雨の降る日に
ちえ
雨の降る日に
雨なんて嫌いだ。
偏頭痛はするし、くせ毛が湿気でさらにくせ毛になるし、部活は教室で筋トレになるし、全部が最悪だ。
梅雨は、ぼくにとって、1年で最も暗黒期だ。
ぼくは、学校について、速攻でトイレに向かった。鏡を見て、ため息。せっかく朝から1時間もかけてヘアアイロンでセットした髪の毛が、台無しどころか悪化している。
先月、智大がストパーをかけたことを自慢してきた。くせ毛同盟を組んでいたのに。裏切り者だ。
「恭介もストパーかければいいじゃん」と智大が手入れの要らなくなった髪を触りながら言った。
ぼくだって、かけたいに決まっている。
また、ため息。
智大は小遣いを5千円貰っている。ストパーが1万くらいだから、2ヶ月も貯めればできる。一方、ぼくは2千円しか貰っていない。5ヶ月も遊びとかいろいろ我慢するのは、無理だ。
お母さんに小遣いを上げてよと訴えたけど、「高校生になったらね」と、ことごとく失敗に終わっているのは言うまでもない。
放課後、「部活行こうぜ」と智大がぼくの机に来た。
おー、と椅子から立ち上がったとき、ペンが床に落ちた。
拾おうとしたぼくより先に、隣から手が伸びた。
隣の席の安藤さんだった。顔をあげた彼女の長い髪がサラッと揺れる。
「どうぞ」
無表情のまま安藤さんはぼくにペンを差し出した。
「ありがとう」
ぼくがペンを受け取ると、安藤さんはぼくより先に立ち上がって教室を出て行った。
「安藤さんって、暗そうだしかわいくねえけど、髪の毛はきれいだよな」
智大が、羨ましそうに言った。智大はじゃがいもみたいな顔をしているし、智大の彼女だって、ぼくに言わせたら全然かわいくない。
だから、最初の一言は余計だろ、と思いながら、きっと嫉妬も入ってるってわかったから、ぼくは曖昧に笑った。
ちなみに、智大はストパーをかけて1週間後に彼女ができた。
違うクラスの子で、髪型がキマれば自信がつくのか、智大はストパーをかけたら告白すると決めていた。
まあ、でも、とぼくはカバンを手に持った。
最後の一言がなかったら、ぼくは智大に反論していたかもしれない。
なぜなら、ぼくは今年安藤さんと同じクラスになったときから、彼女のことが気になっていた。
もちろん、髪の毛のことだけじゃない。
安藤さんと最初に話したのは、新学期が始まって、3日が経ったときだった。
ぼくの名字は、相川で、出席番号1番同士。日直が同じだった。
14年間くせ毛に悩まされて育ったぼくにとって、安藤さんの長くて漆黒で艶があってストレートの髪の毛は、クラスのどの女子よりも目を引いた。
だから、先生に頼まれたノートの回収をして職員室に向かっているとき、無言なのがつらくて、ぼくはつい、「安藤さんの髪の毛すごくきれいだよね。もとから直毛なの?」と訊いていた。
あとから考えたら、いままでまともに話したこともない女子に、いきなりそんなことを言うなんて変態っぽいし、返事を困らせたはずだし、恥ずかしくて死にそうだ。
だけど、安藤さんは少しも笑わず、戸惑った様子も見せずに、何事もないように言った。
「子どもの頃からずっとこの髪型よ。貞子のオファーがあったら、喜んで引き受けるわ」
え?
戸惑ったのはぼくの方だった。
予想外の反応に、頭がついていけなかった。ぼくが、何て返事をするのが正解なのか悩んでいる間に職員室に着いてしまった。
職員室から出ると、安藤さんはぼくを見た。
「さっきのは、冗談よ。それじゃあ」
それだけ告げると、振り返って帰ってしまった。やっぱり、安藤さんは少しも笑わずに、ぼくはなにも反応ができずに。
ぼくは、安藤さんの後ろ姿を見送りながら、今度はうまく返事をしよう、と小さく決意した。安藤さんのきれいな髪が、左右にリズムよく揺れていた。
6月の中旬は、中間テストがある。1週間前になると、部活はテスト休みに入る。
「恭介、ごめん。きょう彼女と帰るんだわ」
智大が帰りのホームルームのあと、申し訳なさそうな顔でぼくに謝った。
ドア越しに、智大の彼女が見えた。ピンクの大きなリボンで広がった髪をポニーテールにしている。きょうも外は雨で、湿気がすごい。雨の日は、髪をまとめる女子が多かった。
ぼくは、一人で歩いて帰りながら、きょうは偏頭痛がひどいなと、感じた。
いつも一人でいることは少なくて、部活があるか、智大が一人でずっと隣で話してるかだったから、いままでは痛みが紛れていたのかもしれない。
ガンガンと鳴る頭を抑えながら、信号の前で止まった。
雨だと、いちいち傘から顔を上げて信号を確認しなきゃだから、面倒だ。頭を振ることにもなるから、頭痛のときは辛い。なるべく、下を向いて歩きたいのに。
ふと、隣に気配を感じた。そっと横目に見ると、安藤さんだった。ぼくと同じように、ずっと下を向いている。
何か話したいな、と考えたが、気の利く話題がなにも見つからなかった。
ぼくが考えている間に、急に安藤さんが歩き始めた。その前に、動いた気配は全くなかった。
「ちょ、安藤さん!信号・・・」
顔を上げたぼくの目に、歩行者信号の青い光が飛び込んできた。いつの間にか信号が変わっていたらしい。
安藤さんは、不思議そうに振り返った。ぼくが「な、なんでもないよ」と言うのを聞いて、また歩き出した。
次の信号でも安藤さんと同じだった。
ぼくは、意を決して話しかけた。
「あのさ、さっき信号見ずに渡ったよね?どうして信号が変わったのがわかったの?」
安藤さんは、ぼくを一瞥して、目線を道路に戻して言った。
「道路の水滴に反射して、信号の光が見えるでしょう?まるで赤い炎のようで、儚く揺れて、とても幻想的で、つい見とれてしまうの。だから、色が変わったらすぐにわかるのよ」
その横顔が、かすかに微笑んだのをぼくは見逃さなかった。
顔が熱い。
ぼくは慌てて、道路に視線を移した。たしかに、信号の光が反射して赤い炎がゆらゆら揺れていた。
そして、きっと、ぼくの顔もいま、このくらい赤くなっているだろう。
帰宅して、洗面台に立った時に、湿気で爆発した髪の毛を見て、これで安藤さんと話していたんだと、なぜだか激しい後悔に苛まれた。
安藤さんと話したのは、それが最後だった。
自分の気持ちに混乱したぼくは、安藤さんを前にすると恥ずかしくて、逃げ出したい気持ちになって、どう対処すればいいのかわからなくて、自然と避けてしまうようになった。梅雨が終わったら、と思う内に一学期が終わって夏休みに入ってしまった。
安藤さんに会えないもどかしさから、生まれて初めて、早く夏休みが終わって欲しいと強く願った。
しかし、夏休みが明けて学校に行くと、安藤さんの姿はなかった。
始業式が終わって、ホームルームの時間になっても来なくて、ぼくはどうしたんだろう、と気になっていた。
教室に入ってきた先生の顔が、やけにかしこまっていて、ぼくは根拠もなくいやな予感がした。
当てたくない予感だった。
先生は真剣な表情のまま、開口一番に、安藤はんが転校したことを告げた。
ざわつく教室に「静かに」と注意して続けた。
「本当は夏休み前からわかっていたことなんだが、安藤本人の強い希望で、このタイミングで言うことになった。たぶん、別れるのがつらかったからだと思うから、安藤のことを責めないように。それじゃあ、ホームルームを始めます」
そのあとの先生の話は全く耳に入ってこなかった。
安藤さんのいない日常が始まって1週間が過ぎた。
そもそもクラスで目立つ存在じゃなかった安藤さんのことを口にする人は、もうだれもいなかった。
みんな、安藤さんがまるで最初からいなかったかのように、夏休み前となにも変わらない日々を送っていた。
ぼくだけを除いて。
その日は、夏休み明けて初めての雨だった。
不思議なことに、 前ほど、雨が嫌いじゃなくなっていた。
「きょうの部活は筋トレだな」と智大がしかめ面で嘆きながら、ぼくのところへ来た。
「ごめん、ぼく頭痛いからきょうは帰るな」
偏頭痛がひどかったのは本当。でも、いままでと同じだし、部活を休むほどじゃなかった。
だけど、きょうは一人で帰りたい気分だった。
部活に行くと、智大と帰ることになる。だから、ぼくは大げさに言った。
智大が心配そうな顔で「大丈夫か?おれがコーチには言っとくから、ゆっくり休めよ」と労った。根はいいヤツだって知ってるから、智大のことは嫌いになれない。
帰り道、安藤さんと会った信号についた。赤だった。
ぼくは立ち止まって道路を見た。赤い炎は変わらずゆらゆらと揺れている。
たぶん、雨の日が嫌いじゃなくなったのは、これのおかげ。
目頭が熱くなった。
安藤さんの微笑んだ横顔を思い出して、余計に。
もっと話しかければよかった。
もっとあの髪を見ていたかった。
もっと笑った顔が見たかった。
もっと・・・
偏頭痛はいつの間にか気にならなくなっていた。
代わりに、熱い水滴が頬をゆっくりと伝う感触がした。
次から次に流れ落ちる。傘についた水滴が地面に落ちるのと同じスピードで。
この時初めて気づいた。
安藤さんのことが好きなんだ。
ぼくは、赤い炎を黙って見つめた。
なんの色かもわからないくらい滲んできて、ぼくはしばらくそこを動けなかった。
雨の降る日に ちえ @kt3ng0
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