小春日和に(4)


 自分から誘っておいて、平気で遅刻する。

 本当に変わってない。

「悪い悪い。寝坊しちゃった」

 全く悪気がないところも、健在だ。

「別にいいよ。お茶するだけだからね?」

 呆れながらも、怒らずに許してしまう、弘高に甘い自分も含めて。

「わかってるって。マジ、会ってくれてサンキューな」

 心の底からうれしそうな満面の笑顔。この顔が好きだった。あの頃に戻って、キュンとしてしまった。

 同窓会から三日後。火曜日の昼下がりに、弘高の昼休みを利用して、会うことになった。

 下心とか何もない。ただ友達と会うだけ。と、誰にでもなく言い訳をして。

 弘高の行きつけだという喫茶店に移動した。

 マスターは五十代くらいの渋いおじさんだった。弘高に気づくと、やあ、と手を振った。

 古風な純喫茶だった。木造で、インテリアはブリキのおもちゃなど、時代を感じさせる。

 流れている音楽は、ジャズだった。コーヒーのいい匂いが店内に優しく充満している。

 普段ふざけた印象しかない弘高が、こんな落ち着いたお店に通っているとは知らなかった。

 マスターが淹れたてのコーヒーとクッキーを運んでくれた。湯気が鼻にすっと流れ込んでくる。

いい匂い。

一口すする。ちょっぴりほろ苦くて、でも砂糖を入れていないのに、ほんのり甘い。おいしい。

静かな時間が流れる。弘高が口を開く気配はない。

なんの用事?お昼休み、大丈夫なの?

聞けばいいのに、聞けない。居心地は悪いのに、コーヒーは優しい。飲み終わるまで何も話さなかったら、帰ろう。

目の前に座る弘高をコーヒーカップ越しに見る。

わたし、この人と付き合ってたんだな。

あの手にも肩にも唇にも、触れたことがある。いまは遠いけど、一番近かったときもあって。元カレって不思議な存在だ。

 引っ越す前に住んでいた家みたいだな。

 そんな例えが浮かんで、最近家のことばっかり考えてたからなあ、と苦笑する。

「なに、笑ってんの?」

 弘高が顎を引いて上目遣いに香奈を見る。

「ううん。なんでもない。それより、急に連絡してきてどうしたの?」

「いや、この間同窓会で話せなかったからさ。久しぶりに話したいと思ったんだよ。迷惑だった?」

「そんなことはないけど」

「よかったー」

 弘高が、安堵の笑顔を見せる。張り詰めていた糸がプツンと切れるような。思わず、心を許してしまった。

「そういや、香奈結婚したんだって?」

「うん。先月結婚式あげたよ」

「そうなんだな。おめでとう」

 香奈が知らない、大人の弘高の表情だった。

「ありがとう」

 過去のこと、全部どうでもよくなった、全部全部許してしまおう。そう思った。その時は。

「実は、おれも結婚したんだよ。おととし」

「あ、そうだったんだ。おめでとう」

 弘高の薬指に指輪はなかった。だから、勝手に独身だと判断していた。

「ま、子供ができて、仕方なくな。結婚なんてまだまだしたくなかったのにさ。嫁にやられたって感じ」


 ん?


 香奈が、なにも反応できずにいると、弘高はスマホの写真を見せてきた。

「これ、おれの嫁。ブスだろ?計算だけは高い女なんだよ。半年くらい記念に付き合ってやったら、子供作りやがって。おれ、騙されたんだよ。だから、他の女と遊んでんだ」

 確かに、奥さんは弘高の好みの顔ではなかった。どちらかというと地味な顔立ちで、服装もおとなしめだった。でも、決してブサイクではないし、おしとやかで優しそうな印象を持った。

 それよりも、弘高の態度だ。モヤモヤする。

「なんか、香奈にはなんでも話せちゃうな。五年前は、いきなり連絡取らなくてごめんな。香奈のことはいまでも大事に思ってるよ。これからも会ってくれない?てか、きょうの夜予定ないなら、酒でも飲みに行かないか?」

 


 あれ?弘高って、こんなつまんない男だったっけ?


すっと、気持ちが冷めるのがわかった。まだ、自分に好意を持っていると思っているのだろうか。

 コーヒーの味が急にしなくなった。せっかくのおいしいコーヒーなのに。

 香奈は、財布からお金を取り出す。

「ごめん、わたしこれから予定があるから」

 コートとカバンを持つと、急いで席を立ち上がった。

 コーヒーがまだ三分の一以上残っていたけど、未練はない。

「え?いきなりどうしたんだよ。ちょっと、待てよ」

弘高が慌てて追いかけようとするのを振り切って、一目散に駅へ向かった。

 弘高も大人になって、落ち着いたんだと思ってしまった。

 なにも変わってない。クズのままだった。

五年前の記憶がフラッシュバックする。



弘高と付き合って一年が経ったとき、弘高が浮気しているのを知った。

弘高は、明るくて、おもしろくて、周りにはいつも女の子がいて。無理だと思いつつも惹かれてしまっていた。

香奈は、そんなに積極的ではない性格だし、男の子とワイワイ遊ぶようなグループに属していなかった。由梨は男子を相手にしていなかったし、明里はいつも彼氏にだけ夢中だったし、葉月は本ばかり読んでいた。

大学二年生になったときに、初めて弘高と言葉を交わした。

 由梨が弘高の友達に好意を持たれたことがきっかけだった。

「香奈ちゃん、由梨ちゃんと仲いいよね?こいつが由梨ちゃんのこと狙ってるんだけど、由梨ちゃんって彼氏とかいるの?」

友達の顔なんて見る余裕もなかった。

「いえ、いません」

たったそれだけ声に出すのがやっとだった。

「サンキュー」と笑った弘高の顔にさらに思いは募った。

会話とも言えない絡みだったけど、香奈にとってはこのまま空を駆け巡りたいほどうれしい出来事だった。

その後、その友達が由梨に告白して、大玉砕するまで、弘高との接点ができた。確か、たったの半年くらいだったけど、夢のような時間だった。

接点がなくなった後も、たまに大学内ですれ違うと、「よっ」と声をかけてくれた。それだけでも嬉しかった。

弘高が彼女と別れたのを知ったのは大学三年生の終わりだった。

就職活動が始まって、ゴタゴタがあったとは聞いたけど、詳しくは知らなかった。

それよりも、いまがチャンスだと思った。その頃には、就職活動と卒業論文が忙しくて、友達とすら顔を合わせることがなくなっていた。弘高のことは片手で数えられるほどしか見かけていなかった。

大学最後に、告白して振られるのも思い出かな。

そんな軽い気持ちだった。タイミングよく、大学で会ったのも気持ちを後押しした。

告白なんて初めてだし、香奈はまだ誰とも付き合ったことがなかった。

顔を合わせるだけで緊張する。卒業したら、もう会えないんだから、振られたって構わない。そんな保険を心の中でかけた。意を決して、付き合ってほしいと伝えた。


「いいよ」

 

 振られると思っていた。弘高の元カノに比べたら、自分なんて全然かわいくないし、スタイルも劣ってるし、服装だってダサい。

 あまりにもあっさりとした返事で拍子抜けした。

 そこから弘高との交際がスタートした。

 夏は一緒に海に行ったり、夏祭りやクリスマスや大晦日などの、イベントごとはすべて一緒に過ごした。

 初めてのキスも、そこから先も、全部全部初めてを弘高に捧げた。

 彼氏と過ごすのがこんなに楽しくて幸せなことなんだと、いままで知らなかったことがもったいなかったと感じた。付き合ってからの方が弘高のことを好きになっていた。

 弘高の周りには、相変わらず女の子が群がっていた。でも、気にしなかった。私がこの人の彼女よ、と得意げになったりもした。

 大学を卒業して、社会人になって、一年目の冬。仕事が忙しくてなかなか会えない日々が続いていた。

 だから、クリスマスは気合を入れていた。十二月になっても弘高からメッセージがこないから、香奈から送った。

「クリスマス、会えるよね?」

 二週間、返事がなかった。既読にはなっていた。

「ごめん、クリスマスは厳しい」

 クリスマス当日の朝。やっときた返事は、たったそれだけ。

その夜、明里から電話があった。香奈は一人でテレビを見ているときだった。

「香奈、いま弘高と一緒だよね?」

 泣きそうな声だった。何事?と思いながら一人でいることを伝えた。

「落ち着いて聞いてね。弘高が、女と歩いてた。しかも、ラブホに入っていった」

 頭が真っ白になった。明里は話を続けた。

 繁華顔で見かけて、尾行したらしい。女性は弘高と腕を絡ませていた。顔は見えなかったが、スタイルが良くて派手な人だったらしい。

 話は入ってこなかった。でも、香奈は意外に冷静だった。

 すぐに、弘高に電話をした。

 ルルルルルルル ルルルルルル・・・・・・

 出て、と祈りながら、虚しく着信音が鳴り続けた。

 弘高は出なかった。

 その後、連絡も一切なかった。

 会いに行こうと思えば会いに行けた。でも、事実を目の当たりにするのが怖かった。弘高がそんなひどいやつじゃないって思いたかった。

 だから、香奈からも連絡をしなかった。

 恋愛の終わりはあっさりと訪れることを知った。

 事の顛末を話すと、由梨は殴り込みにいく勢いで怒ってくれた。葉月は、慰謝料を請求しましょうと冷静に怒ってくれて、明里は泣いて抱きしめてくれた。

 みんながいたから、自分のことのように考えてくれたから、香奈は立ち直れた。弘高のことを恨むことはなかった。

 あの時は、まだ弘高から連絡があるんじゃないか、と期待していたところがあったと思う。

 恋は盲目というけど、浮気をされたのに弘高を好きな気持ちはしばらく続いた。

 弘高が心から消えたのは、いつだったっけ。


 駅についた。まっすぐ家に帰る予定だった。

 気づいたら、香奈は、家とは逆方向に向かう電車のホームにいた。

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