不器用父ちゃん(1)
健太郎は頭を抱えていた。
昨日の夜の会話が思い出される。
妻の沙織が亡くなって半年が過ぎた。健太郎は、沙織がいない家に帰るのが辛くて、毎晩夜遅くに帰宅し、朝早く会社に行く生活を送っていた。
沙織と結婚してから、沙織の両親と暮らしていた。沙織の実家が広いことと、沙織も健太郎も仕事が忙しかったことで息子の竜也の面倒を見てくれることから、同居は有り難かった。
だけど、沙織が亡くなって四十九日も無事に終わったいま、沙織の両親と一緒に住み続けていいのか、と健太郎自身も感じていた。
しかし、家事も竜也の幼稚園の送迎も甘えているいまの生活を手放すこともできずに、逃げていたところもあった。
昨日の夜、家に着くと、リビングから顔を出した義父の文博から呼ばれた。
「健太郎くん、ちょっといいかな?」
夜十一時半。いつもと同じ時間。いつもなら、すでに文博も義母の幸恵も竜也も寝ている。静かな玄関が健太郎を出迎えていた。
竜也に何かあったのだろうか。
そんな思いが頭によぎりながら、健太郎は居間に繋がるドアをあけた。
リビングの中央には長方形の小さなテーブルが置いてあって、一方は二人掛けのソファ、もう一方には一人掛けのソファが二つ並んで置いてある。よくドラマに出てくる応接室のような配置だ。二人掛けのソファの方に文博と幸恵が並んで座っていた。
「そっちに座ってくれるかい?」
文博が向かい側を指して言った。真剣な顔だった。。
健太郎は、黙って座った。緊張した空気が張り詰めていた。
「最近、仕事が忙しいみたいだけど、体の方は大丈夫か?」
「はい」
健太郎は、かしこまった気持ちになる。家に帰りたくなくて仕事を詰め込んでいる。そう見透かされているように文博の口調は鋭かった。
「それなら、よかった。きみまで体調を崩したら、と思うと気が気じゃなくてね」
「すみません」
自然と体が小さくなる。申し訳ない気持ちしかなかった。
文博は笑って言った。
「謝らなくていい。健康だったら、それでいいんだよ。でも、竜也が寂しがっている。仕事、早く上がれそうにないのかい?」
健太郎は黙り込んだ。正座をした足に、力が入る。
「実は、これからのことを話し合おうと思って、きょうはきみが帰ってくるのを待っていたんだ」
健太郎は、自然と目線が下がった。ついに、この話をする時が来たんだな、と焦りに似た気持ちになる。
「実はこの家を引き払おうと思っているんだ」
「え?」
「俊介がね、愛知に来ないかと言ってくれているんだ。俊介の家の近くにいいマンションがあるみたいでね。本当は一緒に住もうと言われたけど、それは悪いからね。そこがもうすぐ空くみたいなんだ。だから、幸恵とそっちに移ろうと思っている」
俊介は、沙織の弟だ。いまは結婚をして、愛知で働いている。
まさか、この家を引き払う話が出るとは想像もしていなかった。突然の提案に戸惑いを隠せなかった。文博たちが、健太郎に気を遣って言っていると感じられた。しょせん、自分は義理の息子で、いまはもっと他人寄りだ。
「そうですか・・」
「誤解しないで欲しいんだが、君は、私たちが気を遣ったと思っているんだろ?優しいから。違うんだ。これは、私たちのためでもあるんだ。だから、気にしなくていい」
文博は、幸恵の方に目を配る。幸恵がバトンを受け取るように口を開いた。
「竜也はまだ五歳よ。あなたもまだ若い。新しいお母さんを、新しい奥さんを探すのは遅くないわ」
健太郎は、なにも言えず、うなだれた。心の中にはまだまだ沙織がいる。
「もちろん、いますぐにというわけではない。きみの仕事が忙しいことは知っているし、私たちもできるだけ力になりたい。私も来年で引退だ。それまでは働くつもりでいる。だから、一、二年後を目処に考えてくれればいい」
文博は、にこやかに笑って言った。言葉は優しいが、もう決断は変えないという強い意志が込もっていた。
「お義父さんたちの意向はわかりました」
息だけの声になった。
文博たちの考えていることは理解した。でも、健太郎には、いまの生活を抜け出すのに、抵抗があった。自分のわがままだとわかってはいても。
「突然こんな話をしてすまない。私たちの考えをどうしてもきみに知っていてもらいたくてな。きみに何か意向があれば、私たちはいつでも聞くから言ってほしい。仕事で疲れているだろ?きょうはここまでにしよう」
文博がゆっくりと立ち上がる。
幸恵が、文博の飲み干したコップを片付けながら言った。
「お風呂、沸かしなおしてるから、入っておいで」
「はい」
抵抗はあるけど、健太郎に異論を言う権利はない。
これまで、沙織の両親にはお世話になった。これ以上、迷惑をかけることができるわけがない。
実の両親を頼ることも考えた。しかし、健太郎の実家は、広島にある。
健太郎は広告代理店に勤めている。事務所は東京にしかなかった。いまの仕事が好きだ。だから、会社を変えるという選択肢はなかった。広島に帰ることはできない。
竜也の世話をしながら、家事をして仕事に行く。
自信は、ない。
自分にできるのか、と不安しかなかった。
健太郎は、ぐっすりと眠る竜也の寝顔を眺めながら、静かに目を閉じた。
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