第20話 漆原陽×過去×母親

 月が姿を隠して陽が昇った。気絶もとい深い眠りに入っていたクラリッサは太陽の陽射しの眩しさに目覚めた。重たい目蓋を鬱陶しそうに開けては閉じての繰り返しをする。軽く運動したことで目蓋も温まって眠りから目覚めて活発に動き出す。パチパチと瞬きを繰り返してようやく視線の先に広がるのが朝空なのだと認識した。それでも自分がどうして仰向けになって寝転がっているのかわからず、思考を働かせようにも寝起きということもあって上手く整理が追いつかない。


「確か昨日は……」


 クラリッサは記憶を探りながら昨日の事を整理していく。容疑者として浮上したニールセンと接触するために行政区行きの列車に乗車して、その途中で武装集団に襲撃された。それから民間人に犠牲者を出さないように列車の窓からセーレ河に跳び込む。恐怖のあまり混乱してしまあった自分を陽が必死に河川敷まで運んでくれた。


「その後は陽さんと那月さんが喧嘩を始めて――‼ そうだ喧嘩を止めようとして法術を唱えた!」


 記憶の整理が追いついたクラリッサは、がば、と上半身を勢いよく起き上がらせながら叫んだ。頭を左右に振って辺りを見回すも人影ひとつない。そのことに焦りを覚える。簡単に我を失ってしまったことに愛想を尽かされて置いていかれたのではないかと思ったからだ。それは視界外の領域から届いた声によって杞憂だったと知った。


 クラリッサは背後を振り返る。そこには小さく欠伸をした那月が立っていた。


「朝の目覚めの気分はどうだい?」


 ほれ、と那月は自販機で買ってきた缶コーヒーをクラリッサに投げ渡してからプルタブに指を引っかけた。ブラックコーヒー独特の泥のような苦さで喉を潤す。


「缶コーヒーも悪くないものね」


 普段は豆から挽いて飲む那月にとって缶コーヒーは少し新鮮なものだった。


「あら、飲まないの? 貴方のはちゃんと砂糖入りを選んでおいたのだけど……。もしかしてコーヒーは嫌いだった?」


 缶コーヒーを受け取ってからも呆然としているクラリッサの様子を見た那月はコーヒー嫌いだったかと心配した。


「い、いいえ! いただきます!」


「そんなに慌てると――」


 那月の心配は的中した。慌てて飲んだあまりコーヒーが気管に入って咳き込む。


「ほら、言わないことではない」


 予想通りの事態に那月は肩を竦めた後、咳き込むクラリッサの背中をさすった。


「す、すみません……。はい、もう大丈夫です。ありがとうございました」


 少し息切れをしながらも先程までの苦しさはクラリッサから消えていた。余裕が生まれたクラリッサは陽の姿がないことも思い出す。


「あの……、陽さんは?」


「陽なら向こうで寝てるわ」


 那月が指差した先をクラリッサは視線を送ると、背を鉄橋に預けた姿勢で眠る陽の姿があった。片膝を立てて、それを抱えるように腕を回した姿勢だ。両瞼を落としてはいるが、遠目からでは眠っているようには見えない。睡眠を取っているのだとわかっていても寛いでいる様子は感じられなかった。


「どうして? そんな風に考えているみたいね」


 陽を凝視するクラリッサの心情を那月は読んだ。


「はい。あれじゃあ疲れを取りたくても取れないと思います」


「そうね。その通りよ。でもあれがあの子が睡眠を取れる唯一の姿勢なの」


「それはどういう――」


 陽を見る那月の寂しい瞳にクラリッサは思わず口を噤む。これより先は容易く足を踏み込んではいけない話題なのだと本能が察知したのだ。そんなクラリッサの気遣いを那月も察知していた。そして那月も相手の事情を敏感に悟って気遣う心優しいクラリッサだからこそ陽の過去を教えてもいいと思った。


「クラリッサは異能者拉致事件を知っている?」


「はい。確か十年程前の事件ですよね」


「正確には七年と二ヵ月前よ。異能者の子供を攫っては精神支配して命令に忠実な駒として育成する。そして出来上がった兵士を使用して異能特区の支配権を奪おうとした」


「……もしかして⁉」


 クラリッサは眠る陽に振り返った。


「陽も拉致された子供の一人よ」


 そして、と那月は続けた。


「そして組織を滅ぼした張本人でもあるわ」


「それって……」


 那月から伝えられた事件の顛末からクラリッサも思い出す。異能特区の行政が組織の本部を発見した時には構成員は既に命を落としていた。拉致された子供たちもその大半が兵士開発の実験に失敗して精神と肉体共に壊してしまっていたと。ただ一人の少年だけは無傷で保護されたとあった。


「それは事実であって真実ではない。常人離れした異常な戦闘能力に頭の回転。人を殺しても顔色ひとつ変えない精神力。そんな子供が無傷だと言えるのかしら? 少なくとも私にはそう思えなかった」


 それは陽の肉親も同じだった。息子の変わり果てた姿を受け入れることが出来なかったのだ。陽が纏う異質な雰囲気に呑み込まれた肉親は息子の体を抱きしめるどころか近寄ることすら出来なかった。子供なら肉親の愛に拒まれたら本能が悟って涙を流すもの。しかし、陽は涙ひとつ流すことなく、去っていく肉親をただただ感情の色がない瞳で見送った。


「私があの子を義息子として引き取ったのも罪滅ぼし。本来歩むはずだった人生を失わせてしまったことへの贖罪でしかないわ」


 それでも結局は表ではなく裏で生きる道を陽に歩ませてしまったことに那月は自分の無力さに情けなかった。


「……そうでしょうか? 確かに陽さんが今歩んでいる道は正道とはかけ離れたものです。それでも二人のやり取りを見ていると幸せな気持ちになれるんです。だからこそ些細な喧嘩にも私の感情が敏感に反応してしまった。その原因を那月さんは心労だと言いましたが、それだけではないのだと思います」


 鳩に豆鉄砲を食ったような顔をした那月だったが、クラリッサの言葉を心の中で復唱した。言葉は浸透していくと、口角を少しつり上げて小さく微笑んだ。


「……そうね。そうだといいわね」


「きっとそうですよ!」


 知り合って間もない関係なのにその自信はどこから出てくるのかはわからないが、それでも那月の心は随分と楽になった。これが神の教えを唱える修道女の力なのかもしれない。


 那月は陽の傍へ足を進めると数歩手前で陽の両瞼が開いた。


「おはよう、陽。目覚めは良さそうだね」


 朝の挨拶を適当に返した陽は起き上がってぼさついた髪を乱暴に掻きながら歩き出す。


「ああ、懐かしい夢を見たおかげかな」


「夢? それはどんな夢だい?」


 身を翻して進行方向を陽と整えた那月は肩を並べて歩きながら夢の話に喰いついた。


「俺が十歳になった日のことさ。誕生日を企画した那月さんが色々な手で俺を笑かせようとしていたよ」


「ああ、あの時ね。私にとっても子供の誕生日を企画するなんて初めてだったから必死だったのよ」


「わかっているさ。本当に感謝しているよ、なつ……母さんにはさ……」


 那月は思わず立ち止まってしまった。これまで会話上、母親と呼ばれてきたことはあったが、面向かって母と言われたのは初めてだったからだ。気を緩めば涙腺が崩壊して涙を流してしまうだろう。そんな母親の姿は余計に陽に気遣いさせてしまうと気丈に堪える。そんな那月にクラリッサが近寄ってくると優しく両肩に手を置いた。


「やっぱり伝わっていたんですよ。那月さんの母親としての想いが」


「うん…………」


 那月は泣顔とも笑顔とも取れる微妙な表情を浮かべながら笑った。

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