焼き串・六本目
焼き場に立つのは、かれこれ三ヶ月ぶりか。
焼き鳥店によってはこの串を、大量生産された雑木の安いものを使う。
スーパーなどの惣菜コーナーで使っている、普通の串だ。
だが、この店では串までこだわっていた。
京都の職人が竹を削って作った串は、火の通りはもちろんのこと、口に身を挟んではずすときの引き具合がまったく違うのだ。
大衆居酒屋でこれを求めるわけにはいかない。
コストがかかるからだ。
文太は、焼き鳥なる料理を本当に味わってほしい。
その心意気から、串にまで細心の注意をはらっていた。
午後五時の開店前から備長炭に火を入れて、焼く準備をする。
串に刺した鶏は、カウンター前の冷蔵ケースに並べてある。
「焼き鳥まいど」の店内は、L字型のカウンターに椅子が六席。
四人掛けのテーブルがふたつだけ。
けっして大きな店ではない。
実はここにも文太のこだわりがある。
焼き鳥は、焼きたてを提供したいから、なのだ。
冷めた串ほど顔をしかめる食べ物はない。
身は固くなり、タレやシオも凝固する。
焼き鳥職人としての
~~♡♡~~
いつもは焼き場で鶏を焼きながら、家族の夕飯も一緒に作らなければならないため、かなり忙しい。
だが今夜は店を文太に手伝ってもらっているから、その点は楽である。
文太が
「たっだいまあっ」
元気のいい、ひばりの声が聞こえた。
「おう、ひばり、おかえり」
彦一はよしのをおんぶしたまま、生姜焼きを作り始めていた。
顔だけ振り返る。
ルンルンと鼻唄まじりに居間に入ってきたひばりは、彦一が見知らぬ赤ん坊を背負っている姿に、驚愕の眼差しを向けた。
両手に持っていた通学バッグと巨大なお弁当ポーチが、ストンと畳の上に落ちる。
「ひ、彦ちゃん、いつのまにできちゃった婚したの?」
はあっ、と彦一は大きく息を吐いた。
今度はフライパンを持ったまま、身体ごと振り返った。
「いやいや、ひばり。
これにはだな、深い事情が」
あってと説明しようとした瞬間、ひばりは大きな目から、ドッと涙を流し叫んだ。
「彦ちゃんのバカッ!
妹のあたしに、内緒で赤ちゃんを作っていたなんて!
ウワーン!」
泣き叫びながら、きびすを返して玄関から飛び出していく。
「ちょ、ちょっとっ、ひばり、ひばりちゃーん!
ああ、肉が焦げる」
彦一は追いかけることもできず、フライパンで肉を焼く。
ひばりは玄関から飛び出すと、スカートのポケットからスマホを取り出し、全速力で走りながらつぐみに電話をかける。
かなり器用だ。
「ああっ、つぐみちゃん!
大変なのっ。
彦ちゃんが、できちゃった婚してたみたいでっ。
違うよ!
晩ご飯のおかずじゃなくて!
うん、赤ちゃんをおんぶしながら生姜焼きを作ってるようっ。
つぐみちゃん、早く帰ってきてえ!
あたし、あたしは悲しくて、ウワーン!」
ひばりは大声で泣きながら、とんでもない速度で走る。
「うん、いまからみどりちゃんのお店で作戦会議するからっ、早く早くっ、ウエーン!」
女子高生は夕暮れの路地をもの凄いスピードで駆けながら、表通りの「
「ちょっと、ひばり、ひばり?
切れてるよ」
つぐみはスマホの画面をじっと見つめた。
ここは
地元民がメーコウ大と呼ぶ、理系専門の大学である。
研究室でクラスメートの男子学生がつぐみに声をかける。
「どうしたの、
「ごめん、なんか妹から緊急連絡が入ったから、先に帰るわ」
「ああ、それは心配だな。
いいよ、先生に伝えておくから」
つぐみは急いで帰宅準備に入った。
大学のキャンパスから地下鉄
所要時間は二十分もかからない。
夕方の地下鉄は学生やサラリーマンが大勢乗車しており、つぐみはやっと見つけた吊り革に体重を預けた。
ひばりが言っていた、できちゃった婚。
まさかあの真面目を絵に描いたような兄が? と思案顔をする。
相手は誰?
まさか、みどりさんかと、兄の同級生であり、護身術の先生であり、かつ幼いころからなにかと面倒をみてくれる、姉のような存在を思い返す。
ただお腹が大きくなった気配は、微塵も感じなかった。
となると、みどりではない。
仕事と家事でほとんど休みもない彦一が、いったいどこで女性と知り合うのだろう。
「うーん、これは難問だよ」とつぐみは形のよい眉をしかめるのであった。
~~♡♡~~
「おっ、珍しいな、文さんが焼くなんて」
店の引き戸を開けながら、常連であり商店街で
午後六時をまわり、店内はほぼ満席状態だ。
これまた馴染みである、きしめん屋の主人がカウンターの隣りで手招きする。
「だろ。
彦ちゃんの焼き鳥もさまになってきてるけどさ、やっぱり文さんが焼く串には、まだまだだ」
「っへっ、ありがとうよ」
もうもうと煙が立ち上がる焼き場から、文太が笑う。
備長炭を敷いた串焼き用の耐火煉瓦焼鳥器の上にはネギま、ぼんじり、手羽が美味そうな煙を上げている。
文太は一本一本丁寧に見ながら串の位置を微妙に換えたり、上下を反対にして焼いていく。
「はいよ。
今日のつきだしは、文さん特製の
カウンター越しに受取り、「やっぱり、最初はビールだな」と八百松の大将は置かれたおしぼりで顔を拭いた。
「ところで、文さん」
ビールサーバーからジョッキに生ビールを注ぐ文太に、大将が声をかける。
「ビール、お待ちっ。
なんでえ」
文太は串に目を向けながら問うた。
「彦ちゃん、いつの間にかさ、できちゃった婚なんだってなあ。
今日はその話題で、ここいらは持ちきりだよ」
「ああ、そういえば昼過ぎかなあ。
紙おむつやらなんやら抱えて赤ん坊をおんぶしている姿を、わしも見たぞ。
でも、なぜか左頬に熱さましのシートを貼ってたな」
きしめん屋の主人も砂肝の串を口に運びながら、うなずく。
「ちっ、そういう話は伝わるのが早えな、この商店街はよう」
「で、相手は誰なんだ」
興味深そうに、八百松の大将はジョッキをかたむけた。
~~♡♡~~
つぐみは
まずは事実を確認しなければならないと考えるからだ。
「た、ただいまーっ」
息を吐きながら玄関先でシューズを脱ぐと、居間へ急ぐ。
座卓の上にはすでに夕餉の準備が済んでおり、美味そうな香りがただよっていた。
「さあさあ、おしめを替えましょうねえ、よしのぉ」
座卓の横で、左頬に大きな熱さましのシートを貼り、フリル付きエプロン姿の彦一が、座布団に寝かせられた赤ん坊の両脚を持ち上げながら、ニヤついている。
正確にはニコやかな、慈愛に満ちあふれた微笑みであるのだが、つぐみのやや薄茶色の瞳には、目尻を下げた変質者の笑みとしか映らなかった。
「おや、つぐみ。
お帰り。
あれっ、今日は遅くなるって」
それまでは冷静な思考を持っていたつぐみ。
だが、兄が見知らぬ赤ん坊の股を広げて名前まで呼び、なぜか左頬に熱さましのシートを貼り、ついでにニヤついた薄気味悪い笑顔を見た途端、身震いすると共にガッシャンッと音を立てて、冷静な判断力は粉々に砕け散った。
「おにいちゃんって、実は優しいフリした人外魔境の住人だったのね!
それとも、
恥を知りなさい、恥を!
わたしがたったいま、目覚めさせてあげるわっ」
きょとんとしたドングリ眼の彦一に近寄ると、思いっきり右の頬を、これまたすこぶる爽快な音を立ててビンタを張った。
つぐみは手のひらで叩くつもりが、みどり直伝の裏拳がとっさに出てしまった。
これは効いた。
見事に彦一の右頬を、打ち抜いた。
彦一は今度こそ意識を飛ばされ、フニャリ、と畳の上に転がった。
よしのだけは、キャッキャツと笑い声をたてていた。
つづく
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