第3話
朝、目覚めると見知らぬ天井が目に入った。壁の隅にはクモの巣が張ったままになっており気味が悪い。窓からは白い朝日が入りこみ薄暗い部屋を少しだけ明るく照らしている。それをぼんやりと眺めていると、昨日あった出来事が脳裏によみがえってきた。此処は一体どこなのだろう。父さんと母さん、それに村の皆は生きているのだろうか。
部屋の外から香ってきたほのかな甘い香りとパンの匂いに鼻腔を刺激された私はすぐに飛び起きて、匂いが立つ方へと急いだ。家の中はカビ臭く、灰色の塊となった埃も隅に積もっている。どうやら此処の家の主人は掃除と言うモノが苦手らしい。
私を誘う様にしていた甘い香りとパンの香りが一番濃い部屋に飛び込んでみれば、そこには薄汚れたキッチンで何かをしている、『女の子』の姿があった。彼女はラベンダー色をしたワンピースと白いエプロンを身に纏い、機嫌よさそうに鼻歌なんかを歌っている。
私がこの部屋に来たことに気付いたのだろう、彼女は私の方を向いて「おはよう」と幼い声で挨拶してくれた。でも、この声は間違いなく昨日私の家にやってきた子の声と同じもの。それに、瞳だって同じ綺麗な空色。昨日は村に住む男の子の姿をしていたのに、どうして今日は見知らぬ女の子の姿をしているのかしら。
「キミの分の朝食ならテーブルの上にあるから、遠慮せずに食べていいよ」
木で作られた茶色のテーブルを指差して笑む少女。まちがいない。この上から目線の物言いは昨日の子と同じ。でも、「どうして」という言葉が口から出てこない。それはきっと彼女の楽しげな鼻歌を聞いていたら訊ねてはいけない気がしたからだと思う。
彼女が指差していた粗末なテーブルの上には乱雑に置かれたカストリ雑誌や料理本。そしてその隣に取られていた小さなスペースには皿に乗ったパンとコップに入ったミルクが丁寧に置かれていた。何故こんな所に粗悪な体裁の大衆雑誌があるのか分らないが、多分彼女の趣味なのだろう。
机と同じ粗末な椅子に座って温かいミルクを口に含めば、ほんのりとした甘さと乳臭さが口の中に広がる。相変わらず私に背を向けながら何かを作っている彼女は一体どんな名前なのだろうか。
「ねえ、アナタの名前は何て言うの?」
私が彼女に名を問いかければ鼻歌を歌っていた彼女はぴたりとそれを止め、少しだけ躊躇うように声を発した。
「……ファース」
「ファースね。分かったわ。私は――」
名を教えてくれた彼女に私も名前を教えようと口を開けば「君の名前なんか知りたくもないよ」と一喝されてしまう。「でも、知らないと不便でしょう?」と提案してもまた否定された。そしてそれ以上言おうとすれば鋭い目つきで睨まれる。この子は私を認めないのね。それならどうして私を此処に連れてきたりなどしたのかしら。私の名前さえ知りたくないと言うのなら、普通は連れてきたりはしないでしょう?
彼女が示した反応に少しだけ寂しい気持ちになりながら、私はテーブルの上に置いてあったパンを齧る。しかしそのパンは思っていたより水っけがなくパサパサしていて食べにくかったため、私はすぐにミルクを口に含んだ。普通のパンならもう少し、しっとりしているのに。どうしてこんなにパサパサしているの。
そうだ、お父さんや母さん、村の皆はどうなったのだろう。此処には居ない人達の顔を思い出した私は、「ねぇ、村のみんなはどこへ行ってしまったの?」とそのことについて知っている筈のファースに再び問いかけた。しかし彼女は「さあね、僕は知らないよ」と言って鼻歌を再び歌い始めてしまう。
彼女は知らないと言ったけれど、それは嘘に違いない。だって彼女は昨日私の家に来た子となんとなく同じだと感じるから。だけど私は、彼女が昨日の彼と同一人物だといえる確かな証拠を得てはいない。気のせいじゃない、違うよと彼女に否定されてしまえばそれでおしまい。その程度のものでしかないのだ。悔しいけれど、これ以上訊いたって彼女は答えてなどくれないだろうから、私はファースの鼻歌を聞きながら無言でパサパサしたパンを口に詰めた。
食事を終えた私はファースが一体何を作っているのか気になり、彼女の傍へ寄ってみる。キッチンのそばにいる彼女は乳白色をした液体を小さな鍋でぐつぐつと煮込んでいた。
「なあに、それ」
傍らにやってきた私をちらりと見ただけで、彼女はまた視線を鍋に向ける。鍋から薄く香る匂いは何かの薬だと分かるけれど……これは一体何なのかしら?
「嗚呼、これは特定の人にだけ効く恋の妙薬だよ」
「……それってどういう意味?」
特定の人にだけ効く恋の妙薬だなんて少しおかしな話じゃない。どうして万人に効かないのかしら? その疑問を胸に抱きながら不思議そうな顔をすれば、ファースは少しばかり呆れた表情をした後で笑みを作った。
「どうやらキミはひどく知りたがり屋さんみたいだね」
彼女の言葉に、「そうね、私は知りたがり屋だわ。だから教えて?」と答える。私は彼女の言う通り『知りたがり屋』なのだから仕方がないでしょう? それに自分でわざとそうしているワケじゃないけれど何時だって私の頭の中は「何故」や「どうして」の言葉で満たされているんだから。
「カンタレラだよ」
一切の躊躇いもなく彼女の口から出た言葉は、知る人ぞ知る毒薬の名前。それを知っていた私はカンタレラと言う単語を聞いた瞬間息を呑んだ。
「……どうしてそんな毒薬が恋の妙薬と言えるの?」
だって普通毒薬は人を苦しめるものでしょう? 人を恋に陥らせる妙薬などには成りえないわ。だけど私の問いを聞いた彼女は少しだけ驚いたような顔をしてしばらく私の顔を見ていた。きっと彼女は私がカンタレラを知らないと思っていたのね。
「毒薬が恋の妙薬と言えるのは、客が『そうなること』を望んでいるからだよ。自分の物にないなら、命もろとも奪って自分の物にしてしまえばいいと考えている。もっと努力すれば手に入る物なのかもしれないのにね」
ファースは小さく笑ってまた鍋の中身をぐるりぐるりとかき回し始めた。そんなことを考えるお客さんもお客さんだけれど、それを作る彼女も彼女よ。どうしてそんな物騒な物を作ってしまうの?
「それはね、使う人が決めることだからだよ。僕はその道具を作ってあげればいい。紛いなりにも彼は人の子なのだから、人一人が持つ命の重みぐらい重々理解しているはずだろう?」
道具を作るのは自分の仕事、それをどうやって使うかは客の自由。自分が作った道具がどのように使われようが彼女は認知しないし、責任も勿論とらない。むしろ道具の悪用を唆すような言葉を聞いた私の気分は重くなった。
この重たくなった自分の気分をどうやって晴れやかにしようか。そう思った私は部屋の中に光を取り込んでいる窓の方を見やる。そこから見えた風景は鬱蒼と茂る森で、此処が森の傍なのだと言うことが分かった。
「外に出てもいい?」
「構わないよ。行ってらっしゃい」
遠くまで行かないようにとか、昼までに帰ってきなさいとか、そんなことも言わずにファースは私を外へと送りだす。どうやら彼女は此処にきたばかりの私より、毒薬の方にご執心らしい。
小屋の周辺には森の木が生えておらず眩いばかりに燦々(さんさん)と当たっていた。それに村にあった物より小さいけれど畑があり、畑仕事が好きな私は少しだけその畑をいじりたくなる。けれどまずは家の辺りを見てみたいという自身の探究心に負けてしまい、畑から離れることにした。
ぐるりと家の周りを回ってみれば、畑と反対側には井戸があって、裏には小さな花畑があった。ただ暗くて、恐怖の対象になると思っていたこの森の中にもこんな落ち着いた場所があるなんて不思議だなあと思ってしまう。
そして、私のいる場所を取り囲むようにして生えている森の方に目をやれば、まるで森が「何もしないから、こちらにおいでと」誘うようにして木々の枝をゆらした。どうしよう。この森は暗くて、入るには多少の勇気がいると思うけれど……。
そんなふうにして私の探究心を擽(くすぐ)って止まない森。自分の気持ちを抑えることのできなくなった私は勇気を振り絞ってその森に入ってみることにした。村に居た時は『魔女』が居るからと森に入ることを禁じられていたけれど、今は誰も禁じる人はいない。だけど私はすぐに森へと足を踏み込んでしまったことを後悔した。
何故なら森に一歩入っただけなのに、もう何十歩も森の中を歩いたかのような錯覚を引き起こさせられたから。森に入る前の場所から見た太陽は眩しいぐらいに燦々と輝いていたのに、一歩この森に入った場所から見る太陽は眩しさなんて微塵も感じさせてくれない。外から見た森もとても鬱蒼としていたけれど、実際歩いてみると思っていた以上に暗く、不気味だった。地面には蛇や気味の悪い虫が通るし、空の上では姿の見えない鳥が鳴き声を上げている。
早く森の外から出なくては。そう思い直した私が今まで通ってきた場所を戻ろうと一歩踏み出した瞬間、私は森の奥に一歩足を進めていた。確かに私は森の外へ出ようと一歩を踏み出したはずなのに、どうして。まるで、戻ろうとすればするほど森の奥深くに行ってしまっている。そんな状況に陥ってしまったみたいじゃない。
ありえない。頭ではそう分かっていても自分の身体は「こわい。こわい。もりが、こわい」と震える。その時になって私はやっと大人たちが森に入ってはいけないと諭していた理由が理解できた。『魔女』が居る、居ないなどの問題ではない。森自体が入った人間を逃がそうとしないから入ってはいけないのよ。
一歩でも森に足を踏み入れてしまえば、森は決して入った人間を逃がさない。外で見た枝の揺れは「何もしないから、こちらにおいで」と言っていたように感じられたのに、入ってしまったら「逃がしはしない」と言っているようだ。傍に生える木々、木に纏わり付く蔦、足元に広がる苔、全てが一丸となって私にねっとりと絡みつく。勿論本当に絡みついているワケではないけれど、そうとしか思えない。
そんな恐怖や森の意思から逃げる様にして私は必死に走る。やっと森の外にたどり着いた時はもう、空には眩しいぐらいに輝く太陽はなく、星達が暗い夜空で煌きあっていた。
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