焼き串・二本目

「ああ、やっぱりひこちゃんの作るお味噌汁はぁ、染みわたるなあ」


 通学用のセーラー服姿で、ひばりは幸せそうに宙を見る。

 彦一ひこいちは嬉しそうな表情を浮かべ、胡瓜きゅうりの糠漬けをかじっていた。


「そうか、にいちゃんの味は最高だろ」


「わたしも好きよ。

 それにこのマカロニサラダって、昨夜のお店のつきだし用でしょ」


「ああ、ちょっと夕べの分を残しておいたんだ」


「これは一品物として、お金をいただけるよ、おにいちゃん」


 つぐみはツルツルッと口元を細めて吸い込む。

 動きやすそうな淡いオレンジ色のトップスに、茶系の綿パンを履いている。


 座卓は広く、おとなが六人はゆっくりできるくらいだ。

 テレビは朝のニュース番組をやっていた。


「おじいちゃんは、またどこかで飲んでるのかな」


 つぐみは上座の空いた席を見ながら彦一に訊く。

 彦一は眉間にしわを寄せた。


「ったくなあ。

 店を俺に任せるようになってから、すっかり遊び癖がついちゃたよ、あのじじい」


ぶんちゃんはぁ、いつも言ってるよ。

 彦一がようやく一人前に鶏を焼けるようになったから、わしゃあ定年退職じゃあ。

 これからは左うちわでよぅ、のんびりすることに決めたんじゃあ、って」


 ひばりは兄と姉を交互に見ながら口真似をする。

 文ちゃんとは三人の祖父である、絢辻あやつじ文太ぶんたのひばり流呼びかただ。


「なにが定年退職だよ。

 まあだけどな。

 俺たちのオヤジ代わりにここまで育ててくれたんだから、仕方ないか」


 彦一はフッとため息を吐く。


「そうだ。

 そういえばおにいちゃん、一昨日だっけ、おとうさまから絵葉書が来たの」


 つぐみは箸を止めた。


「消印は北海道の札幌だったよ、つぐみ。

 いい御身分だよなあ、好きな所へ行って好きなことをしてんだから」


 ひばりは台所からお替りしたご飯茶碗を持ってきた。


「でもぅ、茂根もねちゃんが一生懸命絵を描いて、それを高く買ってくれるひとがいるからぁ、家計は大助かりなんでしょ、彦ちゃん」


 茂根ちゃんとは、三人の実父である絢辻茂根彦もねひこのひばり流呼びかたである。

 ちょっと変わった名前であるが、本名だ。

 これは教養があり美術を愛する茂根彦の母、つまり三人兄妹の祖母が大好きな画家クロード・モネから名付けたと文太から聞いている。


 モネは印象派を代表するフランスの画家であり、「光の画家」とも呼ばれている。

 パリ近郊のリゾート地、ラ・グルヌイエールで水遊びに興じる人々を描いた作品、「ラ・グルヌイエール」や「散歩、日傘の女」など多くの作品を描いている。


 祖母もまさかせがれが、モネのような画家になるとは思っていなかったであろう。

 たしかにひばりの言葉通りであった。

 絢辻茂根彦はプロの洋画家であり、その絵は高く評価されている。


 彦一は父親のたぐいまれなる芸術家としての才能は認めている。

 すくなくとも茂根彦は、年間で五百万円から一千万円近いお金を必ず毎年家に入れてくれているのだから。

 絵が売れているのは間違いない。


 だが、父親としてはいかがなものか、と首を傾げる。

 お金だけをいれれば一家の大黒柱なのか。

 一年のうち、いったい何回家に帰って来てるいのか。

 場合によっては、丸一年玄関をくぐらない場合もあるのだ。


「それはね、たしかにひばりの言う通りだよ。

 だけどさ、つぐみもひばりも、おかあさまにママが早くに亡くなっちゃって、父親も子育てをじいちゃんや俺にまかせっきりで、好きな旅と絵ばかりに時間を費やしちゃってさ。

 俺は、俺はおまえたち妹が不憫ふびんでなあ」


 彦一は茶碗を持ったまま、シクシクと泣きだした。

 つぐみはあわててひばりに目配せする。


「おにいちゃん、ちょっと、泣かないでよ」


「そうだよう、彦ちゃん。

 あたしもぉつぐみちゃんもぉ、全然寂しくなんてないんだからね。

 だって、文ちゃんがいるし、彦ちゃんがパパやママの替わりをしてくれて、すごく嬉しいんだよ」


「そ、そうだよ。

 おにいちゃんがわたしたちの親代わりなんだから。

 ご飯だって毎日栄養を考えて美味しく作ってくれるし。

 保護者懇談会にだってちゃんと出席してくれるし。

 針仕事だって、わたしよりも器用だし」


「あたしなんかぁ、友だちからうらやましがられてるんだからね、彦ちゃん。

 あんなに背が高くてイケメンなおにいさんがいてぇ、ひばりちゃんはいいなあって」


 妹ふたりは涙に鼻水まで流す兄を懸命に慰める。

 彦一は茶碗をおいて、座卓の下に常備しているティッシュケースから、数枚取り出すと思いっきり鼻をかんだ。


「俺はなんて幸せな兄なんだ。

 こんなにも可愛い妹たちがいてくれて。

 ありがとうな、つぐみ、ひばり」


 妹ふたりは目を合わせて、ホッと息を吐いた。


「ああ、もうこんな時間よ、ひばり。

 早く用意して出かけないと」


「ええっ? もう一杯だけお替りしたいんだけどなあ」


 ひばりは愛くるしい目元をクルリと動かす。


「ひばりよ、腹八分目だぞ。

 それに今日のお弁当は」


「あっ、彦ちゃん、言っちゃダメ!

 あたしはぁ、学校でお弁当箱の蓋を開けた途端、おおっ今日はこれかあって、のけぞるように驚きたいんだから」


 彦一はそんな妹たちが大好きだ。

 朝食をすませたふたりはドタドタと階段を駆け上がり、通学の準備に入る。

 彦一は座卓の上座においた文太用の朝ご飯を見つめ、台所からフードカバーパラソルを持ってきて上からかむせた。


 シンクにはそれぞれが食べた食器類が置いてあり、彦一は手慣れた様子で洗い物を始める。

 好きなブリティッシュロックのサビを口ずさみながら。


「彦ちゃーん、いってくるねぇ」


 通学用バッグを持ったひばりが台所へ顔を出し、テーブルに置いてある巨大な専用お弁当ポーチをつかんだ。

 かなり重い。


「ひばり、道中くれぐれも気をつけてな。

 もし帰りが遅くなるようなら、にいちゃんが迎えに行くから」


「あははっ、あたしはぁ、もう小学生じゃなくて高校生なんだよぅ、彦ちゃん」


「だぁから、心配すんですよ、この兄は」


「ありがとうございますぅ。

 では、いってまいりまーす」


 ひばりはウエーブのかかった髪を指先で横に流し、彦一に手をふった。


「はいよ、いってらっしゃい」


 洗い物を終え、「さってと、次は洗濯と掃除だな」とひとりつぶやく。

 今度はつぐみが階段を駆け下りてきた。


「おにいちゃん、今日はすこし遅くなるから、晩御飯は適当に外で済ませるよ」


 つぐみは小さなお弁当のポーチを持ち上げる。

 片側の肩にバッグと図面用の円柱ケースを掛けていた。


「遅くなるって、ま、まさか合コンとか」


 彦一は眉をしかめた。

 つぐみは苦笑する。


「そんなんじゃないから。

 課題を研究室の子たちと、打ち合わせしなきゃならないのよ」


 その言葉を聞き、彦一はホッと息を吐く。


「よかった。

 つぐみもひばりも、そこいらの女子より飛び抜けて美形なんだから、にいちゃんは心配で心配で」


 彦一は心の底からそう思ってくれていると、つぐみは嬉しくもあり、たまにウザくなる。


「わたしたちよりもさ、おにいちゃんこそ、この夏には三十二歳になっちゃうんだから、早くお嫁さんをもらわないと一生独身だよ」


 つぐみは意地悪そうな目つきで彦一を下から見上げる。


「い、いや、この兄はだな、つぐみとひばりをお嫁に出してからじゃないと」


「そんなこと言ってると、あっという間に還暦よ。

 それに」


 つぐみはわざと小声でささやく。


「みどりさんが、他の男性に嫁いじゃうかもよぅ」


 みどり、と聞いて、彦一の顔が真っ赤になり、視線が斜め下を向いた。


「み、みど、みどりんとは単なる同級生であってだな。

 にいちゃんは女性として意識」


「してるんでしょ。

 ちゃんとわかってるんだから。

 あっ、遅れちゃうわ。

 ではおにいさま、つぐみも元気よく行ってまいりまーす!」


 つぐみは玄関へ急ぐ。


「あのね、だから、みどりんはたまたま幼稚園から高校まで一緒になったって、あれ? つぐみ? つぐみちゃん? もうおでかけ?」


 彦一は赤い顔のまま妹の名を呼ぶのであった。

                                  つづく

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