エピローグ

 ちょうどトラックがマンションの前に止まった。トラックの後ろをつけていた車も止まって、中から人が出てきた。

飛鳥は、あ、と小さな声をあげた。飛鳥が担当した城田課長の友人の方だった。確か、名前は、神田さんだったかな。奥さんが続いて車から降りてきた。

神田さんは、運送業者と話を始めた。飛鳥は、気づかれていないことを確認して、そっと離れた。

 北千住のマンションが完成して、二週間が過ぎた。もうだいぶ引っ越しが完了したと聞いた。ゴールデンウィークと引っ越し可能日が重なったから、ゴールデンウィーク中に引っ越しをしたたようだ。

契約からその先は、飛鳥たちは何か不明点がない限り関与しない。しかし、飛鳥は自分が担当した家を、後日訪れるようにしていた。新しい家に住み始める人の、顔を、声を、体で感じたかったし、それを見るのが好きだった。

 五月の第二火曜日。住宅メーカーは、月曜日と火曜日が休日だが、神田さんは土日休みのはずだ。契約の時も、確か土曜日だった。ゴールデンウィークは、このマンションだけでなく、引っ越しシーズンでもあるから、引っ越し業者がつかまらない。もしかしたら、希望が通らなくて、きょうになったのかもしれない。

 城田課長に、神田さんのことを伝えたら、自分のことのように喜んでいた。城田課長がオススメしたんですよね?と訊いたら、四月から彼はベトナムに転勤するから、家族のためにマンションを探していたんだよ、と教えてくれた。

 引っ越しのために有給を取って帰国したのか、ゴールデンウィークからそのままいるのかはわからない。

 ただ、きょうから始まるこのマンションでの生活が楽しいものであってほしい。

 マンションの外周を歩いていると、エントランスの方向から人が出てきた。また、見覚えのある顔だった。夫婦で並んで歩いている。藤原さん夫婦だ。

 旦那さんはスーツ姿で右手にカバンを持っていた。これからどこかに行って、そのまま会社に出社するのだろう。奥さんは、ゆったりとしたワンピースを着ていた。

 ただ歩いているだけなのに、旦那さんが奥さんの背中を支えるように、心配そうに気にしていた。左右をキョロキョロ見て、車がきていないか何度も確認している。

 飛鳥は、そういうことか、と察した。まだ見ただけではわからないが、妊娠しているのだ。

 飛鳥は、奥さんのことを強烈に覚えていた。

 確か、十一月の終わりころ。奥さんが一人でモデルルームの見学にきた。予約なしだったが、平日でお客さんもスタッフも少なくて、飛鳥が対応した。

 抜け殻のように、喪失感を漂わせて、覇気がなかった。何かあったんだな、とすぐに察した。しかし、何があったとしても、飛鳥が立ち入るべきではない。お客様の要望に応える、ただそれだけだ。

 奥さんは、無言でモデルルームを物色していた。廊下にある収納を念入りに確認していたから、きっと気に入ってもらえたのだろう、と話しかけた。弱々しい返事が返ってきた。

 リビングへ入って、キッチンに向かった奥さんが無表情で立ち止まった。どうしたのだろう?と飛鳥は静かに見ていた。

 突然、奥さんが泣き出した。次から次に涙が溢れてきて、止まる気配はなかった。飛鳥は、事態が飲み込めず一瞬戸惑ったが、すぐにモデルルームにおいていたティッシュを差し出した。

 奥さんは、受け取って涙を拭いた。

 そして、さっきまでとは全く違う、何か意思の宿った顔で「すみません、また来ます」とモデルルームを後にした。

 その場に残された飛鳥は、何があったのかさっぱりわからなかった。それが、少し解消されてのが、その週末だった。

 奥さんは旦那さんと二人で来場された。偶然、飛鳥が担当した。奥さんが気まづそうに目をそらした。飛鳥は、何事もなかったように振る舞うことに努めた。

 モデルルームに案内して、キッチンを見ていた旦那さんが不意に言った。「香奈が料理してる姿が目に浮かぶな。おれは、ここに座って、待ってんの」

 奥さんが、応えて、旦那さんが「楽しみだなあ」と返していた。

 その時、わかった。この間の奥さんの涙は、旦那さんと喧嘩か何かして、キッチンを見て何かをイメージして泣いたんだと。

「素敵なご夫婦ですね」飛鳥は、自然と声に出していた。

 それを聞いた二人の顔は本当に幸せそうで、結婚願望の無い飛鳥でさえも、結婚っていいなと思えた。

 後日契約に来た時も、藤原さんご夫婦はキッチンにこだわっていた。使いやすいようにオプションもつけて、飛鳥の担当したお客さんの中でも一番使い勝手の良いキッチンにしていた。

 新しい家に新しい家族。なんて幸先のいいスタートなんだろう。

 そして、あの夫婦を見ていると、やっぱり結婚っていいな、と思ってしまう自分に飛鳥は苦笑いをした。

 

そろそろ、帰ろうかな、と駅へ向かっている途中で、一人の女性と出会った。井上さんだ。彼女も、飛鳥が担当した。飛鳥と同年代くらいでマンションを購入した独身の方だ。

 結婚を諦めて仕事に生きている感じがして、密かに、自分と重ねていた。だけど、向こうは覚えていないだろう。そう思って黙ってすれ違うつもりだった。

「瀬戸内さん?」

 井上さんの方から声をかけられた。「覚えていますか?マンションの契約の時に担当していただいた井上です。お久しぶりです」

「もちろんです。まさか井上さんに覚えていただいているとは思わなくて。お久しぶりです」

「マンションを見に来られたんですか?」

「はい。自分が担当した物件は、その後必ず訪問するようにしているんです。きょうは、休日なので。・・井上さんは?会社はお休みですか?」

「いえ、実は転職しまして。会社の場所は、前職と近いのですが、週に二日出社すればいいので、きょうは好きな場所で仕事をしているんです」

 井上さんは、片手に持っていたカバンを胸の高さまで持ち上げる。パソコンが入るくらいの大きさだった。

「すごいですね。在宅勤務、最近よく目にしていましたが、実際にされてる方は初めてお会いしました」

「外資系の会社なので、早いのかもしれません。自由に仕事ができる分、成果に対しての評価が厳しいですが、私にはこっちの方があっていたみたいなんです。前職は、どちらかというと堅い会社だったので。家にいることが長くなった分、こだわった部屋にしてよかったなと感じることが増えました。本当にありがとうございました」

 井上さんが頭を下げる。そう言ってもらって、感謝したいのは飛鳥の方だ。

「顔をあげてください。家は、住む人で居心地の良さがまた変わってきます。大切にしてあげてください」

「はい。いつか遊びにいらしてください」

 井上さんが、白い歯を覗かせて笑った。こんなに屈託無く笑う女性だったかしら、と思った。

「あれ、マンションの担当の・・瀬戸内さん。と、井上さん?何されてるんですか?」

 前方、駅の方から歩いてきていた男性が小走りで駆け寄ってきた。篠原さんだった。体型にピタリと合ったスーツを着て、相変わらず爽やかだった。

「瀬戸内さんが、完成したマンションを見に来られてたんですよ」

「篠原さん、お久しぶりです」と飛鳥は頭を下げる。

「こちらこそ。その節は、お世話になりました」

「篠原さん、会社はどうしたんですか?」と井上さんが訊く。

「ああ。きょうは、竜也・・息子の授業参観なんですよ。だから、午後から有給をとったんです」

 笑った篠原さんの顔を見て、飛鳥は、変わったな、と感じた。

 十一月に会っていた時は、男手一つで子供を育てることに対して、不安そうで、一生懸命に見えた。

 でも、いまは、すっかり親の顔だった。父親というより、母親のような温かみと余裕が感じられる。

「お父さんにきてもらえて、息子さんもきっと喜びますね」

「そうですかね。まあ、私しかいないので、嫌でも我慢してもらうしかないのですが」

 そう言って、篠原さんは自虐的に笑った。左手薬指には、まだ指輪はなかった。

「そんなことはありません。大丈夫ですよ。・・では、私はそろそろ失礼します」

 飛鳥がお辞儀をすると、井上さんと篠原さんも倣った。

「瀬戸内さんが担当で本当に良かったです。ありがとうございました」

 飛鳥は、再び駅へと歩み始めた。

 途中、ふと振り返った。井上さんと篠原さんが、並んで歩いているのが見えた。楽しそうに話をしているのが、背中から伝わってきた。

 年齢も同じくらいだから、いい友達になったのかもしれない。普段会うことがなかった人が巡り会う。これも、マンションの魅力の一つだと飛鳥は思っている。

 会社では、新しいマンションの計画を立てているところだった。場所は、千葉県を予定している。東京にも電車ですぐにこれる場所だ。

 次は、どんなお客様と出会えるのかしら。

 はやる気持ちを胸に、飛鳥はホームへと続く階段を昇り始めた。

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マイホーム ちえ @kt3ng0

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