幸せの回り道(3)


 居酒屋に久しぶりに顔を出した。月曜日の夜だというのに、お客さんが三~四組いて賑わっていた。

 佐知子に気がつくと、マスターが笑顔で出迎えてくれた。

「久しぶり。適当なところ座って」

 いつもは、トイレに一番近いテーブル席に座る。優香と麻友がいるから。お酒を飲むと、トイレが近くなる。

 でも、きょうは一人だ。記憶を辿ると、ここに一人で来るのは初めてかもしれない。

 佐知子は、迷わずカウンターに座った。

「珍しいじゃん。きょうは、ひとり?」

マスターがおしぼりとお通しをカウンターに乗せる。

「なんだか、飲みたくなっちゃって。とりあえず、ビールで」

 佐知子はおしぼりで手を拭きながら微笑を浮かべる。

「なんか、あったのかい?」

 マスターが、ビールを渡しながら訊く。

「実は、いい家に出会ったんです」

 割り箸をパチンと割った。きれいにまっすぐ割れた。ビールを勢いよく流し込む。

「おお、よかったな。じゃ、これサービス」

 マスターが、おでんを皿についでくれた。大根と玉子とこんにゃくと牛スジ。最高。

 大根は箸を入れると、すっと力を入れずに切れた。口に運ぶ。ほろほろと口の中で溶けていく。味もよく染み込んでいた。温かくて、冷えた体に心地よい。

「おいしい!やっぱりマスターのおでん最高だわ」

「ありがとう。家は、どこの物件にしたの?」

「北千住です。河川敷の近くですごく見晴らしがいいんです」

「そっか」

 マスターが寂しそうな顔をする。

「マスター、心配しなくても、引っ越してもここには通いますよ。会社も近くですしね」

 佐知子がやだなあ、と笑って言うと、マスターも安心したように笑った。

 玉子を箸で切る。黄味が崩れる。中まで、味が浸透している。

 ビールを飲めるようになったのは、裕二と付き合いだしてから。

 いつも、幸せそうにビールを一気に流し込む裕二を見るのが好きだった。

 裕二に勧められて、試しに一口飲んだ。大学生のとき飲んでまずいと思って、それから避けていた。

 おいしい。

 十年ぶりに飲んだ。ビールってこんなにおいしかったんだって気づけた。味覚が大人になったんだなってしみじみ感じた。お酒も、よく飲むようになってから、強くなった気がする。いまは、五杯くらいじゃ記憶を無くすまで酔わなくなった。

 素敵なイタリアンのお店も、おいしい焼肉屋さんも、ダーツの楽しさも、裕二から教えてもらった。

 裕二に出会わなかったら、気づけなかった楽しさだ。

 確かに、裕二はずるくて最低な男だったけど、嫌な思い出ばかりじゃないし、自分が好きだった男を悪くいうのはより惨めになる。

 そんなことを言うと、優香や麻友から「佐知子はお人好しすぎ」「そんなんだから、付け込まれるんだよ」なんて説教されたけど。


 裕二との終わりは、呆気なかった。

 裕二との関係が続いて六年が経った一ヶ月前。佐知子は母親からの結婚の圧力に耐えられず、二回目の婚活パーティーに参加した。優香と麻友と知り合った婚活パーティー以来だ。今回は、二人は予定が合わず、一人での参加となる。

 婚活パーティーは立食形式だった。気になる相手がいたら話しかける自由なタイプで、敢えてそれを選んだ。

 時間が決まっていて、男性が入れ替わるタイプだと、絶対に誰かと話をしなければならない。しかも、初対面の男性と何人も。考えただけで、嫌気がさした。疲れるのが目に見えていた。一年前は、それで失敗をした。

 時間は二時間だった。バーを貸し切って開催していて、料理がおいしかった。

 みんなが、必死でアピールしているのを、隅っこで眺めながら、ひたすら、お酒と料理を楽しんでいた。昼間からお酒を飲むのは気分が良かった。

 女性は、明らかに佐知子よりもずっと年下で若かった。まだ二十代半ばに見える。もしかしたら、参加女性で最年長は佐知子かもしれなかった。前回は同年代の女性が多かった気がする。もしかしたら、自由なタイプは若い女性しか集まらないのかもしれない、と思い至った。

 男性も、佐知子には見向きもせず、必死に若い子にアピールをしている。男性は、どちらかというと佐知子と同い年くらいが多いようだった。男性が結婚を考え始める時期は女性より遅いらしい。

 結婚なんて、二十代のときは考えたことすらなかった。

 佐知子がそんなことを考えながら、ぼーっと会場を眺めていると、一人の男性に話しかけられた。

「その料理、おいしいですか?」

 男性は、佐知子が手に持っていたお皿を指さす。エビとトマトのオイスター炒めだった。

「え、ええ。エビがプリプリしていますよ」

「そうですか。僕も食べてみます」

 そう言って、男性は料理が並べられたところへ向かう。

 男性は、身長が一七五センチはありそうなほど高くて、端正な顔つきをしていて、着ているスーツは光沢があり高級そうだった。おまけに、会社の同僚や同級生がそうであるように、お腹が出てきて悩む年齢なのに対して、男性は締まりのいい体つきをしていた。

 なんで、こんな人が婚活パーティーに?と疑問に思った。黙って歩いているだけで、女性がわんさか寄ってきそうだ。

 事実、会場の女性たちは、他の男性と話しながらも、その男性の方をチラチラと伺っていた。隙があれば話しかけたいと考えているようだ。

 関わるのはやめておこうと思った。若い女性の反感を買うのは、精神的にきつい。

 そう思っていたのに、男性は料理の載ったお皿を両手に佐知子の元へ戻ってきた。

「お隣いいですか?あ、これもおいしそうだったのでよければ、どうぞ」

 男性は佐知子の横に立つと、お皿を差し出した。載っていたのは、シーフードグラタンだった。次、食べようと思っていた料理だった。

「ありがとうございます。いただきます」

 断るのも変だと思って佐知子はありがたくいただくことにした。

「いえいえ。それより、突然、話しかけてすみません。私、篠原と申します」

 男性は、胸元の名札を見せる。「篠原健太郎」と書いてあった。

 佐知子は、口の中のシーフードグラタンを急いで流し込んだ。

「私、井上佐知子と言います。よろしくお願いします」

「こちらこそ、お願いします。・・ご迷惑じゃなかったですか?」

 篠原さんは、申し訳なさそうな顔をする。佐知子は大きく首を振った。

 性格に難ありなんじゃないかと疑っても見たが、そんなことないようだ。むしろ、一瞬でも疑った自分が恥ずかしくなるほど、篠原さんは腰が低く柔らかい物言いだった。

「そんなことありません。むしろ話しかけてくださって、ありがとうございます。篠原さんこそ、私より他の方たちとお話しされた方がよろしいんじゃないですか?若い子たくさんいますし」

「どうも、若い子と話すのは得意ではなくて。結婚も本気で考えているかどうかもわからないんです」

「と、言いますと?親に結婚の圧力をかけられましたか?」

 自分と同じ理由だと思った。

 しかし、篠原さんは困ったように笑って言った。

「初対面の方に、しかも婚活パーティーで話すのも憚れるんですけど、実は、私、五歳になる息子がいるんです。半年ほど前に妻と死別しまして。新しい母親を探した方がいいと周りに言われて出会いの場に参加しようと思いまして。しかし、妻以外の女性と交際したことがないため、どうすれば女性と出会えるかもわからず、今回の婚活パーティーに参加しましたが、間違えたな、と感じています」

 思ったより女性の年齢が若かった、という意味だろう。確かに、子持ちで二度目の結婚、というような人は他にいなさそうだった。

「私も、別に結婚をしたいわけじゃないんです。ただ、親に言われて仕方なく申し込みました。初めて婚活パーティーに参加しましたが、こんなに若い女性ばかりとは思っていませんでした。完全に浮いているなと感じています」

 苦笑いがこみ上げる。篠塚さんが「そんなことありませんよ」とフォローしてくれた。佐知子は、そんなつもりじゃなかったんだ、と慌てて謝る。

「あ、すみません、気を遣わせてしまって」

 しかし篠原さんは、なんで謝られてかわからない、という顔をして、逆に謝った。

「すみません、違うんです。これは僕の本心です。井上さんは、キャリアウーマン、っていうオーラが出ていて話しかけやすいと感じました。女性と話すのが仕事でくらいなので。独身で仕事をバリバリこなす方はたくさんいます。僕の周りにも多いです。僕は、そういう女性、かっこよくていいな、と感じますよ。僕が妻に惚れたのも、そういうところでした」

 篠原さんは、言い終わった後、照れた笑いを浮かべて「すみません、つい熱くなってしまって」と付け加えた。

「奥さんのことを本当に愛されていたんですね」

「はい。いまでも、愛してます。でも、息子のためにも、新しいお母さんを見つけてあげなきゃなって気持ちもあります」

 篠原さんが、複雑そうな表情でエビを口に入れる。パリっとエビが弾ける音が聞こえてくるように強く噛んでいた。

「私が言うのも変ですが、ゆっくりでいいんじゃないでしょうか。篠原さん、とても素敵な男性だと感じました。きっと、素敵な女性が現れます」

 篠原さんは、きょう一番の笑顔を見せてくれた。どこかあどけなくて、部活に打ち込む高校生のような笑顔。こんなに爽やかに笑う人は、久しぶりに見た。

 奥さんが羨ましいと思ってしまった。こんな素敵な男性に愛されて。

 でも、きっと奥さんも素敵な方だったんだろうな、と思った。そして、自分もかつては、女性もうらやむようなかっこいいキャリアウーマンに憧れていたことを思い出した。

 細身のパンツに胸の開いたシャツを着て、上からジャケットを羽織る。十センチのヒールを鳴らしながら、丸の内のオフィス街を颯爽と歩く。

 いつから?

 高校生のときに、『プラダを着た悪魔』を観た。アンハサウェイに憧れた。

 たぶん、そのときから。

 毎日、変わり映えのない通勤ラッシュに慣れてしまった仕事。靴は、三十歳を過ぎてからヒールのないバレエシューズを履くようになった。

 オフィスだけは、憧れていた丸の内にある。

 篠原さんと出会ったことで、佐知子の中にずっと埋もれていた懐かしい想いが蘇った。

 新しい自分になるきっかけは、いまだ。そう強く感じた。

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