幸せの回り道(1)

 まさか、家を買う日が来るとはね。

 井上佐知子は、自嘲気味に笑いながら、モデルルーム見学と書かれた文字を見る。

「ふざけてるの?!」

 入口を入ってすぐのところで、若い女性が叫ぶ声がした。女性は慌てて端っこへ移動した。

 スマホを耳に押さえてるのが見えた。電話の相手は、同居予定の旦那、だろうか。

 怒っている様子だったが、相手がいるのが羨ましい、と佐知子は思った。

 自分にはもう、恋愛をする日なんてこないだろうな。

 感傷に浸りそうになる心を無理に上向きにする。

 恋愛とか結婚なんて、とっくに望むのをやめた。だから、ここに来たの。

 これから、私だけのお城が手に入る。それがどんなに素敵なことか。佐知子ははやる気持ちで建物の中へ進んだ。



 家を買う。

 いつもの居酒屋でいつものメンバーにそう宣言したのが、一ヶ月前。

 一年前の婚活パーティーで知り合った優香と麻友。それに、居酒屋のマスター。

 その日、佐知子は六年付き合った人ときっぱり別れたことを報告した。

 三十五歳。アラフォーに突入してからの失恋。

 だから、傷心だとみんなが気を遣った。

「いいじゃん」「そういう夢があった方ががんばれるよね」

 だれも、否定はしなかった。

 三日後、佐知子が何軒か候補を見せたとき、本気なんだとようやく受け取られた。

「やめときなって。不動産持ちの女なんて、もっと結婚が遠のくよ」「まだまだ結婚を諦めたらダメよ」

 総反対にあった。恐らく、二人が言っていることは正しい。

 でも、結婚をしなければならないなんて誰が決めたの?

「これ、食べな」

 マスターが、アジの刺身をサービスしてくれた。佐知子の大好物だった。

 やけくそになっていると思われたのかもしれない。そうだとしたら、気を遣わせて悪かったな、と思う。

 佐知子は、正気だった。家を買うのは本気で、結婚はすでに人生の中の選択肢から消え去っていた。


 受付で名前や現在の住まいの状況、勤務先、希望間取りなど必要項目の記入が終えると、女性の対応を受けた。

「ご予約いただいていた井上様ですね。私、瀬戸内がご対応させていただきます。どうぞ、よろしくお願いいたします」

 瀬戸内さんが深々と頭を下げる。佐知子も倣ってお辞儀をする。

「まずは、こちらでマンション建設予定地周辺の施設の説明や物件についての詳細などの説明からいたしますね。どうぞ、お掛けになってください」

 すでに引いてある椅子に座る。

 モデルルームの見学は五軒目で、候補としては最後の一軒だった。いまからどんな説明を受けるかは、大体予想がつく。

 にっこり笑って「お願いします」と応える。愛想笑いは得意だ。

「まずは、こちらが完成予定の外観と周りの地図になります」

 瀬戸内さんが紙を三枚広げる。一枚が、マンションの外観予定写真で、二枚目が周辺の写真で、もう一枚が地図だった。

 地図の中を指で指し示しながら説明をする。

「この赤丸が、マンションが建つ場所になります。駅から徒歩五分で、駅とマンションの間に大型スーパーがございます。ここから近いので、既にご存知かもしれませんが、他にも、コンビニエンスストア、飲食店も充実しており、近くには公園、河川敷もございます。散歩に困ることもありません」

「駅にショッピングモールもありましたよね?」

 先程通った駅を思い出す。ここまで車で来たため、どんな店舗が入っているのか見そびれた。

 オシャレにそこまで興味はないが、大型スーパーに売っているような婦人服を買うのは抵抗がある。

「ございます。そこまで大きくはありませんが、店舗が十店ほど入っており、レディース、メンズ、ブックストア、カフェ、ドラッグストア、百円ショップ、と、充実してます。他にも、眼科と内科が入っております。駅を越えて反対方向に行きますと、総合病院もございます。」

「マンションは、ここから十分ほど歩いた場所でしたよね?周りに日差しを遮断するような建物はありますか?」

「そうですね、マンションは十五階建てですが、十階ほどの建物が二〜三棟あるのがここ周辺で一番高い建物となります。ベランダは、南向きと西向きの部屋がございますが、各方向ともベランダの日差しを邪魔する建物はございません。どちらかというと、一軒家が多い地域ですので、そこはご安心いください」

「ありがとうございます」

「他に、何かご質問はございますか?」

 瀬戸内さんが、資料をきれいに並べ替えながら訊く。

 毎回、機械のように同じ質問をしていた。一軒目のモデルルームに赴く前に、事前に聞いておきたいことをまとめて暗記した。

 漏れはなかったかな、と質問を指折りで数える。問題ないことを確認した。

「いえ、大丈夫です」

「かしこまりました。では、続けてマンションの概要についてご説明いたします」

 瀬戸内さんは、きれいに並べ替えた資料をまとめると、机の端に置かれていた新たな資料を広げた。

 手際がいいな、なんてどうでもいいことを考えていた。

「まず、弊マンションは、十五階建ての十部屋、計百五十世帯を予定しております。お部屋の間取りは、四LDKが三パターン、三LDKが四パターン、二LDKが三パターンあります。それぞれ、A、B、C、D、E、F、G、H、I、Jとなります。お部屋の数に多彩性を持たせることで、様々な購買層をターゲットにしております。井上様のようにお一人でお住いの家をご購入された方も多くいますよ」

「あ、そうなのですね。そういった方は、二LDKの部屋を買われるんですか?」

 予定外の質問だった。自分以外にも独り身で家を買うって発想がなかった。でも、考えてみれば、そんな人、たくさんいるだろうな。

 瀬戸内さんは、軽く首を振った。

「それが、いろんな方がいらっしゃいまして、四LDKをご購入された方もおります。女性の方でも、先日、三LDKをご購入された方がいらっしゃいましたよ」

全然、珍しいことじゃないんですよ。そう、励まされるような気持ちになった。

正直、家を買うのを迷う気持ちが出てきていないわけではなかった。結婚を完全に諦めた気だったけど、羨ましくないわけじゃない。

マンションのモデルルームに見学に来ることで、その気持ちが強くなった。家を買うのは、どうしても家族層が多い。幸せそうに、モデルルームを見学して、子供がはしゃぐのを注意して、旦那さんと隣に座って相談しあって。

一人でモデルルームを見学して、一人で家の説明を聞いて、一人で決める。楽だけど、寂しくて悲しくて惨めな気持ちになっていた。

「では、モデルルームへとご案内します。モデルは三LDKと二LDKを公開しております」

 モデルルームは、いつも、大体の部屋の様子だけ確認する程度だ。家具なんて自分の家具を置いてみないと部屋の雰囲気なんてわからないし、洋服も靴も、必要最低限しか持っていない。

 どこの家の靴箱もクローゼットを見ても、半分以上の空間が空っぽになることが目に見えている。

 空っぽ。それが嫌で、靴は一足分間を空けて置く。服は、クローゼットにはコートとシワが気になる服以外かけない。二段のタンスに、服を大きく畳んで入れる。無駄な空間の使い方。でも、それがいい。

「完成予定は、半年後の五月になります。どうぞ、ご検討のほど、よろしくお願いいたします」

 最後に、瀬戸内さんはそう言って、頭を下げた。

 早く、引越しがしたかった。だから、すぐに入居可能な中古のマンションも五軒ほど、候補に挙げていた。

 でも、二軒目で、吐き気がした。二LDK以上の部屋を買う人なんて、ほとんどが夫婦か家族だ。誰かが生活していた、それを思うだけで、胃がムカムカした。

 想像したくないのに、頭をよぎるのは、三週間前に別れた裕二だった。

『最近、週末は、嫁と子供に付き合わされて終わるんだよな』

 昨日、会社でたまたま裕二とすれ違った。その時に、耳に入ってきた言葉。

 頭が痛い。

 心臓は、もっと痛い。

 絶対、新居がいい。まだ、誰色にも染まっていない。私だけの空間。私以外に汚されていない空間。

 いまの家は、裕二に染められすぎた。

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