小春日和に(5)


 この間、来たばかりだから、道はわかる。

 こんなに早くに戻ってくるとは思わなかった河川敷を通りながら、やっぱりステキな街だなって思った。

 マンションからは、この景色が一望できるようになっていた。完成したマンションに登って、その景色を眺める自分を何度想像しただろう。

 平日の昼下がり、だからか、土曜日に来たときよりも、人が少なかった。

 モデルルームの建屋に大きく貼られた完成予定の写真をよく見たら、建物の途中から壁の色使いが変わっている。上に行くほど色が濃くなっていた。

 何回見ても、エントランスの扉が一番好きだ。想像するだけで、ワクワクする。

 中に入りたいけど、一人で行く勇気が持てない。

 受付付近で、一人でモジモジ突っ立っていると、横から声をかけられた。

「見学ご希望ですか?」

 グレーのスーツをビシッと着た三〇代くらいの女性だった。胸元に「いずみホーム 瀬戸内」と名札がある。ハウスメーカーの社員だとすぐにわかった。

「はい。予約とかしてないんですけど、大丈夫ですか?」

「もちろんです。どうぞ、中に入られてください」

 女性がにっこり笑って、誘導してくれた。

 玄関の扉も濃いブラウンだった。中へ入ると、玄関は広く、真っ正面は白い壁で、右側は、納戸だった。収納スペースが広くて惹かれる。左側は、壁一面が靴箱になっていた。扉の内側には、姿見の鏡があった。

「収納もあるし、鏡で最後に身だしなみを確認できるので、女性には嬉しい造りですよね」

 香奈が玄関を気に入ったのが伝わったのか、女性が共感する。

 玄関を入って一度右に曲がったあと、再度左に曲がってまっすぐ進む。玄関に一番近い場所から順に、左側が洋室、トイレの扉があって、右側がお風呂場と洗面台のセットと洋室の扉があった。

 廊下の突き当たりに扉がある。入ってすぐ左側がキッチンだった。カウンターもある。

 キッチンは調理スペースが広くて、使い勝手が良さそうだと感じた。

料理をしている自分を想像して、ダイニングテーブルに座る康太をイメージした。想像はできる。でも、なぜか悲しくなった。

 一人で来ても、全然つまんないや。

 不意に、涙が溢れる。

「どうぞ、お使いください」

 女性が、ティッシュをそっと差し出してくれた。モデルルームのインテリアの一つだった。

 申し訳ない気持ちになりながら、受け取った。女性は、なにも聞かなかった。

 思い出した。

 康太と出会ってから、弘高のことを忘れたんだった。

「ごめんなさい。また改めて来ます」

 香奈は、涙を拭き終えると、女性に頭を下げた。これ以上は、一人で見学したくなかった。

 だってーーー


 香奈は、猛ダッシュで出口へ向かった。


 この家は、一人で住むんじゃない。


 全速力で走る女を、モデルルームの見学に来ていた人がジロジロと見ていた。視線は感じていた。でも、そんなの気にしない。


 無性に、いま、康太に会いたい。


 きょうは、張り切って料理をしよう。康太の大好物ばかり作る。料理にだけは、昔から自信があった。

 康太の家に着いた。カバンを探って、ばかだなあ、とため息が漏れる。

 鍵を忘れた。

 力が抜けたように、玄関の前にしゃがみこむ。エントランスでばったり住人と遭遇してよかった。辛うじて玄関前に来れたことは不幸中の幸いだった。

 スマホを開く。時間は、五時だった。あと一時間足らずで、康太は帰宅するはずだ。残業がなければ。

 暇つぶしにLINEを開く。

 康太からの未読トークは五件。

 開いて、胸が苦しくなった。

『香奈、ごめんなさい。お願いだから、電話に出て?』

『電話も出ないし、既読にもならない。心配です』

『今週末、絶対空けるから。モデルルームリベンジしよう?』

『パンフレット、取り寄せたよ。素敵な家だね』

『メッセージ見たら、連絡ください』

 香奈は、震える指で、涙で霞んだ画面に文字を打つ。

『康太、意地はってごめんね。家で待ってます』


 夜になるにつれて、気温が低くなる。寒くて、凍えていた。

 七時半。康太はまだ帰ってこない。

 手が、氷のように冷たい。耳も冷たい風に当たって、痛い。

 康太は、遅いときで十二時近くになる。あと、長くて五時間。お腹が空いていたが、動く気力もなかった。

 康太へのメッセージはまだ既読にならない。


 きっと、バチがあたったんだなあ。

 

 手に息を吐いて暖をとる。

 あんなことで、ここまで怒る必要なんてなかったのに。


「香奈、お前、なんで外にいるんだよ」

 なるべく温まろうと、体操座りをして、顔を埋めていた。

 顔を上げると、康太が息を切らせて立っていた。

「鍵、忘れちゃって」

「もー、お前、心配するだろ?家で待てるっていうから、お前んち行っても誰も出ねえし。マジで焦ったんだからな」

 はー、と康太がしゃがみこむ。目の前に康太の顔が来る。手のひらで、優しく香奈のほっぺに触る。

「うわ、冷てえ。中、入ろう」

 康太が優しく言うから。香奈の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。

 ひとを好きになると、涙もろくなる。

 康太が目の前にいるのが嬉しくて、やっぱり大好きで、抱きしめてくれた体温が温かくて。

 次から次に涙が溢れてきた。子供のように泣きじゃくってしまった。


「はい、これ飲みな」

「ありがと」

 お風呂から上がると、康太がコーヒーを淹れてくれた。

 インスタントのコーヒー。でも、きょうの昼に負けないくらい、優しくて温かい。コーヒーの湯気に癒される。心の落ち着きは、いまの方が断然上だ。

 康太が、香奈の隣に腰掛ける。肩が触れているのが、心地いい。

「この間は、本当にごめん。仕事でトラブってしまって、助けてくれた上司に誘われてさ。その人のおかげでうまく処理できて、終わった後に飲み行こうって言われて断れなかったんだ。言い訳だけどな。いつも香奈が怒らないから、おれ甘えてた。つい仕事優先しちゃうところがあるけど、その時はちゃんと言ってほしい」

「うん。ありがとう。ちゃんと考えてくれて」

「いや、実は、その上司に怒られたんだ。家族を大事にできない奴がいい仕事ができるかって」

 康太が、片目をしかめて照れた表情をする。こういうことを素直に白状するのも康太らしい。

「香奈、家が決まるまで、ちょっと狭いけどここに住まないか?もちろん、無理にとは言わない。・・おれ、夫婦とカップルの違いってよくわからなかったけど、今回のことで考えたんだ。それで、どんなに相手の嫌なところでも目をつぶらず向き合うのが夫婦なんじゃないかなって思った。だから、喧嘩して話し合うことができないのはきついなって。・・どうかな?」

 全力で頷いた。こんなの、即答に決まってる。

 どうせ、家具もすべて買い換える予定だった。いまの家に未練なんてない。それに、新築の家を買うなら、家を引き払って実家に帰ろうと思っていた。わたしだけの空間から、これからは二人のための空間になる。必要なものだけ持ってここにこよう。

「よかった。これからも、よろしくな」

 康太が、香奈の肩を抱き寄せる。香奈は、「私の方こそ」と、康太に抱きついた。愛おしくて、強く、強く。「いてて」と笑いながら、康太も強く抱き返してくれた。

 大事なことなのに、忘れていた。康太と付き合って気づいたこと。

 弘高と付き合っていたときは、いつもフワフワ宙に浮いているような感覚だった。

 女子の羨望の眼差しで、人気ブランドを持ち歩いているような、優越感に浸っていた。

 だけど、康太に会って、それは恋愛じゃないと気づいた。私が好きだったのは、弘高じゃなくて、そのブランドだっだ。

 康太は、いつでもまっすぐ向き合ってくれた。仕事に生きるところがあるけど、必ず埋め合わせをしてくれた。

 ブランドではないけど、良品質で長く愛用してきたもののような、安心感。その感情を教えてくれた。

 康太とこれからもずっと一緒にいたい。だから、康太と結婚したんだ。

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