真夏の幽霊船

第40話 濃霧×航海記録×追加メンバー

 霧に覆われた海上を一隻の船が走る。


 損傷を負った帆船だ。船頭から船尾に至る船体に破損が見受けられ、張られた帆にも複数の穴が確認できる。全長二百メートルはある船体は歴史上でも類を見ない大きさを誇り、帆船としては最長とも言える代物だ。動かすだけでも相当の人力が必要になる。それにも関わらず船上には人影一つなく、見張り台にも人が立っていない。


 船内も暗い。足場も碌に見えない暗闇の通路が続く。階層に繋がる階段を上り下りしても結果は変わらない。そんな不気味な船内にただ一つだけ灯りがついた部屋があった。


 それは船の最奥に位置する。部屋当てのプレートには船長室と書かれていた。窓に備え付けられた丸型の窓から淡い茜色の光が漏れる。複数の線となって通路を差す光に当てられた宙を舞う埃が煌めく。目覚めの朝に差す日光のような眩しさに思わず目を細めてしまうほどだ。


 船長室にある机に着席するのは白髪の男だ。顔には刃物による傷が一生物となって残っている。背まで伸びた白髪はぼさぼさで手入れが行き届いておらず、身を包む着衣もボロボロに綻んでいた。


 白髪の男は視線を机の上に落としながら手を動かしている。羽ペンを右手に握り、まるで何かに憑りつかれたかのようにペンを走らせていく。空白だったページが物凄い勢いで文字の羅列に覆い隠されてしまう。


 一冊の本に書き記されていくのは航海記録だ。この船の船長を務める白髪の男の日課である。その日の出来事を事細かく書き記していく。一文字ずつ丁寧に、しかし作業をインプットされた機械の如き速さでペンが走る。


 その姿は異様としか言えない。文章という物には決まった形はない。ある程度のテンプレートはあったとしても文字選びは個人の感性に委ねられる。まして航海記録ともなれば毎日のように書き記す内容は異なるはず。しかし、白髪の男が動かす手にはその様子はない。まるで何度も同じ内容を書き記してきたかのような正確さを持つ。無駄な動きも思考も一切介入していないようだ。


 無心で羽ペンを動かしていた手が止まった。


 航海記録を書き終えたのだ。羽ペンをインク壺に戻して席を立ち、身を翻して窓の傍に近寄った。ガラス越しに映るのは霧に覆われた景色。煙のように濃い霧はあらゆる物を呑みつくしたかのように景色を一切合切、呑み込んでいる。


 白髪の男は億劫になる景色に目を細め、そして大きく溜め息を吐いた。


「今日も変わらず濃霧の一日……。この悪夢から目覚める時は来るのだろうか?」


 溜まった不安と鬱憤を晴らすように独白した白髪の男は気分を変える為に部屋を出て酒を常備している貯蔵室に足を運んだ。自然と出てしまった苛立ちが閉まるドアの音に反映された。木製の扉が軋み、振動で揺れた丸型の窓ガラスが響いた。ドアが閉まった風圧が船長室を駆け巡って空気の奔流を生むと、それよって生まれた風が航海記録の日誌が立て続けに捲られていく。一枚、一枚、と誰かが捲っているかのように開かれていく航海記録の内容はどれも同じものだった。


                  ◇

 

 学生にとって夏本番は夏休みを迎えた時である。


 これは陽の学生友達が終業式当日に残した言葉だ。前の席に座る学生友達は暇あるごとに後ろを振り返っては机の上にパンフレットを広げて夏休みの計画を練り始める。


「花火大会! 夏祭り! 海水浴! そして薄着になる女性の数々!」


 欲望を隠さない学生友達の声にクラスメイトの女子から冷ややかな視線が集中するも躊躇う姿を一切見せない。鈍感なのか強靭な精神を育ませているのか定かではないが、この時だけは陽も尊敬の念を抱かずにはいられない。ただし会話相手の自分にまで飛び火していることが陽にとっては不満な点だ。


 そこに一人の女子が会話に入ってきた。


「二人とも相変わらず仲がいいね」


 一本に結った髪を揺らしながら声を掛けてきた女子、大西睦美おおにしむつみは茶化すような口調で声を弾ませた。後ろに伸ばした両腕の先を腰に当てて手を絡め、上半身だけを突き出すように前傾にしてパンフレットに視線を落とす。


「これ旅行のパンフレットよね? 二人でどこか旅行するの?」


「まさか⁉ 何が嬉しくて野郎と二人で旅行に行くかよ」


 陽の学生友達、三橋哲哉みはしてつやは鼻で笑う。彼にとって夏休み旅行というのは男女であることが条件のようだ。ただその言動は陽の癇に障った。


「同意するよ。男友達と旅行するのはいいが、こいつとだけはお金を積まれても行かないさ」


 節々に棘のある陽の発言に哲哉も噛みついて互いに喧嘩腰になる。その様子をいち早く察知した睦美が両者を取り持つ。事の発端を作ったのが自分なだけに彼女も悪く思ったようだ。


「まったくもう……。でもさ、今から旅行計画するのは遅くないかな?」


「それもそうだな。旅行となると宿の予約とか新幹線の切符とか必要になるだろうし、今からだと難しいぞ?」


 一発触発の空気から一変、旅行計画を練る哲哉を心配する空気が漂い始めた。空気に呑まれて哲哉の表情が不安に染まっていく。夏休みの思い出作りを意気込むが故に行動を移すのが遅れてしまうのは計画を練ることが出来ない典型的なタイプだ。


「ど、どうしよう――――‼」


 哲哉は頭を抱えて悲痛の声を叫んだ。楽しい夏休みを出鼻から挫かれたことが余程ショックのようだ。


「自業自得よ」


「自業自得だな」


 陽と睦美は落ち込む哲哉に対して容赦ない言葉を送った。


「お前たちは鬼か⁉」


 哲哉の人差し指が陽を差す。


「人を指で差すな」


 失礼な行為を諫めるべく陽は問答無用に指を掴んであらぬ方向に曲げた。あまりの痛みに哲哉は悲鳴を上げることも出来ずに悶える。


「よ、容赦ないね……」


 目に見て痛みがわかるだけに睦美も顔を引き攣らせる。想像するだけで身震いしてしまい、イメージを払拭しようと頭を左右に振って話題を切り替えた。


「陽君は夏休みの予定はあるの?」


「うん? ああ、新聞部で合宿することになってる」


「新聞部で合宿? 何をするのか想像もつかないのだけど……」


「あくまで合宿というのは名目でしかないよ。合宿と学校に提出して部費が落とそうとする部長の悪知恵さ」


 その辺りの事は一切合切、調に任せていたことに陽は少し申し訳ない気持ちになっていた。そもそも吸血鬼事件を追っている間は学校を休んでいた。行政区の臨時職員として勤めていることは学校も調も知っているから言い訳はいくらでも取り繕うことは出来るが、嘘を吐いていることに変わりはないので良心が痛む。


「安芸津先輩は食わせ者で有名だもんね」


「言動だけを見ていると騒ぐのが好きな小さな女の子だからな」


 陽は本人を前にしては絶対に言えない禁句を言葉にした。先輩とは思えない小柄な体躯は調にとってコンプレックスだからだ。外見の幼さだけならば那月と争う。年齢的に調は成長の見込みはあるが、年齢を重ねた後も那月のような冷静沈着な人物になるとは考えられない。それだけに幼い容姿をした大人の女性が騒がしくしている想像が容易に出来た。


「何を言っている⁉ あの幼い容姿が調先輩の魅力じゃないか⁉」


 痛みから復活した哲哉が拳を握りながら力強く言った。その発言がまたしてもクラスメイトの女子の視線が冷たいものになる。


「何よりそんな調先輩と一つ屋根の下で寝食を共にすることがけしからん! もとい羨ましくある!」


「どうして一つ屋根の下だとわかるのよ?」


「合宿と言えば一つ屋根の下でキャッキャウフフ、と青春するのがお約束だろ!」


「不純にもほどがあるわね」


 睦美が呆れた声を出す。どこで培った知識なのか疑いたくなる程に偏った思想である。そこに追撃ちをかけるように陽が口を開く。


「合宿に参加するのは俺と部長だけではないぞ?」


「え? 新聞部の合宿なのに?」


「部長が数人なら呼んでもいいということだったからな。まあ、それは行政の知人を誘う形で収まったけど」


「それお前を除いたメンバーは女性だろ?」


「その通りだけど、よくわかったな」


「このハーレム野郎が!」


 哲哉の右ストレートが陽に迫る。完全に不意を突いた一撃だ。それを陽は容易く躱す。どれだけ不意を突かれたところで一般人の一撃を直撃するようなへまはしない。


「そんなに羨ましいならお前も合宿に参加するか?」


 懲りずに二発目の右ストレートを見舞おうとした哲哉の動きがピタリと止まった。巻き戻しされたかのように右腕を正位置に戻っていく。それから数拍置いた後、先程の右ストレートとは比べ物にならない速度で陽の両肩を掴んだ。それは陽ですら初動を見切れなかった早業である。


「陽! 否、陽様! 是非とも参加させてください!」


 これまでの哲哉とは口調から言葉遣いまで別人である。その様子に呆れるあまり溜め息がクラス中から漏れた。


「本当に現金な奴……」


 なかでも一番の呆れた顔で見ていた睦美が肩を竦めながら言った。

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