変わらないこと(1)

 思わず、ため息が漏れた。

 美穂は、空を見つめて、固まった。夕方四時半。いつもなら、夕飯の支度を始めている時間だ。

 お昼の情報番組から続けて見ている夕方の情報番組でエンタメのニュースを報道している。人気若手俳優の熱愛が発覚し、相手の女性の身元が不明なため、特定をしようとしているらしい。

 交際のニュースなら、おめでたいから相手が誰でもいいじゃない。

 また、ため息が漏れる。

 昨夜、夫の暖司との会話を思い出す。

 暖司が、あんなにわからず屋だとは思わなかった。あんなに怒るとは思わなかった。

 離婚してやる、と本気で思った。

 テレビが情報番組からニュースに変わった。

 アメリカと中国の貿易摩擦のニュース。アメリカも中国も譲らず関税を上げて、アメリカがさらに中国製品への関税を引き上げたらしい。このままいくとソ連とアメリカの冷戦以来の第二次冷戦になるかもしれないとか。

 まるで私たち夫婦みたいね、と自嘲気味に美穂は笑った。暖司とは、昨日の話し合い以来一切言葉を交わしていない。

 夜、暖司は寝室に来ず、リビングのソファに寝た。結婚以来、ケンカをしたときでも一緒に寝なかったことは一度もなかった。悲しくて、腹立たしくて、きょうの朝ごはんもお弁当も作らなかった。

 暖司は、何も言わずに、家を出た。おはようも、行ってきますも、行ってらっしゃいも、言わなかったことは初めてのことだった。

 私たちの冷戦が始まった。

 美穂は、時計を見た。五時になろうとしていた。九月の空はまだまだ明るい。

 きょうは、娘の七海が好きなハンバーグを作ろう。暖司はハンバーグよりステーキ派で、ハンバーグの日はステーキも焼いていたけど、きょうは、挽き肉しか買っていない。食べたくないなら、食べなければいい話よ。

 美穂は、ゆっくりと椅子を立ち上がった。


 きっかけは、暖司の転勤が決まったことだった。

 暖司は電機メーカーに勤めている。最初の勤務地は愛知県で、その後群馬県に転勤し、東京本社へ異動した。

 美穂は生まれも育ちも東京で、大学も東京だった。暖司は同じ学部の同級生で、大学三年生の時から付き合い始めた。大学を卒業後、暖司が愛知に勤務していた十年間遠距離恋愛を経て、暖司が群馬に異動になったのを機に、暖司と結婚した。美穂は勤めていた保険会社を辞めて群馬に引っ越した。二年後には七海が生まれて、その後六年間群馬で暮らした。

 美穂は、ずっと暖司が東京勤務になることを待ち望んでいた。七海が高校生くらいになったらまた働きたいとも思っていた。

 五年前、暖司の東京本社への勤務が決まった。七海が小学生になるタイミングだったのもよかった。なるべく転校はさせたくないと思っていた。

 また十年近くは確実に東京勤務だろう、と思っていた。もしかしたら、もっと長いかもしれない。東京だったら、自分の仕事も容易に見つかるだろう。

 しかし、暖司の転勤は美穂が考えるよりも、もっと早く決まった。

 きのうの夜十一時、暖司は、帰宅するなり、意気揚々と言った。

「美穂、来年の四月から、ベトナムに転勤が決まったぞ」

 その時、美穂はトークバラエティ番組を観ていて、七海はもう自分の部屋で寝ていた。

 芸人が、毎回あるお題に沿って自分のおすすめを話を紹介する番組で、きのうは焼肉がテーマだった。焼肉に熱い思いを持った芸人が集まり、そこまで興味がないスタジオの一般人に対して自分の行きつけの店のプレゼンを行い、より興味を持たせられた人が、ご褒美に極上お肉が食べられる。

 テレビの視聴者もスタジオの一般人と同じ目線で見ることができ、美穂は毎回虜にされてしまう。

 どのお店も本当に美味しそうで、今度ランチに行こうと思い

店名のメモを取っていた。テレビで紹介されるお店はほとんどが東京にある。いつか行こうとメモは取るが、いつでも行けると思って実際に足を運んだことは数えられるほどしかないけど。

 だから、美穂の頭の中は完全に焼肉モードで、美味しいお肉を想像して唾液が出そうなほど幸せな気持ちで、暖司の言葉がうまく入ってこなかった。

「え?」

「だから、ベトナムに引っ越すんだよ」

「は?意味がわかんないんだけど」

 テレビから聞こえる声が、ガヤガヤと耳障りに感じた。暖司も同じ気持ちになったのだろう。何も言わずにテレビを消した。

「実は、群馬にいたときからずっと海外駐在を希望してたんだけどさ、ようやく内示が出たんだ。大丈夫。ホーチミンは結構栄えてるし、生活には困らないよ」

 美穂は、唖然としすぎて声も出なかった。ベトナムでの暮らしを心配しているわけじゃないし、そもそも海外転勤を希望していた話すら初耳だ。

 勝手にことを進める暖司に沸々と怒りを感じながら、「そういう問題じゃないよね?」とようやく声を絞り出して言った。

「え?他になんか問題ある?」

 プツンと何かが切れる音がした。

「問題しかないわよ。なんで勝手に海外勤務とか決めてるの?私何も相談されてないわよ。七海はまだ小学生よ?途中で転校させるのは嫌よ。サンクチュア女子中学への受験も考えているのよ。この間、あなたに相談したわよね?それに、私だって東京で働き先を探そうと思っているの。ベトナムに行ったら、仕事を探すのも一苦労じゃない。絶対に付いて行かないわ。いくなら、あなた一人で行ってちょうだい」

 溢れる想いを一気にぶつけた。一呼吸つく。暖司の顔に戸惑いがにじみ出ていた。なんでそんなことを言われるんだろう、と思っているような顔だ。

「そんなこと許されるわけないだろ?お前も七海も一緒に付いてくるんだよ」

「嫌だって言ってるじゃない。ベトナムだけじゃないわ。これから先どこに転勤になろうとも、絶対に付いていきません。私は、東京を離れないわ」

「ふざけるな。そんな勝手なこと俺は認めない。家族でベトナムに行くんだ」

「勝手なのはあなたでしょ?何が家族よ。家族なら、先に相談するのが普通じゃないの?」

「希望が通るかわからなかったんだ。東京に転勤になってもう通らないとも思っていた。だから言わなかったんだ。俺だってこのタイミングで通るとは思っていなくて驚いているんだ。でも、せっかくチャンスをもらったからにはいきたいんだよ。なあ、頼む。わかってくれよ」

 暖司の性格はわかっていた。勝手に決めて絶対に考えを譲らない頑固さがある。俺に付いてくるのが当然だろって性格だ。

 美穂もそれはわかっていて、でも特に反論するような重要なことではなかったから、口を出さずに従っていた。

 でも、今回は、桁違いに勝手すぎる。美穂と七海のことを全く考えていない。家族になっても人生の何も相談してもらえてなかった。暖司にとって自分は何のための存在かと悲しくなった。

「いつでもあなたに従うとは思わないでください。私にだって七海にだって生活があります。転勤を断るか、単身赴任してください」

 自分でも驚くほど冷たい声が出た。さっきまでの気持ちの高ぶりが嘘のように、心は冷静だった。

 暖司の顔が歪んだ。怒っているのがわかる。くる、と感じた。

 暖司は、すぐ後ろにあるダイニングテーブルを思いきり殴った。ダンと鈍く大きな音が部屋中に響いた。床にまで少し振動がきた。

隣人や下の階から苦情が来てもおかしくない。いま住んでいる賃貸マンションは、壁が薄い気がする。「一体何時だと思っているの?」と言いそうになった言葉を飲み込む。ここで放ったら、火に油をそそぐようなものだ。

「勝手にしろ」

 暖司はそう吐き捨てると、自分の書斎にこもった。扉をわざとドンっと大きな音を立てて力一杯に閉める。反抗期の中学生のような怒りの発散方法だ。それを見るたびに、美穂の気持ちはどんどん冷めていく。

 離婚しようかしら。そんな考えが頭をよぎった。もう、うんざりだ。

 水を飲もうとキッチンへ向かった。通りすがりにダイニングテーブルを見た。

 さっき暖司が殴った場所に小さな亀裂が入っていた。


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