幸せの回り道(5)
週末、家の契約をするために、佐知子は北千住へ向かった。
「お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ」
瀬戸内さんが佐知子に気づくと、席へ誘導する。
契約に必要な項目を埋めていく。
結局、三LDKの間取りにした。昨日の夜まで二LDKと迷っていた。一人では広すぎると感じていた。価格だって、当たり前だが、三LDKの方が三百万円ほど高い。
一部屋は寝室で、一部屋は書斎にする予定だったし、二部屋あれば十分に足りる。
パンフレットを眺めながら、考えていると、オプションが目に入った。リビングを抜けてある一部屋は、洋室か和室か選べる、というものだった。三LDK以上を購入する人限定だった。
きっと、説明は受けていたはずだが、三LDK以上は買う予定がないと聞き流していたらしい。
畳がある家。佐知子の実家は、全室畳だった。昔ながらの家屋で、トイレも小学生の時までは和式のボットン便所だった。
水洗トイレがひどく画期的に思えて、小学生のときは家に帰る前に必ずコンビニのトイレに寄っていた。
そのトイレも中学生になるころに壊れてしまって、トイレだけ改修工事をした。立派な水洗トイレが我が家に来た。
せっかくだから、傷んだ畳の部屋もフローリングにリフォームしようという話も出た。洋室は、憧れていた。友達の家に遊びに行くと、洋室の部屋にベッドや可愛いタンスが置いてあって、キラキラして見えていた。
自分の部屋に戻ると、きしむ畳に端っこに畳まれた布団が置いてあるのが、惨めに見えていた。
だから、佐知子は大賛成だった。
でも、父親が大反対だった。畳の上で寝ることにこだわった。
佐知子の想いは砕かれた。「大人になって、自分の部屋を好きに飾りなさい」と母親に説得された。
新しい畳を張り替えて、きしむことはなくなったけど、やっぱり、洋室がよかった。
上京して、部屋を探しているとき、畳の部屋なんて賃貸ではよっぽど古いアパート以外ではないことを知った。
念願の洋室に念願のベッド、そして念願の可愛いインテリア。
最初は、部屋に帰るのがウキウキだった。でも、新しい靴や服と同じで、慣れてしまうとなんとも思わなくなった。
畳で思い切り寝たい。
そう最初に思ったのは、三十歳を過ぎて、責任のある仕事を任せられたときだった。
父が仕事から帰ってくると、畳に寝転がっていた記憶と重なった。
畳の絶妙な癒しに飢えていた。
この家でこれからの人生を過ごす。賃貸みたいに引っ越すことはできなくなる。
そう考えたとき、妥協をするのは違うと思った。大きな買い物だからこそ、絶対に後悔はしたくなかった。
支払い方法まで記入して、契約が完了した。
半年後には完成して、順番に引っ越しが開始する。
「ありがとうございました」
瀬戸内さんと会うのも、これで最後になる。
毎回、スーツをきっちりと着こなし、高いヒールを履いて接客する彼女に密かに親近感を持っていた。左手の薬指に指輪がないことも確認済みだ。
出口を出る前にふと振り返ると、瀬戸内さんはまだ頭を下げていた。
心の中でお礼を言って、佐知子はマンションが建設予定地に足を伸ばしてみることにした。
歩いて十分の距離。川沿いを進むまっすぐに進む。空気が澄んでいて気持ちいい。ジョギングをしている女性やお年寄りとすれ違った。
三十歳を過ぎて、体の疲れが取れにくくなった。体脂肪も落ちにくくなってきて、毎年行っている健康診断では、運動不足だと言われた。
引っ越してきたら、私もここを走ろうかしら。
そんな考えが頭に浮かんだ。
マンション建設予定地は、すでに工事に入っていた。土台を作っているところだった。
ここが、新しいスタート地点かあ。
期待と緊張で胸が膨らむ。
すぐ近くに大きな公園があった。グラウンドも、遊具もある公園だった。
日曜日の午後二時。公園は家族連れが多かった。子供達が走り回って元気よく遊んでいる。あちこちから笑い声が響いていた。
佐知子は、近くのベンチに腰掛けた。
結婚は諦めたけど、子供が欲しくないわけじゃない。どちらかというと、子供は好きだ。
休日に子供と公園で遊ぶなんて、なんて楽しくて充実した時間だろう。
そんなことを考えながら、しばらく眺めていた。
「井上さん?」
横から声をかけられた。
声のする方を見て、佐知子は目を見開いた。
篠原さんがいた。隣には、五歳くらいの男の子がいた。
「やっぱり、井上さんですね。お久しぶりです」
いつかと同じ屈託のない笑顔で篠原さんが目の前に来る。
格好は、婚活パーティーの時と全くちがった。ボーダーのシャツにブルゾンを羽織り、下はデニム。ラフな格好だった。
「お、お久しぶりです。なんで篠原さんがここに?」
「ちょっと、この辺に用事があって、近くに公園があると知っていたので、息子と遊ぼうと思いまして」
そう言って、篠原さんが隣にいる男の子を引き寄せる。
「息子の竜也です」
竜也くんは、ペコっとお辞儀をする。
「初めまして」
「はじめまして」
舌足らずの声で竜也くんが挨拶してくれた。
自然と笑みがこぼれる。
「井上さんは、なぜ北千住に?」
「私もちょっと用事で。・・実は、ここに住もうと考えてまして」
家を買うことは伏せた。なんとなく、篠原さんには話したくなかった。
「そうですか。実は僕たちもここに住もうと考えてるんですよ。もし、ご近所でまた会ったら、よろしくお願いしますね」
「はい、こちらこそ」
篠原さんが目を細めて笑った。
冷たい風が吹く。髪がなびく。篠原さんと目があったまま、動けないでいた。
「パパ、はやくあそぼう」
竜也くんが篠原さんの服の袖を引っ張る。
どちらからともなく視線を外す。急に恥ずかしくなる。
「じゃあ、すみません。井上さん、また」
竜也くんに手を引かれながら、篠原さんが佐知子に手を振る。
佐知子も手を振り返した。篠原さんの顔は、もうまともには見られなかった。
連絡先は、また聞きそびれた。
でも、また会える予感がした。
新しい生活が、一段と楽しみになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます