変わらないこと(7)

 十月第四土曜日。朝からは白い靄がかかっていた空も、昼に近づくにつれて、透き通る青空に変わっていた。

 電車に揺られながら、北千住へ向かっていた。マンションの契約をするためだ。

 もうすぐ、十二時を回ろうとしていた。土曜日のお昼頃とあって、車内は少し混んでいた。

 本当は、もっと早く家を出るつもりだった。

 美穂は、隣に座る暖司を横目できつく見る。暖司は美穂の視線に気がつかず、目を閉じていた。眉間にシワが寄せられていて、具合が悪そうにしている。

 きのう、香川に住む暖司の同僚が東京に出張で来ていて、久しぶりの再会の喜びと、暖司のベトナム行きを激励を兼ねて、何軒もはしごして飲み歩いたようだ。帰宅したのは明け方で、美穂が起きると、暖司はトイレでスーツ姿のまま吐いていた。

 そこまで飲んで帰ってきた暖司は、七海が生まれてからは一度もなかった。呆れながらも、何も文句は言えなかった。

 もう片方の隣では、七海がスマホでゲームをしていた。ゲームの中で友達と交流できるようで、きのうの夜電話で、「◯時にログインね、わかった」と話しているのが聞こえた。

 摩耶ちゃんとは、仲直りがうまくいっていなかった。でも、代わりに他の友達と仲良くなった。宿泊学習でその友達と同じグループになり、いろんな話をしていたら気があうことに気がついたらしい。七海の話を聞いていると、その友達は、明るくて活発でおもしろくて、摩耶ちゃんとは正反対の性格のようだ。

 美穂は、不謹慎だが、七海がまた元気に明るく登校できるようになったから、摩耶ちゃんとは仲直りできなくてもいいと思っていた。子を持つ親なら、きっとそう思うはずだ。

 電車に揺られて、うとうとし始めた頃に、車内アナウンスが北千住についたことを告げた。


 モデルルームの場所に向かうと、瀬戸内さんが出迎えてくれた。

 電話で予約をする際、予め契約をしたいことを伝えていたから、「神田様、お越しいただきありがとうございます。どうぞ、こちらへ」と、直接カウンターに案内された。

 カウンターのそばの壁に貼られたマス目の紙には、ピンクのリボンが増えていて、ところどころ赤のリボンがあった。美穂たちが購入予定の部屋にもピンクのリボンが貼られている。

「あの、リボンはなんですか?」

 椅子に座りながら、美穂は尋ねた。

「あれは、ピンクのリボンが仮押さえのご依頼を受けた部屋で、赤のリボンがご契約いただいた部屋になります。先日、神田様にはご予約をいただきましたので、ピンクのリボンを貼っております」

 なるほど、と美穂は再度壁に貼られた紙をみる。三LDKの部屋は五階付近を中心にピンクのリボンが目立つ。全体の四割くらいはピンクのリボンで埋められていた。赤のリボンは、まだ数えられるほどだ。

「では、早速、ご契約の手続きへと進ませていただきます」

 瀬戸内さんが、iPadの画面に沿って、部屋の確認やオプションの有無を質問しながら、入力していく。

 すべての記入が終わると、トータルの金額が表示される。

 何年払いで月々いくら引き落とされるのか、最終確認をする。

 大きな買い物だなあ、と改めて思って、心の中でため息。

 暖司が迷いなく、『OK』ボタンを押す。

「ありがとうございます。これで、契約は完了となります」

 瀬戸内さんが、タブレットで操作した後、笑顔でこちらを向いた。

「いえ、こちらこそありがとうございます。いい家に出会えました」

「そう言っていただけて、恐縮です。今後のご連絡につきましては、お電話かメールにて随時いたしますので、よろしくお願いいたします」

「はい、わかりました」暖司が立ち上がろうと椅子を引いたところで止まる。「ところで、城田暁生は、このマンション担当ですか?」

 瀬戸内さんは、一瞬考えて、ああ、と納得した表情を浮かべた。

「課長の城田は、担当です。しかし、生憎本日事務所の方に出社しておりまして、こちらには不在でございます」

「ああ、そうなんですね。それなら、大丈夫です」

 暖司は、椅子から立ち上がった。美穂と七海もそれに倣った。瀬戸内さんが、心配そうに訊いた。

「何か言付けを預かりましょうか?」

「いえいえ、実は、彼とは高校の同級生でして。このマンションも彼からオススメされたので、もしいたら挨拶でもしようかと思っただけですから」

「左様ですか。それでは、城田にその旨お伝えしますね」

「はい、お願いします」

 瀬戸内さんは、最後にもう一度爽やかな笑顔でお辞儀をした。



 帰り道、河川敷には小さい子供を連れた家族が数組いた。

 七海が川の方へ走って下りていく。美穂と暖司は、その後ろ姿を見ながら、並んで立ち止まった。

 美穂の実家の近くにもこんな河川敷がある。七海がまだ小さい頃までは、暖司と三人でよく連れて行っていた。その時も、七海が川に向かって走っていくのを、こうして二人で並んで見ていた。

「そういえば、昔よく、君の実家の近くの河川敷に行ったなあ」

 暖司が、眩しそうに川面も眺めながら言った。

同じことを考えていた。

「そうね。懐かしいわ」

「僕のベトナム行きと、マンション購入の報告も兼ねて、冬休みは君の実家へ行こうか。近いのに、全然行けてなかったからね」

 美穂は驚いた。実家に帰らなくなったのは、暖司が原因だった。東京に転勤になって、こんなに近いなら長期休暇を使ってまで帰る必要はないだろ、と行きたがらなくなった。だから、最初の年は、七海と二人で実家に帰った。たったの十日空けただけなのに、暖司は、かつて一人暮らしをしていた時のように、家中を散らかしていた。

 洗濯物は溜まっていて、食器は洗わずにシンクに置きっぱなしで、ダイニングテーブルには大量の空き容器。挙句に、宅配の受け取りさえもしてくれていなかった。

 実家に帰ると、家事から解放されるのが嬉しかった。けれど、帰った後に倍増すると考えると、ゾッとして、帰るのをやめた。

「どうしたの、急に?」

「ずっと、逃げてたんだ。」暖司が後ろめたそうに、頰を掻く。「いつでも実家に帰っても良かったのに、君が実家に帰れなかったのは、僕の世話があったからだよな?恥ずかしながら、こんなに家事が大変とは知らなかった。君の実家に帰りたい気持ちも、家事から解放されたい気持ちも、気づいてあげられなかった。僕がベトナムに行ったらいつでも帰れるとは思うけど、僕も君の両親に挨拶はしていきたい。だから、どうかな?」

 美穂は、もー、と暖司の肩を小突いて笑った。

「ベトナムの家は、きれいにしといてよね。遊びに行くから」

 暖司は、少し間を空けて、「わかった」と頷いた。自信がなさそうな弱々しい返事だった。

 柔らかい風が二人の間を抜ける。

 美穂は、暖司の腕に自分の腕を通した。付き合っていた頃、デートの時は、いつも腕を組んで歩いた。ごつごつと骨ぼったい暖司の感触を感じるのが好きだった。

 十数年ぶりに触った腕の感触。少し肉がついた気がするけど、こんな感じだった気もする。

 最近、七海の成長を感じてばかりいて、暖司とはきちんと向き合っていなかったな、と思い知った。

 気づいていないだけで、暖司も、きっと美穂も変わっているところがある。

 付き合っていた時の空気感、夫婦になってからの空気感、親になってからの空気感。

 少しずつ、でも確実に変わっている。

 五十歳を目前にして、あと何年、暖司と一緒にいられるのかしら、と考えるようになった。すでに人生の半分以上を一緒に過ごしている。

 通した腕に力を込める。暖司が、どうしたの?と顔を向ける。

 背伸びをしたら唇が触れそうな距離。こんなに近くで暖司の顔を見たのも、久しぶりだ。

「私たち、変わらないと思っていたけど、やっぱり変わっているのよね」

 突然、何の話をしているのかわからず戸惑う暖司に構わず続けた。

「でも、私、いままでも、これからも、あなたと一緒にいると幸せよ。これだけは、絶対に変わらないわ」

 暖司の顔が緩む。伝えたいことは、きっと伝わった。

「君の頭の中だけで繋がっている話をいきなりするところも、きっと変わらないな」

 軽い口調。「あなたのそのからかい方もね」と美穂が返して、二人で笑った。

 変わって欲しくないところは、変わらずにいる。それが、美穂をまた幸せな気持ちにした。

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