第6話 偽物少年D
相変わらず己に任せられた物事はこなしているけれど、僕のそばにいて僕を支えてくれていた妻が、僕の事や自分が本来大人であることをすっかり忘れてしまった。もしかしたら初期症状や前兆があったかもしれない。だけどそれらを全く知ることの出来なかった僕には彼女がどうしてそうなってしまったのか分らなかった。
勿論彼女に忘れられてしまったことは悲しくもあったけれど、それ以上にいつか僕も彼女を忘れてしまう日がくるのかと思うと恐ろしくなった。僕は大切な彼女を忘れてしまいたくない。僕だけでも、彼女との繋がりを持っていたいんだ。
ピンクのワンピースがお気に入りだった僕の妻は、僕をもう夫としても男としてさえも見てはくれない。ただの同じ年頃の『子供』という眼で見てくる。それがとても悲しくて、その事を知った日は涙で枕を濡らしてしまった。
どうかこれは夢だと言ってくれ。己の掌をぎゅと、力強く手を握れば、小さくなっても未だ自分の薬指にはまるアメジストの入る結婚指輪が僕を勇気づけるようにキラリと光る。ああ、まだ大丈夫だ。彼女はまだ指輪を付けてくれているから、完全に僕と彼女の関係が断ち切られたワケじゃない。そんなものは甘えた考えでしかない事は十分分かっているけれど、あきらめきれないのは、僕が彼女のことを愛しているからなのだと思う。
クリーム色と茶色を基調とした部屋にちょこんと座ってテレビを見ている彼女を眺めながら、彼女が以前僕に鏡の館の場所について尋ねてきたことがあったと、記憶を思い起こす。僕は夢の国の地図作りに関わっているため、あまり人に知られていない建物の場所などもそれなりに把握しているのだ。
ボクから鏡の館の場所を聞いた彼女はすぐさまその鏡の館へと出かけ、帰ってくるころにはほとんどの事柄を忘れてしまっていた。もしかしたら鏡の館に何かがあるのかもしれない。そう考えた僕はテレビを見ている彼女に一言言ってから、館へ行くために外へと繰り出した。
僕らの住居は街中に位置しているため、必然的に人が行き交う道を通ることになる。こういう時に知り合いに会いたくないなと考えながら人混みの中を歩いていると、大きな掲示板が姿を現した。
その掲示板に大々的に貼られているのは人探しの紙。何十枚とあるその紙の中には僕の妻の知り合いで、綺麗な金髪が特徴的な少女の写真も貼られていた。それと共に僕の目に飛び込んでくるのは小児化・伝染病について書かれている記事。ニュースでも度々取り上げられていたのだが、小児科・伝染病は今の医療技術では治らないらしい。テレビでその事を知った時は、白衣を着た白髪の大人が小児科・伝染病について長々と語っていた気がする。そんな話をするぐらいの時間があるのなら今の医療を向上させるように努めれば良いのに、大人は時にそんな意味のない事をしたがるから理解できない。
しばらく掲示板を眺めていた僕は何のために外に出たのかをハッと思いだし、すぐに掲示板を背にして街の外へと歩を進める。僕とした事が、一刻も早く妻が何故僕の事を忘れてしまったのかを調べないといけないのに、こんな場所で時間を無駄にしてしまうなんて。
鏡の館が建っている山の麓まで人がとりあえず通れる程度にしか舗装されていない林道を歩みながら小児化・伝染病についての記憶を掘り起こす。僕が小児科・伝染病にかかったのはおよそ六十年前。僕と彼女が結婚してからの事だ。勿論僕らは自らその病気にかかりに行ったわけではない。そのころは風邪と同じ要領で小児化・伝染病が蔓延していたから皆一斉に子供になった覚えがある。
それに今さらすぎて気にはしていなかったのだが、六十年以上も前から伝染していたウイルスが今の技術で治せないという事は忌々しき事態ではないだろうか。それに僕らを此処に連れてきたクラウンも、長い年月が経った今でも同じ姿を保っているのが不思議だ。
――クラウンは一体何者なんだ?
人間にも他の生き物と同様に寿命と言うモノがあるから、きっとクラウンは僕らよりも若い筈であるが……知ろうとしてはいけない事を知ろうとしている。そんな気がして、僕は今考えていたことを取り消した。それはきっとクラウンの第一印象として確立していた恐ろしさが思い出されてしまったせいだろう。初めて会った時のクラウンほど恐ろしいものを僕は見たことが無い。
歩いていた林道から視界が開けたと思えばそこには古びた建物と、それに群がるように茂る長い草が生えていた。初めて見た鏡の館は廃墟の様で、此処が本当に鏡の館なのかと目を疑う物である。しかし此処は間違いなく鏡の館がある場所で、僕はおおい茂る草をかき分けながら館の扉まで移動した。そして少しばかり躊躇いながら扉を開き、中の様子を窺えば見たこともない数の鏡がズラリと壁にかけられてある。それらを見て、僕はやっと此処が鏡の館なのだという事が自覚できた。
刹那、何かを訴える様な風が僕の横を通り何事かと空を仰げば、暗い色をした雲がどんよりと空を覆っていた。
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