変わらないこと(6)

 十月十五日火曜日。七海の宿泊学習の日。

 七海は、先週の月曜日、早速摩耶ちゃんと話をしようとした。何度も何度も何度も、摩耶ちゃんに話しかけた。でも、摩耶ちゃんは、無視をしたまま、結局、七海の話しかけには応じてくれなかったようだ。

 クラスの女の子たちからの仲間外れは、一部の間ではまだ続いていたが、どうでもよくなった子たちは、話しかけてくれるようになったという。そもそも、何で七海が仲間はずれにされていたのか理由を知らない子も中にはいた。

「あっけない終わり方だったよ」と、七海がいつものようにおやつを食べながら言った。夫婦喧嘩と同じね、なんて美穂は思った。そして、自分の娘が、思っていたよりもずっと強く育っていることに、たくましさと、一抹の寂しさを感じていた。

 七海は、元気に「行ってきます」と言って、家を飛び出した。二年前に買ったミニーのリュックサックは、背中にすっぽり収まるようになっていた。

 美穂は、掃除をしながら、きょうこそは、マンションの話をしたい、と考えていた。

 七海の世話をしない分、夜に時間がたっぷりあった。先週には話をまとめて週末に契約に行く予定だった。しかし、先週から暖司の仕事が忙しくなって、帰るのが遅くなった。トラブルがあったようで、きのうは急な出張で大阪に行ってしまった。

 まったく、タイミングが悪いわね。美穂は、掃除機の音に負けないくらい大きなため息をついた。

 

 暖司は、八時に帰宅した。美穂は、夕飯作りもお風呂も済ませて、テレビを見ながら暖司の帰りを待っていた。

「ただいま。あ、そうか。七海はいないのか」

 暖司がネクタイを緩めながら、寂しそうな顔をする。

「そうよ。ご飯、食べるわよね?いま、温めなおすわね」

 ダイニングテーブルには、二人分の食器を用意していた。あとは、お皿につぐだけだ。たまには暖司と一緒に食べようと思って帰りを待っていた。

 美穂はキッチンに向かうためにソファを立ち上がった。

「僕がやるよ」

 ネクタイと上着を直した暖司が美穂よりも早くキッチンへ入った。美穂は、驚いて一瞬固まってしまった。

 暖司が家事をしたことなんていままで一度もなかった。

「急に、どうしたの?」

「いや、まあね」暖司は、照れたようにそっぽを向く。「ベトナムに行ったら、僕は一人で何でもしなきゃいけないだろ?いまのうちから家事をやっておこうかなって思ってね。片付けも僕がやるから、君はゆっくり座っていて」

「ありがとう。それなら、お言葉に甘えようかしら。きょうはお鍋に肉じゃががあって、フライパンに鯖の味噌煮、もう一つの小さなお鍋がお味噌汁よ。ご飯は炊飯器に入っているわ。あ、後、冷蔵庫にはほうれん草の白和えもあるわ」

「わかった。じゃあ、少し待っていて」

 暖司が、コンロに火をつける。「肉じゃがは、どれくらい火にかけておけばいい?」

「特に基準はないわ。温めすぎると下が焦げるから、様子を見ながらお願いね」

 暖司が不慣れな手つきで鍋をかき混ぜる。

確かに、下が焦げると言ったけど、そんなに強くかき混ぜたら、じゃがいもが煮崩れしちゃうわ。それに、一つずつ温めていたら、時間がかかるから、同時に味噌汁の火もつけたほうがいいわよ。

美穂は、何度も口を挟みそうになるのを、ぐっとこらえて、暖司の様子を見ていた。

気になること以上に、嬉しいという気持ちが勝っていた。一人暮らしに向けてとはいえ、暖司が家事をしてくれることが。

結婚する前に暖司が一人暮らしをしていた家に行ったことを思い出した。あのとき暖司は毎日コンビニか外食で済ませていた。だから、たまに美穂が部屋に行くと、弁当の空箱がテーブルの上に重ねてあって、台所のシンクには、洗っていないコップとペットボトルが渋滞していた。

美穂は遊びに行くと、暖司の部屋を掃除することから始めていた。私と住んだら楽でしょ?だから、早く結婚しましょう。そんな思いを込めながら。

でも、実際に結婚すると、家事をまったくしない暖司に腹が立つこともあった。そういえば、付き合っていた時からいままで、一度も「ありがとう」と言われたことはない。

手伝ってくれることも嬉しいけど、それだけで心が楽になるものなんだけどな、とお味噌汁と鯖の味噌煮の火をつけた暖司を見ながら思った。

すべてを温め終えた暖司が、たどたどしく料理を皿に盛る。味噌汁の入ったお椀の淵から汁が流れていたり、肉じゃがのお皿から糸こんにゃくが垂れていたりしていた。美穂は、意外と不器用なのね、と微笑ましく思った。

 いただきます、と二人で声を合わせていって、食事を始めた。

「きょうもうまいなあ」と暖司が味噌汁を一口吸って、目を細めながら言った。

「ところで、あなた、マンションのことをそろそろ決めてしまわない?」

「ああ、そうだったな」暖司は、鯖の味噌煮を箸でつついていた手を止める。骨まで柔らかく煮ているのに、暖司は必ず骨を抜く。「七階くらいでいいんじゃないか?数字的にもいいしな」

「オプションは、必要ないわよね?畳に変更とか、電気の傘や扉の色を変えれたりできるみたいなんだけど」

 美穂は、カタログのページをめくって、暖司に見せる。暖司は、カタログを一瞥しただけで、またサバの味噌煮に視線を戻す。

「オプションは、君に任せるよ。僕は、標準でも問題ないと考えるよ。畳も特に必要とは思わないしね」

「わかったわ。私も畳がどうしても欲しいってわけじゃないの。気になるオプションも特になかったわ。・・今週末、契約に行かない?時間は取れそう?」

「そうだな。いまの案件が落ち着けば、週末は時間があるから行けるよ」

 暖司は食べる手を止めずに言った。美穂は安堵して、味噌汁をすすった。

 片付けをするためにキッチンに立った暖司は、スポンジと洗剤を美穂に確認して皿洗いを始めた。

 食器が互いに当たって、ガチャガチャいう音が大きくて、割らないかしら、と美穂は心配でハラハラしていた。

 美穂が十分で終わるところを、暖司は三十分かけて、皿洗いとシンクを綺麗にするところまでを終えた。

 ふう、と吐息をつきながらエプロンを外す暖司に「お疲れ様」と美穂は声をかけた。

「たった、これだけをしただけで、疲れたよ。君は、毎日これの何倍もの仕事をしているんだね。いつもありがとう」

 不意打ちだった。

この言葉を、ずっと待っていた。

でも、いざ言われると、なんだか落ち着かなくて、目をそらした。

「どうしちゃったのよ、急に」

「なんだ、照れてるのか?」

「照れてないわよ」

 暖司が、「君のその顔が見られるなら、僕は何度だって感謝の気持ちを伝えるよ」と笑った。

「もー、からかわないでよ」

「ごめんごめん。でも、感謝しているのは本当さ。これからはちゃんと手伝うよ」

 暖司との久しぶりの空気感。付き合っているときは、こうやって暖司にからかわれて、二人でよく笑っていた。

 七海が生まれて、お互いに歳をとって、会話は子供のこと中心になったし、冗談を言って笑い合うことがなくなった。何年も、業務連絡のような会話しかしていなかった。

 ベッドに入った後も、いつもは、同じベッドに寝ていても、会話はほとんどなく、すぐに寝てしまっていた。でも、きょうは、このまま寝るのが惜しかった。美穂は、この間幸恵さんに会った話とか、最近、新しい住人が同じ階に引っ越してきた話とか、オチも何もない話をした。

暖司は、相槌を打ちながら、幸恵さんのことを懐かしんだり、新しい住人がどんな人か尋ねたりした。

普段なら、暖司も聞いてるのか聞いてないのかわからないような返事をするだけだった。それがいやで、美穂はたわいもない話を暖司にしなくなった。

一通り話を終えて、そろそろ寝ようか、と電気を消した。

暖司の寝息が聞こえてきた。相変わらず、眠るまでが早い。

規則正しいその寝息を聞きながら、美穂も心地よい眠りについた。

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