焼き串・四本目

 彦一ひこいちは二階の自室押入れから、昔使っていた背負子しょいこを引っ張り出した。


「懐かしいなあ、これ」


 十二歳のときに、生まれたばかりのつぐみをこれでおんぶした。

 また十六歳のころにはひばりを背負いながら、四歳のつぐみの手を引き商店街で買い物をした。


 いつの間にかふたりともレディになってしまい、この頃少しさみしさを覚えていた彦一である。


 一階の居間では文太ぶんたが、とうカゴで寝ている赤ん坊のふっくらとした頬をつついていた。


「ああ、じいちゃん、起きちゃうじゃないか」


「おっと、すまねえな。

 わしもさ、つぐみやひばりの赤ん坊の頃を思い出してよう」


「俺さ、今からみどりんのお店へ行って、赤ん坊用のミルクや紙おむつを買ってくるわ」


「よし、ならば店の仕込みはわしに任せろ。

 ああ、でもなあ、このままここへ赤ん坊ひとり置いとくわけにゃあいくまい」


 彦一は手慣れた格好で、背負子の紐を作務衣の胸元で巻きながら言う。


「俺が背負っていくわ。

 じいちゃん、そっと抱っこしてさ、そうそう。

 そのままこの背中に」


 ふたりは赤ん坊が目を覚まさないように配慮しながら、彦一の背中の背負子へ入れる。

 手慣れたものである。


「懐かしいなあ、この重さは」


 彦一は大きな目で背後を見ながら、軽く赤ん坊のお尻部分を叩く。


「じゃあ、いってくる」


 彦一は財布を入れたポシェットを腰に巻いて、玄関へ向かった。


 商店街は昼のにぎやかしさが一段落したようで、通りはすこしだけ静まっていた。

 彦一は生まれ育ったこの界隈がとても好きだ。


 近ごろでは複合型の巨大なショッピングセンターに、ひとはひきつけられる。

 たしかに便利だろう。

 駐車場は広いし、食料品や日用品、ファッション関係にいたるまで、なんでもそろっている。

 さらに飲食店やスポーツジムまであり、至れり尽くせりなのだから。


 でもこのアーケード街のような、ひととひとがふれあう場所だって、捨てたものではない。

 常連客にはおまけしてくれたり、値引きだって赤字覚悟でしていたりする。


 もちろん、シャッター街にならぬよう、店主たちは互いに知恵をしぼり集客しようと努力を惜しまない。

 

 それにこの商店街は、新参者であっても温かく迎える情がある。

 流行のカフェやラーメン屋にスイーツ専門店まで、おせっかいすぎるくらい、みんなで応援している。


 彦一は「菓子間かしま薬局」の看板がかかった店へ向かっていた。

 ティッシュや洗剤、トイレットペーパー等が店頭のケースに積んである。


 そこへ店内から両手で段ボールを抱えた、白衣を着た若い女性が現れた。

 落ち着いたブラウンに染めたミディアムヘアに、目鼻立ちの整ったかなりの美形だ。


 女性は歩いてくる彦一に気づき、「あらぁっ、彦ちゃん、こんに」ちは、と言う前に背負子姿の彦一を見て、持っていた段ボール箱を手から落とした。


「いやあ、みどりん、実はさ」


 言葉をつづける前にその女性、菓子間みどりは憤怒の形相でパンプスの音を立てて近づいてきた。

 そして呆気にとられる彦一の頬を、気持ちいいくらいの音でビンタを張った。


 パーンッッ!


 瞬間、アーケード街の時間が止まる。

 ざわめきも、ひとの動きも、すべてが停止した。

 彦一の顔面がスローモーションでコマ送りになるように、ひん曲がっていく。

 

 女性のか細い手ががはたいたというよりも、ハードパンチャーがカウンターパンチを決めたような、いやむしろ土俵上で立会いの瞬間に力士が狙ったような見事な張り手であった。 


 彦一のいびつになった顔が、真横を向いた。

 止まっていた時間が再び動き出した。

 するとみどりは、いきなりしゃがんで泣き始める。


「わ、わたしは彦ちゃんにもてあそばれていただけなのね。

 このよわいまで、言い寄る男どもからみさおを守っていたのは、わたしの大きな勘違いだったのね、ウゥッ」


 一瞬記憶が飛んだ彦一には、みどりの恨み節は聞こえてはいなかった。

 脳震盪のうしんとうを起し、危うく倒れそうになったが、本能が背中の赤ん坊を守るために、必死に意識を保たせたようだ。

 左の頬が集中砲火をくらったかのように、ジンジンと音を立てはじめる。


「えっ?

 ちょっと、みどりん、いったいどういうわけで、いきなり俺は殴られたわけ?

 それで、なぜ叩いたあなたが泣き崩れているのか、はて?」


 予想外な展開に、痛みよりも驚きが先に彦一の脳を占領した。

 左の頬を手でさすりながら、彦一は首を傾げる。

 みどりはしゃがんだまま、キッとにらみあげた。


 まなじりの上がった切れ長の目で睨まれると、彦一は恐怖を覚えた。

 美しい顔立ちだけあって、その目力は半端ない。


「わたしにだけは本当のことを話してくれてる、って思っていたのに。

 わたしは、つぐみちゃんやひばりちゃんも、本当の妹のように接してきてたのに。

 いったいその子の相手は誰よ!

 できちゃった婚だなんて、この恥さらし!

 淫乱オトコ!

 悔しい!」


「はあっ?

 なにを言っておられるのか、さっぱり理解不能の俺。

 できちゃった婚って、なによ。

 淫乱オトコって、この俺のこと?」


 彦一はようやくおとずれた腫れ上がる左頬の痛みに、顔をしかめた。


~~♡♡~~


「ほんっと、ごめんなさい!」


 みどりは店内でカウンターの前に座る彦一に向かって、立ったまま額が膝につくくらい頭を下げた。


 彦一はお店においてある商品の熱さまし用のシートを、頬に貼っている。

 代金を払おうとする彦一に、首をブンブンとふって受取りを拒否した。


「いやいや、勘違いなんて誰にもあるからさ。

 みどりん、頭をあげてよ」


 みどりはおそるおそるといった具合に、下から彦一の顔を見上げる。

 少し憂いを含んだその表情に、彦一の心臓は音を立て始めた。

 どんな顔つきをさせても、みどりほど綺麗な女性はいないなあと思う。


「でもね、みどりん。

 あなたは古武術の免許皆伝な、武術家なわけですよ。

 つぐみもひばりも、護身術としてみどりんの手ほどきを小さいころから受けているわけだけど。

 その全身ウエポンな師範の手で思いっきりはたかれたら、場合によちゃあ、骨折ではすまないわけ」


「ごめんなさい!」


「幼いころからさ、みどりんから殴る蹴るの暴行を受けてきた俺だし、耐性はできてるから、まあ大丈夫なんだけど」


「えっ、ちょっと待って。

 それは聞きずてならないわね、彦ちゃん。

 わたしがまるでDVする女みたいじゃない。

 あのころの行為は子ども同士の単なる遊び、じゃれ合いよ。

 わたしはしとやかなレディなんだからね」


 プリプリと、頬をふくらますみどりも可愛いなあ、と彦一は思った。


 みどりは本郷高校から薬科大学へ進学し、薬剤師の免許を取得してこの両親が経営している店を任されている。

 父親は古武術「無心流むしんりゅう柔拳法じゅうけんぽう」一派の総師範であり、薬局はほとんど母親に任せていた。

 みどりがお店の経営に携わるようになったことを、これ幸いとして暇をみつけては武者修行に出ているらしい。


 幼少のころよりその父のもとで教えを受けているみどりは、いわば柔道と空手の達人であった。

 その手ではたかれた彦一。

 ほぼ無傷であることから、まさしく身体に耐性が構築されているようである。


 なぜ彦一が赤ん坊を背負って来たのか、理由を聞き、納得した。

 みどりは彦一の置かれた境遇を熟知していたから。

「ははあ、あのモネおじさまなら充分納得ね」と宙を見やった。


「でも、まさか彦ちゃんにまた妹ができたなんて、わたしは驚きを隠そうともしないわよ」


「ああ、俺もビックリだよ。

 なんせあの放蕩ほうとうオヤジのことだからさ。

 また旅先で若い女性と恋に落ちて、この子を授かったんだろうなあ」


「モネおじさまって、お幾つだったっけ」


「たしか、今年で還暦のはずだけど」


「すごいわよね。

 六十歳でお子さまをもうけられるなんて。

 以前わたしの父に、どこかの旅先で聴いてきたって、精力絶倫の秘薬なる処方箋しょほうせんを教えていたわ。

 母にみつかって、すぐにその処方箋は処分されたけど」


 みどりはカウンターの椅子に腰を降ろすと、長い脚を組んだ。

 真っ赤なタイトスカートのスリットから、黒いストッキングに包まれたしなやかな腿がのぞき、彦一は思わずゴクリと喉を鳴らしてしまう。


「ところで、さっきみどりんが言ってた、俺に弄ばれたとか操とかって、どういう意味?」


 みどりはスカートのスリットを隠すようにあわてて脚を閉じ、「さあ、いったいなんのお話かしらねえ。あっ、彦ちゃん、それって疲労からくる幻聴かも。わたしが薬を処方してあげる」、と口元を手で隠しながら「オホホッ」と笑った。

                                  つづく

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