第2話



 私の部屋からよく見える真っ暗な森には、ヒトならざる力を得た『魔女』がいるから森に入ってはいけないよ、と村に住む大人たちが口々に子供に諭している。けれど、そんな『魔女』だなんて非科学的な人間が存在するわけがないじゃない。それにヒトならざる力を得たと言うならば、それはもう『ヒト』なんかじゃあないでしょう? それは皆も知っている筈なのに、どうして森の中に『魔女』が居ると私たちに諭すのかしら。


 それほど良くもない自身の頭で考えても、暗くて光など一切入らない森が怖いからや、森に住む獣たちが恐ろしいから、などという幼稚な理由しか浮かび上がらない。私が持つ疑問に頻繁に答えくれる父さんは、人が何かを恐れる理由を「人間はその物事を知らないから恐れるのであって、知ってしまえば恐れはしないんだよ」と教えてくれた。だから、きっと私の知らない何かを村の大人たちは知っているのだろう。


「ご飯できたわよー」


 時々別の物事を考えながらペンを滑らせ勉強に励んでいた私に、下の階から私を呼ぶ母さんの声が届いてきた。それを聞いた私は「はあい」と返事をして、階段を駆け下りる。階段を踏むたびにギシギシと木の軋む音が聞こえてきた。明るいオレンジの光が、部屋の中を照らしている居間へ行けば、父さんが「早く座りなさい」と私に勧めてくる。スープの入った鍋を持ってくる母さんは「冷めないうちに食べましょう」と言って微笑む。何時もの明るい食卓に、湯気の立つ料理。絶対に変わらない日常。そのはずなのに、どうして今日は村で飼っている牛や羊たちの鳴き声が悲鳴のように聞こえるのかしら。


「ねえ、動物たちの鳴き声が聞こえない……?」


 けたたましいほどに鳴いている牛や羊たちの様子が気になった私は恐る恐る父さんに訊ねてみる。しかし父さんはほうけた顔をして「父さんには何も聞こえないな。母さんは聞こえるかい?」と母さんに訊ねた。父さんに話を振られた母さんは父さんと同じ様に「私にも聞こえないわ」と言いながらも、顔を真っ青にさせている。二人の様子を見ていると、私の中に「二人は何を恐れているのかしら?」という疑問がむくむくと膨らんできた。そしてその疑問に耐えきれなかった私はガタンと座っていた椅子から立ち上がる。ちなみに私はよく「こらえ性のない子ね」と母さんに注意されている。


「私、見てくる」


 外の様子と、両親が恐れている『何か』の正体が知りたい私が外へ行こうとすれば、母さんが私の手を掴んで引き留めた。やっぱり母さんは外で何が起きているのか分っているじゃない。私は答えのある隠しごとや秘密の類は知っている立場に居ないと気が済まない質だと、一番一緒にいる人達がどうして分かっていないの。


「今はまだ出ちゃだめよ!」


 ぐぃ、と手を引っ張られた私はその場でたたらを踏む。それと同時に父さんが私の目の前に出て「あいつは扉を開けなければ家に来られないんだ、だから」と、頼みこむようにして言ってきた。あいつって誰? そんな疑問も浮かんできたから、言葉にしようとしたけれどその言葉は唐突にやってきた小さな来訪者の言葉によって阻まれた。


「誰がそんな確証のないことを言ったのかな? 僕は扉なんて開けてもらわなくても出入りぐらいできるんだよ」


 家の扉を破壊し、「にたぁり」と子憎らしい笑みを浮かべたその小さな人の正体は、私たちが住む村の子の一人だった。だけど父さんと母さんは顔を恐怖の色に染めている。私たちが今、目の前にしているこの子とは昨日もその前の日も顔を合わせていた筈なのに、どうして父さんと母さんはそんなに恐れているの?


「君たちに会うのは五年と五日ぶりだねえ」


 変わらず「にたぁり」と笑うその子の姿を見て、私は何故だろう、昨日も会ったじゃないと思う半面、嗚呼、懐かしいな、なんて場違いなことも思ってしまった。私の頭はこの子の中身を覚えていないけれど、身体はしっかりと覚えている。だから、私はこの子と会うのが久しぶりだと思ったの。それに村に住むこの子の眼は空色と同じ水色ではなかったはず。


「今更、何をしに来たんだ」


 目の前にいる彼から私を庇うようにして父さんが私の目の前に立ちはだかる。その声は珍しく震えていて、やはり父さんはこの子が怖いんだということが明確に理解できた。でも私にとってこの子は恐れるに足らない子なのに、どうして父さんはそんなに恐れているの? 父さんはこの子の何を知っているの?


「何をしにきたかって? 僕は対価をもらいに来たんだよ」

「どうして? 私たちはちゃんと対価を払ったじゃない!」


 私の腕を掴んで離さない母さんが私の耳元でそう叫べば、彼は顔を怪訝そうに歪めてため息を一つ吐いた。私の方は母さんが何を言ったのか理解できずに戸惑うことしかできない。


「君も何を言っているのかな? 僕は君たちが自分の子供を助けるために、他人の子を対価として売ったことを掘り返しているんじゃないよ。今、この村の村長が自分の孫を助けるために、村人全員を僕に対価として売ったことを言っているんだ」


 全く、この村の人間ときたらそれを理解するのに時間がかかるから嫌になっちゃうよ。と彼は言って再び「にたぁり」と笑った。そういえば、最近村長さんの孫が、私も一度なったことのある特異な病気になったと聞いた気がする。でも、この村の村長さんは優しくて、みんなのことを何時も考えてくれている優しい人だったから、私たちを売るだなんてことするワケないじゃない。なのに、私の腕を掴む母さんの力が強くなっているのはどうしてなの?


「それにしても、君たちって浅ましいよね。他人の子が苦しんでいる理由を知っているのに、平然と知らないふりをして『すぐに治るよ』なんて言っちゃってさ。自分の家族のために他人の子を売って。だから自分の子にソレが返ってくるんだよ。嗚呼、でもこれはこれで人間の真理に忠実だから、世間としては認められないけれど、ヒトとしては十二分に認められるよね」

「どういうこと?」


 嬉しそうに笑う彼の言葉を理解できないでいる私が小さく呟けば、彼は少しばかり不満そうな顔をしてから再び口を開いた。


「キミはまだ分らないでいるみたいだけど、この村の人達は皆、自分の子の病を治すために他の子を僕に対価として売っていたんだよ。そして僕はその売られた子に、僕しか治すことのできない特異な病をかけたんだ。キミの親たちだってキミのために『そう』したんだから、ちゃんと理解して、自負しないと駄目だよ」


 それでは今、治らぬ病にかかっている村長さんの孫に病を掛けたのは彼だけれど、そうさせた者の、原因の中には私の両親も入っているということなの? 目まぐるしく回る頭の中。彼の言う言葉は分かったけれど、これは理解しても良いのかしら? ううん、私は理解しなくちゃいけない。そう覚悟を決め、彼の言っていた言葉を整理し、理解しはじめる。すると父さんが叫ぶようにして「逃げろ!」と私に言った。


 私の腕を掴んだまま後ろにいた母さんは私の手を引いてこの場から連れ出そうとするけれど、彼の言葉を理解した私はそこから一歩も動かなかった。何故なら彼が言った言葉と、彼のした行為を理解したうえで逃げる必要がないと悟ったからだ。彼は私たちという対価が欲しいだけなのでしょう? それなら逃げても、奪われてしまう結末に変わりなんて何一つ無いじゃない。むしろ、逃げた方が苦しくて辛い思いをするに決まっているわ。


「くくく、それじゃあ対価を――いただきます」


 父さんを挟みながら見えた彼は、真っ赤なその舌でぺろりと舌なめずりをする。それを見た瞬間、ゾクリと背筋に悪寒が走った。彼は私にこんな恐怖を与える子だったかしら? そんな疑問だけが浮かんで私の視界は、まるで劇の幕が閉じるみたいにブラックアウト。最後に聞こえたのは父さんと母さんが叫び声だったと思う。


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