変わらないこと(2)

 玄関を開ける音がした。

「ただいまー」

 七海が勢いよく扉を開けて部屋に入ってくる。

「おかえり」

「お母さん、お腹すいたー」

「きょうは、ハンバーグよ。手を洗って来なさい」

「やったあ」

七海はスキップをしながら洗面台へ向かう。美穂はその間にダイニングテーブルに料理を並べる。

ハンバーグにコーンスープにマッシュポテト。七海の大好きなメニューだ。

きのうの暖司との会話を聞かれていないか心配だった。気づいたら、七海の喜ぶメニューを作っていた。

いただきまーす、と七海がハンバーグをナイフとフォークで切る。嬉しそうに口に頬張るのを眺めていると微笑ましい気持ちになる。

「七海、最近学校はどう?」

「たのしーよ」モグモグさせながら七海が応える。

「そう、よかったわ」

「何?急に、どうしたの」

 七海が不思議そうな顔で美穂を見た。

「なんでもないわよ。急に気になっただけ。おかわりいる?」

 美穂は、空になったお茶碗に目を向けて言った。七海は、「お願い」とお茶碗を差し出した。

 ご飯をついで戻ったときには、七海はすでにさっきの質問はどうでもよくなっていたようで、また幸せそうにハンバーグを頬張っていた。

 食器の片付けをしているときに、七海が学校からのお知らせを持って来た。

 目を通すと、『宿泊学習のご案内』だった。来月中旬に一泊二日で五年生は自然の家へ行って、野外炊飯やボランティア活動をする。四月にもらった年間行事で把握はしていた。十月の行事だからと後回しに考えていた。

 紙には、参加の申し込みと、参加にあたっての注意事項や必要な手続きが記されていた。

「もう、宿泊学習があるのね」

 リビングでテレビを見ている七海に声をかける。返事はなかった。

 美穂は、ボールペンを取り出して、『参加』に丸をして名前を記入した。半分に切り取って、申込書を七海に手渡した。

 七海は、テレビに夢中で、美穂の方は向かず、黙ってそれを受け取った。

「お母さん、お風呂はいってくるわね」

 案の定、七海からの返事はなかった。

 美穂がお風呂から上がると、リビングに七海の姿はなかった。もう自分の部屋にこもってしまったようだ。

 美穂は七海の部屋の前でドア越しに声をかける。

「七海、お風呂入りなさい」

「わかった」

 すぐに返事があった。美穂は、そのまま七海の部屋の前を去った。

 暖司が帰宅する前にベッドに入らないと。

美穂の頭の中は、いかに暖司と顔を合わせないようにするか、が頭を占めていた。



暖司と会話をしないまま、十日が過ぎた。

美穂が明らかに避けていることに気づいてからは、暖司は毎晩飲んで帰ってくるようになった。

朝起きると部屋が酒臭くて、空気がこもっていた。消臭スプレーを部屋中に吹きかけるのが日課になった。

朝昼晩、暖司のご飯を作っていなくて、冷蔵庫の中身も水以外減った形跡がない。外食で済ませているんだろう、とは思うが、体のことが心配にもなっていた。

 そろそろ、きちんと話し合った方がいいのかしら。

 そう思うが、いざ暖司を目の前にしても冷静でいられる自信はなかった。

 お昼ご飯を適当に済ませて、美穂はスーパーに向かった。

「あら、もしかして神田さんじゃない?」

 スーパーでキャベツを選んでいると、声をかけられた。

「幸恵さん!お久しぶりです」

 柴田幸恵だった。幸恵は、結婚する前まで通っていた料理教室の講師だった。花嫁修行のつもりで通っていたが、簡単に美味しく作れるレシピばかりで、いまでも役に立っている。東京に戻ったときに、再度通いたいと思っていたが、教室はすでになくなっていた。だから、幸恵に会うのは十三年ぶりだった。

「本当に久しぶりね。東京に戻っていたのね」

 幸恵は相変わらずの穏やかな口調で、懐かしさも相まって、美穂は安心した気持ちになる。

「はい、五年前に主人が東京に転勤になりまして。また幸恵さんの料理教室に通いたいと思っていたのですが、教室、たたまれたんですね」

「そうなのよ。娘が結婚して同居することになってね。私が家事をすることになったし、孫が生まれた時も考えて、ちょっと身体的にきついと思ってね。きっぱり辞めちゃったのよ」

「そうだったんですね、すごく残念ですが、きょうお会いできて嬉しいです。お元気そうで良かったです」

「神田さんも元気そうで良かったわ。もう少しお話ししていたいんだけど、いまから孫を幼稚園に迎えに行かなくちゃいけなくてね。また今度ゆっくりお茶でもしましょう」

「そうですか」美穂も残念な気持ちになる。「ぜひ、またお会いしましょう」

 幸恵は優しそうに微笑むと、「じゃあね」と出口へと向かった。

 美穂は、またカートを押しながら、十三年前のことを思い出していた。まだ、三十二歳だった。幸恵の教室に通い始めたのは二十五歳の時だった。若過ぎて、軽くめまいがしそうだ。

 まだ結婚する前で、もちろん七海もいなくて、頭の中は暖司のことでいっぱいだった。周りが次々に結婚をし始めた時期で、「美穂はまだ彼氏と結婚しないの?」なんて言われ続けて、早く仕事を辞めて結婚したいって思っていた。

 実際に結婚してみると、「なんだ、こんな感じか」と少しがっかりしたような、思っていたほど独身のときと変わり映えがしないような、そんな気持ちだった。

 それよりも、七海が生まれたときの感動の方が、何十倍も何百倍も何千倍も、もっともっと大きかった。この子は自分の命に代えてでも守っていきたい、そう強く誓った。

 暖司のことが二の次になったのは、そのときから。

 少し、後ろめたい気持ちになって、美穂は、国産牛のステーキ肉を手に取った。

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