幸せの回り道(2)

「あんた、元気にしとるとね?」

 福岡に住む母から電話があった。最後のモデルルームに行った三日後だった。

 まだ、母には家を買うことを言っていない。契約まで終わってから伝えるつもりだった。絶対に反対されるのがわかってるから。

「元気にしとるよ。そっちも相変わらずね?」

 自然と方言が出る。大学を卒業してすぐに上京した。それからずっと東京だから、来年でちょうど福岡で過ごした年数と半分になる。

 普段は標準語になってしまった。けれど、家族や地元の友達と話すときは、無意識に方言が出る。一度染み付いたものは、なかなか

離れていかないらしい。

「まあね。稔幸がようやく仕事に就いたくらいかね。今度は長続きすればよかけど」

 稔幸は、佐知子の兄だ。三つ離れている。有名私立K大学を卒業後、新卒で入った会社を三ヶ月で辞めた。その後も、たまに仕事に就くが何をやっても続かず、家でゲームばっかりしている。ほぼニート状態だった。

「今回はニート期間長かったね。一年半ぶり?よう、仕事も見つかったね。どんな仕事?」

「知らん。私は、あの子が働き続けてくれれば、どこでもよか。お父さんも、来年で定年やし、うちにはあの子ば養うお金もなかとよ。ほんと、あんたはよか会社に入ったね。自分でちゃんと生活して、えらかよ」

 たまに電話が来たかと思うと、いつも母の愚痴になる。とってつけたように褒められるのも、いつものことだ。

 兄は、勉強はできるのに、どこか人と違って両親は手を焼いてきた。だから、妹の佐知子に期待する。

親に期待されて嬉しくない子供なんていない。佐知子は、両親の期待通りに、真面目で、そこそこいい大学を出ていい会社に就いて、手のかからない子供に育った。

 佐知子は本当にいい子ね、って両親だけじゃなくて、おじいちゃんもおばあちゃんも親戚のおばさんもおじさんも、みんなが言う。


 いい子って、何?


 でも、三年前くらい前から、最後にもう一言母は付け加える。

「で、あんたは最近どうなの?そろそろ孫の顔が見たいわ」

 はいはい。

「ま、そのうちね」

「もう、いいじゃない。結婚って妥協も大事よ?お母さんだって、お父さんのこと、めちゃくちゃ好きで結婚したわけじゃないんだからね?」

 それは、お父さんが聞いたら悲しむんじゃない?

 白けた笑いが出る。

「わかったから。もう切るね」

 母が何か言いかけたのを、知らないふりして電話を切った。

 いい子って言われて育った女の末路はこれよ。

 両親へのちょっとした復讐心。本当の私は、こんなにひねくれてるんだから。

 周りの期待に応えるのに一生懸命だった。物分かりばっかり良くなった大人になった。愛想笑いと相手を持ち上げる言葉ばっかり得意になった。

 悪いことをしそびれた。母に本気で心配されて、父に本気で叱られる。すべて、兄に向けられていた記憶しかない。

 だから、じゃないけど、惹かれたのかもしれない。

 彼女がいたのは後から知った。プロポーズを計画していることも、私に振り向くことなんてないことも。

 会社の飲み会があった。別の部署の部長につかまった。

「三十過ぎて独身はまずいから、それまでに結婚したほうがいいよ。佐知子ちゃんもう二十八?早く相手見つけたほうがいいよ」

「そうですね」と愛想笑いをした。

心の中では、余計なお世話だよ、と思いながらも、佐知子だって焦りがないわけでもなかった。酔っ払いを相手に本気で言い返すほど、若くもなかった。

 その帰りだった。裕二が、「送るよ」と声をかけてきた。

 いままで話したことは数えられるほどしかなかった。営業の六つ上の先輩、くらいの認識だ。営業と佐知子が所属する経理は、そこまで直接的な関わりはない。

「いいですよ。佐藤さん、家の方向違いますよね?」

「そんな遠くないし。井上さんのことが心配で。さっき、嫌なこと言われてただろ?」

 聞かれていた。そんなことを言うのは、ずるい。

「ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて」

 二人でタクシーに乗り込んだ。

 裕二は、明るい口調で、仕事中にあったおもしろい話や、会社のひとの愚痴を、一人漫才のようにおもしろおかしく話した。

 飲み会で言われた嫌なことも忘れて、佐知子はずっと笑っていた。このまま、家に着かなければいいのに、と強く思った。

 その日は、連絡先だけを交換して別れた。本当は、家に上がって欲しかった。でも、そんなことは言えなかった。

 裕二から、飲みに誘われたのは、三日後だった。

 仕事中、突然LINEがきた。

『ヤッホー。突然だけど、きょうの夜とか空いてる?飲み行かない?』

 胸が高鳴った。

 待ち望んでいた。一週間待ってみて来なかったら、佐知子から連絡しようと決めていた。

『空いてます!お願いします』

 楽しみで仕方なかった。ふわふわした気持ちで、仕事が手につかなかった。

 定時後がこんなに待ち遠しく感じるのは、就職して初めてだった。

 お店の予約も裕二がしてくれた。裕二が外回りの直帰だったため、お店に集合することになった。

 外観からオシャレだった。白い壁にガラス窓。店内から、オレンジ色の光が漏れていた。

 中は、キャンドルの灯りだけで彩られていた。入ってすぐ木造のカウンターがあって、店員の背後には、ずらりとお酒が並んでいた。カウンターの端には、ワイングラスが逆さに吊るされていた。

 店員に名前を告げると、店の奥に誘導された。すでに裕二は、座って待っていた。

「遅くなってしまってすみません」

「全然大丈夫だよ。座って」

 裕二がにこやかに応える。

 テーブル席は、黒いソファに木造のテーブルだった。

 ソファは、腰を下ろすと、ふかふかと弾力はあるが、深くまで沈まない。座り心地がよかった。

「なに飲む?」

 メニューを差し出しながら裕二が訊く。佐知子は、そこまでお酒が強くなかった。

「カシスオレンジで・・」

「え、かわいいね」

「すみません、お酒あんまり強くなくて・・」

「ううん。女子は、飲めない方がかわいくて、おれは好きだよ」

 “かわいい”とか“好き”とか、言われ慣れていなかった。

 緊張のあまり、お酒をいつもより多く飲んだ。普段、カクテル二杯で酔いが回るのに、この日は五杯も飲んだ。

 お店の薄暗さと、裕二の話のおもしろさと、アルコールの力。気分がよかった。

 きょうが終わってほしくない。

 強く、想った。

 翌朝、頭が痛くて目が覚めた。二日酔い。完全に飲みすぎた。

 帰宅した記憶はない。でも、きちんとベッドに寝ていた。

 裸だった。

 お風呂に入ろうと服を脱いで、そのまま力尽きたのかしら。

 ぼーっと考えて、体を起こそうと動いたとき、だった。

 

 隣に、裕二がいた。

 裸で、気持ち良さそうに眠っていた。

 

 慌てて起き上がった。ビクッと揺れて、裕二が起きた。

「あ、・・おはよう」

 佐知子の心情と正反対に爽やかな笑顔。

 聞きたくても、聞けない昨日の夜の出来事。

 静止したままの佐知子に、裕二は笑顔のまま言った。

「佐知子ちゃん、処女だったんだね。すごく、かわいかったよ」


 やっぱり。

 処女喪失。

 でも、そんなの気にならなかった。裕二と初めてを過ごせた。

 記憶にはないけど。

 こんなにもうれしいことはなかった。


 それから、最低週一で会うようになった。

 佐知子の部屋に泊まることは、飲みとセットだった。休日に映画を見たり、裕二の車で遠出をしたりした。

 いま思えば、このときに引き返すべきだった。

 いや、すでにもう、佐知子は、裕二という泥沼にハマってしまって、抜け出せずにいた。

 

 彼女がいるのを知ったのは、関係を持って半年が経ってからだった。

 クリスマスに誘ったら断られた。どうしても外せない用事があるからって、必死に謝られたから、気にしていなかった。

 裕二が同僚と、クリスマスの予定について話すのを偶然聞いてしまった。付き合って五年が経っていることも、毎年クリスマスはディズニーランドで過ごしていることも、そのとき初めて知った。

 あれほどショックで絶望的な気持ちになったことはない。どす黒いモヤモヤした感情が、心を支配した。

 すぐに、裕二に連絡した。直接会うのは、無理だった。だから、LINEで一方的に送った。

『彼女がいるとは知りませんでした。この関係は終わりにしましょう。さようなら』

 裕二から『ちゃんと話をさせて』ときたメッセージは既読無視をした。

 何度も何度も何度も着信があった。

 心が痛みながらも、無視をし続けた。

 でも、LINEをブロックも、着信拒否もできなかった。裕二のことがまだ好きだった。

 だから、連絡を無視して三日後、裕二が佐知子のマンションの前で待ち伏せをしていたのをみて、心が揺れた。

「ゆっくり話がしたい」って言う裕二を家にあげてしまった。

「確かに彼女はいるけど、おれは佐知子のことも同じくらい好き。彼女より佐知子との方が会ってるし、おれはお前を彼女だと思っている。これからも会ってほしい」と珍しく真剣な顔をして言う裕二を許してしまった。

 彼はわたしが好きで、わたしも彼が好き。それでいいと思った。思ってしまった。

 裕二が未婚っていうのも、自分を納得させる要因だった。

 その年のクリスマスに、裕二が彼女にプロポーズをして、婚約したのを知ったのは、年度が変わってからだった。

 裕二は、その間も何食わぬ顔で佐知子と会い続けた。婚姻届を四月の終わりに出したときも、週末は結婚式場に彼女と行くため佐知子とは平日にしか会わなくなってからも。

 婚約してから結婚式を挙げるまでの間は、裕二の結婚の噂を社内で何度も聞いた。

 結婚指輪を会社でつけていたことも知っていた。

 このまま会い続けるのはダメだっていうことも頭ではわかっていた。

 でも、結婚のことも、奥さんと一緒に暮らし始めたことも、直接裕二の口から聞いてない。

 裕二とは会うペースが月一回に減っていた。裕二の態度は全く変わらなかった。「好きだよ」って頭を撫でてくれるところも、情事のあとに佐知子を抱きしめながら眠りにつくところも。

 それに、佐知子と会うときは、裕二は結婚指輪を外していた。裕二が結婚したのは、嘘なんじゃないかと、密かに思っていた。

 心が全然追いついていなかった。

 ずるずると関係が続いてしまった。子供ができてからも、裕二は佐知子と会い続けた。最初は、奥さんにバレる心配をしていたが、裕二がうまくごまかしているようだった。口は立つ男だ。それくらい朝飯前なのだろう。

 佐知子の心も完全に麻痺していた。奥さんに悪いという気持ちは微塵もなかった。裕二と会えることが幸せだった。

そのうち、奥さんと早く離婚してわたしの元へ来てほしい、と強く思うようになった。変わらず愛してくれるのに、佐知子のものになってくれない裕二を、もどかしく思っていた。

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