型にもならず、ランランと輝かせてもいないドングリ眼に、ちょっとだけ胸をなでおろす。


 それぞれの前に白いティーカップをソーサーの上に置き、ティーポットから琥珀こはく色のお茶を注いでいく。

 テーブルの中央には、手作りらしきクッキーの乗ったお盆を置いた。

                                  つづく

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