第4話 初めての技能教習

緊張する。

 とても緊張している。

 緊張しすぎてクーリッシュも喉を通らない。教習所に通い始めてから食欲が無くなり、一週間で四キロも痩せてしまった。まあダイエット中ということもあるけれど、それにしても痩せすぎだ。

 今日は何を隠そう初めての技能教習なのだ。とはいっても初回の二時間はシュミュレーターを使用する。流石にまったく運転したこともないトーシローをいきなり実車に乗せるわけには教習所も行かないのだろう。指導員だって人間だ。命は大事にしたいだろうしな。

 

そう考えると、自動車のインストラクターって大変だよな。


まったく運転したことも無い、ましてや運転に慣れていない人の助手席に乗らなきゃいけないんだから。


 所内ならともかく、路上だと、下手したら巻添えを食らうかもしれない。


 指導員は常に緊張と長期間の集中を強いられるだろう。大変だ。


 実際高速教習中に死亡事故~なんてニュースもあったし。

 まあそんなことを考えつつ、俺は早速シュミュレーター教室へと向かった。 

 中に居た指導員はどういうわけかライダースーツで、かなり古いがものまねタレントのホリにそっくりだった。なんでやねんとツッコミを入れつつ、さっそく試乗機に乗り込む。


その日シュミュレーター講習を受けたのは俺を含めて5人。


3人ほどは入校初日に一緒の人だった。




 ちょっと安心しつつ、颯爽とシュミュレーターに乗り込む。

 段手毬、行きます。





 講習はシュミュレーターの画面の解説を見ながらその通りに操作をしていくというものだった。





前半の一時間は主に発進までの手順を中心に行い、二時間目はシュミュレーターの画面通りに発進から加速・減速チェンジ、カーブの曲がりなどを行った。

 




 正直難しかった。運転中、何度もエンストさせてしまった。

 エンストしました、と気の抜けた機械音で叫ばれたときは本当に恥ずかしかった。


 周りの人もエンストしたらしく、声だけは聞こえた記憶があるが、実際運転中ってほとんど周囲に関心が向かない。目の前の画面に集中している自分が居た。


 単に余裕がないだけかもしれない。

 

 エンストしました。

 

 エンストしました。

 

 あの無機質な機械音がまだ耳に残っている。

 

 果たして、実車ではどうなるのだろう。

 

 運命のときはもうそこまで来ているのに。

 

 結局その日はシュミュレーターだけで教習は終了となった。本当はもう少し時間には余裕があるので技能教習を受けられるのだが、自信を失ったので取りやめにすることにした。

 俺は彼女に慰めてもらおうと、莉来にLINEを送った。

 「今日の教習終了、マジ大変だったよ」

 「大丈夫? 無理しなくてもいいよ、段君のペースでとればいいからね。職場であったら詳しく話を聞かせてね」

 優しい。

 なんて優しい娘っ子なんだ。

 こんな優しくて可愛い彼女がいるんだ。めげてなんていられるか。必ず最初の関門、発進をマスターしてみせる。今日は土曜日だ。明日も教習所に行こう。彼女には平日職場で会えるしな。俺と濡木莉来が交際を始めたことはコールセンター内でも周知の事実になっている。もはや上司に気兼ねすることもない。

 それに職場で嬉しいこともあった。莉来がセンターのチームリーダーに昇格したのだ。これで彼女は電話を取り続けるという重責から解放されて、熟練者でオペレーターの質問に答える立場になった。彼女は非常に喜んでいたし、俺も彼女の昇格を素直に喜んだ。


 莉来は可愛い。フロアを得意げに歩き回る彼女の姿は見ているだけでも癒される。自分が要らない子という現実から逃避させてくれて、謎の自信がわいてくるのだ。

 

 日曜日。


 朝早くおきて、俺は身支度を整えると、教習所に出かけた。今日は一日中教習所漬けだ。といっても学科も取らないといけないので、車に乗るのは二時間ぐらいだが。

専属指導員を選べるという触れ込みだったが、まだどんな指導員達がいるのか皆目見当が付かないので、俺は一番大事な始まりの日の技能教習の教習員を教習所に任せることにした。技能教習は午後からで、午前中は学科に集中した。そこでやたらユニークな教習員に出会った。


 明らかに東北の人と分かるほど訛りがきつく、語尾にだってと付けるのだ。皆は集中していたが、俺は笑いを堪えるのに精一杯だった。


 俺はこの指導員を、だって先生と名づけた。

 そして運命の刻がやってきた。教習所技能教習最初にして最大の難関。

 逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ。

 教習所から逃げ出したい気持ちを必死に抑えて配車を待っている自分がいる。

 今なら初号機のパイロットの気持ちが分かるよ。

 綺麗なお姉さんの事務員から教習原簿をもらい、一階へと降りる。乗車する車はすぐに見つかった。目黒教習所とデカデカとした文字で書かれている。


 今願っていることは一つ。

 どうか怖い指導員さんじゃありませんように。

 そう思っていたら少し昔のことを俺は思い出した。

 あれは数ヶ月前、外を散歩しているとき、教習車らしき車が俺を追い越して行ったのだ。そのとき俺はとっさに助手席をチラ見したのだが、どうみてもその筋の方にしか見えない指導員が乗っていた。俺が家の近くの教習所を素通りした理由はそれである。

 少し昔の記憶を反芻してしまった。必死に願いながら後部座席に荷物を置く俺。っとすぐに運転席のドアが開き、誰かが乗り込んできた。


 どうやらおいでなすったらしい。俺は大慌てで助手席のドアを開け、作り笑顔をしつつ指導員の顔を見た。 

 小説家の故野坂昭如風の容姿に色眼鏡をかけたミドルエイジのおっさんだった。というか、怖いです。その中老を更に踏み込んだ外見の指導員は、初っ端から俺を睨みつけてくる。目線を外したら、その隙に何を投げられるか分かったもんじゃない。

 

 しばし両者にらみ合いの沈黙。

 いや、なんかしゃべってくれよ、指導員さん。 

 「・・・キミ、今日初めてなんだっけ」

 ようやく指導員は口を開いた。俺はうなづき、

 「ハイ。そうです。よろしくおねがいします」

 と丁寧にお辞儀をした。

 「じゃあさっそく行こうか~」

 あれ、無視。

 よりによって大事な最初の教習から強面で痩せぎすのおっさんとか、世の中は上手くできているよな。

 そしてお互い教習者に乗り込み、俺は指導員の指導を待つことにした。

 「ああ、キミ助手席」

 「え」

 「最初に手本を見せるから、助手席で俺の足捌きを見ておいて」

 なんだ、顔に似合わずやけに親切な教習員じゃないか。俺は言われた通り助手席に乗り込んだ。

 「発進の仕方はね、まずサイドブレーキを確認、その後、ミッションをニュートラルの状態にする。そしてエンジンをかける。ここまでは大丈夫?」


 「はい」


 「で、ブレーキとクラッチを同時に踏み込みながらギアを一速に入れて、サイドブレーキを元に戻す。目視で左右や背後の安全を確認してからブレーキに乗せた足をアクセルに変えて軽く10キロぐらいになるまで踏み込む。そしてクラッチを段々上げて行き、半クラッチの状態にする」


 車が動き出した。


 「車が動き出したらクラッチを離す」

「すぐにクラッチを踏んでギアをセカンドに入れて、車が動いたところが半クラッチの位置だから、体で覚えるようにして」

 

 「はっはい」

 「一旦運転変わろうか」

 

 言われるがまま、俺は運転席に乗り込み、クラッチを踏み、ブレーキを踏んで車を止め、ギアをニュートラルにしてサイドブレーキを上げた。そして車のドアを開けて、再び助手席に移った。


 「いい、クラッチはね~」


 と指導員が言い始めたとたん、車がガックンガックンと前後左右に揺れ動いた。一体何が起こったのかわからず、俺は情けない叫び声を上げてしまった。


 「一気に戻すとこうなるから気をつけてね」

 どうやらMT車発進の関門、クラッチ操作の失敗例を実践してくださったようだ。

 そして俺は再び運転席に乗り込んだ。先ほどのような緊張感はもうなくなっていた。

 「姿勢が悪いよ。椅子にもたれかかるように座りなさいね」

 「はい」

 言われるがまま、俺は姿勢を正した。

 「それじゃあちょっと発進・後退を繰り返してみるから。」

 「はい」

 事前に予習してイメージトレーニングをして先ほどはその成果を出せた。果たして二度目はうまく行くだろうか。

 発進のコツはアクセルを一定にふかして、半クラッチ。

 言葉に書けば簡単だが、実践するのは大変だった。



 アクセルを一定にふかして止めようと思ったのだが、ちょっと踏んだだけでメーターが5の位置を振り切ったのだ。さっきは上手くできたのに、今度はうまく行かない。


 「ふかしすぎだね~もうちょっと落として」

 指導員の指導が耳から抜けていく。上手くできずに多少動揺。

 なんとかアクセルを一定にふかして、ついに再びのクラッチ操作。

 ゆっくり、そっとそっとクラッチを上げていく。しかしさっきのように車が動き出さない。


 「もっとクラッチ上げて」

 「はい」

 俺が想像しているよりも半クラッチの位置が深かった。しかしこんなところで動揺するほどバカじゃない。

 さらにゆっくり、そっとそっとクラッチを上げていく。

 するとついに再び車が動き出したではないか。

 しかしここで安心してはいけない。半クラッチの状態からすぐにペダルを放すと前述の失敗例のようになってしまう。その後暫く半クラッチの状態を維持しなければいけないのだ。


 維持する時間はおよそ3秒。

 俺が読んだ本にはそう解説されていた。

 3秒か・・・。

 ラマーズ法を一回やればちょうど3秒になる。ヒッヒッフウー。俺は妊婦でもないのにラマーズ法を行い、ゆっくりとクラッチペダルから足を離した。


 前日一時間ほど時計を見ながらラマーズして会得したこの感覚、忘れないうちに使っておいた。いきなり役に立った。

 しかし野坂先生も、まさか自分の教え子がポーカーフェイスを装っているように見せかけて、産みの苦しみを体感しているとは夢にも思うまいな。


 ちなみに俺は変態じゃあない。ただ単に免許を取りたい一心でラマーズ法を覚えた善良な一般市民だ。

 それに発進できたからと喜んでいる場合じゃない。本日の課題は発進だけじゃないんだ。所内の外周コースをぐるぐる問題なくまわらければいけないんだ。


 発進は問題なくできた俺だったが、予想していたよりも深い半クラッチの位置とハンドルの硬さにはてこずらされた。

 エンストこそしなかったもののハンドルが硬くってついつい力を入れすぎて急旋回。対向車線にはみ出すなどで指導員にブレーキ二回踏まれてしまった。


 「ハンドルはもっと優しく動かすんだよ。力みすぎだよ」

 カーブを曲がるときにアクセルを踏んでしまう。

 「曲がるときは踏まなくていいよ」

 右足を寝かせてしまう。これはすぐに指導員に指摘されたので改善した。右足はつねにアクセルかブレーキを踏んでおくこと! これが大事だ。


 ブレーキペダルも硬かったので、勢いよく踏み込んだら急ブレーキになって指導員の体が前のめりになってしまった。ちょっと面白かったので何回か意図的にやってみた。


 「段さん思いっきりブレーキ踏み過ぎだって。もっと軽くでいいから」

 野坂先生風の指導員の怒り口調がなかなかに愉快で勉強になった。こんなときでも人間観察を欠かさない俺は結構嫌な奴かもしれない。

発進と速度に合わせたギアの加速チェンジは簡単なので問題ない。まだぎこちないが直ぐに上達するという手ごたえを手に入れることが出来た。


しかし、アクセルちょっと踏み込むだけで一気にエンジンが爆音を鳴らす。これが本日一番の驚きだったかもしれない。アクセルペダルはもっと硬いかと思っていたのに、軽く踏んだだけでも4~5あたりまで針が飛んでしまうのだ。急発進しないよう半クラッチとの調節をするのは本当に大変だった。半クラッチはある程度スムーズにできるのだが、アクセルがなかなか一定に吹かせられないのだ。しかもクラッチを上げようとするとさらにアクセルを踏み込んでしまう。もう、これはちょっとしたコントだ。

 ひょっとしたら利き足も多少関係しているのかもしれない。たとえば俺は左利きだから、左足を使うクラッチは簡単に一定時間静止できるが、逆に右足を使ったアクセルペダル操作には苦戦しているのかもしれない。なかなか一定に止められない。


 右利きの人はクラッチには相当てこずるのだろう。世の中は右利きが多いから。MT車の操作が難しい理由の一端が垣間見えるな。今度左利きの人に会ったら教習所での体験を聞いてみたいな。俺と似たような体験をしたのかどうか。


 まあ所詮は慣れだから、路上までにはすぐアクセルを一定にふかせられるようになるだろう、と楽観してはいるが。とにかく力加減が分からずてんてこ舞いな初日だった。

 

 初めての教習終了後、指導員にはハンドル操作が課題といわれた。さっそく申し送り事項にH~~書かれてしまった。

 

 技能一発目から復習ですか。

 ・・・まあ当然だわな。

 あの蛇行運転では僕が指導員でも合格は上げられないよ。余裕で右側車線はみ出るし。カーブで突っ込みそうになるし。




 ハンドル操作なんてイメージトレする必要ないだろうと思っていたのだが、正直こっちの方が遥かに問題だった。

 さっそく家に帰ってDVDを観て復習すると、どうやら俺は送りハンドルとやらを多用していたらしい。ハンドルの持ち方、回し方をしっかりイメージトレーニングして次回に備えようと思った。

 次の指導員はだれかな? また野坂さんかな? まあだれでもいいけど、できれば厳しい人がいい。厳しい人のほうが自分も上達すると思うし、怖い人間の観察は普段なかなか機会がないので、有意義な教習ができるというものだ。

 とりあえず、次はもっと上手く運転できますように。

 家で今日一日の反省をしていると、東矢からLINEが飛んできた。

 「お疲れさん。今日の教習はどうだった」

 「散々だったよ、さっそく復習だ」

 「あらやだ、可愛そうに。やっぱMTは難しかった?」

 「難しいけど、慣れれば何とかなりそうな気がするよ」

 「指導員はどうだった」

 「怖い人だったよ」

 「なんで指導員選ばなかったんだよ」

 「初めてでどんな指導員がいるかわからないのに選べるかよ」

 「まあそういわれるとそうだな」

 「でも上手くやっていけそうな手ごたえは感じられたよ」

 「そかそか。実は俺も今限定解除しようか迷ってるんだよね」

 「限定解除?」

 「AT車限定からMT車も乗れる様に再講習を受けるんだよ。仕事の車、MTが多くてさ」

 「そうなのか」

 「ま、頑張れよ、段ちん。今度また飲みに行こう」

 「ああ、じゃあな」

 東矢宗継は俺が知り合った男の中でも中々の好漢だ。営業職をやっているせいかハツラツとしているし、人を避けない。俺が東矢のことを考えていると、今度は彼女からLINEが飛んできた。


 「お疲れ、免許どうだった」

 駄目だったというわけにも行かず、俺は返答に困った。

 「ちょっと大変だったけどコツはつかめたよ」

 復習することになったことは言えなかった。

 「ホント、良かったね。ドライブ楽しみにしてるから頑張ってね」

 「ああ、莉来も頑張れよ」

 「じゃあまた職場でね」

 「ああ、職場で」

 彼女を心配させるわけには行かない。明日こそ発進の合格をもらうぞ。


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